表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十二章 雲漢 天に昭回す
80/130

凶行

 建武三年(西暦二十七年)五月、文叔は、河北の常山太守だった鄧偉卿とういけいを雒陽に呼び戻した。亡き姉・劉君元の夫であり、挙兵以来の仲間でもある鄧偉卿は、しかし叛乱を起こした鄧奉(少君)の叔父で、さらに陰麗華の母方に連なる親類である。却非殿後殿の私的な謁見を行う堂で、陰麗華を含めて親類同士が数年ぶりの対面を果たした。


 「偉卿おじさま、お久しぶりです」

 「ああ、麗華嬢……いや、陰貴人様とお呼びするべきか。元気そうで何よりです」

 「そんな他人行儀な。昔のようにお話しくださいませ」


 河北の寒風に曝されて、鄧偉卿の顔は精悍さを増していた。隣には、鄧偉卿の長子、鄧汎。彼は呉房侯に封ぜられて、亡き母、新野節義長公主の祭祀を受け継ぐことが決まっている。その場には騎都尉の陰次伯と黄門侍郎の陰君陵。文叔の妹、寧平長公主の劉伯姫とその夫の衛尉の李次元、遠縁の右将軍・鄧仲華、建義大将軍の朱仲先と、本当に親しい者たちだけでこじんまりとした宴席を囲み、久闊きゅうかつを叙した。


 「甥の……少君については誠に申し開きもなく――」


 神妙に頭を下げる鄧偉卿に、文叔は苦笑いして手を振る。


 「ああもう、その話はいいんだ。僕――私も、彼の命だけは救いたいと思ったが、周囲に押し切られた。情けない。皇帝だの天子だの言ったところで、何一つ自分の思う通りにはならない」

 

 溜息交じりに言って、ちらりと陰麗華を見たが、陰麗華は文叔の隣で、皆のために干し肉を細かく割いて、表情は変えない。


 「しばらく、義兄にいさんには雒陽で骨休めしてもらいたい。なんなら、後添いを見つけても――」

 「それはおいおい、ということで。俺もまだ、そこまで吹っ切れてはいませんよ」


 鄧偉卿が河北から持ってきた酒を啜りながら言う。河北の中山国で醸造する、「中山冬醸」という醳酒えきしゅが、文叔のことに気に入りの酒だからだ。


 小長安の戦いで、鄧偉卿は妻と三人の娘を失った。家族を失った痛みは、そう簡単には消えない。


 「……麗華嬢も、次伯も、済まなかった。媒酌人でありながら、情けない」

 

 鄧偉卿が何について謝罪しているのか気づいて、陰麗華はハッとして、手にした干し肉を皿に戻し、両手で胸を押える。


 「いえ、小父様――そのことはもう。終わったことですから」


 そんな陰麗華の言葉に、文叔が傷ついたような表情で顔を歪める。その様子に、二人の間に横たわる深い溝の存在を見抜いて、鄧偉卿はわずかに眉を顰めたが、口に出しては何も言わなかった。




 鄧奉の叛乱討伐の後、皇帝・劉文叔は雒陽に帰還したが、諸将は依然、関中から南陽に大軍を展開して討伐を続けた。四月には征西将軍の馮公孫が関中で延岑えんじんを破り、延岑は関中にいられなくなって南陽へと逃れた。そして六月、南陽に残った建威大将軍の耿伯昭が、延岑を穣県で大破した。征南将軍の岑君然しんくんぜんは南陽で秦豊らを討伐し、関中から南陽の平定は着実に進んだ。

 

 停滞していた統一事業が一気に流れ始めた七月。雒陽の後宮では、ともに臨月を迎えていた許宮人と魏宮人が、散策中に池に落ちる、という信じられない事件があった。


 「……池に?! 二人とも?」


 陰麗華が絶句し、同様に話を聞いていた趙夫人も眉を顰める。


 「どういうことなの」


 詳しい説明を求める趙夫人に、陸宣が恐縮して頭を下げる。


 「それが――先に池に落ちた許宮人を助けようとした魏宮人が、さらに突き飛ばされまして――」 

 「突き飛ばされた、ですって?」


 陰麗華は息を飲み、心臓がバクバクして声も出ない。趙夫人がさらに尋ねる。


 「それで、二人ともどうなったの?!」

 「はい、幸いにも池の水は浅く、またこの季節でございますから、水もそれほど冷たくはなくて……普通であれば命にかかわるようなこともないのですが、何しろ妊婦でございますので、即座に中黄門らが飛び込んでお救い申し上げました。しかし、とりわけ魏宮人には衝撃も大きく、少し早いながらお産が始まってしまいまして――」

