凱旋
昆陽の後始末には、数か月を要するだろうと思われた。
百万の軍勢が、消失する。昨日まであった人の群れが消え、そのほとんどが屍体に変わった。
たくさんの天幕、旗幟が引きちぎられ、泥にまみれている。折れた槍、旗の残骸……斃れ、力尽きた兵士たちの死屍が、昆陽城の周囲を埋め尽くす。
それは昆陽城を迂回して流れる滍水も同じ。夥しい屍体が水面に漂い、河の流れを阻害している。
時は夏の盛り。放置すれば、腐敗した死屍は耐えがたい臭気を発し、屍毒からの疫病の発生も懸念された。
文叔は疲労困憊した身体に鞭打って、兵士や近隣の農民を徴発し、屍体を集め、穴を掘り、埋めた。
この百万の兵士たちにも、親がいて、兄弟がいて、妻がいたのだ。――子を持つ父親も、多くいただろう。故郷に待つ父母は、妻は、子は、彼の非業の死すら知らされることもなく、亡骸も帰ることはない。
権力によって無理に動員され、指揮官の無能によってなすすべなく死に追いやられた、罪無き骸たち。
――どれほどの軍勢を集めても、どれほどの武器を集めても、どれほどの兵法家を集めても、将軍が無能だったらどうにもならない。小長安がそうだったではないか。
兄、伯升が無能で、文叔が日和見だったせいで、姉も、姪っ子たちも死んだ。今回も、同じだ。
文叔は土を掘る手を止めて、流れ落ちる汗を拭う。
太陽はギラギラと容赦なく照りつけ、文叔の肌を焼く。気温が上がれば、死体の腐敗は進む。早くも嫌な臭いが立ち込め始めていた。
急がなければ。
気持ちばかりが焦っても、嫌な仕事に人々の手は止まりがちになる。
しかし、この屍体の山は文叔の為した結果なのだ。――正面から見つめなければならない。
穴の中を転がり落ちていく死体を眺めながら、文叔は思う。
敗軍の将の罪は重い。兵の命を守るために、将は勝たねばならないのだ――。
「劉将軍!」
背後から呼びかけられ、文叔が振り返ると、王元伯が馬を引いて立っていた。
「宛の皇帝陛下から、使者が来ています。今回の勝利について、報告せよと」
文叔は眉を顰めた。
――死体の処理は全然、終わっていない。だが、他の人間に報告を任せるわけにもいかない。
「わかった。すぐに戻る」
腰に下げた布で額の汗を拭い、文叔は頭上の太陽を見上げた。
――新野に、陰麗華に会いに行けるのは、いったいいつの日か。
戦後処理はもともと昆陽にいた者たちに任せ、鄧偉卿や李季文といった、主だった者を引き連れて、一旦、宛に戻ることにした。
実を言えば、昆陽は落としたけれど、潁川の鎮撫は完全とは言えなかった。
何しろ百万の大軍が、圧倒的な存在感で鎮座していたのだ。王莽政権への期待を捨てきれない者たちも多かった。
――昆陽の戦いの敗戦により、王莽政権への最後の希望は粉砕された。
「まだまだ、緒に着いたばかりだなあ……」
文叔が馬上で呟けば、隣で馬を並べていた鄧偉卿が振り向いて、言った。
「百倍の軍を破るなんて、大手柄だぞ?」
「でも、僕が何かを得たかというと、別に何も。……百万の命を失っただけで、僕たちはまだ、南陽すら支配下に入れていない。長安にはまだ皇帝がいるし……」
文叔は目を眇めて周囲を見渡す。
――まずは、潁川から。
昆陽の戦いの前に、父城を味方に引き入れようとして、失敗したことを思い出す。
――あそこは、頑固な人が守ってたんだよなあ……。名前忘れちゃったけど。
そして、この付近では最大の街、洛陽。
それから長安を落とし、関中を手中に入れる。洛陽の北を流れる、大河・黄河の向こうには、河北に山東、東海……。
文叔は天下の広さを思い描き、無意識に天を仰ぐ。
頭上に広がる、夏の青空。
――普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の浜、王臣に非ざるは莫し。
王莽を倒し、漢の世を再興した暁には、この青空の下どこまでも、劉氏の支配下に入る。いったい、どれほどの苦労を背負いこまねばならないのか。
「……僕はご免だな。僕は、陰麗華と二人で暮らせればいいし……」
