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その血は玄黄

上六、龍闘于野、其血玄黄。

象曰、龍闘于野、其道窮也。

        ――『易』(こん)


上六に、龍は野に闘い、其の血は玄黄(げんおう)

象に曰く、龍は野に闘うとは、其の道 (きわ)まればなり。



挿絵(By みてみん)


 百万の包囲を、わずか十三騎で突破できたのか否か。

 昆陽城内の者にできるのは、ただ、信じるのみ――。


 たとえ、十三騎が包囲を無事に抜けていたとしても、彼らが百万に対抗できるだけの援軍を連れて戻って来られるのか。


「逃げちまったんじゃねぇのか?」


 そんな風に言う者もいたが、ならばお前もあの十三騎と一緒に行けばよかった、などと言われてしまえば、口を噤む以外になかった。昆陽の城壁から見下ろせば、何重もの兵士の群れに包囲され、夥しい数の白い天幕が立ち並び、黄色い旗幟(きし)が野を覆っている。包囲軍の砂埃が天まで巻き上がり、(かね)や太鼓の音、兵士たちの怒号が地響きのようにこだまする。

 

 およそ落としたところで特にいいこともなさそうなこの小城を、百万の大軍で包囲する意味など、もはや誰にもわからなかった。

 城壁の上から眺めていると、攻城用の梯子のついた「雲車(うんしゃ)」が十余り。城壁の上から弩矢(どし)を射かけることができる。そのほかにも破城槌を備えた車が、鉄の(びょう)を打ち付けた城門を壊そうと引き出されてきた。新軍には兵法の専門家が三百人あまり、従軍しているはずだ。奇妙な攻城兵器を作る流派の者がいるのであろう。

 

 怯える城内の兵士たちに、隻眼の王顔卿がカラカラと笑う。


「所詮、子供騙しだ。あんな機械で城が落とせるなら、墨子(ぼくし)の徒が今頃、天下を取っていた」


 王顔卿の予想した通り、何度か城門には丸太が打ち付けられたけれど、その衝撃に車自身が耐えられず、数回でバラバラに瓦解した。また、地面に隧道(トンネル)を掘って城内への侵入を試みたようだが、河に近い昆陽周辺は、掘れば地下水がすぐに滲み出て、周囲を水浸しにしただけであった。


 唯一、城壁の上から弩矢を射かけられる雲車、楼車の(たぐい)は実害があって、上から矢が降ってくるため、城内で水くみもできない。王顔卿は二人一組で戸板を背負い、矢を避けながら水を汲ませた。


 昆陽城内には、水も糧食も十分にある。

 だが圧倒的な大軍の前に、籠城する士気がいつまで保てるのか。


「二か月だ。二か月保てば、外から救援が来る」


 王顔卿は繰り返すが、城壁の外は見渡す限り全て敵なのだ。

 総大将の王鳳が、一番最初に音を上げた。そもそも、彼は昆陽を(オトリ)にして時間を稼ぐ作戦に関わっていない。籠城が一月を過ぎるころ、王鳳は血走った目で言った。


「救援が来たところで勝てっこない! わしは降伏するぞ!」

「降伏したところで、殺されるだけだぞ?」

「二か月嬲り殺しにされるくらいなら、ひと思いに殺された方がマシだ!」


 王顔卿が止めるのも聞かず、王鳳は降伏の使者を送ってしまう。ところが――。


 数日で落ちると思った昆陽に一月粘られただけに、新軍の将軍である王尋も王邑も、怒りでまともな判断を下せない状態に陥っていた。なんと、降伏を許さなかったのだ。


「今さら、降伏など認められると思うてか! 完膚なきまでに、叩き潰してやらねば気が済まぬわ!」

「所詮、あんな小城、あと数日で落ちる。むざむざ降伏されては楽しみも半減じゃわい!」


 降伏の道すら絶たれた昆陽は、さらに一月、粘りに粘ることになる。


 


 

