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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第二章 燕燕は于き飛ぶ
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図讖

 「明日は、鄧偉卿と宛のまちに出かける予定なんだ」

 「宛に?」


 突然、言われて、陰麗華ははっとして文叔の顔を見る。文叔は陰麗華の手を握り込んだまま、話を続けた。宛は南陽郡の郡治、天下に五つしか置かれていない、五均官が置かれる大きな市を有する、帝国内でも有数の大都市。


 「何か催しがあるらしくて、義兄にいさんとこに請帖しょうたいじょうが来てんだって。一緒に行かないかと誘われたからね」

 「催し?」

 「うん、なんか、じょうのまちから学者を呼んで議論をするとか何とか。……眠そうだから気が向かないけど、宛の市で買い物もしたくて……」


 それから、急に真顔になって言う。


 「今度、宛では剣を買うつもりなんだ」

 「剣?」


 陰麗華が目を瞠る。確かに、士大夫は帯剣するし、文叔も小刀を手挟んでいる。でも――。


 「……山東の方で、叛乱が起きているのは知ってる?」


 麗華も頷く。山東の瑯邪ろうやで、県令に息子を殺された呂母という女が、県令への復讐のために無頼の少年たちを養い、ついに本懐を遂げた。だが、県令を殺しても呂母の党与は解散せず、しだいに南へと勢力を広げてゆっくり関中に向かっているという。


 「叛乱の討伐は上手くいっていない。……以前の、安衆侯や東郡太守の叛乱と違って、組織だった兵力じゃなくて、農民が主体だから、かえってつかみどころがないんだろう。叛乱軍が通った後は、ひどい略奪をうけると聞いている。――僕は、南陽に奴等が来たらと思うと、ちょっと心配でね」

 「文叔様――」

 「それに――どうも、南の、南郡の方でも同じような動きがあるらしい。山東の方と同様の、農民や無宿のならず者の叛乱だ」

 

 南郡は南陽の南隣の郡で、鉄官が置かれている。徴用された労働者は容易にならず者へと転化する。以前から、鉄官の周辺では小規模な叛乱が絶えない。 

 

 「ほら、僕の兄貴の――伯升がさ、最近、ちょっとばかりやらかしてね。それで、ちょくちょく、捕吏を避けて、南郡の方に逃げたりして、情報を持ってくるんだけど、相当、きな臭いね」

 「きな臭い? 叛乱が起こりそうってことですか?」

 「うん。これも、うちの親戚で――ほんと、ロクな奴がいないな――劉聖公ってのがいる。兄貴よりちょっと年上かな? こいつも昔から一族でも有名な不良で……んで、やっぱりウチの兄貴みたいに、食客を連れ込んでは悦に入ってるわけ。その食客が悪さして、聖公の方まで手が回りかけて、あいつは母親の実家がある、南郡の新市に逃げた。吏の方はかなり本気で、聖公の父親を捕まえて、出頭しなければ父親を殺す、って脅しをかけたんだけど――」


 陰麗華が目を丸くする。陰氏は豪族ではあるが、富農として稼穡かねもうけに邁進するタイプの家で、劉氏のような豪傑タイプはあまり出ない。


 「で、聖公は一計を案じて、わざわざ新市から空の棺を送って、死にましたってやったの。……僕まで贋の葬式に出させられて、参ったよ」

 「それで、吏の方はどうなったんですか?」

 「棺までやってきて、親戚中が葬式に集まるんだから、そりゃ本当に死んだんだろうって、父親を釈放したよ。――新市でピンピンしてるはずだけどね」


 文叔はほとほと呆れた、と言うように、肩をすくめる。


 「ピンピンしているだけならいいんだけど、元気だとロクなことを仕出かさないからなあ。何か、絶対、やらかしそうな気がするんだよ、聖公も、うちの兄貴も」

 「……それで、剣を?」

 「うん。うちにある剣は兄貴が持ち出しちゃったからね。僕は今、小刀わきざししかないんだ。まあ、念のため、お守みたいなものかな?」


 文叔は穏やかな表情を崩さないけれど、陰麗華は不安で青ざめた。


 「……つまり、ここも叛乱に巻き込まれると?」

 「いや、そうならないように、僕は努力するつもりだけれど――」


 文叔は不安そうに目を瞠る陰麗華を見て、慌ててその細い肩を抱き寄せる。


 「大丈夫だよ、君は――僕が守る。絶対に」


 陰麗華は抱き寄せられるままに、文叔の堅い胸に顔を寄せる。暑い中を馬を飛ばしてきたのだろう。少し汗のにおいがしたが、それが陰麗華をホッとさせた。

 

