貴人の責務
「馬鹿を言わないで! 他人の子を殺したところで、死んだ子が蘇るわけでもないのに、そんなことするもんですか! さっきからあなた、日付も忘れた、名前も知らない、命令も適当で、証拠もなく人を陥れようなんて、いい加減になさい!……誣告反坐の法(*1)を知らないの?!」
常にない強い調子で唐氏を叱責する陰麗華に、長秋宮全体がハッと静まり返る。清涼殿様こと陰貴人と言えば、いつもおっとり首を傾げたり、郭皇后に嫌味を言われてつぶらな瞳をウルウルさせている印象しかなかった。その陰貴人がバシッと反論したことで、これはシャレにならない事態なのだと、周囲の者たちもようやく気付く。趙夫人が陰麗華を見て、満足そうにニヤリと笑い、唐氏に向き直って言った。
「誣告は、その罪を返す。――あなたは陰貴人が身籠った二宮人を殺すように命令したと、陰貴人を訴え出たのよ。もしその罪がありもしないことだったら、その罪状は全て、誣告した者、つまりあなたに返る。わかっていて?」
「そんなの……」
唐氏は視線を泳がせてから、しかし腹を決めたように趙夫人を見あげた。
「そんなの! もう、あの二人を池に落としたことで、どうせ重罪じゃない!」
「……馬鹿ね? 〈殺すつもりはなかった〉、〈たまたま、池に落としてしまった〉なら、死罪にまではならなかったのに。二宮人とも、一応は無事に子を産んで、生きているのだから。でも、あんた今はっきり言ったわ。陰貴人に命令された、二人の宮人を殺し、赤子も始末しろと言われた、と。それで陰貴人からの命令が本当にあったと証明できなければ、皇帝の子を身籠った嬪御を殺そうとした罪が、全部、あんたにかかるわけよ? さらにその上、陛下の寵姫に罪を被せようだなんて、あたくしには、どんな重罪になるか、想像もできないほどの、すごい罪よ。大逆不道罪(*2)って奴じゃないの、これ」
趙夫人に言われて初めて気づいたのか、唐氏は黒い目を見開いて息を飲む。
「まさかそんな……死罪にならなかったかもしれなかったなんて……そんなの、そんなの聞いてないわ!」
後ろ手に縛られたまま、唐氏がもぞもぞと動いて、周囲を見回す。
「みんな、お前の死罪は決まっているが、誰かに命令されたというなら、命だけは助かるかもしれない、正直に言えって言うから……!」
唐氏が蒼白な表情で、殿庭から郭聖通を見上げる。
「だから……陰貴人から命じられてって言えば、長秋宮様が助けてくれるって思って……あたし……」
殿上で、郭聖通が袖口で口元を覆い、クスクスと笑う。
「いやだわ、今度はわたくしにまで冤罪をなすりつけるつもりなの? ……孫礼!」
「は!」
一歩前に出た大長秋に、郭聖通が命ずる。
「尋問を行った者たちをこれへ」
「は、ただいま」
あらかじめこの場に呼び出してあったのだろう、孫礼が手を挙げて合図すると、回廊から「掖庭獄」と胸に書いたお仕着せを着た宦官が数人、わらわらと走り出た。普段、殿上で貴人に奉仕する、小柄で中性的な宦官を見慣れた目には、これが同じ宦官なのかと驚いてしまうほど、いずれもガタイがよく、そして強面だった。――彼らはもともと、郡県の游侠や捕盗などの警察系下級官吏、あるいは無頼だったりしたものが、犯罪を犯して宮刑に処せられ、雒陽宮に没入されたのだ。こんな男たち――宦官だが――に取り囲まれたら、小娘なんてすぐに怖気づいて彼らの望む供述をしてしまうだろう。唐氏も彼らの姿を見て、ガタガタと身を震わせ始めた。
「仮にも陛下の嬪御であった者に、乱暴な行いなどしてはいないわよね?」
郭聖通の問いに、殿庭に居ならぶ者たちは「はっ」と一斉に頭を下げる。代表者らしい、一人だけ襟が赤い宦官が、郭聖通を見上げて言った。
「そのようなことは誓って。ただ、あまりに供述が疑わしく、本当なのかと、少々、脅しをかけましたが――」
「最初の、疑わしい供述は、なんと?」