 更始元年の五月末。王莽の暦では地皇四年の六月末の、蒸し暑い夜。

 凄まじい音と衝撃が、昆陽の包囲軍を襲う。


 ごくごく小さな隕石が、軍営の中に落ちた。たとえ小石程度の大きさであっても、天から降ってくる隕石の威力は、想像を絶する。かつ、包囲軍は密集していたために、被害は甚大であった。滅多に落ちない隕石が、普段は人もいないはずの、昆陽城外の包囲陣の只中に落ちたのだ。何かの天戒であろうかと、兵士たちはその不吉さに(おのの)いた。


 さらに日中、巨大な雲が湧き起こり、天の営室(ペガサス座)の辺りまで届いて、その高みから一気に崩れ落ちた。


 『営頭の()つる所、其の下の覆える軍は将を殺し、血 千里に流る』

 

 陣中の占い師が不吉な予言を告げ、密かに包囲軍に広まった。

 勝利は目前であったはずの昆陽の百万の軍を、不吉な影が覆っていく。


 (エン)や定陵で援軍を募っていた文叔は、周辺の農民を使い、不吉な予言をさらに煽る。そして、「叛乱軍がついに(エン)を落とした。すぐに昆陽の救援に向かう」という、宛からの書簡を偽造し、わざと落として、見回りの兵士が拾うように仕向けた。実は、五月の末に伯升らは本当に宛を落としていたのだが、その情報は文叔らにも、昆陽城中の者にも伝わっていなかった。結局、宛の動向には関わりなく、文叔は約束通り、昆陽へと兵を率いて向かう。集めた援軍はおよそ三千強。昆陽城内の戦闘に耐えうる者は七千人いるかどうか。合わせても、一万に満たない。


 百万対、一万弱。圧倒的な兵力差のまま、両軍は衝突する。


 西暦紀元二十三年、夏。

 ――史上に名高い、昆陽の戦いである。







 更始元年六月朔日己卯(きぼう)

 包囲軍より西方、五、六里の丘に、(えん)、定陵で集められた《漢》の援軍が現れた。

 

 報せは即座に、王尋、王邑の本陣に伝えられ、一気に捻り潰すべく、数千の部隊が派遣される。

 その様子は、百万に包囲された昆陽の城壁からも遠望された。


 「ついに来たか――六月朔日、約束通りだな」


 呟く王顔卿の横で、疲れ切った表情の王鳳が目を凝らす。


 「だが、たったあれっぽっちの援軍で、何ができる」

 「それでも、やつらは約束を守った。たとえ数千でも、援軍を集めるのは至難だったはず。――どうせ、ここで負けても行くべき地獄は同じだ。やつらと一緒に、俺たちも華々しく最後の一花を咲かせるのも悪くない」


 すっかり人生を諦めている王鳳は西の空を見上げて肩を竦める。


 「だが天候が悪いぞ。……ものすごい、黒雲が西の山に出ている。こいつは、一雨くるな」

 

 王顔卿もまた、一つしかない目を眇める。


 「なるほど、嵐を呼ぶ男ってわけかい。――吉と出るか凶と出るか。どのみち、俺たちは圧倒的に不利だ。悪天候は、むしろ天祐(てんゆう)だと、俺は思うがな」



ゴロゴロゴロ……

さっきまで広がっていた夏の青空を侵食するように、西の山から黒い雲が湧き起こり、遠雷が微かに聞こえた。



 







 昆陽城を望む、西方五、六里に位置する丘の上に、文叔ら数千騎が馬を立てていた。


 「いいか、最初が肝心だ。どうせ、奴らは様子見の部隊を送ってくる。それを叩き潰す。大丈夫だ、断言するけど、奴らは弱い。びっくりするほどな」


 先頭の中央に位置する文叔が微笑めば、(えん)や定陵から集まった新参の命知らずの男たちも、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「でもよ、すんごい数だなあ。……弱くても、百万だあ」