 「――兄貴はいつも僕のことを馬鹿にするけれど、僕は稼穡が好きなんだ。作物を植えて育てて、収穫して――。収穫前に実った粟や黍を見ると、ああ、今年も天地の恵みをもらえたなって思える。そういう、日々の暮らしが僕は好きだ」


 文叔は後頭部で半分だけ笄で止め、残りは背中に流したままの、陰麗華の長い黒髪を大きな手で撫で、一房とって長い指に絡めるようにする。よく手入れされた黒髪は、まるで生き物のように、文叔の指をするりと逃げていく。


 「でも兄貴はね、僕はまるで、高祖皇帝の兄のようだって笑うんだ。自分はいつか、高祖のように天下に羽ばたく、しみったれた僕はずっと土地にしがみついて耕していろってさ――」

 「そんなことを?……でも、文叔様が畑や下戸こさくにんの管理をしているから、家が成り立っているのでしょう?」

 「そうだよ、兄貴は金を使うばっかりだからね」


 文叔が少しだけ、顔を歪める。


 「でも僕は、官吏になって出世したくもないし、一旗揚げるつもりもない。農業も商売も十分面白いし、畑を広げたり、財産を増やしたりするのも楽しいと思うんだけどなあ」

 「……財産は別に増えなくてもいいけど、食客を一杯抱えて、貧乏なのはちょっと……」

 「そうだよね、ああ――兄貴はどうしたらわかってくれるのかな。しかも兄貴が連れてきた食客たちが好き勝手して、吏からも文句がくるし――」


 はあーっと文叔が溜息をつく。

 

 「正直に言えば、君の家が僕との結婚を許してくれないのは、兄貴のせいもあるんだよ。郡に思いっきり目をつけられているからね。新しく来た郡太守――じゃなくて、なんて言うんだっけか。もう、名前が変わりすぎて、なんだか忘れちゃったよ」

 「前隊ぜんすい大夫です」

 「ああ、そう。それそれ。――その大夫がさ、どうも、点数稼ぎにこれまたうち、というか舂陵の劉氏に目をつけたっぽいんだ。何しろ、聖公と兄貴と、二人も不良がいるからさ。君の家としてもそんなヤバい家とつながりを持ちたくはないだろう?」

 「それは――」


 まだ十六歳の陰麗華は、そういう県官おかみとの駆け引きは、よくわからない。


 「でもわたしは、文叔様のところがいいの」

 

 そう、甘えたように陰麗華が言えば、文叔が一瞬、黒い目を見開き、次の瞬間、蕩けるような笑顔になる。

 

 「麗華――僕も、早く結婚したい。長安でもずっと、早く君のところに申し込みに行きたいと思ってた。子供の頃も可愛かったけど、長安から戻ってきたら、めちゃくちゃ美人になってるし! ああもう、可愛い!可愛い可愛い可愛い……」


 ぎゅーっと肩を抱き寄せて抱きしめられ、陰麗華が苦しさに目を瞑れば、急に腕の力が緩められて陰麗華がハッとした。


 気づけば、今までなかった人影が二人のすぐ近くにあって、陰麗華が恐る恐る目を上げると、悪鬼のような表情で一人の男が仁王立ちしていた。


 「――鄧少君。……久しぶりだね」

 

 少君は組んでいた腕を解き、殊更に肩を竦めて見せた。


 「昼間っからいちゃついてんじゃねーよ、見苦しい!」


 ぺっと唾を吐き捨て、忌々し気に言う。


 「そこはさあ、見て見ぬふりってのはできないのかな、野暮だよね」

 「うっせぇ! こちとら次伯に頼まれてんだ! 麗華に悪い虫がつかないように、見張っとけってな!」

 「僕はこんなに善良な虫なのに……」

 「うるせぇ! ふざけんな!」


 陰麗華の方は抱擁現場まで見られていたことに真っ赤になって、俯いてしまう。


 「あ、あの……このこと、お母様には……」

 

