指環の約束
劉文叔が常安の太学から戻ったのは、天鳳六年(西暦十九年)のこと。あの日の約束通り、文叔はすぐに、鄧偉卿を媒酌に、陰家に結婚を申し込んだ。――しかし、二人の婚約は簡単には成立しなかった。
一つには、家格の差。陰家は南陽でも最大クラスの富豪で、一方の文叔は元の舂陵侯家の分家の、さらに三男坊である。財産は分割相続が基本であるが、分散を恐れて分家しないことも多い。文叔の家は父親が早くに死んだこともあって、叔父の劉次伯の家と分家しないままだが、それでも陰家に比べれば微々たる土地しか所有していない。
それでもかつては、舂陵侯家の一員であるという、皇室に連なるステイタスがあった。だが天命は劉氏から王氏に移り、舂陵侯の封爵は没収された。そうなると、南陽でもゴロゴロいる普通の金持ちの、末端に近い分家の三男。――鄧偉卿の説得にも拘わらず、母の鄧夫人は首を縦に振らない。せめて、なにがしかの官職にでも就けば――。
だが、そもそも前の舂陵侯家は当主の劉巨伯からして、生涯にわたって出仕が禁じられているのである。文叔の叔父も県令の職を免じられて故郷に戻ってきた。現在の王氏政権の下で、彼ら劉氏が官界で出世する見込みは、ほぼない。
そして一方の陰麗華は、南陽でも指折りの大富豪の娘で、美少女だとの噂が郡内に轟きわたっていた。十五歳で笄を済ませた今、結婚の申込が降るようにある。数ある婿候補の中で、敢えて劉文叔を選ぶ理由など、何もなかった。文叔との、あの約束以外には。
約束のことなど知らない母、鄧夫人は、偉卿の手前遠回しの断りの返事を入れたが、劉文叔はめげなかった。その場は引き下がっても、数か月後には思い出したように求婚に訪れた。陰麗華の方も、劉文叔以外の申込には頑として首を振らないまま、一年が瞬く間に過ぎ、年号も地皇元年へと改まったことで母も観念したのか、陰麗華にいくつかの約束をした上で、劉文叔との交際を黙認することにしたようだ。
二人きりで会わないこと。節度は守ること。
隣の鄧偉卿の家――陰麗華は偉卿の妻、劉君元から刺繍を習っていた――に出かけていく麗華を見送り、鄧夫人は溜息をついた。
「……全くねえ。何だって、あんな男がいいのか」
鄧夫人の呟きに、横に控えていた侍女の増秩が微笑んだ。
「誠実で働き者だと評判ですよ。わたしは悪くないと思いますけどねぇ」
「まあね。でも何て言うのかしら、キレイな顔の裏で何を考えているか、わからない男に見えるわ。別に、陰家の財産目当てってわけでもないんでしょうけどね」
鄧夫人は遠ざかる娘と、お付の侍女の曄の後ろ姿を見やる。
「でも、あの家は長男が放蕩者で、次男は病気がち。三男の文叔殿の働きで支えているって、もっぱらの噂ですけどね。せっかくの稼ぎを長男が食い潰してしまいそうだとか……」
任侠を気取った兄と、生真面目で働き者の弟。英雄を彷彿とさせる兄と、それを支える弟。舂陵の劉家の兄弟の評判はそんなものだ。だが、何かの折に偉卿を通して紹介された劉家の兄弟を見た時、鄧夫人はなんとも言えない妙なざわめきを感じたのだ。上手くは言えない。よく晴れ過ぎた日に、なんとなく豪雨に降り込められそうな、嫌な予感がする、そんな気分を思い出させる男だ。
本当に嵐を引き起こすのは、こちらの弟の方ではないのか。一見、兄の引き立て役のようなふりをして、実は弟こそ兄を隠れ蓑にしているのではないのか。――本人に、その自覚があるのか、ないのかは知らないが。
「そうねぇ……このまま、世の中が動かなければ、ああいう男がいいのかもしれないけれど……」
鄧夫人は邸の軒先から晴れた青空を眺めた。白い雲が、かなりの速さで空を横切っていく。――今日は天気の急変があるかもしれない。
「綿入れを押さえる刺し子は、針目の大きさに気を付けて。細かさもだけれど、大きさが揃っていないと、見た目がよくないわ」
