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挙兵

既而光武起於舂陵之白水郷、貨泉之文為「白水真人」也。初起兵、望見家南有火光、以為人持火、呼之而光遂盛、嚇然上屬天、有頃不見。――『宋書』符瑞志上



既にして光武舂陵の白水郷より起こり、貨泉の文「白水真人」を為すなり。初めて兵を起こすに、家の南を望見して火のかがやくこと有り、以為おもえらく人の火を持ちたると。之に呼ばわればすなわち光り遂に盛んにして、嚇然かくぜんとして上りて天につづき、有頃して見えず。

 朝靄の立ち込める畦道を、文叔はトボトボと馬に揺られていた。東の山の端から朝陽が上り、青く繁ったキビ畑を朝焼けが染めていく。ほとんど一睡もしていない目に、朝日が眩しい。これから八月の太陽は文叔を容赦なく焼くに違いない。その予感に、文叔は少しだけ乱れたもとどりを直す。


 ――笠を持ってこなかったのは、失敗だった。


 舂陵しょうりょうを馬で飛び出したのは、一昨夜の夜更け。それから駆けつづけて、昨日の夕刻に新野に着いた。陂池ためいけで汗を流し、いつもの祠に身を隠したけれど、事前の連絡もないのに、都合よく陰麗華がやって来るなんてことはなくて、文叔は思い余って彼女の部屋に忍び込んだ。

 以前に小夏の手引きで忍び込んだとき、夏場には風を通すために、裏口を僅かに開けていることに文叔は気づいていた。陰家の令嬢――それも、郡大夫との結婚を控えた娘――の部屋に夜這いをかけるなんて、ばれたらとんでもないことになるが、文叔はもう、破れかぶれだった。

 

 文叔自身、何がしたかったのか、部屋に忍び込んだ時点ではわかっていなかった。彼女の純潔を奪うという、明確な目的をもっていたわけではない。だがどこかで、そうすることも已む無しと思っていた。


 陰麗華は文叔のものだ。文叔ですら知らない彼女の肌を、他の男に明け渡すなんて、絶対に許せない。彼女が自分のものだという、確たる証を刻みつけなければ、自分はきっと狂ってしまう――。


 いや、すでに狂っていたのだ。陰麗華は士大夫の娘。蕭県で文叔を誘ってきた農民の女たちや、常安の市で色を売っていた女たちとは全く違う。嫁ぐまでは純潔を守るべき、厳しいのりと教えの下に育ってきた娘だったのに。


 涙で濡れた瞳で、茫然と文叔を見上げる陰麗華の表情を見て、文叔は自分がとんでもないことをしたのだと、ようやく気づいたが、すべては後の祭だ。

 陰麗華は彼が汚した。家族のために、そして文叔のために、郡大夫のもとに嫁ぐと覚悟していた陰麗華を、文叔は力ずくで抱いた。それは陰麗華をさらに追い詰めるだけだ。なぜ、立ち止まれなかったのか。

 

 ――最低だ。……ほんとうに、士大夫失格だな。

 

 鄧仲華が知ったら絶交どころではすまないなと、文叔は馬上で項垂れる。

 いっそ、夜が明けるまで部屋に居座って、やってきた家人に向かい、「陰麗華はもう、自分のものだ」と宣言してやればよかった。


 ――ダメだ、そんなことをしたら、陰家だけじゃなくて、劉家も郡大夫の手ひどい報復を受けるに違いない。文叔が夜這い男と罵られるだけならいいが、陰麗華の名誉が泥にまみれてしまう。


 だったら、どうしたら――。

 せめて、綺麗な身体で郡大夫のもとに送り出してやるべきだったのか。ああだが――。

 彼女の肌を知らなければ、悔しさに歯噛みしながらまだ耐えられたかもしれないのに、文叔は知ってしまった。


 ――あれを! 他の男が! 無理! 無理! 無理!


 文叔は馬上で、無意識に胸を掻き毟った。想像しただけで、五臓六腑が爛れ腐り、腐臭をまき散らして全身が破裂しそう。ああもう、絶対に、誰にも渡すことなんてできない!