  

 後宮には産婆や女医も多くいるので、陸宣は万一の際の控えとして待機中であるが、かなりの難産であると言う。


 「なんてこと――」


 陰麗華が真っ青な顔色で口元を覆う。


 「雪香――許宮人はどうなの?」

 「はい、許宮人は水も飲んでおらず、しかし念のために医の心得のある中黄門が側についてございます。問題が発生すればすぐに小官もそちらに走る予定にしておりますが――」

 

 趙夫人が柳眉を逆立てて心配そうに頷き、隣に座る陰麗華の震える背中を撫でた。


 「……突き飛ばした者は、捕まえたの?」

 「はあ――それが……周囲の証言から、唐宮人であると……」

 「!!!」


 陰麗華がさらに息を飲み、普通には座っていることもできないほど動揺して、ガタガタ震え始める。

 

 「大変、麗華ちゃん、真っ青よ!……小夏、曄、陰貴人様をしんしつにお連れして!」


 趙夫人の指示で二人の侍女が陰麗華を寝室に連れて行き、陸宣や趙夫人も場所を移すことにした。中黄門にも手伝わせて陰麗華を牀に横たえさせ、陸宣は手早く気付けの薬を煎じる。ついでに効果の穏やかな薬湯を趙夫人にも淹れて、声を潜めるようにして、後宮の変事を陸宣が語った。


 「どうもその、唐宮人はこの六月くらいから、精神的にも追い詰められておりましたようで、奇行が目立つと申しますか、表情なども普通ではなく、小官らも注意はしていたのでございます」


 三人の嬪御のうち二人は孕んだのに、唐宮人だけは相変わらず「手つかずの嬪御」のままで、後宮内の嘲笑の的になっていた。郭皇后は一人だけ寵愛のないことを重く見て、皇帝に対して唐宮人の元にも通うように意見したが皇帝は聞き入れず、結局、お渡りはないままである。

  

 「長秋宮におかれては、そろそろ新たな嬪御を、と八月の算人を睨んで主上おかみと話し合いを始めているとの、もっぱらの噂でございます。同輩の二人が出産し、男児であれば美人への昇進も視野に入りますし、その上新たな采女さいじょ・宮人の選定となりますと――」

 「確かに想像するだに針の筵よね……」


 趙夫人が眉を寄せたまま頷く。


 「でも、どうやって池に落とすなんてことを?」

 「はい。元気ならば、出産の前はある程度運動した方がお産は軽くなります。お二人の宮人はどちらも健康には問題なかったので、小官も、担当の女医も散策を勧めておりました。ですからお二人は午前中の涼しい時間に、掖庭宮に近い池の周りを歩くのを日課にしていらっしゃいました」


 境遇のよく似た許宮人と魏宮人は仲が良く、中黄門や下婢の警護の上ではあるが、日中のほとんどの時間を共に過ごしていたという。


 「そこへ、普段は近づくこともない唐宮人がやってきたので、周囲の者も警戒はしていたようでございますが、まさか池に落とすようなことは想像もせず――」

 

 池の中に何かがいると言って、唐宮人が指すのを許宮人を池の端から覗き込んだ時、たまたま水草が張り出すようになっていたのに気づかず、そのまま足を滑らせた。隣を歩いていた魏宮人が咄嗟に手を伸ばしたところを、唐宮人が背後から力いっぱい押して、魏宮人はかなり激しく水に落ちたのだと言う。とにかく二宮人を助けなければと、大騒ぎになる中で、唐宮人の姿はいつの間にか消えていたというが、しかし証言もあって掖庭宮の奥にいるのを捕らえられ、現在は大長秋らが事情を聴いているという。