冬の厳しい寒さをしのぐため、衣類に綿を詰め、刺し子で綿を押さえる。古くなった布は接ぎ合わせて刺し子を施し、仕立て直して、布がボロボロになるまで使い倒す。たくさんの家内奴隷を抱えた豪家の女主人も、家族のために、また楽しみの一つとして、自ら針を運ぶのは珍しいことではない。女工は身分を問わず、女の嗜みである。ただどうしても向き不向きというものがあって、陰麗華の母は裁縫の類いが不得意で、繕い物等はもっぱら家婢の仕事であった。家婢たちは忙しくて麗華に教えている暇もないので、麗華は劉君元に習っているのであった。
やり方を一つ一つ劉君元に尋ねながら、陰麗華も慎重に針を運んでいく。
まっすぐ押さえるだけでもいいし、何か模様を刺してもいい。劉君元が見本に縫っているのは、夫・鄧偉卿の冬用の絮衣だった。素の粗い絹地に薄く真綿を詰め、やはり素糸で雷紋と呼ばれる文様を刺してある。
麗華の家にはお針子専門の家婢がいるから、もちろん兄の陰次伯の絮衣にも凝った刺し子が施されている。でも妻の劉元君が心を込めて縫った絮衣には敵わない気がする。
「必要なのは技術より根気ね。あと愛情……かしら?」
劉君元が微笑む。劉伯升の婚礼があった天凰元年(西暦十四年)から、劉元君はさらに二人の娘を生み、今また四人目の子を身籠って、腹はゆったりと丸く膨れている。
妊娠して自由の効かなくなった劉君元を手伝うという名目で、末の妹の劉伯姫が、時々鄧家にやってきている。この日も、絮衣を縫う二人の横で、伯姫は刺繍にするための図案を写し、糸を選んでいた。
「ねえねえ、どっちの色がいいと思う? この組み合わせはちょっと派手かしら」
「派手とかじゃなくて、色が合ってないわよ、伯姫。もうちょっと同系色で合わせるとかしないと、その朱色は浮きすぎよ」
横からのぞき込んだ劉元君が窘める。陰麗華も図案を見て首を傾げ、自分の手持ちの糸の中から、よさげな色をいくつか選んで、合わせてみる。
伯姫が刺そうとしているのは、二頭の神獣が向き合った、どちらかというと男性的な図柄だ。陰麗華はちょっと不思議に思い、伯姫に尋ねる。
「……それは、どなたかに差し上げるの? 伯姫が使うにしてはちょっと……」
伯姫は陰麗華より二つ年上の十八になるが、まだ婚約者が決まっていないはずだ。さらに長兄の劉伯升とは折り合いが悪くて姉の嫁ぎ先に入り浸っているくらいだから、兄のために刺繍をしようというつもりはなさそうなのだが……。
「あてはないけど、いつ相手が決まってもいいように、今から刺しておこうと思って」
「えええ?」
陰麗華が思わず眉尻を下げる。伯姫が少しばかり、頬を膨らませるようにして言った。
「……実はね、ちょっといいかなーって思ってた相手がいたんだけどさ……」
「……ダメだったの?」
「うん……」
伯姫が目を伏せる。
「なんかさー、好きな相手に縫ってもらったんだって刺繍の入った帯をね、文叔兄さんに自慢してたんですって。……ほら、あたしは刺繍が苦手で、やたら時間がかかるから、今から作っておけば、好きな相手ができてもすぐに渡せるかなって。そしたら、今度こそ、相手の心をバッチリ射止めてって――」
キラキラと目を輝かせる伯姫の夢見がちな様子に、陰麗華が視線を泳がせると劉君元の呆れたような表情と目が合った。
「……まあ、何事も練習だけどねぇ。そういうのは、相手を想いながらするからこそ、気持ちが籠るのよ?」
「好きになった相手が、そんな模様とか、色とか、全く似合わなそうな人だったら、どうするの?」
姉と友人に言われ、伯姫がぷうっと頬を膨らませる。
「だあってぇ! 文叔兄さんはともかく、伯升兄さんの持ってくる話って、無頼ばっかりなのよぉ?あの人はあたしのこと、自分の勢力を増やすための道具くらいにしか思ってないんだから! あたしは絶対に、伯升兄さんの言いなりの結婚なんてしないって決めてるの!だから元姉さんみたいに恋愛結婚できるよう、頑張ろうと思ってるのに……」
ぷりぷりと言う伯姫は、陰麗華を見てぽつりと言った。
「いいわよねー、麗華は。思う相手に思われて、さらに家族に反対までされちゃって。なんかこう、羨ましい!」
「……家族に反対されているのが羨ましいとか……ちょっと……」