「初めて見たぜ。城壁まで蟻の這い出る隙間もねえよ」

「蟻は這い出ないが、俺たちは這い出たぜ?」


 文叔の隣にいた李季文が笑う。


「そうだけどよ……」

「今さら、怖気づくのか?」


 李季文がからかうように言い、文叔が諧謔(じょうだん)めかして歌うように言う。


「『劉秀、兵を発して不道を捕らう。四夷雲のごとく集い、龍は野に闘う』……聞いたことないか?」

「……何かの讖文(よげん)だとか……まさか、劉秀って――」


 疑わしそうに呟く男に、王元伯が色を()して言った。


「その劉秀だ! 漢を復興して、天子になるんだから!」

「いや、でもまさか……」


 なおも躊躇うように言う男たちに、ハハハハハ……と文叔が天を仰いで弾けるように笑った。


「『何をって僕に(あら)ざるを知るや!』……ってね!」


 周囲が茫然と文叔と、眼下にひしめく黒々とした大軍を見比べていると、文叔はふと、表情を改める。真剣な表情で、馬の鞭で昆陽を指した。


「見ろよ……龍が戦うにはお誂え向きの野じゃないか。雲霞(うんか)の如く、敵が集って――」

「ハハハ、人が塵みてぇだな!」


 李季文も調子を合わせると、その時、西の山の嶺の方で遠雷がゴロゴロと響き、見上げれば、黒々とした雲が湧き起こって、見る間に青空を覆いはじめる。

 

 昆陽の包囲軍から発した数千の兵が彼らに近づいてくる。

 ピカッ……


 青白い稲光が天に走り、続いてドーンッと、大地を揺るがして鳴動する。

 

「まずは、あれを血祭りに上げよう。千五百もあれば十分だ。……僕に、着いてこれるな?」

 

 文叔が芝居がかった動作で鞭を振り上げ、にやりと微笑む。その端麗な横顔を、青白い雷光が照らす。

 

 ドドドドドドーンッ


 次の雷が至近距離に落ちた。その勢いに押され、文叔の周囲の者たちが、大地を震わせるような咆哮を上げる。


「オオオオオオ……」

「ふだんは慎重な劉文叔将軍がここまで言うんだ! 俺たちは勝てる!」

「オオオオオ……」

「いくぜぇ! 新軍など蹴散らしてやる!」

「劉氏の世を取り戻すんだ!」


 ピカッ……

 ゴロゴロゴロ……


 彼らの(とき)の声と、雷鳴が合わさって周囲にこだまする。空気を震わせ、地の底から響くように反響した。


 文叔が馬の鞭を前方に向け、叫ぶ。


「突撃!」

「オオオオオ……」


 雷鳴と鬨の声のこだまと、そして馬の蹄の音と。叫びながら突進してくる文叔らの軍に、様子見で送り出された新軍は初めから腰が引けていた。数では数倍勝るにも関わらず、衝突してすぐに彼らは浮足立ち、あっけなく崩れる。