「はい。もともと池に落とすつもりもなくて、何となく近づいて話をしていたら、池の中に何かいるのが見えた。それを指さしたら許宮人が池を覗き込んだので、このまま落ちてしまえばいいのに、と思っていたら、突然、足を滑らせて池に落ちた。それに魏宮人が手を差し伸べたのを見て、助けようと手を伸ばしたけど、でも、この女も落ちてしまえばいいのにと思い、気づいたら池に突き飛ばしていた。自分のしたことが恐ろしくなり、そのまま後ろも見ずに逃げて、どうなったかは知らない……」
その供述に陰麗華は絶句し、思わず趙夫人と顔を見合わせる。
あまりに浅はかではあるが、後宮内で追い詰められた唐氏が、突発的に凶行に及ぶというのは、理解できなくもない。だが本当に最初の供述の通りであった場合、唐氏本人の命が助かるかどうかはかなり微妙ではあるが、今のところ二宮人の命も赤子の命も長らえている。少なくとも家族に害が及ぶことはないと思われた。だが――。
その後に獄吏に脅された上とはいえ、皇帝の貴人から殺せと命令されたと、ありもしない罪をでっちあげたのは非常に拙い。漢代の法は「原心定罪」(*3)――心を原ねて罪を定む――を一つの原則にしていて、結果だけでなく動機も重視するのだ。なんとなく目の前の女たちにムカついて池に突き落としたのと、明確に彼女たちが孕む皇帝の子を殺そうとして池に突き落とすのでは、まったく量刑が異なってくる。大逆不道罪を適用されれば、父母や同産まで連座で死罪にされてしまうのだ。
陰麗華は郭聖通を見て、尋ねる。
「畏れながら長秋宮様。……唐宮人……いえ、唐氏はおそらく深い考えもなく迂闊なことを口走っただけで、実際には最初の供述が真実に近いのではないかと――」
郭聖通はちらりと陰麗華を見ると、微笑んだ。
「つまり、あなたに命じられた、というのは彼女の作り話であると」
「わたくしが命じたという証拠もございませんし、そもそも、殺し屋ならともかく、普通の一宮人に〈何でもいいから殺せ〉、なんて命令、する方も受ける方もおかしいでしょう。具体的な報酬も提示されず、じゃあ、と池に突き落とすなんて、あまりに無計画に過ぎます。聞き及びました話では、落ちた池というのは水深も浅く、この季節ならば水温も低くはない。よほどのことがなければ死なないような池です。……ただ、魏宮人の場合は水に落ちた衝撃から出産が始まり、危険な状態だったということですが、それを見越してのこととは思えません。それ以外が杜撰過ぎますから」
陰麗華の言葉に、郭聖通も頷く。
「清涼殿の言うとおりね。本気で殺すつもりで、池に落とすなんて方法を選んだとしたら、ちょっと知能を疑うわね」
「……たしかに、目の前にいた憎い相手が、池に落ちたらいいのにと思ったら足を滑らせて勝手に落ちた、もう一人も気が付いたら突き飛ばしていた、なんて話、熟練の獄吏には信じ難いかもしれませんが、しかし、本当のことを言え、と言われて急遽作った話に比べれば、まだ辻褄があっています」
一年近くにわたって後宮中の嘲弄の的となり、皇帝の子を孕んだ同輩を間近に見続けたのだ。追い詰められて奇矯な行動をとったと言われた方が納得する。
「わたくしにありもしない罪を被せ、それでどうして長秋宮様のお慈悲が得られると思ったのか、理解しかねるところはございますが、だからと言って誣告反坐の原則を適用し、家族もろとも大逆不道とされるのは、わたくしも寝覚めが悪うございます。どうか、寛大なご処置をお願い申し上げます」
陰麗華が頭を下げるのを見て郭聖通が面白くなさそうに眉を寄せた。
「……あなたは本当に、お人よしね。でもね、この件において、あなたまさか、自分がただの被害者のつもりでいるの?」
その言葉に、陰麗華が目を見開いて郭聖通を見る。
「はい?」
郭聖通は妖艶に微笑んで、高価な紅をさした赤い唇を動かした。
「この人をここまで追いつめたのは、要するにあなただわ」
「……わたくしが?」
「ええそうよ。陛下のご寵愛を独占しながら、実は陛下を拒み、もちろん、子を産むこともない。そんなあなたに陛下は夢中で……こんな理不尽があるかしら? 閨を拒むならば、お褥下がりを申し出るとか、方法もあるはずなのに、何もせずに陛下のご寵愛の機会を無駄にした」