陰麗華はさすがに返答に窮するが、あっさり許されて結婚に至っていないからこそ、劉文叔との結婚を余計に望む気持が高まるのだろうと、何となく納得した。――母が文叔からの申し込みを承諾すれば、十歳年上の文叔はすぐにも婚礼を挙げようとするだろう。でも、まだ十六歳の陰麗華は、結婚して子を産むということに対して、そこまで覚悟が固まっていない。
でも、嫁ぐならば、あの日、白水の畔で誓った、劉文叔のもとがいい。でも、もう少しだけは、気楽な娘時代を楽しみたい――そんな気分だった。
と、パタパタと軽い足音がして、中庭を突っ切って劉君元の上の娘が堂に走り込んできた。
「文叔おじちゃま来たよ!」
陰麗華はどっきりして、慌てて針を縫いかけの布に注意深く刺す。伯姫がニヤニヤと意味ありげに麗華の脇腹を肘で突っつくのを「やめてよ」と制し、牀の上で居住まいを正す。すぐに劉君元の下の娘を抱いた劉文叔が堂を覗き込んだ。
「ねえさん、久しぶり。……伯姫も、迷惑かけてないか? それから、陰麗華嬢も、お久しぶり。お稽古を邪魔してしまったかな?」
「よく来たわ、三弟。……あの人には会わなかった?」
「義兄さんなら庭で会ったよ。鄧汎にも。剣術の稽古の途中だったから、挨拶だけして、先に奥に通った」
姉弟妹の再会に水を差してはいけないと、陰麗華は稽古を切り上げて帰り支度をし、挨拶をして立ち上がる。
「ごめんなさいね、また来て」
「いいえ、こちらこそ、ありがとうございます」
「またね、あたしはしばらくこっちにいるから!」
劉姉妹に別れを告げ、部屋の隅に控えていた曄が後について堂を出て階を降りる。中庭で姪っ子二人を適度に振り回したり、高い高いしたりと遊んでやっていた文叔にも丁寧に頭を下げ、中庭を横切って行く。普段なら劉君元が大門まで送ってくれるのに、今日は誰も来ないのだな、と思っていると、背後から足音がした。
「陰麗華嬢、送っていくよ」
麗華が振り返ると、劉文叔が小走りに追いかけて来て、陰麗華と並ぶ。文叔の肩ごしに、叔父を追いかけようとする幼女二人を、伯姫と君元が捕まえている姿が見えた。伯姫と目が合うと、伯姫がにやっと笑って意味ありげに手を振った。
『ごゆっくり!』
そう言われているようで、恥ずかしくて俯いてしまう。だが文叔は何事もないように麗華の隣に寄り添って、自然に麗華の風呂敷包みを持つ。陰麗華も嫌ではないので、そのまま二人並んで歩き出した。
鄧家と陰家は敷地は隣り合っているが、特に陰家は大邸宅であるから、門と門はそれなりに離れている。二軒の門が面している道の反対側には細い渠が流れ、低い土手に柳の並木が植えられ、枝垂れた枝が風に揺れている。文叔は先に立って鄧家の大門を出、その土手に陰麗華を誘った。
「少し、話せる?」
陰麗華が一瞬、陰家の門を気にするようにちらりと見てから、こくんと頷いた。それで、文叔は陰麗華の手を引いて門前の道を渡り、緩やかな土手を少しだけ上って、柳の並木の間を抜けて土手を下る。陰麗華の足元に注意しながら土手の半ばまで降りて、腰に下げていた手ぬぐいを外して、柳の木陰の草の上に広げた。促されて、陰麗華が手ぬぐいの上に座ると、文叔もその隣の草の上に腰を下ろす。土手の裏側に座ってしまえば、陰家の大門からも、土手の向こう側からも、二人の姿を隠してくれる。――もちろん、曄は土手の上の柳の根本に座って、二人から目を離さなかった。
新野県の西北には湍水が流れ、その流れを東側に分割する形で西北の外れに坡が築かれ、農業用の陂池になっている。この陂池を挟んで二軒の鄧家――鄧仲華の家と鄧偉卿の家――があったので、故にこの陂池を鄧氏陂と呼ぶ。陰麗華の家はその鄧偉卿の家の東隣になる。門前に流れる渠は、農業用水のために、湍水から引いた水である。
「久しぶりだね、元気だった?」
「はい……」
劉文叔が、切れ長の目を少し細めるようにして言う。二人で話をするのは二月ぶりだ。何となく恥ずかしくて、陰麗華は俯いた。笄を済ませ、髪の上の方を纏めて結って釵で留め、残りは自然におろしている。黒く艶やかな髪は、背中を覆うほど長い。肩から、一房がするりと胸の前に流れ落ちた。