皇帝に戴くに劉聖公ははっきり言えば無能で、心許ないこと極まりないが、兄貴の劉伯升が譲ってしまった以上、仕方がない。
――兄貴が皇帝でも、無能にはちがいないが……。
昆陽で百万を破っても、文叔の人生に安穏は程遠い。
せめて、新野まで足を伸ばす時間があれば――。
たとえ一目でも、陰麗華に会いたい。僕は君のために強敵を打ち破ったと、彼女に伝えたかった。
劉聖公と伯升への報告を終え、文叔は宛の劉家に戻ることになった。戻ると言っても、宛自体が最近、叛乱軍に陥落したばかりで、文叔は住んだことはない。劉家は宛の当成里にあると聞き、宛出身の朱仲先の案内で、鄧偉卿らと連れ立って宛の街並みを行く。
昆陽の凱旋将軍が来ると聞いて、近所の人々が迎えに来ていた。
「なんだか英雄になった気分だな」
「百万を破った、英雄が何を言う」
朱仲先にからかわれ、文叔は眉を寄せる。――百万を潰滅させた手柄が大きすぎて、劉聖公に警戒されてしまった。この後、明日にも潁川の鎮撫に向かうよう、劉聖公からは命令を受けていた。
表向きは、洛陽遷都のために、潁川から河南の支配を固めておくためだと。だが実際には、要するに目障りな文叔を宛から追い出すためだ。
挙兵以来、叛乱軍の中心人物として衆望を集める劉伯升。その弟の劉文叔が昆陽で未曾有の大功を挙げ、劉兄弟の名声は、さらに天下に轟いている。緑林軍との関係で皇帝に担ぎ上げられただけの劉聖公にとって、劉兄弟は目の上のたん瘤以外の、何者でもない。
――昆陽の大きすぎる戦果が、早くも文叔の重荷になりつつあった。
宛の宮廷に残るよりは、はるかにマシだと文叔は思う。どちらかと言えば人当たりがよく、要領のいいタイプだと自負しているが、必要以上の警戒を向けてくる皇帝の側で生きていくのは、相当に神経を使うだろう。――兄貴のあの性格、大丈夫なんだろうか?
文叔は不安に思うけれど、自分が何を言っても、伯升は聞き入れないだろう。
――親戚だし、まさか、殺されたりはしないと思うけど……。
先行する鄧偉卿らが、歓声に迎えられているのを、どこか他人事のように見ていた文叔は、駆け寄ってきた少年が鄧汎と気づき、目を瞠る。
――ああ、そうか。姉さんの血は、まだ、残っていた――。
が、その後ろから現れた一組の男女に、文叔の目は釘付けになる。
鄧偉卿の後ろの鄧少君を労っている男は、新野の陰次伯。――陰麗華の異母兄だ。そして女は――女は――あれは――まさか――。
女はそれほど背も高くなく、華奢で、黒髪をうなじで一つにまとめ、地味な曲裾深衣でろくな飾りもない。それでも、黒髪の艶やかな様子といい、ほんのりと色香のある身のこなしといい、遠目にも美しい女だ。その彼女が首を巡らし、馬上の文叔と目が合う。
花が綻ぶとは、このことか。
女の顔が瞬間、喜びに輝く。ただでも目を引く美貌が、一気に華を増して、あたりに美が撒き散らされる。文叔の視界と意識から、彼女以外のすべてが消失した。
「――麗華?」
「文叔さま!」
駆け寄ってくる陰麗華を茫然と見つめ……。
夢だろうか。これは。
あまりに会いたいと恋い焦がれ過ぎて、自分は夢を見ているのか。
新野にいるはずの、彼女がなぜ――。
馬を降りた彼に、人目もはばからずに駆け寄ってくる陰麗華の姿。深衣の裾が乱れ、白い素足が見える。大きく見開かれた黒い瞳、花びらのような可憐な唇。背中で踊る黒髪と、文叔に伸ばされる、白い手。文叔に触れて、抱き着いて――。
この先の人生で、文叔はきっと繰り返し、この情景を思い浮かべるに違いない。
彼の生涯でおそらく、最も美しい瞬間。
彼のただ一人の愛しい人、陰麗華が、泣きながら駆け寄ってくる。
胸にぬくもりがぶつかり、首筋に細い指が縋りつく。ふわりと漂う、ほのかな花の香り。
それらのすべてが、これが夢ではないと文叔に知らせる。
夢にすら見なかった、夢のような光景。
蒼天よ――。
僕は、手に入れた。
ただ一つ、人生で得たいと思ったもの。これ以外は何も要らないと思えるもの。
百倍の敵を破り、死の淵から蘇って。