「――わたくしも陛下にはお願いしておりますが、お許しが出ないのです」
はっきり言い切った陰麗華に、郭聖通が我が意を得たりとばかりに微笑む。
「ならば――これは、絶好の機会ではないかしら?」
「絶好の機会?」
目を見開く陰麗華に、郭聖通がゆったりと頷く。
「ええそうよ? あなたの指示で二宮人を害したと、言い出す女が出た。真偽のほどはともかく、彼女をここまで追い込み、後宮の秩序を乱した責任を取って、あなたがお褥下がりを願い出る。そうすれば、わたくしは皇后の権限でそれを認め、あなたに北宮の離宮を用意する。……どうかしら?」
提案の意味が理解できず、瞬きを繰り返して郭聖通を見つめる陰麗華に代わって、即座に趙夫人が喰ってかかった。
「お待ちくださいませ。貴人の進退は長秋宮の独断で決められることではございません。陛下のご意向をお尋ねしてから――」
「でも、清涼殿の方はもう、陛下のお相手をしたくない。なのに陛下は手放してくださらない。ならば、代わりに皇后のわたくしが、あなたを自由にして差し上げようと言うのよ。後宮の乱れに心を痛めた優しい清涼殿の方は、自ら身を引いて北宮に退去する。あなたの意志だと言うなら、わたくしは認めざるを得ないわね? 違うかしら」
「しかし、それは――」
あまりの展開に、陰麗華が茫然と郭聖通を見つめる。たしかに、北宮への退去は陰麗華自身が望んだことではある。だがそれを、皇后・郭聖通の権限で文叔を通さずに成し遂げるなんてことが、果たして許されるのか。
「折しも、許宮人は無事に皇子を出産したわ。このまま美人に昇格するはずよ。……でも、おかしいと思わない? 男児を産んだ許氏がようやく美人で、女児を産んだ魏氏は宮人のまま。なのに、子供もおらず、陛下の思し召しすら拒んでいるあなたが、貴人だなんて。――唐氏じゃなくても、不公平だって思って当然よね?」
陰麗華が返答もできずに郭聖通を見つめる中で、郭聖通はさらに妖艶に微笑む。いつものように、優しく穏やかなのに、陰麗華の心に毒を注ぎこむような、冷たい言葉。
「このまま、あなたが後宮で寵愛を独占し続ければ、きっとまた、第二第三の唐氏が出るわ。今回、幸いにも、誰も命を奪われなかったけれど、次はどうかしら? 次こそ、罪のない赤子の命が奪われるかもしれない。あなたが、後宮の秩序を乱している限り、ずっとこれが続くのよ?」
「そんな……ことは――」
「あなただって、解放されたいと思っているのでしょう? 簡単なことよ。わたくしが認めれば、あなたは自由になれるの。陛下はお怒りになるでしょうけれど、無理に覆せば世論の批判は必定ね――」
しかしその時、突如、長秋宮の南側――前朝に近い方――からざわめきが聞こえてきた。
「皇帝陛下のご出御――」
よくとおる宦官の、独特の抑揚のある声に、陰麗華も郭聖通もハッとする。見れば黒い直裾袍に紺の褶衣を羽織り、劉氏冠を被った皇帝・劉文叔が、大股で回廊をやってくるのが見えた。背後には建義大将軍の朱仲先と、右将軍の鄧仲華がつき、黄門侍郎の陰君陵と郭長卿の二人が先触れとして、速足で殿上に駆け上がってきた。
「陛下のご命令です! 宮女とはいえ、死罪に関わる罪人の詮議は皇帝の専権事項。皇后にその権限はない、即刻停止するようにと!」
「まさか――陛下が今、こちらに?」
呆然とする郭聖通を手で制して陰君陵が指示を出せば、皇帝の近侍の小黄門が走って唐氏を両脇から押さえる。
「離して! あたしは、あたしは悪くないの!」
「許しなく喋るな! 陛下の御前である!」
「ああ! 陛下助けて! あたしは陛下のことがっ!」
「黙れと言っている!」
殿庭の喧騒を無視して、殿上に登ってきた文叔は、郭聖通をギロリと睨みつける。
「罪人の詮議は皇后の権限を越えている」
「しかし、事は後宮のことでございますから――」