 蚊の鳴くような声で陰麗華が問えば、鄧少君はケッと顔を歪める。

 

 「俺が告げ口しなくたって、後ろに監視掛がいるじゃねぇか! 俺は見てらんなくって声をかけただけだ。昼間っからいい加減にしろっての!」

 「わかった、じゃあ、次は夜にするよ」

 「うっせぇんだよ、このすっとこどっこいがっ!」


 散々、罵詈雑言を浴びせかけ、鄧少君はぷりぷり怒りながら去っていく。両手で頬を包んで茫然とする陰麗華の背中を文叔が優しく撫でて、耳元で言った。


 「妬いてるんだね。気の毒なことしちゃったよ」

 「ええっ?」


 陰麗華はしばらく、意味がわからなくてパチパチと瞬きを繰り返した。









 宛にでかけていた文叔らが戻ってきたのは、四日後のこと。ちょうどその日も陰麗華は鄧家に出かけ、絮衣ぬのこの続きを縫っていた。暑い時に絮衣を縫うのは辛いのだが、今からかからなければ絶対に冬に間に合わない。伯姫は相変わらず、まだ見ぬ恋人のための帯の、色が決まらないと悩んでいる。


 午後に、鄧偉卿らの馬車が大門に着いた音がした。

 父の帰りを待ちわびていた子供たちがはしゃいで走っていく声を聞きながら、陰麗華は家の主人が帰宅した以上、長居はできないと帰り支度を始める。と、家族のいままでやってきた偉卿が、妻の劉元君に言った。


 「宛の市でを買ってきた。ちょうどいいから、伯姫や陰麗華嬢にも振る舞おう」

 「荼……って、ああ、あの苦い……」


 と伯姫が口走って慌てて口をふさぐ。偉卿が苦笑いした。


 「伯姫はあまり荼が好きじゃなかったな。陰麗華嬢はどうだ?」

 「飲んだことないです」


 陰麗華は素直に答える。 

 とはつまり、茶のことだ。四川では紀元前から飲まれていたが、長安以東では日常的な飲みものとしてはまだ普及していなかった。新しもの好きの偉卿が以前、宛の市で見かけて気に入り、それ以来、見るたびに買い求めて来るのだという。

 

 劉元君は夫から受け取った荼を淹れるために厨房へと向かう。偉卿は旅の垢を落としてくると言って、いったん、自分の室に下がって、劉伯姫と陰麗華、そして付き添いの侍女の曄が部屋にはぽつねんと残された。


 「と言っても苦菜とは別物なの?」

 「高い山に生えている、特別な木なんですって。南の、暖かい地方でしか育たなくて。なんか他の呼び方もするらしいけど、この辺じゃあ、苦いからって呼ぶわね。香りはいいけど、苦いのよ」


 以前に飲んで苦くてダメだったと伯姫が言い、陰麗華は興味津々でその場で待った。すぐに荼の用意を乗せた案(脚付きの盆)を持った劉元君が戻ってきて、二人の牀の前の机の上に、干し杏の入った器を置く。


 「苦いから、甘い物が欲しくなるのよ」


 苦笑まじりに言う元君の様子を見るに、彼女もあまり得意ではないらしい。それでも夫が好きでわざわざ買ってきた以上、飲まないわけにはいかないのだろう。元君は乾燥して丸めてある茶色いものを砕き、それぞれ容器に入れ、さらに陳皮や生姜の刻んだものを加える。侍女が沸かしたてのお湯を運んできて、元君は湯を容器に注ぎ入れた。