 「なんてことでしょう……」

 

 趙夫人が痛まし気に眉を顰め、溜息をつく。


 「確かにすこしばかり、気の毒な境遇ではあったけれど。でもまあ、自業自得ではあるわよねぇ」


 寵愛はなくとも他の二宮人と良好な関係を築けていれば、ここまで追いつめられることはなかった。しかし、もともと器量自慢だった唐宮人は、最初から他の二人や同輩たちに対する態度が悪かった。嫌がらせは過熱し、どんどん、追い詰められる一方だったのだ。


 「どうなるのかしら、彼女……」

 「はあ……皇帝の子を孕んだ嬪御を故意に害さんとしたわけですし、魏宮人のお産の行く末によっては――」


 もし、難産で魏宮人や赤子の命が失われるようなことがあれば、極刑は免れまい。


 「……()()陛下のご寵愛が得られなかったからって、赤子を殺そうなんて、ちょっと理解できませんよねぇ……」


 落ち着いて眠りに入った陰麗華にかけぶとんを着せ掛けてから、小夏が帳台から出てきて言う。曄も形のよい眉を顰め、不安げに眠る主人と仲間たちを眺めている。


 「……本当に、掖庭こうきゅうって恐ろしい場所でございますね……」

 「そりゃあ、一人の男を何人もで取り合うわけだからねぇ……」

 

 趙夫人も溜息をつく。しかもその寵愛を得さえすれば、この世界で一番の贅沢が手に入るのだ。出世欲にかられた女にとっては、垂涎の恩寵に違いない。


 二人の宮人の容態は心配ではあったが、その時点では陰麗華の周囲ではまだ、他人事であった。





 

 結局、魏宮人は丸二日陣痛に苦しんで、ようやく女児を産み落とした。出産後の状態はあまりよくはないが、ひとまず母子ともに生きているという。その数日後に、許宮人も男児を出産し、こちらは安産であった。

 

 他の女が文叔の子を産んだ――本来なら、きっと耐え難いほど苦悩したに違いないのに、直前に起きた凶行のおかげで、陰麗華はただただ、無事な出産に胸を撫でおろした。鄧少君の死からこのかた、文叔から敢えて距離を取ろうとしてきたことも、陰麗華に心の余裕を与えているのかもしれない。

 心の奥底が痛まないわけではないが、ここは後宮で、自分は皇帝の貴人だと思えば、悩むだけ無駄なこと。後宮第二の地位にある者としては、めでたく皇帝の子を出産した二人に祝いの品を送ったりと、すべきことはいろいろある。

 

 「長秋宮様はどうしていらっしゃるの。やはり、お見舞いもあちらが済んでからの方がいいのかしら」


 皇后の顔を立て、出産祝いの品も皇后に失礼のないようにと趙夫人らと相談して、絹の反物を贈る。

 男児を産んだことで、雪香は美人への昇進も見えてきたが、何しろ生まれたばかりの赤子も、そして産褥にある産婦もまた、何かのきっかけで容易く命を落としてしまう儚い存在である。せめて無事に育つように、何か縁起物でも贈った方がいいのかと、陰麗華が言えば、しかし趙夫人はバッサリと切り捨てた。


 「やめておきなさいな。薬やら酒やら贈った後で、あちらに何かあったら、何を言われるかわかったものじゃないわ。特に赤子の口に入りそうなものはダメよ」


という訳で、考えたあげくに、雪香には特に、陰麗華が自ら刺繍した赤子の腹掛けを持たせたところ、丁寧な礼があった。


 二人の宮人が池に落ちてから数日、突然、大長秋が中黄門を遣わし、臨時の朝請を開くから長秋宮へ来るようにと告げた。


 嫌な予感はしたが、陰麗華の立場では断ることもできない。おそらく、唐宮人への処分に関わるのだろうと、陰麗華は急ぎ支度をして、長秋宮に向かう。


 長秋宮は異様な雰囲気に包まれていた。


 陰麗華がいつもの位置に立つと、郭聖通が背後の大長秋に何かを囁く。と、殿庭の向こうの回廊から、みすぼらしい灰色の服を着た唐宮人が、両手を後ろ手に縛られた状態で、宦官二人に引っ立てられるように出てきて、殿庭に膝をつかされる。