彼女を反射的に抱きしめて、その髪の香りに酔う。黒髪には、彼が贈った金の釵が飾られて――。
ただ、彼女だけ。彼女以外は、何もいらない――。
陰麗華との再会は、文叔を有頂天にさせた。喜びで頭のどこかが麻痺してしまったのかのよう。昆陽で百倍の敵を全滅させ、愛しい女の出迎えを受ける。さらにその、彼女の胎内には――。
「妊娠?……妊娠、ってのは、要するに――」
折り入って話があると陰家の兄妹に言われて、堂に二人を導きいれ、牀に向かい合って座り、告げられた言葉。
「子供ができたんだよ! まさか身に覚えがないなんて、言うつもりじゃあ――」
イライラと詰め寄る陰次伯の剣幕に、文叔が慌てて首を振る。身に覚えならあるに決まっている。彼女の初めてを奪った夏の一夜も、最後の逢瀬と決めて、土地神の祠で愛し合ったあの時のことも、何度も何度も反芻し、思い出して――。
「身に覚えならある! というか毎晩、思い出してた!」
「貴様、要するにそれは――」
あんな濃密な愛の行為を思い出して、ただで済むわけはない。想像の中では何度だって陰麗華を抱いたわけで――。
だが、陰麗華本人は意味がわからずに首を傾げている。文叔が一人の夜、どんなふうに過ごすかなんて、箱入りの彼女が知るわけないのだ。
「ほんとに?」
思わずそう、口走った瞬間、陰麗華の表情が凍るの見て、文叔はしまったと思う。そんな意味じゃない。陰麗華の胎に子がいるのなら、それは文叔の子に間違いない。もし、そうだとしたら、どれほど喜ばしいことか。嬉しすぎて信じられない、そんな気持ちだった。
「……いや、疑ってるわけじゃなくて、信じられないっていうか、嬉しくてウソみたい! ほんとなの、麗華!」
文叔が陰麗華に問いかければ、陰麗華は羞恥で真っ赤になって頷く。
その様子から妊娠が本当だと知れて、文叔もまた興奮する。――あの時の!
薄暗い土地神の祠で、これが最後と思いながら愛を交わしたあの日の、二人の愛の結晶が、麗華の胎に――!
陰次伯には今すぐ結婚しろと言われたが、言われなくてもそのつもりだった。――いや、本来なら、とっくに豪華な婚礼を挙げ、彼の妻となっていたはずなのに。
甄大夫の横槍がなければ、昨年の春には結婚できていた。
今すぐにでも、陰麗華は自分の妻で、彼女の胎には自分の子がいると、大声で自慢したい。できうる限りの豪華な華燭の典を挙げたい。
だが、今は戦乱のさなか。南陽一の大富豪である陰家といえども、即座に婚礼の仕度なんてできっこない。それに、婚礼の前に孕んでしまったことで、陰麗華の母、鄧夫人は激怒して、彼女を新野の邸から追い出してしまったという。
困ったように俯く陰麗華に、文叔は胸が痛む。
そんなつもりではなかった。誰からも後ろ指を刺されない形で、誰よりも美しい、幸福な花嫁になるはずだったのに。
――ああそれでも、これからは僕が、彼女のすべてを守ってみせる。
潁川の鎮撫を終えて帰還したら婚礼を挙げると、陰次伯と約束を交わす。
ホッとしたように微笑む陰麗華の姿に、文叔もついつい、頬が緩んだ。
陰麗華との婚礼を控え、逸る心を奥底に隠しながら、文叔は潁川の攻略に勤しんだ。この潁川の地で、文叔はその後、ともに各地を転戦する配下を手に入れる。
馮公孫(馮異)、祭弟孫(祭遵)、銚次況(銚期)らの潁川郡出身の諸将は、この先、文叔とともに絶対絶命の危機を幾度も乗り越え、文叔の天下取り争いを支えていくことになる。
ただ、この時の文叔はまだ、自らが群雄の一人となって、天下取りを目指すつもりなど、さらさらなかった。兄・伯升の陰に隠れ、便利使いされる日々が続くのだろうと、漠然と考えていた。しかし、最良の時を味わう暇もなく、人生は突如暗転する。
更始元年(西暦二十三年)六月。昆陽の戦いから一月も経ずして、潁川郡の父城にいた文叔の元に、劉伯升の護軍として身近に仕えていた、朱仲先が単騎で駆けこんだ。
「文叔!……伯升が……殺された」
旅装のまま堂に走り込んできた朱仲先が、息を切らしながら言う。文叔の背後で、王元伯と馮公孫が思わず立ち上がった。