 ぶわりと生姜の香りとともに、嗅いだことのない清新な香りが広がる。


 「いい匂い……」


 思わず陰麗華が呟くのと、鄧偉卿と劉文叔が連れ立って堂に入ってくるのが、同時であった。偉卿は全体に地紋の入った濃い灰色の襜褕ひとえに黒い襟、文叔は青色の無地の襜褕でやはり黒い襟がついて、黒い帯とは別に朱色の剣帯をして以前見たのとは違う、長い剣を佩びていた。――宛で新たに購入した剣だと、陰麗華は納得した。

 

 劉元君が男たちのしょうの前に、二人分のと干し杏の乗った案を運び、陰麗華と劉伯姫の前には、侍女が湯呑に入ったを持ってきて置いた。強い香りが陰麗華の鼻をくすぐり、それだけで脳がすっきりするような、不思議な気分がした。――カフェインを飲みなれない陰麗華には、荼は香りだけでも十分に刺激的だった。


 恐る恐る両手で器を持ち、荼を戴く。……まず、脳を直撃する清新な香り。器の中で、砕かれた茶色い枯れ葉のようなものと、陳皮と生姜の千切りが漂っている。そっと口をつけると、予想外のかすかな甘味と、それから口内に広がる苦み。生姜の香りと辛味が、苦みを抑えてくれているらしい。


 「……たしかに、ちょっと苦い。……でも、何だか頭がすっきりします」


 陰麗華の言葉に、鄧偉卿がわが意を得たとばかりに頷く。


 「そうだろう、そうだろう。さすがは陰麗華嬢。うちの女どもはこの良さがよくわからんのだ」

 「だって苦いんだもーん」


 劉伯姫が言って、口直しとばかりに干し杏を頬張る。陰麗華が荼を飲み干し、椀の中の葉や生姜も食べるべきなのか悩んでいると、対面からじっと陰麗華を見ていた文叔が言った。


 「それは無理に食べなくてもいいんだよ。お湯をさらに足すと、もう一杯味わえるよ」


 心得た侍女が陰麗華の椀にお湯を注ぎ入れる。


 「でもキツイから、あまりたくさん飲むと、胃にくるよ」


 劉文叔と鄧偉卿の椀にもお替わりの湯が注がれ、鄧偉卿も言った。


 「まあ、浴びるほど飲むようなものでもないだろうな」


 それから、思いついたように陰麗華に尋ねた。

 

 「――次伯は元気でやっているのか? 便りはあるのか?」


 兄の消息を聞かれ、陰麗華は持っていた椀を案に戻し、頷く。


 「ええ、元気そうですよ? ただ、やっぱり、いろいろとお金がかかるらしくて……」


 たいてい、来る書簡てがみは仕送りの催促だと、陰麗華が言えば、鄧偉卿も頷いた。


 「長安まで金を送るとなると大変だよなあ。……文叔はどうしていたのだ?」


 鄧偉卿が椀を手に持ったまま隣りの義弟に尋ねると、文叔は、なんでもないことのように言った。


 「そうだね、兄貴が長安にいる時は、僕が何度か金を持って往復したけど、兄貴は僕にはほとんど仕送りはしてくれなくて……しょうがないから、友人と金を出し合って驢馬を買って運送屋をやったり、仲先と蜜を買って調合して売ったりして、金を儲けてたなあ」

 「そんなことしてたのか!」

 

 驚く偉卿に、文叔が少しばかり不満そうに言う。


 「そうだよう。だいたい兄貴は自分はええかっこしいで、食客や友人たちの前では金払いがいいくせに、長安に回す金も人手もないと来たよ」

 「伯升兄さんはとにかく、身内には渋いのに、外面ばっかりよくて、ほんとうんざりしちゃう!」

 

 文叔の愚痴に、妹の伯姫も同調する。


 「そう言えば、例の催しに伯升もいたぞ?」

 「兄さんが?」


 鄧偉卿の言葉に、劉伯姫が目を見開く。鄧偉卿の隣で、文叔も渋い顔をして頷いた。


 「目が合った瞬間、何しに来たってすごまれちゃったよ。ほんと、無駄に周囲を威嚇して生きてるよね、あの人」


 文叔が疲れたようにコキコキと首を回す。


 「南陽の主だった大家には軒並み請帖しょうたいじょうを出したんだろう。面白そうな話だったからでかけたんだけどな」

 