「もろすぎるだろ……」


 第一撃では出ず、丘の上から戦いの様子を見下ろしていた鄧少君が呟く。


「もともと、兵の技量や練度を気にせず、数だけを揃えた軍隊だからな。兵士たちも数だけしか頼りにできない。そこへ数千で切り離されれば、不安で戦うどころではあるまい」


 隣に馬を立てていた、少君の叔父、鄧偉卿が応える。


「数千でも文叔の軍の数倍あるけどな」


 鄧少君は戦いの様子を遠望し、ふと、天を仰ぐ。

 朝方の雲一つない晴天が嘘のように、西からの黒雲が天を覆いつつある。


「一雨きそうだぜ……」


 少君の呟きに、鄧偉卿がふっと笑った。


「雨は、おそらく天祐(てんゆう)だな。予想よりもはるかに、敵軍の統率はよくない。数ばかり多く、命令が行き届いていない。ほら見ろ、もう、メタメタだ」

「弱すぎてイライラするな……俺も行けばよかった」


 少君の馬が、乗り手の心を表すように、イライラと前脚を地面に叩きつける。


「落ち着け、文叔は、お前と俺を温存したんだ。――この後、敵の中軍の本陣を急襲する。ど真ん中を突っ切るぞ」

「わーってる! でも、気が(はや)るんだよ!」


 そこへ、潁川軍出身の傅子衛将軍が馬を寄せてきた。


「敢死隊を募ってきた。……どうする?」


 鄧偉卿が頷き、戦場を見下ろす。


「そろそろ、勝負がついたころだ。ゆっくり、あちらに合流する。……奴らを、威嚇するつもりで」


 鄧偉卿らが率いる部隊が昆陽城へ向かい、動き始める。

 彼らは何しろ、数では圧倒的に負けている。普通に当たれば勝てっこないほどの兵力差。それを、知恵とハッタリで、「数は力ではない」と思わせなければならないのだ。


 西から湧き起こる、黒い雲。まるでその黒雲と一体であるかのように、ゆっくりと間を詰める。文叔の一隊と交戦中だった先遣部隊が、後背から忍び寄る鄧偉卿らの軍に気づく。


「新手が来たぞ、もうダメだぁ!」

「本隊と合流する! 逃げこめぇ!」


 およそ百万の一部であるという、数の力しか信じない彼らは、まるで濁流に流される砂山のように崩れ、バラバラと撤退していく。


 血気に逸った李季文が追い縋ろうとするのを、文叔が止める。


「やめておけ、本番はこの後だ。……体力を温存しろ。今日は一日仕事になるぞ」


 李季文がチッと舌打ちして馬の手綱を引く。その頬にはすでに返り血が飛んでいた。


「弱すぎて面白くねぇ。……まあいいさ、すでに首級が一つ、二つ……」


 打ち取った首の数を数える李季文には、人殺しのゲームを楽しんでいるような、残忍な笑顔が浮かんでいる。


「次はもっと骨があるさ。……王尋の本陣を叩く。本陣が乱れれば、城内の奴らも打って出るだろう」


 文叔が昆陽の城壁を遠望すれば、李季文がペッと唾を吐く。


「城内の腰抜けが出てくるか?」

「出るだろう。好機(チャンス)は一度だけだ。これを逃せば、昆陽の城壁とともに潰えるしかないことくらい、馬鹿でもわかる。……それがわからない馬鹿ならば、出てきてもらっても邪魔なだけだ」


 文叔は本隊のいる方を振り向けば、黒雲を背景に、鄧偉卿や鄧少君の部隊が近づいてきていた。 

 

  



 まさかの敗戦に、昆陽の包囲軍が騒然となる。


「馬鹿野郎! たかだか千騎ちょいの軍勢に、逃げ帰るヤツがあるか!」


 敗戦の将を王尋が怒鳴りつければ、怒鳴りつけられた男は地べたに這いつくばって言う。


「千騎ちょいだなんて、そんな馬鹿な! まるで大地を埋め尽くす黒雲のように湧き起こって……」

「そんなわけなかろう! 怖気づきおって!」


 王尋は怒りに任せて、逃げてきた男を思いっきり蹴り飛ばす。その見苦しいさまを見ていられなくなって、荘伯石は天幕の外に出て西の空を遠望した。


 真っ黒な雲が天を覆い、さきほどからゴロゴロと雷が鳴り響いている。


「……劉、文叔……か」


 荘伯石はあの、美しい容貌を思い起こす。二か月前の夜、猛獣の檻を破壊して包囲軍を混乱させ、その隙に抜け出した男たちがいたのは憶えている。……陣営内に猛獣を連れてくること自体、荘伯石は意味不明だと思っていたから、その時の混乱や被害についても、だから言わんこっちゃない、という気分だった。だが抜け出した男たちの中に劉文叔がいて、城外の援軍を募って戻ってくるなんて、想像すらしていなかった。


「劉秀……と言ったな。天子となるべき劉秀は、国師公劉子駿ではなく、南陽の劉文叔であったか……?」  


 かつて、長安で囁かれた讖文(よげん)の言葉を口の中で反芻する。


「最近は何と言ったかな。劉秀、兵を発し不道を捕らえ、四夷雲のごとく集い、龍は野に闘う……」


 荘伯石は「龍は野に闘う」が『易』の坤卦の爻辞(こうじ)だと思い出す。そうだ、その続きは――。


「龍は野に闘う、其の血は玄黄(げんおう)……」


 野に斃れた龍の血は黒く、そして黄色い……赤ではなく、黄色。……土徳である、王莽の、黄色。

 荘伯石が地に墜ちてのたうつ龍の、黄色い血に染まる大地を幻視したその瞬間、轟音とともに巨大な雷光が天を切り裂き、落雷の衝撃で大地が揺れた。




 



