閨怨
郭聖通視点
『私は南陽に残した妻を愛している。あなたと結婚はできない』
そう、男ははっきりと告げると、静かに踵を返して去っていく。赤い斗篷が風にあおられ、男の背中が遠ざかる。その背中をただ無言で見送るしかできなかった、あの日――。
――どうして。あなたはわたくしの、運命ではないの――?
「……様、長秋宮様――」
呼びかけられ、郭聖通はハッとして覚醒する。……白昼夢を見ていたらしい。
動揺を押し隠して、郭聖通は牀の上で姿勢を正し、ゆっくりと声をかけてきた侍女を振り向く。
「ああ、ごめんなさい、少しぼうっとしてしまって。……暑さのせいかしら」
「孫公公が却非殿よりお戻りになられました」
「すぐにこれへ――」
せかせかした足取りで、豪華な刺繍の入った紺色の衣装を着た初老の宦官が入ってきて、郭聖通の牀の前に両膝をつき、拱手の礼を取る。――皇后付宦官の長官、大長秋の孫礼である。
「長秋宮様におかれましては、ご機嫌よろしゅう」
「ご機嫌はあまりよくはないわ。……陛下は何と?」
孫礼は深く頭を下げ、言った。
「は。……詫びには及ばず。しかし、今後、後宮内の人事であれ、皇后の独断専行はならぬ、と」
「唐氏の処分については?」
「それはまだ、取り調べの最中のようでございます」
「で、清涼殿は――」
「昨夜はあのまま清涼殿様の元にてお泊りになられ、今朝はいつも通りに執務をこなしておられます。……ただ、ご朝食を召しあがり損ねたようです。どうやら、清涼殿様のご体調がよろしくないようで――」
そのやり取りを、郭聖通のはす向かいの牀に座って聞いていた母の郭主が、いかにも軽蔑したように言った。
「んまあ。あの午後から朝方までずっと房室に籠っていたのなら、足腰も立たなくなるでしょうよ。なんとまあ、浅ましいこと!」
その言葉に、郭聖通は無意識に奥歯を噛みしめる。
夫は、淡泊な質なのだと思っていた。――行為がおざなり、とは思わなかったが、いつもさっさと自分の部屋に戻ってしまい、朝まで一緒に過ごしたことなど、一度もない。
それを――。
陰貴人が拒み続けた間も、ずっと臥牀を共にしていた。遠征に出るときですら、片時も側から離さずに。
それほど恋い焦がれた女であれば、彼女が壊れるまででも抱くのか。
「それで、こちらにはいつ、足を運ばれると――」
郭主の問いに、郭聖通もハッとして孫礼を見た。
「それが――陰貴人が子を産むまでは後宮にも足を向けぬと――」
「そんな馬鹿な!」
郭主の甲高い声に、孫礼がビクっと身を縮める。郭聖通は胸がギリギリと締め付けられる気がして、無意識に片手を胸に置いているのに気づき、これではまるで陰貴人のようではないか、と慌てて手を膝の上に直す。
――そうか。あの女もこうして、ずっと胸を締め付けられてきたのか。
夫の裏切りに、いつしかこれが習い性になってしまうのかと、郭聖通は目を伏せ、溜息をついた。
「それが、非常識なことと、陛下もわかっておられるのでしょう?」
「はい。衛尉の李次元殿がお諫めになり、太傅の卓老公もとりなしてくださいましたが――」
陰貴人が子を産まぬ限り、後宮は治まらない。この郭聖通の言葉を言質に、皇帝は後宮へのお渡りも、他の嬪御を召すことも拒否したという。皇后である郭聖通も例外ではない、と。
「ですがそれでは――許宮人の産んだ皇子との対面もせぬということですか? わたくしの――彊や輔の顔も見に来ないと? 新たに産まれた皇子も皇女も、まだ名前さえ賜っておりませんのに」
「適当につけておけと――」
あまりの言いぐさに郭聖通は軽い眩暈に見舞われる。
出会って、そして結婚したばかりの頃には気づかなかった、夫・劉文叔の冷酷さ。人当たりもよく、常に穏やかな表情を崩さないのに、時折、氷のように冷たい。二人の息子たちにも、表面上は優しい。五日に一度ほどではあるが、昼間にはよく、顔を見にやってきていた。言葉を話すようになった長男の彊は、抱き上げて庭を散歩することもある。夕餉は共にしても、しかし、断固として長秋宮には泊まらず、夜は必ず陰貴人の元に帰ってしまう。それが不満であったが、今後はその昼間の訪れすら、なくなるということか。