 どうしたら、どうしたら陰麗華を郡大夫の手から救い出せる? かつて幾度も誓いあったように、彼女と結婚できる? どうしたら――。


 『君が動かなければ、許嫁はあの腐れ大夫のものですよ。――何もしなければ奪われるだけだ。彼女を取り戻したいなら、行動を起こすしかない』


 ふいに、李次元の言葉が文叔の脳裏に甦る。そして。


 『そんなんだからナメられて、許嫁を取られるなんて目に遭うんだ、好きな女を寝取られて、寝取られ男ってずっと言われ続けるのがお似合いの腰抜けだ』


 兄・伯升の嘲笑が頭の中でけたたましくこだました。


 『革命だ、革命――天下をひっくり返してやるよ!』


 馬上で、夏の青空を仰ぐ。どこまでも青い、残酷なまでに澄んだ夏の空を――。


 蒼天よ、蒼天。

 彼女を得るためには、この世界を叩き壊す以外にないのですか。


 「……もし、それしか、ないのなら――」


 声に出して、文叔が呟く。

 天命を王氏に奪われたことで、劉氏は転落し、不当な圧迫を受け続けている。それを跳ねのけるには、天命を奪い返す以外に方法はない。


 文叔は大きく息を吸い込むと、それまでの屈託を振り捨てるように手綱を握り直し、馬の腹を軽く蹴って畦道を駆けはじめた。


   




 それからの文叔は兄・伯升を手伝い、挙兵のために密かに暗躍し始める。

 伯升は突如、協力的になった弟に、しかし何も聞かなかった。あの夜、深夜に馬で走り出した弟におきた心境の変化を察したのか。あるいはもっと傲慢に、弟たるもの兄の手伝いをして当然だと、思っているだけかもしれなかった。


 その年もまた、南陽は不作であった。数年続きの飢饉に、豪族の中にも蓄えの尽きる家が出始めていた。一般の零細農民など、推して知るべし。だがその年、なぜか文叔の育てた穀物だけが、実りがあった。――新興の開発地である南陽は、灌漑によって収穫を得ている。すいろ陂池ためいけの手入れを怠ると、忽ち田畑の水は涸れ、作物は被害を受ける。文叔の畑だけ収穫があったのは、別に文叔への天の祝福でもなんでもない。文叔が怠りなく田畑の見回りを続け、壊れた水路を修復し、陂池ためいけの底を浚渫しゅんせつしたからだ。


 文叔は収穫した穀物の一部を家に残し、かなりの量を売るために宛の市に向かう。穀物の売買を隠れ蓑に李次元らと連絡を取り、挙兵に向けての打ち合わせをするためだ。


 「決行は九月の立秋。都試の日に、まず前隊ぜんすい大夫と属正(漢で言うところの都尉。軍事を管轄する)を押さえ、南陽に号令を発す」


 毎年、立秋の日に郡では州兵の騎士・材官と呼ばれる予備役の、武術の練度を測る試験を行った。その日に郡大夫と属正を押さえれば、州兵ごと手中に収められる、ということだ。


 ――そんなにうまくいくだろうか?


 文叔は思うが、今さら失敗を想像してもしょうがない。打ち合わせを終えて、文叔は宛の市で武器をいくつか購入した。


 「どうすんだい、旦那。武器なんてこんなに」

 

 鍛冶屋の親父に聞かれ、文叔は肩を竦める。


 「南から叛乱軍が北上してくるってもっぱらの噂だろ? 備えあれば憂いなしって武器庫を開けてみたら、数年前の大水が入っちまったらしくて、錆ついちゃって。少しばかり補充しないと」

 「ああなるほど。ほんっと、最近、物騒でいけねぇや」


 武器を荷車に積み、舂陵しょうりょうの家に戻る途中、新野の鄧偉卿とも打ち合わせを行う。――正直に言って、偉卿が叛乱に乗るとは、文叔は考えていなかった。


 「……ほんとうに、いいの? まだ、子供達も小さいのに」

 「伯升はもう、決心しているんだろう? だったら俺がどうしようが、同じことだ。叛乱に加わらなくても、妻が劉氏だから俺もしょっぴかれるさ。俺だって、王氏の政治に文句がないわけじゃない」


 そうして、しばらくどぶろくを無言で酌み交わしていると、偉卿がポツリと言った。


 「十月の半ばだと、陰家から言ってよこした」


 何が――とは、もう文叔は尋ねなかった。

 