「掖庭内の犯罪については掖庭令と永巷令が取り扱い、この二つは官署は少府の管轄下、つまり皇帝の直属となる。たとえ一官婢の命であっても、生殺与奪の大権は皇帝、ただ一人に属すのが原則だ。まして嬪御を勝手に処罰するなど、皇后と雖も許されぬ」
厳しい表情で郭聖通を咎め、獄吏に命じて少府の管轄下でもう一度取り調べの上、司隷校尉に上申するように命じ、唐氏を引っ立てて去らせる。唐氏が引きずられながらも何やら喚いている声が遠ざかってから、文叔は陰麗華を見た。
「それで、遠目には長秋宮が陰貴人を責めているように見えたが」
「畏れながら申し上げます」
横から口を挟んだ趙夫人に、文叔が頷く。
「よい、発言を認める」
「ありがとうごいます。長秋宮様におかれましては、唐宮人を追い詰めたのは陰貴人であるから、責任を取って北宮に退去すべきであると――」
その言葉に、文叔がガンッと拳で脇息を打ち付ける。
「言語道断である! 陰貴人は朕の最愛の貴人。それを、皇后が勝手に北宮に追い払うか!」
「陛下わたくしはただ――」
郭聖通が慌てて両手をつき、頭を下げる。
「ただ、なんだ?」
「陰貴人もそれをお望みであると。陰貴人は寵愛を独占しながら子も孕まず、このままでは針の筵。子も孕まぬ陰貴人お一人が寵愛を独占する状況では、後宮の恨みは深まるばかり。――ですから――」
文叔の瞳がすっと細められ、もう一度ガンッと脇息を叩くと立ち上がって言った。
「なるほど。要するに、陰貴人が孕まねば、後宮が秩序は乱れたままということだ。――ならば、朕の為すべきことは一つ。――陰貴人!」
成り行きが理解できない陰麗華は、鋭い声で呼ばれ、びっくりして顔を上げる。
「は、はい――」
「却非殿に戻る。そなたも参れ。――今後、子ができるまで、陰貴人は朝請に出る必要はない。朕もまた、陰貴人が孕むまでは、他の嬪御を御寝に召すことはせぬ」
「なっ……!!陛下! それはどういうことでございますかっ……」
郭聖通の制止も聞かず、文叔は乱暴な足取りで壇上から降りると、視線で陰麗華に付いてくるように命じる。陰麗華は周囲を見回して、小さく首を振った。
「……陛下、お待ちくださいませ。わたくしは……」
「そなたは朕の貴人だ。ならば貴人の役割を果たせ」
文叔は冷酷に告げると、陰麗華の細い手首を掴み、引きずるように長秋宮を退出した。
まだ、陽の高い時刻だと言うのに、文叔は陰麗華を房に引きずり込むと、「呼ぶまで誰も入るな!」と命じて、ピシャリと木戸を閉めた。高い位置にある格子窗から光は差しているが、土壁に囲まれた部屋は薄暗い。木戸の向こうでワン、ワン、と柳が吼えていたが、まもなく陸宣か誰かによって遠くに連れ去られたらしく、静かになった。
文叔は乱暴に褶衣を脱ぎ捨てると、佩刀をもどかし気に外し、帯を解いて直裾袍も脱ぎ、白い絹の襦衣だけになる。陰麗華は何が起きたのか理解できず、ただオロオロと周りを見回すのみだった。そのうちに、文叔は顎紐を解いて冠も外し、そのまま髷も解いてバサリと黒髪を下ろし、被髪になる。そうして陰麗華に向き合うとゆっくりと近づき、陰麗華の褶衣を脱がせ、肩を抱くようにして帳台の中の、牀に座らせる。
「へ、陛下……今はまだ……」
「僕は十分待った。すべて君のためだったが、それが君の立場をさらに追い込む結果になった。……もっと早くにこうしておくべきだったんだ」
文叔が陰麗華の曲裾深衣の帯に手をかけたのを見て、陰麗華が悲鳴を上げる。
「待ってください……! 嫌……お願い……」
「もう待たない。僕は今から君を抱く。――たとえ、君が壊れたとしても」
文叔が陰麗華の帯を引っ張り、曲裾深衣の襟を寛げ、肩から滑り落とすと、そのまま肩を押して臥牀の褥の上に陰麗華を組み敷く。上から覗き込む黒い瞳に、陰麗華の恐怖心が目を覚まし、必死に首を振り、両腕を突っ張って抵抗を試みるが、文叔の身体はびくともしなかった。
「いや、お願い……!怖いのっ……」
身を捩る陰麗華の、耳璫に通した糸が切れ、垂珠の真珠が飛び散る。
「麗華、僕を見ろ。……今から君を抱くのは、君の夫だ。何も畏れることはない」