 「……清涼殿の方もお聞き及びと思うけれど、あってはならないことが起きてしまいました。こともあろうに、陛下の御子を宿した嬪御を二人も、池に落として亡き者にしようとするなんて。恐ろしいことと思わなくて」

 「ええ……もちろんでございます」


 陰麗華が睫毛を伏せて頭を下げる。


 「唐宮人――いいえ、もう宮人の身分は剥奪したので、ただの唐氏よ。この女がなぜそんなことをしたのか、きちんと聞かねばならないと思い、この場を設けましたの」


 頭を下げた状態で、陰麗華は密かに眉を顰めた。

 同輩の妊婦を池に落とした女の気持ちなど、聞きたくはない、というのが陰麗華の偽らざる気持ちだった。

 だが郭聖通は、いつも通りの柔らかな真綿にくるんだ中に針を隠し持つような声で、陰麗華に告げた。


 「唐氏はね、あなたの指示でやったと言っているのだけど」

 「はい?」


 郭聖通の一言で、長秋宮が震撼した。思わず殿庭にひれ伏す唐宮人を見下ろせば、女は髪を振り乱し、憎しみに満ちた黒い瞳で爛々と陰麗華を睨みつけている。


 「……わたしが? どうやって? 話をしたこともありませんのに」


 思わず両手で胸を押えて言えば、唐宮人が金切り声で叫んだ。


 「アンタが! アンタが悪いのよ! アンタが自分は子供を産めないくせに、寵愛を独占して! あたしはアンタのためにやったのよ! アンタの代わりにあいつらを殺して、子供もろとも葬り去ってやろうとしたんだから!」

 

 顔色は青ざめ、表情はまるで幽鬼のようで、器量自慢だったかつての面影はない。ただそこには恨みと妬みと憎しみにかられ、同じ地獄に陰麗華を引きずり込んでやろうとする、醜い生き物がいるだけだった。


 陰麗華が黒い瞳を見開き、尋ねた。


 「……わたくしが命令したと、彼女は申し立てているのですか? でも調べていただけばはっきりすると思いますが、わたくしが雒陽に戻ったのは五月。その後、朝請でこちらの長秋宮に伺候する以外では、唐宮人とは顔を合わせてはおりません」


 陰麗華の住む却非殿の後殿に赴くには、皇帝からの特別な許可が必要で、下婢に至るまで全員、符(通行証)を支給されて腰に下げている。雪香はかつてはその符を持っていたが、宮人になった時に返上している。陰麗華の部屋には後宮の主とも言うべき、皇后・郭聖通すら立ち入ることは許されないのである。そこに唐宮人を呼び出すとなれば特別な手続きが必要となり、すぐに周囲に筒抜けである。


 また、皇帝の寵愛を一身に集める陰貴人は、やはり後宮内で最も注目を浴びる存在である。何せ、皇帝が片時も離さず連れ歩くから、後宮にいることも少ない。その彼女が却非殿を出る場合、大抵は却非殿に近い庭園で皇帝の膝に抱かれていちゃついていたり、また別の花苑で盛りの花を見ながら皇帝を膝枕していちゃついていたりと、目のやり場に困ることしきりであった。用がなければそんな場所には近づかないに限ると、陰貴人の出かける場所はどこどこ、と後宮内に噂が回るようになっていた。そんな陰貴人が、後宮内のどこかで唐宮人と会ったりしたら、誰かの口の端に上らないはずがないのだ。


 陰麗華の困惑したような問いに、郭聖通も余裕のある笑みを返し、それから大長秋の孫礼を見た。孫礼は頭を下げてから言う。


 「はい。たしかに、陰貴人様の足取りは全て把握しており、唐宮人と会見した形跡は認められません。ですが……」


 言い淀む孫礼に、趙夫人が横から口を出す。


 「なるほど、他の者が代わりに命じた可能性までは否定できない、ということね? もちろん、あたくしの行動も把握済み、というわけね?」


 孫礼が気まずそうに頷き、言った。


 「はい。趙夫人の行動も調査いたしましたが、唐宮人との接触の形跡はございません。……そもそも、主上おかみが後宮を留守にされている間は、湖陽長公主様の入宮と、そちらへのご訪問がございまして、唐宮人と会っている暇など、見受けられませんでした」