 わずか三千の騎馬隊が、百万の包囲陣を切り裂いていく。

 馬の蹄の音と、怒号。さっきからひっきりなしに雷鳴が轟き、気づいた時には押し寄せる騎馬の群れに蹴散らされていた。

 

 「敵襲だー!」

 「防げ! 数は少ないぞ! 惑わされるな!」


 いつしか空は真っ暗な雲に覆われ、青白い稲妻が黒い空を横切り、雲に反響するように雷鳴が轟き渡る。突風が吹き荒れ、降り出した雨は一気に激しさを増し、盥をひっくり返したような凄まじい雨勢に、包囲軍は混乱だけが広がっていく。王莽の新を象徴する黄色い旌旗が強風になぎ倒され、雨に濡れ、踏みにじられ、泥にまみれていく。強風は天幕をも吹き飛ばし、混乱に馬は制御を失い、将官の声はかき消され、兵卒たちはなすすべもなく無駄な動きを繰り返すばかりで、さらに混乱を煽った。


 もともと、王莽軍の甲士は四十万を超える。だが彼らは、数だけを理由にかき集められた烏合の衆で、一たび統制を失えば、その数の多さゆえに収拾がつかなくなり、誰の指示を聞いていいのかすらわからず、ただただ逃げ惑うばかりだった。


 そこへ《漢》軍の三千が切り込んでくる。明確な目的意識を持ち、敵には容赦しない捨て身の兵士たち。崩れ落ちる兵士たちの人の波は、豪雨の中を駆け抜ける騎馬隊の馬蹄にかかり、なぎ倒される。


「中軍の本陣だ! 総大将を打ち取るぞ!」

「殺せ、殺せ! 容赦するな!」


 もはや戦闘ですらない、一方的な殺戮。さすが、王尋の本陣を守る兵は素早く陣形を整え、煌く槍を構え、《漢》軍を迎え討とうとする。だが――。


 ビシィ……ドオォオオン!


 天幕の周囲が青白い光に包まれた。ほぼ同時に、天地の終わりかと思うような、息もできないほどの轟音。兵士の、槍の穂先に雷が直撃したのだ。少し離れていた者は、黒い天から差した一筋の青い光が、その男の槍に吸い寄せられ、男の身体が青白く光ったのを確かに見た。


「天誅だあああ!」


 誰かの悲痛な声が、豪雨の中で響く。至近距離の落雷に、王尋も天幕を出て剣を抜こうとしたが――。


 突進してくる騎馬の先頭、大柄な男の振り下ろす戦斧が、王尋の頭を弾き飛ばした。


「王尋将軍、戦死!」

 

 両軍の、どちらの兵士の怒号であったのか。強風と豪雨と雷鳴と。この世のすべての音と全ての混乱を集めたかのような戦場の中で、総大将の戦死により、新軍のあっけなく瓦解した。

 

 ほぼ同じころ、昆陽城の北側、()水を跨ぐ跳ね橋がギリギリと下ろされ、また、西壁の巨大な鋲を打った城門も開かれ、怒号とともに城内から兵士たちが溢れ出た。この二か月、嬲り殺しにされるネズミのように閉じ込められていた昆陽城内の男たちは、堰を切ったように包囲軍に襲いかかる。城壁近くにいた兵士は襲ってくる新手の兵士を支えきれず、向きを変えて逃げようとし、味方の兵士同士がぶつかり、揉み合い、倒れ込み――。


 狭い場所にひしめき合っていた百万の群衆が統制を失ってぶつかり合えば、崩れた場所から将棋倒しを起こし、人が折り重なる。上に乗る人の重みに身動きが取れず、立ち上がることもできないそこに、さらに人が倒れ込み――新軍の兵士のかなりの割合が、敵兵ではなく、味方の兵の重みに押し潰され、命を落とした。