「兄さんが?……何が、あった?」
馮公孫が差し出す水を柄杓のままがぶ飲みしている朱仲先に、文叔は尋ねる。しかし、聞くまでもなく、犯人の予測はついていた。
文叔が昆陽から凱旋した時点で、宛の宮廷では劉伯升と皇帝・劉聖公の間に、早くも不穏な空気が漂っていた。
皇帝・劉聖公が、大司徒・劉伯升を殺した。
「……昆陽から戻った李季文が、妙に劉聖公に接近していた。それと朱長舒(朱鮪)が、劉聖公に対し、伯升を排除するよう、しきりに讒言していたようだ。俺も、身辺には気をつけるよう、伯升に言っていたが、伯升はあいつらに何ができると……」
「李季文が……?」
文叔が眉を顰める。李季文と劉伯升はもともと、あまり関係がよくなかった。だが、挙兵以来の仲間でもあり、そもそも、劉聖公と劉伯升は同じ舂陵劉氏の一族だ。
「李次元や他の舂陵の一族の者は、止めなかったのか?」
朱仲先が首を振る。
「最近、劉聖公は李次元や劉伯升、それから舂陵以来の親戚は近づけず、もっぱら、緑林出身のならず者か、せいぜい李季文を身近に寄せるくらいで……伯升はそういうのを気にしないでズケズケと踏み込んで、いつかは衝突するんじゃないかって、俺は心配していたが……」
きっかけは、伯升の配下の劉稷という将軍だった。もともと、劉聖公が皇帝に即位したことに不満を抱いていたが、劉聖公から抗威将軍に任ぜられる段になって、自分は伯升の配下であるから受けないと辞退した。劉聖公はそれに怒って劉稷を殺そうとし、劉伯升がそれを庇った。
「李季文と朱長舒が劉聖公に勧めて、伯升を捕らえ、即日殺した。俺も危険を感じたから陣を抜けて――」
劉稷もまた、同じ舂陵劉氏の一族。要するに舂陵劉氏の内輪揉めを、李季文と朱長舒が煽ったのだ。
「……なんてことだ……」
茫然と呟く文叔に、朱仲先が勢いこんで言う。
「どうする? 伯升の仇を討つなら、俺も――」
まだまだ、当たり前に復讐の行われる時代。兄が殺されれば弟が仇を討つのが当然とされる。
だが――。
もしここで、文叔が伯升の復仇を掲げ、劉聖公に反旗を翻せばどうなるか。
打倒王莽政権を旗印に掲げた叛乱軍は、舂陵劉氏を中心とした南陽豪族たちの集団と、緑林軍を中心としたならず者・流民の集団の複合体である。豪族集団の支持を集めた劉伯升と、緑林軍からの支持を集めた劉聖公。劉聖公に反旗を翻せば、緑林軍を丸ごと、敵に回すことになる。そして、舂陵劉氏らの南陽豪族たちが、文叔の味方になってくれる保証はない。――伯升の個人的なカリスマがあって初めて、南陽豪族を束ねることができていた。彼が死んだ今、その弟の文叔に、果たしてどこまでの求心力があるだろうか?
劉聖公の家の方が、僅かにだが舂陵劉氏の本家に近い。伯升の仇討ちを掲げる劉文叔と、現に皇帝である同族の劉聖公。……本家、劉巨伯がどちらに味方するか、正直、微妙だと文叔は考える。何しろ文叔は、末端の末端の分家の、さらに三男坊である。舂陵劉氏の支持が得られなかったら、文叔は全くの孤立無援に陥る恐れがあった。
「……仇討ちなんて、無理だ。聖公も同じ一族なんだぞ? 同族内で、曲がりなりにも皇帝を敵に回して、勝てるとは思えない……」
文叔の呟きに朱仲先が反論する。
「何を言う! 昆陽で百倍の敵を破った男が! お前が起つと言うならきっと――」
だが、文叔は静かに首を振る。
――昆陽の戦果を、伐るべきでない。
百万の敵を倒した戦果を振りかざせばかざすほど、いずれ文叔自身の首を絞める。
それに――。
たとえ劉聖公を殺して兄の仇を討ったとして、緑林軍出身の将軍は文叔の傘下に入るのを拒むだろう。叛乱軍は二つに割れ、叛乱そのものが瓦解する――。
「僕が劉聖公に敵対すれば、叛乱軍が崩壊するぞ? 王莽のクソ野郎が喜ぶだけだ」
「じゃあ、どうする! 劉聖公の野郎に尻尾を振って、負け犬よろしく腹を見せて服従するのか?」
朱仲先の言葉に、文叔が頷く。
「たぶん、それしか――」
「そんな馬鹿な!」
血を分けた兄を殺されて、なおかつその仇に膝を屈するのか?