「……それほど、お怒りでいらっしゃるの」
半ばあきらめたような郭聖通の言葉に、郭主が娘を慰める。
「聖通、お前は悪くありませんよ。そもそも、あの女が、陛下のご寵愛を専らにしながら懐妊もせず、実は陛下の思し召しをも拒んでいたせいじゃないの。そんなに嫌なら、南陽に帰るか、北宮に退去すべきでしょう!何がいけないと言うのやら!」
「……畏れながら、陛下のご意向に逆らい、寵愛の深い貴人の進退に皇后が口を出したのが、お怒りの原因かと存じます」
孫礼が躊躇いがちに言う。確かに皇后は後宮の主だが、皇帝が寵愛する女を勝手に追い払うなんて、許されるわけがない。貴人はあくまで皇帝に仕えているのであり、皇后はその人事に口出しできない。――嬪御を召し出すことに成功したせいで、郭聖通は些か、皇后の力を過信してしまったらしい。その僅かな驕りが、皇帝の逆鱗に触れたのだ。
郭聖通も郭主も、おそらくはこの孫礼も、皇帝・劉文叔の本質を見誤っていた。
見た目通りの穏やかで大人しい男だと――戦場での姿を見れば、そんな男でないのは明らかなのに――思い違いをしてしまったのだ。
これまで、皇帝は大概の要求は呑んでいた。――陰麗華を却非殿の後殿から、後宮の一殿舎に移せ、という要求は、まるで聞かなかったように無視されたが。
文句を言いながらも嬪御も召し、子も二人生まれた。唐宮人だけはどうしても気に入らなかったようだが、唐宮人の日ごろの態度を見ても、これでは万一、この女が皇子でも産んでいたら、必ずや厄介を起こしたに違いないと、郭聖通も思うところもあり、最近では皇帝に無理に薦めることもしなくなっていた。
それよりも新しい女を――自分を抱こうとしない皇帝に当てつけるように、子のない陰麗華をさらに追い詰めるように、新たな女を嬪御に上し、皇帝の子を産ませようと、八月の算人に向けて動いていた。皇帝はその、郭聖通の目論見もすべて叩き潰した。
――陰貴人が子を産まぬ限り、後宮の乱れは治まらない。
間違ってはいない。皇帝の寵愛を一身に集めながら、皇帝を拒み続けたかつての《妻》。過去を知らぬ者でも、皇帝の陰貴人への執着が度を越しているのは、二人の様子を一目見ればすぐにわかる。どんな女を御寝に召そうとも、皇帝の心は陰貴人以外に動くことはない。
陰貴人が、後宮のすべての均衡を崩している。皇帝の寵愛の雨は、陰貴人一人の上にしか降り注がない。あの女がいる限り、他の女はただ、砂漠のように渇いて、枯れていくしかない――。
――朕の為すべきことは一つ。
殊更、「朕」と称して郭聖通との心の距離を見せつけて、陰麗華の細い手首を掴み、攫うように出て行った皇帝の後ろ姿。戸惑いながら、なすすべもなく流されるだけの、か弱く儚い南陽の、《妻》。
ああ、自分はあの時と同様に、あの人の背中を見送るしかできないのだ――。
「それで――本当に、あの南陽女が孕むまで、後宮に出入りしないおつもりなの?」
郭主の問いに、郭聖通はハッとして我に返る。向かい側、磚敷きの床に膝をついた孫礼が、は、と頭を下げる。
「今のところはそのように仰せになっておられますが――」
妊娠が確定するまで、二か月か三か月かはかかるだろう。あちら側は長秋宮を警戒していて、なるべく情報を漏らさないようにしている。
「だいたい、あの女が妊娠しなかったらどうなるの?」
その言葉に、郭聖通は思わず眉を寄せる。死産を経験している陰貴人が、果たして無事に懐妊し、子を産めるのかどうか。――いやそれよりも。
郭聖通はあることに気づき、切れ長の一重瞼を見開く。
もし、陰貴人が男児を産んだら――。
郭聖通は膝の上で両手を握り締める。
もともと、陰麗華は身籠っていた。その子が無事に産まれ、そして男児だったら、今頃、皇太子に立てられていただろう。そして――《母は子を以て貴し》。皇后の座にも、陰麗華が座っていたに違いない。真定王の姪という、由緒正しき生まれの自分を差し置いて。
陰麗華が男児を産んだら、その時は――。
郭聖通はそっと掌を開き、自分の手相を見下ろす。
《太后》――。
この文字のおかげで、三人もの許嫁に死なれた不祥の女と言われ、恋も結婚も半ば、諦めていた。予言が実現しなかったらどうなるのかと怯え、虚しさに眠れぬ夜を過ごした。