 「昆陽城から討って出たぞ!」

 「ようやくか!」


 乱戦の指揮を執るのは、隻眼の王顔卿――。豪雨と強風の中で、二か月ぶりに顔を合わせた文叔に、王顔卿が白い歯を見せる。


 「悪いな、王鳳の腰抜け野郎を説得するのに時間を食った」

 「そんなところだろうと思っていた」


 文叔は雨脚と、周囲の状況を見回して、冷静に言う。


 「勝負は決まったと思う。……ここまで混乱したら挽回は不可能だ。この雨がいつまで続くか」

 「()水が溢れると厄介だな。跳ね橋には注意をしておく」


 文叔が王顔卿と別れ、手綱を引いて周囲を見回した時。


 「劉文叔!」 


 豪雨の中で呼ばわる声に、聞き覚えがあった。


 「……荘、伯石閣下……」


 さすがの荘伯石も雨に濡れ、甲の先から雨の雫を垂らしている。手には、血に汚れた剣。文叔は素早く周囲を見回し、荘伯石に護衛のいないことを確認する。


「……劉秀、兵を発して不道を捕らう……か。一万足らずで、百万の軍を破ったな」

「まだ、わかりません。戦は最後の瞬間まで」

「その通り! 卿は油断するような男ではないと思ってはいた!」


 荘伯石が馬の腹を蹴り、ぶわりと飛んで馬を寄せ、同時に剣を振りかぶった。ガキン!

 反射的に自分の剣でそれを弾き、二人は位置を入れ替える。吹き付ける強風が雨の飛沫を顔に浴びせてきて、水滴が顔を流れ落ちていく。雨なのか、汗なのか――。


 荘伯石と対峙して、文叔はふと、鎧の下に着込んだ、絮衣(わたいれ)を思う。……陰麗華。僕は、必ず生きて君の元に戻る。


 ブンッと剣を振るい、荘伯石の顔をかすめるが、躱される。ガキン! 上から振り落とされる剣を、素早く返した手首で弾く。横に薙いだ剣が雨粒を散らし、ザアザアという雨音が二人を包む。


「文叔、そこにいたか!……()水が溢れた! ここにも水が来るぞ!」


 背後から呼びかける李季文の声に、文叔がハッとして手綱を引く。()水の堰から、茶色い濁流が溢れてくるのが見えた。


「無念、これまでか!……もう、会うことはなかろう!」


 豪雨の中、馬首を返して走り去る荘伯石を見送り、文叔も馬を操って安全な場所に逃げる。濁流となった滍水は、逃げ場を失った新軍の兵士たちを呑み込み、その死体が流れを塞ぎ、溢れ出て、さらなる兵士を押し流していく。気づけば、滍水の川面は新軍の兵士の死体で埋め尽くされていた。その死体の橋を踏んで川の向こうへと逃れていく、荘伯石ら将軍たちの姿を望見したが、今更、追いかけようとも思わなかった。


 やがて雨が小やみになり、西の空から雲が切れて青空が覗き、巨大な虹霓(こうげい)が戦場の上に出た。――中国の古代、虹は、大空に横たわる龍の一種だと考えられていた。七色に輝き、雨を呼ぶ龍。


 雨上がりの大地に立っているのは、《漢》軍の兵士のみ。辺り一面に、力尽きた新軍の兵士の死体が泥だらけになって横たわる。《新》を象徴する、黄色い旌旗が引きちぎられ、踏みにじられ、泥にまみれていた。

 黒い血と、泥まみれの黄色い旗。あちこちで、勝利を祝う《漢》の兵士の声が響く。




 百万の軍は跡形もなく消えた。

 ――昆陽の大地は、新の、王莽政権の血に染まった。

『易』の坤卦の一番上の陰の(こう)辞。坤は全てが陰で、一番上まで陰が昇りつめ、陰を極めた状態。陰が陽と争い、ともに傷つくことを表す。龍と龍が野に闘い、黒く黄色い血を流して傷つき斃れることを表象とする。一説に、殷紂王の滅亡を表すとも。

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