「言いように因っては、劉聖公だって僕の〈兄〉なんだ。一族内で殺し合い、さらにその仇を討つなんて、そもそも許されることじゃない」
「だからって! 屈服したところで、劉聖公がお前を生かすとは限らないんだぞ?」
無様に腹を見せ、負け犬のように服従を示しても、劉聖公は文叔を殺せと命令を下すかもしれない。
眉間に深い皺を刻んで沈黙する文叔に、王元伯が言う。
「あるいはこのまま、潁川で割拠する方法も――」
「無理だな。潁川や汝南の情勢はまだまだ不透明だ。僕が宛の皇帝に歯向かったと知れたら、潁川の豪族連中は掌を翻すに違いない」
文叔は、宛の劉聖公の宮廷にいる顔ぶれを思い出す。
「とりあえず劉聖公に謝って服従を示せば、すぐには殺されないと思う。……僕はずっと宛を離れていて、劉聖公と直接には関わってこなかった。伯升が殺されたことで、聖公の周囲にいる舂陵のおじ達が一族の団結に危機感を持ち、たぶん、僕を殺すことは止めてくれると思う。聖公も、一族の長老の意見は無視できないだろう。……というか、それに期待するしかない」
「宛を捨てて逃げるという選択肢は?」
「ない。……逃げて何処へ行く? 何人ついてきてくれると思う? 現実的じゃない。それに――」
文叔はそれ以上は口にしなかったが、心中では陰麗華のことを思い出していた。
陰麗華の兄、陰次伯もまた、劉伯升の下についていた。文叔が劉聖公への対決姿勢を明確にすれば、陰家もまた、厳しい選択を強いられる。何より、陰麗華を捨てて逃げるなんて、あり得ない。
――どれほどの屈辱だって耐えてみせる。陰麗華を、守るためなら――。
文叔は周囲の者に号令を下す。
「宛に戻る。兄の件を皇帝に詫び、服従を示す。――それでも、殺されない危険は五分五分だ。潁川出身の諸君は、僕の下についてまだ、日が浅い。僕の元を離れるならば、それもよし」
「まさか! 俺は着いて行きますよ!」
王元伯は即座に言い、朱仲先も叫ぶ。
「俺もだ! 伯升を守れなかった。ここで逃げたら、俺はただの臆病者だ!」
「仲先、君は宛から駆け続けて疲れている。一晩休んで……」
「大丈夫だ、丈夫なだけが取り柄なんだ。俺も宛に戻る」
「わかった、じゃあ――」
文叔が周囲を見回せば、馮公孫と傅子衛、その他の数人が立ちあがる。
「我々もお伴します。一度主君と仰いだら、生死を共にするのが士大夫の道です」
「……みんな……危険を感じたら、すぐに逃げてくれても僕は恨まないから」
文叔らは即日、父城を出て宛に向かった。
――伯升が、死んだ。
こんなところで。こんな、道半ばで。
馬を走らせながら、文叔は思う。
傲慢で豪傑を気取り、漢の高祖に自身を擬え、多くの食客を抱えて郷里を闊歩した伯升。劉氏を復興させるなら、それは自分しかいないと思っていた兄が。
緑林軍との分裂を避けるために、名目的に劉聖公に皇帝位を譲ったが、いずれは劉聖公を殺し、実権を掌握するつもりでいたに違いない。――伯升は、内心、劉聖公を小馬鹿にしていたから。
侮り、下に見ていた劉聖公にあっさり殺された。……油断していたとしか、言いようがない。
劉聖公は兄が思うほど愚かでもなく、また皇帝の地位は、兄・伯升をあっさり殺すだけの権力を持つ。そのことを、伯升が認識していなかっただけのこと。
――やっぱり、最後の最後まで、無能だった。
郷里を巻き込んで挙兵し、小長安で無能と無策をさらして家族や一族の多くを亡くした。たいして守りが堅いわけでもない、宛を陥落させるのに半年もかかって。絶望的なまでに戦術がない男。なのに周囲に持ち上げられ、高祖の再来を自認し、自己の成功を疑いもしなかった。
――皇帝位を劉聖公に譲るべきじゃなかった。
皇帝の位には、それ自体に力がある。赤ん坊だろうと、無能だろうと、皇帝は皇帝。伯升はそれを理解せず、無能・惰弱な劉聖公ならば御しやすいと踏んだのか。
結局は、それが命取りになった。
頭上に広がる青空を仰ぐ。真夏の太陽が容赦なく照り付け、地面には陽炎が揺らめいていた。
伯升の死によって、何が変わる?
自分を馬鹿にし、便利遣いした兄が死んだ。
もう兄の顔色を伺い、兄の背中に隠れるように生きる必要はなくなる。
お前、劉文叔は、これからどこに向かう――?