劉文叔こそ、彼女に天子となるべき子をもたらす、運命の人なのだと、郭聖通はずっと信じてきた。だからこそ、すでに妻があると婚姻を一度は断った文叔に強いて、半ば騙すようにして婚礼を挙げた。――いつかはきっと、愛してくれる。たとえこの人にとっては最愛ではなくとも、自分にとっては唯一の人だと、固く信じたから。
もし息子が帝位に即けず、予言が実現しなかったら、自分の人生も、矜持も、何もかもが砕け散ってしまう。
郭聖通が必死に動揺を抑え込んでいる横で、母の郭主が無神経な金切り声で叫んだ。
「よもや、男児が生まれでもしたら、その子を皇太子に、なんて言い出すんじゃないでしょうね?! まさかそこから、あの南陽女を皇后にだなんて――」
「お母さま!」
常にない強い調子で母を咎め、郭聖通は肩で大きく息をした。
「――迂闊なことを口走らないで。そんな言葉が、どこかに漏れ聞こえでもしたら――」
「聖通、お前――」
娘に窘められ、オロオロする郭主に、我に返った郭聖通が微笑みかける。
「……大丈夫よ、お母さま。跡継ぎは、彊です。……わたくしの掌の文字は、あの子が天子となる予言なのでしょう? 陛下もそれを覆すようなことはなさらないわ。すべて、天の意志なのですから」
掌を開いてそれをかざすように示し、郭聖通は孫礼に言う。
「しかし孫礼、生まれたばかりの皇子にも、わたくしの産んだ皇子たちにも対面しないなど、あまりに非情です。新しい嬪御を上げることについては、今しばらく、わたくしからは申し上げません。ですが、今いる嬪御については、少しでも恩沢を施していただくよう、後宮を代表してお願い申し上げねばなりません。せめて陰貴人と話し合うことは――」
だが孫礼が首を振る。
「陰貴人はしばし、後宮からの接触を絶たせると。完全に、清涼殿に囲い込むおつもりでいらっしゃいます。下世話な言い方ではございますが、孕むまで閉じ込めておくおつもりではございませんかな」
その言い方に一瞬、気が遠くなって、郭聖通は目を閉じる。
「……陰麗華病とは、よく言ったもの……」
ポツリと呟いた郭聖通に、孫礼が言う。
「ですが、衛尉どのも、また建義大将軍の朱仲先殿も、長秋宮との関係改善の道を図ってくださるような、そんな雰囲気を感じました。特に朱将軍は、今は頭に血が上っているだけだから、と。前朝の将軍がたはいずれも、長秋宮様にさしたる落ち度のないことは理解しておられます。ここは軽挙妄動せず、陛下の御怒りが溶けるのを待つのが得策と存じます」
「……それしかないようね」
ほっと、息をつく郭聖通に、郭主も眉を顰めてブツブツ言う。
「まったく、あたくしの聖通を蔑ろにするなんて、皇帝と言えどもきっと、いつか天罰があたりますよ」
「お母さま。……お気持ちはわかるけれど、陛下に対して申し上げるべきことではないわ」
「わかっていますとも! それでも我慢できないことはあるんです!」
郭聖通は気を取り直し、皇后として孫礼に命令を下す。
「そうね、まず、生まれたばかりの皇子と皇女、それからその母親たちに十分の気配りを。……名前は……陛下からは自由につけていいとの仰せではあるけれど、迂闊な名をつけるわけにはいかないわ。母親たちにいくつか希望を聞いて、その中からわたくしが選び、陛下にご裁可を得る形でどうかしら。くれぐれも、どうでもいいと仰ったなんて、母親たちに聞かせないようにして。衣類や襁褓など、足りているかしら。乳母の乳の出なども、問題があれば、すべてわたくしに報告するように」
「は。畏まりました。……細かい物品や行事については、陛下より奴才が承っております。万事、遺漏なく処理いたします故、ご安心ください」
孫礼に言いつけ、郭聖通は席を立つ。
「少し、子供たちの様子を見てくるわ。……お母さまは少しお休みになったら。昨夜は興奮して、眠れなかったのではありませんの?」
郭聖通が母を気遣えば、郭主が肩を竦める。
「ゆっくり眠るどころではありませんよ。……でも、ピリピリしても暖簾に腕押しのような方ですからね。ええ、ならばあたくしも、少しばかり休ませていただきますよ」