 翌日、普通に荷馬車を率いて鄧家を出たふりをして、家僮にそのまま馬車を走らせるように命じる。


 「少し用事を思い出した。すぐに追いつくから、先に行っててくれ」


 文叔は日除けの笠をかぶると馬に鞭をあて、新野への道を引き返す。西の山の向こうから、黒雲が迫っていた。やがて、雨粒が文叔の笠を叩く。

 土砂降りの中を馬を走らせ、いつもの祠に向かう。篠突く雨に視界は紛れ、馬の蹄が泥を巻き上げる。


 (来てくれるだろうか――)


 文叔は片手をそっと懐に入れ、宛の市で購入した銀の指環の存在を確かめる。彼女は自分のものだという、証の指環を渡す。彼女の白い指に、きっとこの指環は似合うだろう。

 雷鳴が暗くなった周囲を照らす。馬を軒先に繋ぎ、木戸を開ける。もどかしく笠を外した文叔に、何かがぶつかるように抱き着いてくる。鼻腔をくすぐる甘い香りと、柔らかな身体。

 陰麗華を抱き留め、髪に顔を埋める。僕の、陰麗華。ただ一人の、愛しい人。

 この人を手に入れるためならば、この天下全てを敵に回しても構わない――。


 




 念願の指環を渡したことで、文叔の心はやや軽くなる。

 文叔は彼女を愛し、彼女も文叔を待っていてくれる。どれだけの犠牲を払っても、絶対に彼女をこの手に取り戻す。

 文叔らは立秋を――決起のときを待った。


 だが。裏切りが出て事が漏れた。

 立秋の数日前、李家の邸は郡大夫の手の者に包囲された。李次元、李季文、そして朱仲先ら一部の者は包囲を掻い潜って脱出し、舂陵しょうりょうへ逃れたが、李家の家族数十人が郡大夫の手に堕ちた。


 「畜生!どこのどいつが!」


 伯升が悪態をつくが、今さらだ。捕らえられた李家の者たちの証言から、舂陵しょうりょうの劉兄弟との関わりはすぐに知れるだろう。


 「どうする?伯升?……逃げるか? 降参するか?」

 「馬鹿を言え! 誰が逃げるか! 俺の家の兵だけで七千は集めた。俺たちだけでやる!」

 

 朱仲先の弱気な言葉を、伯升は一笑に付した。李次元も頷く。


 「劉氏が挙兵すれば、私が集めた兵も呼応するでしょう。もはや後戻りはできない。……そうでしょう? 文叔殿?」


 次元に話を振られ、考えごとをしていた文叔がはっと我に返る。


 「それは……今さら逃げてももう、遅い。やると決めた以上、やるしかない」

 

 文叔が言えば、李季文もあははっと陽気な声をあげた。


 「じゃあ、いつだ」

 「やると決めれば今すぐに」


 文叔の言葉に、伯升が満足そうに叫んだ。


 「やるぞ、今すぐだ! 明日の夜明けとともに兵を挙げる!……何、準備はもともと万全だったんだ! 野郎ども、取り掛かれ!」


 伯升の命令に、皆が一斉に立ち上がる。


 「新野の鄧偉卿にも報せを!」


 文叔が言えば、李次元がしれっとした顔で言った。


 「もう伝えてあります。……宛から逃げる途中にね」

 

 その言葉に、次元と言う男は食えない奴だと文叔は改めて思う。もし、伯升兄弟が挙兵に尻込みするようなら、二人の命を奪って劉氏の兵を横取りするくらいのつもりでいたのだ。


 文叔は武装に身を固め、鎧の上に赤い戦袍を纏い、頭には武官の大冠を被る。――滅多に使うことはないが、鎧の上に小冠では格好がつかない。顎紐を堅く結び、剣を佩いた。自室から出れば、中庭には煌々と篝火が焚かれ、皆、忙しく立ち働いている。


 (……本当に挙兵するんだな……)

 

 ずっと平凡な人生を送り、平凡に死ぬんだと思っていた。平凡な日々の暮らしの中で、陰麗華のような恋した人を妻に迎えられればと、ささやかな願いだけを抱いてきたのに。


 ――そのささやかな願いのために、皇帝や郡県に背こうとしている。


 なんだが落ち着かなくて、文叔は牡牛の牛牛ニウニウに草を食ませようと、家の裏手の白水陂に足を向けた。立派な牡牛に成長した牛牛ニウニウには、重い荷車を引いてもらわなければならない。