「いや、怖い! いやっ……違うっ! もうあなたは夫じゃ……」
言いさした陰麗華の言葉を遮るように、文叔は陰麗華を臥牀に押し付けて、かみつくように唇を奪った。
圧し掛かる大きな身体の重みが、陰麗華の恐ろしい記憶を呼び覚まし、両の目尻から涙が零れ落ちる。
「やめて……お願い、いやっ……」
陰麗華は両腕で文叔の胸を押しやり、何とか逃れようと首を振る。
「僕がもう、君の夫でないと言うなら、いったい僕は君の何だ?」
押さえつけられた状態で、上から覗き込んだ文叔に問われ、陰麗華が涙に滲んだ瞳で見上げ、掠れた声で言った。
「……あなたは、皇帝、陛下……です。わたしが、貴人としてお仕えする――わたしはもう、あなたの妻じゃない。わたしは――」
「君はもう、僕に対して妻としてではなく、皇帝の貴人として仕えていると言うなら、なおさら拒むことなど許されない。僕に抱かれ、僕の子供を産む。これが君の貴人としての責務だろう」
それは、確かにその通りで、しかし陰麗華の、最後の心の砦を打ち砕く言葉だった。
文叔を受け入れられないのは自分の弱さだと、わかっていた。それが許されないことだと言うことも。
でもだからこそ、無理を承知で行為を強いないでいてくれる、文叔の優しさが最後の最後の糸だった。
身体の関係がなくとも、貴人の役目が果たせなくとも、ただ隣に眠り、たわいない話をする。そんな関係が、文叔に愛されているという、陰麗華の最後の信頼のよりどころだった。
抱かれたら、正真正銘、『妻』ではなくなってしまう。
ただの後宮の女になって、皇帝の寵愛を競う有象無象の一人になってしまう。
夫婦ではなくて、皇帝とその貴人という主従関係に堕ちてしまう。
「お願い、お願い……怖いの……」
だが文叔はもう一度、陰麗華の唇を唇で塞ぎ、陰麗華の懇願を封殺した。心衣の紐が解かれ、剥ぎ取られて、肌が外気に触れるのを感じる。文叔の体重が石のように陰麗華の自由を奪い、押し潰していく。
「愛してる。たとえ君の心が砕けてしまったとしても、僕は君を手放すことはできないんだ。愛してる――君は僕のものだ、永遠に――」
辛うじて解放された唇からは、もはや悲鳴すらも零れることはなかった。
*1 誣告反坐
人を誣告した場合、その誣告した罪の量刑で罰せられるという原則。
張家山漢墓出土『二年律令』告律126簡に、「誣告人以死罪、黥為城旦舂。它各反其罪。」(人を死罪で誣告した場合は、誣告した者に刺青の上、労働刑に処す。死罪以下の罪の場合は、それぞれ、その誣告した罪の量刑で罰する。)とあり、前漢最初期の場合でも死罪を誣告した場合はそのまま「反坐」にはならなかったようだが、細かい量刑のことなど陰麗華も趙夫人も知らなくて、ただ「誣告はその罪を返す」という原則だけは広く知られていた、という設定です。「誣告反坐」の原則は唐律にも見え、漢代一貫して変わらなかったと思われる。
*2 大逆不道
謀反を企むレベルの反逆罪。『漢書』景帝紀の如淳注によれば、「律、大逆不道、父母妻子同産皆棄市」(律によれば、大逆不道は、父母妻子兄弟はすべて連坐して死罪に処される)。大逆不道罪の本人は要斬刑(腰を切断する処刑方法)。「棄市」は死罪のこと。死刑執行は市で衆人環視の場で行われ、その後死体を晒すためにこう呼ばれる。
どうなると「大逆不道」罪なのか、研究があったはずだけど内容忘れたし、面倒くさいので……。
*3 原心定罪
漢代には律令を解釈するにあたり、「春秋の義」や儒教経典の理論を援用することがあった。その原則の一つが「原心定罪」(心を原ねて罪を定む)である。犯罪を犯すに至った心情や目的を探り、情状酌量の余地を認める(逆に、狙いが邪であれば、重い量刑で裁くこともあり得た)。
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ここで巻之二が終了です。
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