母の返事に微笑み、郭聖通は長秋宮の奥、皇子二人の住まう一角へと足を向けた。
「ははうえー」
数え年で三歳になる皇太子の彊が、回廊の向こうから母の姿を認めてパタパタと走り寄ってくる。
「殿下、いけません、走っては……」
「殿下、お待ちくださいませ!」
侍女や宦官が慌てて追いかけるのを、スルスルと抜けて突進してきた彊が、ドシンと母にぶつかる。
「まあ、いけませんよ、侍女に世話をかけては……」
「だって! あれもしちゃダメ、これもダメって!」
やや過保護な傾向のある長秋宮の女官たちに、皇子は不満を抱いているようだ。
「ちちうえは、木登りもさせてくれるよ? もうすこししたら、けんじゅつもおしえてくれるって」
「んまあ、木登りや剣術だなんて……危険ではございませんか」
古参侍女の阿姨が眉を顰めるが、彼の父は戦場の雄として皇帝の位に登りつめたのだ。その息子もまた、いずれは剣を取って戦うこともあり得る。あまりに軟弱であれば、新たに産まれる皇子に、世継ぎの地位を取って代わられるかもしれない。
そう気づいて郭聖通はどきりとしたが、表面的には微笑みを絶やさずに言う。
「そうね、いずれはね。……でも今は、怪我をしないほうがいいわ。廊下は走ってはだめよ」
「はーい」
小さな息子の手を引いて堂に入れば、子供たちに仕える者たちが立ち上がり、一斉に頭を下げる。生まれて一年を過ぎた次男の輔は、天井の梁から吊るした揺り籠でお昼寝中であった。
「ちちうえは、今度はいつ、いらっしゃる?」
無邪気な彊の問いに、郭聖通はハッとする。
「そうね、しばらくお忙しいようですから……我儘を言ってはいけませんよ?」
「うん、でもなるべく早くいらしてと、ははうえからもお願いして?」
「え、ええ……わかったわ」
母の膝に抱かれるようにしてうっとりと言う、皇子彊の言葉に、郭聖通の胸が痛んだ。
愛されていると思っていた、その愛はまやかしだった。あの冷酷な男の心は、自分たち母子の上にはない。それでも――。
たとえ形だけのものであっても、自分は皇后――正妻なのだ。この子たちを守るためにも、皇后の位は死守しなければならない。
皇子の、まだ結っていない艶やかな髪を撫でながら、郭聖通はふと、思い出す。以前、彼女を諭した従兄の耿伯山の言葉を。
『陰貴人が、側室の立場に甘んじてくれれば、ひとまず丸く収まる。皇后には聖通が立ち、皇子の彊が皇太子になる。陛下は寵姫として、陰麗華を手元に置ける。全員が、そこそこの満足を得られる』
その時は、ひどい言葉だと思った。自分は文叔を愛しているし、愛されていると思っていた。お飾りの妻に甘んじ、寵愛は他の女に譲るなんて、そんなことはできないと。
だがこうして、夫の心がどこにあるのかを見せつけられれば、かつての自分がいかに傲慢だったのか、思い知らされる。
互いに相愛でありながら、戦争で引き裂かれた夫婦に付け込み、妻の座を奪った。――陰麗華の立場から見れば、郭聖通こそ泥棒猫だ。天の意志だからと、強いて考えないようにしていた現実が、ここにきて郭聖通に迫ってくる。
陰麗華は夫に裏切られたと思い、また子もいないことから、南陽に帰ることを望んだのに、夫は彼女を手放さなかった。夫婦の行為を拒んでいたのは、せめてもの抵抗なのだろう。――だがそれは、郭聖通やそのほかの、文叔から顧みられない女たちからすれば、許しがたいことだ。
あの女が邪魔だった。言葉通り、南陽でもどこでも、いなくなってくれればいいのに。
そんな思いから北宮への退去を薦め、文叔の逆鱗に触れた。――あんな風に怒りの感情を露わにする文叔を初めて見て、郭聖通は雷に打たれたように震えた。
これから、どうしたらいいの。
愛されない妻であっても、それでも皇后として、生きていくしかないのか。文叔を詰ったところで、郭聖通が自ら選んだ道だと、一蹴されて終わりだろう。ただ、愛されたいと願うことも許されないのだろうか?
――この子のために。
さらさらとした黒髪を撫で続けていると、彊は母の膝の上で長い睫毛を伏せ、健やかな寝息を立て始める。抱いて下がろうと手を出す乳母に無言で首を振り、郭聖通はずっと、子供の髪を撫で続けた。