「また、断られちゃったよ。君のお母さんは厳しいよね」
「ご、ごめんなさい」
陰麗華が申し訳なくて視線を泳がせ、膝の上で両手を組み合わせるようにゴソゴソ動かした。
「いいよ、僕にもうちょっと甲斐性があれば、認めてもらえるんだと思うけど――なかなかね」
「文叔様のせいではないです。ただ――」
「君は、嫌ではない?」
陰麗華がはっとして顔を上げると、文叔が不安そうな表情で正面からのぞき込んでいる。陰麗華が慌てて首を振った。
「嫌だなんて……むしろ、文叔様以外は嫌だって、お母さまにも言っているのですけど――」
「そっか、なら、僕ももっと頑張るよ」
文叔がそう言って笑う。二十六になる文叔は相変わらず細身で、書生っぽい雰囲気を漂わせている。身長は中背だが、痩せて均整がとれているので、実際よりは高く見えた。整った容貌は以前よりも男らしさを加え、黒髪を綺麗に纏めて髷をつくり、皮革製の小冠を金属製の簪で止めている。
舂陵から新野までは馬で来たのか、膝丈の藍染めの襜褕に黒い襟、黒帯は皮革のバックルがついていて、黒い袴に革の履を穿き、腰帯とは別に細い剣帯をして、小刀を佩く。
文叔の顔が陰麗華に近づき、耳元で囁くように言った。
「……手、握っていい?」
「ええ?」
陰麗華が動揺してろくな返事もできないうちに、文叔の大きな手が陰麗華の膝の上に伸びて、陰麗華の白い手を握り込んだ。
触れられた指の先から、文叔の体温が感じられて、陰麗華はドキドキする。身体を固くして座っている陰麗華の指の間に文叔の指が入り込んで、指と指を絡めるように握り込まれる。
「……小さな、手だね。爪の形も綺麗だ」
文叔が右手で、陰麗華の左手を持ち上げ自分の口元に持っていく。陰麗華が茫然と見守る中、文叔がそっと、陰麗華の白く細い指に口づける。
「――!!」
完全に硬直してしまった陰麗華の白い手に唇を触れた状態で、文叔がクスクスと笑う。
「ごめん、つい、可愛くて。食べてしまいたくなる」
「そ、その……恥ずかしいので……」
「食べないよ。食べたらなくなっちゃうし、我慢する」
その「食べる」という言葉に何か特別な含みを感じて、陰麗華はさらに身を縮こめる。文叔は陰麗華の左手の薬指を特に握って、そのサイズを確かめるようにした。
「……いつか、君が僕のものになったら、銀の指環を贈るよ。長安で聞いたんだよ、天子様のご寵愛を受けた女性は、銀の指環を賜るそうだよ? 天子様は何人もの女に銀の指環を贈るんだろうけど、僕は君一人だと誓う。君が僕のもので、僕が君のものになった証にね。その日のために、君の指の大きさを覚えておかないと」
陰麗華は茫然と、文叔の整った顔を見つめる。箱入りで育った陰麗華は男女のことに疎い。身近にいる歳上の女と言えば母と、侍女の曄とその母親の増秩くらいだが、母は家の差配と三人の弟の世話で忙しく、陰麗華はどちらかと言えば放置されている。増秩は余計なことは喋らないし、曄は非常に無口なタイプで、特別に親しい女友達は劉姉妹くらいだ。だが他ならぬ文叔の姉妹だけに、妙な遠慮が生まれて恋の話などかえってしにくかった。結婚する男女の間には何か特別なことがあって、それが子をもたらすのだとは気づいているが、具体的に何をするのか、よくわかっていない。陰麗華の様子から、彼女が何も知らないと気づいて、文叔の大きな目がふっと緩む。目には悪戯っぽい光が灯り、少し大きめの口の口角が上がって、蕩けるような甘い笑顔になる。
優しく微笑んでいるだけなのに、なぜか、陰麗華は獰猛な肉食獣に魅入られたような気がして、背中に冷たい汗をかいた。反射的に腕を引いて、文叔の腕を振りほどこうとしたが、文叔は握る力を強め、陰麗華の手を離さない。
「もう遅いよ、絶対に逃がさないから……」
陰麗華の耳元に口を寄せ、囁くような声で言うと、文叔はもう一度、陰麗華の白い指に口づけた。
衛宏『漢旧儀』「宮人御幸、賜銀指環。」