 偉卿の言葉に、劉元君が首を傾げる。


 「何の集まりでしたの? わたしは、じょうの学者の話を聞きに行くって聞いてましたのに」

 「いや、確かにじょう出身の、蔡少公という学者のお話だったよ?」

 「てゆーか、あれ、学問なの? ただの怪文書じゃん」

  

 文叔が面白くなさそうに残った荼を啜る。偉卿がそれを見て、可笑しくてたまらんという表情で笑い出した。その様子に、三人の女たちは首を傾げる。


 「難しい学問のお話ではございませんの?」

 「いや、難しい……てのとは、ちょっと違う。蔡少公は近頃、流行はやりの、図讖としん学者なんだ」

 「図讖……」


 偉卿の説明に、劉元君と陰麗華、そして伯姫がますます首をひねるばかりだ。


 「要するに、預言書だ」


 端的に説明されて、三人が息を飲む。


 「今の……皇帝陛下が漢朝からゆずりを受けて皇帝に即位するとき、符命と呼ばれる天帝からの預言書がたくさん、世に現れたのは憶えているか?」


 鄧偉卿の問いに、劉元君だけが大きく頷く。仮皇帝・王莽の居摂三年(西暦八年)、偉卿と劉元君は結婚を控えた十九の年だった。


 「憶えているわよ! なんだか知らないけど、次から次へと、丹石とか、石牛とか、わけのわからない預言書がいっぱい出てきて。馬鹿の一つ覚えみたいに《王莽真天子と為れ》って。どう考えても贋物……」


 はっと劉元君が慌てて口を押える。偉卿も妻の様子に苦笑しながら頷いた。


 「そうだ。そのうちに高皇帝(高祖劉邦)から命令を預かった……なんて言う奴まで出てきて、我も我もと符命のでっちあげに走って、大変な騒ぎだった」

 「おかげであの年、臘月(十二月)がなくなってしまって、臘祭もなくなるし、婚礼の準備が大混乱になったんだから!」


 王莽は居摂三年の十一月を以て初始元年と改元し、真天子の位について漢号を去り、国号を新と定めた上で、その十二月の朔日を以て始建国元年正月朔とした。つまり、居摂三年=初始元年の十二月がまるまる消えたことになる。


 漢では年の終わりの最後の戌の日に、漢家の再生を願って家族親戚が相集い、祖先の霊を祭り、飲食する風習があった。一族郷里あげての飲食であるから、数か月かけて準備し、嫁いだ娘が里帰りしたり、お互い訪問しあったりして、旧年の交誼に感謝し、新年の多幸を祈る、年に一度の重要行事だ。――その臘祭がふっとんだのである。 


 漢王朝の最後の命運をへし折った決定打となったのが、王莽の即真を望む、「符命」――偽造したものがいたにせよ、それが世の願望の一端を表現したものであるには、変わりがない。


 「あれから十年と少したつが、最近、ちょっと違う方向性の、符命みたいなもの、があちこちで囁かれているらしい」

 「符命、みたいなもの……それが、図讖としん?」


 陰麗華が茫然と呟く。陰麗華は当時五歳で、世の中が大きく変わったらしいことを、漠然と憶えている程度だ。

 偉卿がにやりと笑って、そして文叔の方を見て、耐えきれないという風に肩を揺すって笑い出しだ。


 「ああもうっ、しつこいなあ!」


 文叔が露骨に嫌そうな顔で偉卿を睨みつける。


 「何があったの?」


 劉元君が尋ねれば、偉卿が笑いながら言った。


 「《劉秀、まさに天子と為るべし》。――最近、出てきた図讖にこんなのがあるそうだ。そんなことを蔡少公が真面目な顔で言い出すからさ、俺はつい噴き出しそうになって……」


 いみなを呼ぶのは失礼にあたるから、滅多に呼ばれることはないが――それ故に、間違って諱を呼んでしまわぬよう、相手の諱はちゃんと認識しておかねばならない――文叔の諱は秀、つまり劉秀だ。


 劉元君も陰麗華も、劉伯姫も一瞬、ポカンとして、それから次の瞬間、一斉にぷっと噴き出した。




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