 「本当に、お前と一緒に叛乱を起こすことになろうとはね……。やっぱり最初の登場はお前に騎乗していこうか。馬も足りないことだし」


 どっしりとした足取りで暗闇の中で草を食む牡牛に、文叔が語り掛ける。月のない夜の川べり。土手の上に立って黒い流れを見下ろす。川の向こうに広がる、吸い込まれそうに真っ暗な闇。


 ――陰麗華……僕は……。

 

 これが正しい道なのか、文叔にもわからない。乱を起こすとは、天下に盾つくこと。平和を乱し、多くの命が失われるだろう。だが、もはや他に方法はないのだ――。


 と、白水の向こう、何もないはずの暗闇に一点、赤い光が灯る。


 ――光?……松明か、何かか?……誰か、いるのか? 


 白水の向こう数里に渉って、人家はないはずだ。


 ――いったい、誰が?

 

 「おーい! 誰かいるのか! おーい!」


 文叔が赤い光に向かって呼びかけた、その時――。

 突如、地平近くにあった赤い光が火の玉のように大きくなったかと思うと、そのまま一筋の光となって天に突きあげ、真っ暗な空を切り裂いていく。


 「!!……」


 目の前で起きた怪異に、文叔が目を見開く。


 「な……いったい、何……」

 

 天を貫く赤い光はしばらく天空を横切って後、静かに消えた。東の地平線に薄っすら、夜明けの光が見えた。





 文叔が牛牛ニウニウを牽いて白水陂から戻ると、邸では母の樊嫺都はんかんとが半狂乱になって暴れていた。


 「いったいなんだって、こんな! 何を考えているの! 伯升! あんたはこの母をどうするつもりだい!」

 「ああもう、うるさいな。騒ぐな。今から出陣する。邪魔するな」


 乱暴に押し退けられた母は、ふらりと崩れて背後にいた、兄の仲に抱き留められる。仲は熱があるという話であったが、あまりの状況に部屋をでてきたらしい。


 「母さん、落ち着いて……」


 仲が宥めているが、声に力がない。ずいぶん、怠いのだろう。


 「母さん、兄さんはまだ身体がよくない、奥で休ませて――」


 文叔が声をかけると、その声に母が振り向き、文叔を指差した。


 「お前! やっぱりお前だよ! 全部、全部、お前が! お前が凶星なんだよ! お前が全部、災厄を持ってくる!」

 「母さん、何を言って……」


 兄の仲が慌てて宥めるが、母はさらに興奮して騒ぎたてる。様子を見に来た妹の伯姫も、慌てて母に縋り、止めようとする。


 「お母さん、やめて! なんてこと言うの! 文叔兄さんじゃなくて、全部、伯升にいさんが……」

 

 母は伯姫の腕を振りほどき、髪を振り乱して文叔を睨みつけた。篝火に照らされたそれは憎しみに歪んで、悪鬼のように見えた。


 「お前が……お前ができたおかげで、お乳が止まって、仲はこんなに身体の弱い子に育ってしまった。お前さえ生まれてこなければ、仲はもっと健康だったのに! お前が――凶星持ちのお前のせいで、旦那様もあんなに急に……ぜんぶお前のせいだよぉおおお! もうおしまいだ、この家は滅びる! 全部全部、文叔のせいで!」


 当の文叔は喚き散らす母親の姿に茫然として、何も言うことができない。


 (凶……星……)


 忘れていた母の呪いが再び回り始める。

 何もかも、叛乱も劉氏の苦難も、陰麗華の嫁入りも、全部全部、文叔のせいなのか――?