 エネルギッシュな趙夫人は、後宮でぼんやりしているのが性に合わないので、ちょくちょく、息子たちを連れ、同じく自由人で未亡人の劉君黄と、雒陽の市街に遊びに出ていたのだ。劉聖公の息子たちは、雒陽政権にとっては野放しにできない存在だから、当然、彼らには()()という名の()()がついている。趙夫人の行動もまた、政権中枢に筒抜けで、趙夫人はそれを承知の上で、面白可笑しく暮らしているのである。唐宮人に命じて後宮をかき回すような、陰謀など巡らす隙間も、暇もない。


 「侍女よ! 侍女があたしの部屋までやってきて、それで――」

 

 唐宮人が後ろ手に縛られた身体を捩るようにして、叫ぶ。陰麗華の背後の控える二人の侍女、小夏と于曄に、周囲の注目が集まる。主の陰麗華が妙な言いがかりをつけられた時点で、すでに小夏はカンカンに怒っていて、今にも殿庭に飛び降りて、唐氏に飛びかかって襟首をつかんで締め上げそうな勢いである。それが名指しされてさらに激昂する。


 「ふざけないで! アンタの部屋なんて、どこにあるかすら知らないわよ! この雌豚メスブタ、言うに事欠いて――」

 「小夏、落ち着いて!」


 隣の冷静な于曄が懸命に押さえているが、口までは塞ぐことはできなかった。


 「静粛に! 勝手な発言は許しておらん!」

 

 大長秋の孫礼が重々しく小夏を叱りつけ、小夏が不承不承、拳を握り締めて唇を噛む。

 趙夫人が孫礼に尋ねた。


 「どの侍女が、いつ、どこで、何をどのように命令したのか、これが明らかでなければ。それに証拠や、少なくとも証人は必要でございましょう?……仮にも貴人を告訴するのですもの」


 ねえ、と趙夫人が殿庭の唐氏を見れば、唐氏は今度はザンバラ髪の下から趙夫人を睨みつける。


 「その! さっきの喧しい侍女よ! 名前なんて知らないわ、陰貴人の腰巾着だし。……場所は、あたしの部屋よ。日付は……日付までは憶えてないわ。突然だったし……」

 「それを、証言できる者はいるのかしら?」


 趙夫人の問いに、唐氏は憎らし気に言う。


 「ちょうど、あたしが一人の時に来て、すぐに帰ったから、そんなのいるわけないでしょう!」


 その言葉に、郭聖通は困ったように眉尻を下げる。


 「孫礼、これでは証明できないわねぇ」

 「はい。一応、掖庭宮の、唐宮人の部屋の周囲に出入りする者も証言は集めましたが、小夏と申す、陰貴人の侍女が出入りした、という証言もございません」


 孫礼が言い、つまりはこの件は唐氏の戯言ざれごとで片付けられそうになった時、しかし唐氏が叫んだ。


 「でも命令されたのよ、あの女に! 何でもいいから、二人の宮人を殺して赤子を始末しろって!」

 

 その言いざまに、陰麗華が思わず胸を押えて目を閉じる。――陰麗華にとって、妊娠も出産もある種のトラウマだ。他の妊婦を攻撃するなんて、想像しただけで恐ろしさで気が遠くなりそうだった。しかし、その様子を見た郭聖通が面白そうに言う。


 「……何か、身に覚えがあるの、清涼殿の」

 「まさか! 妊婦に危害を加えるなんて、恐ろしいこと!想像しただけで震えが……」


 真っ青な顔色の陰麗華を気遣うように、掖庭令の陸宣が言う。


 「畏れながら……陰貴人様におかれましては、赤子を失ったことがございます。それが心の傷になっておられるので、あまりにあからさまな表現はお慎みいただければと存じます」

 「自分が亡くしたからって、他人の子も殺そうとしたのよ! そうでしょ!」


 唐氏のその発言に、殿上の陰麗華がキレた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
web拍手 by FC2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