 

 「ああもう、うるさい! 仲、おふくろを奥に連れていけ! 頭がおかしくなってる!」


 伯升が弟に命じ、仲と伯姫で母親を引きずるように邸の奥に連れていこうとするが、突如、母が苦しそうにもがき始める。


 「お母さん?」

 「母さん!」


 明らかに尋常でない苦しみようで、その場に座り込もうとするのを見て、文叔が仕方なく母親を抱きかかえる。


 「やめて、疫病神!触らないで! いやあああ!」 

 「少しだけ我慢して! 兄さんや伯姫じゃ、運べないから!」


 暴れ、苦しむ母親をいまの牀の上に下すと、ばあやが水を持ってきて、家僮が医術の心得のある老僕を呼びに行く。


 「じゃあ、僕は行くよ。母さんを頼む」

 「文叔兄さん、母さんはちょっとのぼせちゃっただけで、本心では……」


 伯姫の慰めに文叔が苦笑し、堂を後にする。背後では母の啼き喚く声と、必死に宥める周囲の声がしていた。


 ――後に聞けば、母、樊嫺都はその朝に死去し、遺骸は一族の樊巨公が柩に納めたと言う。

 


 

 


 舂陵しょうりょうを発した伯升らの叛乱軍は〈漢軍〉と号し、伯升は自ら「柱天都部」と称した。あらかじめ示し合わせていた南郡の〈新市兵〉、〈平林兵〉と合流し、数万に膨れ上がって進軍を続け、棘陽きょくようを確保する。ここで新野で挙兵した鄧偉卿らの軍や家族とも合流することができ、一行の気勢はさらに上がる。


 「このまま一思いに宛を手に入れるぞ!」

 「「「「オオー!」」」」


 そうして、〈漢軍〉はろくな準備もないまま、小長安で前隊ぜんすい大夫らの軍と衝突することになる。


 母親に「凶星」と罵られて以来、文叔はどこか、心ここにあらずだった。

 自分は「凶星」なのか。今のこの状況は、自分がもたらした不運なのか。あるいはもっと、悪いことがあるのではないのか。

 折から、その日は霧が出ていた。なんとも嫌な予感がして、文叔は伯升に言う。


 「兄さん、いったん軍を棘陽に下げよう。こんな霧では、状況がわからない」


 だが、伯升はもともと弟の言葉など聞く男ではない。


 「ダメだ。戦は勢いだ。こんな烏合の衆、ちょっとでも弱みを見せたらバラバラになってしまう」

 「でも――なら、せめて女子供たちだけでも棘陽に――」

 「その場合、守備の兵を割くことになる。そんな余裕はない」


 あっさり拒否されて、文叔は仕方なく引き下がる。だが――。


 霧の中から現れた州兵に、〈漢軍〉は分断され、包囲され、為すすべもなくズタズタにされた。郡大夫や属正だって専門の将軍ではないが、配下の兵の練度が違い過ぎた。


 「ああ……だから言ったのに……」


 総崩れになった集団の中で、文叔は単騎、家族を探して彷徨う。兵に追われて一人、走って逃げる白い曲裾深衣を見て、それが妹の伯姫と気づく。


 「伯姫!」

 

 馬を寄せ、追いすがる兵を切り捨てる。血しぶきが飛び、返す刀でもう一人――。


 「にいさん?!」

 「乗れ! 手を出して!」

 「そんな!……馬なんて乗ったことないわ!」


 お転婆な伯姫でさえ、馬に乗ったことなどないのだ。この時代まだ鐙がなく、女性の脚力では自力で跨ることも難しい。 

 

 「いいから早く!」


 文叔は伯姫の腕をつかんで力任せに引きあげ、前鞍に横抱きにする。


 「掴まってろ! 飛ばすぞ!」


 脚で馬腹を蹴り、馬のスピードを上げる。しばらく行った先に、小さな子供三人を連れた女がいた。


 「元姉さん!」

  

 文叔にしがみついていた伯姫が叫んだ。文叔は迷う。伯姫と二人乗りでも、逃げ切れるか危うい。この上子供三人を連れた姉は――。だが、その心とは別に、勝手に手を差し出して姉の腕を掴んでいた。


 「姉さん!乗って!」


 だが、劉君元はその腕を振り払った。


 「無茶言わないで! 共倒れになるだけ! 行って! 早く行きなさい!」

 「僕が馬を降りる! だから……」

 「あんたしか馬に乗れないの! だから早く!」


 伯姫も君元も、馬を制御することなどできない。文叔は一瞬、迷いを振り切るように目を閉じ、言った。


 「必ず、迎えにくる!だから――」


 馬腹を蹴って走り出すその耳に、三人の姪の泣き声がずっと響いていた。

 

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