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糟糠の妻

建武三年(西暦二十七年)正月に戻ります。

小休止として入れる、コメディです。

せっかくの緊迫した雰囲気に水を差されたくない、という方は読み飛ばしてください。




臣聞貧賤之知不可忘、糟糠之妻不下堂。

   ――『後漢書』宋弘伝




 建武三年(西暦二十七年)の正月のことである。


 文叔の長姉・湖陽長公主こと劉君黄は、建武二年の春に夫を亡くした。時は戦乱の世、人はものすごく簡単に、あっけなく死ぬ。儒教の礼制に従うならば、夫が死ねば妻は三年の喪に服するのがキマリだが、この時期は有耶無耶にされていた。何せ、家族の服喪を真面目に守っていたら、その間に自分が死んでしまいかねない世の中である。だいたいが、儒教の礼の規範について、小うるさいことを言い始めたのは王莽時代からで、後世ほど社会が儒教一色に染まっているわけでなし、女性たちもまだまだ奔放であった。


 『敵に回すと心強いが、味方にすると油断ならない』、と文叔が評した自由人の姉が、夫に対する三年の喪なんて守るはずはなくて、小市民の夫がようやく死んだと、「皇帝の姉」の特権を使い倒して遊び歩き、さらなる自由を満喫中であった。もちろん、特権を利用して南宮にも遊びに来る。長秋宮の郭主とは例の臘祭の一件以来、犬猿の仲であるので、もっぱら相手をするのは陰麗華であった。


 「耿伯昭こうはくしょう将軍も若くて素敵だし、あなたの弟さんもなかなか立派な筋肉でドキドキしちゃうけど、あたしにはちょっと若すぎるわよね。で、そうなるとやっぱり、大司空閣下なんかいいかなって。そう思わない?」

 「えっと……何のお話でしょう?」


 却非殿後殿の、ごくごく私的な謁見の間で、陰麗華は困惑して首を傾げる。劉君黄もこのおっとりした義妹を可愛がっているので、「あらやだ陰麗華ちゃんたら!」と陰麗華の肩をバシバシ叩きながら言った。


 「再婚相手の話に決まってるじゃないのー。渋くて素敵よねー。一目惚れなのよぉ! きゃっ!恥ずかしいっ!」


 両袖で顔を覆ってわざとらしく恥ずかしがる劉君黄に、妹の劉伯姫が冷めた声で言う。


 「……姉さん、大司空の宋公には奥様がいらっしゃるわよ。無茶を言わないの」


 が、劉君黄に常識を説いても、犬に『論語』である。


 「あら、きっと文叔が何とかしてくれるわ?」

 「まさか、無理矢理離縁させて嫁ぐつもりなの?」


 趙夫人もぎょっとして問いかけるが、劉君黄はあっけらかんと言った。


 「やだ、無理矢理なんてこと、するわけないじゃない。皇帝の義弟になれるのよ? 普通は喜んで離縁するでしょ」

 

 本人だけがその無茶ぶりに気づいていない。ドン引きする周囲の空気を読まず、うっとりと語る。


 「ほら、あの郭皇后を立てた儀礼の時の凛々しいお姿といったら! 麗華ちゃんもそう思うでしょ?」

 「いえ、わたしは儀式の手順を覚えるので精いっぱいで、とてもそんなところまでは……」

 「とにかく麗華ちゃんから文叔に話しておいてちょうだい、お願いね?」


 とんでもないことを気軽に頼まれてしまい、陰麗華は重い気分で部屋に戻った。





 

 「ええっ? 大司空って宋仲子? あの堅物を? 姉さんが? よりによって?」


 陰麗華の給仕でもちきびの粥を受け取りながら、文叔が驚愕する。


 「あの人、奥さんいるよ?……ああでも、子供がいないんだったかな。でも、今更、姉さんと結婚したところで、あの人ももう四十近いし、これから生むのはキツイよな……」

 「子供がいないからって、離縁を前提に縁談を、それも断りにくい筋から持ち込むなんて、奥様のお気持ちを考えると……」


 陰麗華が気まずそうに文叔の空いた杯にドブロクを注ぐ。文叔もしばらく匙を持ったまま考え込む。


 「うーん、あの姉さんは君の話なんて聞きゃしないよ。……本人の宋公が断るのが一番早いだろうな」

 「……断ることができるのですか?」


 陰麗華が尋ねる。……皇帝の姉との縁談だ。普通は断れないんじゃないか? 


 「普通の人は断れないって思うかもしれないけど、あの男は断るよ。とにかく堅物なんだよ、剛直の士ってのはああいう人のことを言うんだな、って僕は実感した。とりあえず空気は読まない。マジで読まない。みんなが和気藹藹わきあいあい、冗談言い合っているところに、冷や水ぶっかけるようなこと、平気で言う。こんな縁談持ってったら、絶対断るって。結婚したところで姉さんと上手くいくとは思えないし、間違って結婚しちゃった場合の方が大惨事だな」

 「でも、万一、了承した場合は――」

 「いやいや、絶対ないな。もしあいつが姉さんとの結婚を承諾したら、このリュウ狗鍋イヌナベをするよ。賭けてもいい」


 柳の毛並みを撫でながら文叔が不吉なことを言うので、陰麗華が慌ててリュウを抱き寄せて庇う。


 「やめてください! リュウを鍋にするなんて、とんでもない!」

 

 わふん、と柳が甘えたように鳴き、陰麗華がよしよしと撫でてやる。


 「まったく、ひどい皇帝陛下でちゅねー、こんなかわいいお前を鍋にするだなんて!」

 「いやいや、こんなかわいいリュウを賭けるくらい、絶対、あいつは断るから大丈夫だよ」


 文叔は、宋仲子がいかに堅物か、一例を挙げる。


 「ちょっといい屏風があってさ。美人画っていうの?女性が何人も描かれているんだけど、うちの一人が君に似てて、なんかつい見ちゃうんだよ。……そしたらさあ」


 文叔がことさらにしゃちほこばって、宋仲子の声真似らしきをして言った。


 「『未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ず』……って睨まれちゃってさあ。慌てて屏風は片付けたけど、屏風一個のことで怖すぎだろって。もう、次は何を言われるか、ビクビクものだよ」

 「わたしに似ている屏風って、そんなの飾らないでください……」

 「いやでもさ、例えばさ、僕が宋公に話を持ってくだろ? まず間違いなく、『不敢当おことわりします!』って野太い声で言うに違いないけどさ、それを、あの姉さんが納得すると思うか?」


 方爐ひばちで焙った小魚の干物を皿に取りながら、陰麗華も眉を顰める。


 劉君黄は悪い人ではないのだ。劉君黄は当時の一般的な女性の常識は完全に逸脱しているが、恐ろしいことに、生まれながらの公主でもないクセに、漢の公主としての常識は踏まえている。

 漢の公主の結婚相手の条件は、列侯であること。宋弘は建武二年に大司空に任命された時に封侯され、現在は宣平侯である。条件的にはしっかりクリアしているのだ。

 皇帝の姉妹、子女である公主は、大概の悪いことをしても処罰されない。夫の死後は恥も外聞も遠慮もなく、堂々と愛人を囲うのが普通だ。文叔はあの姉のこと、お気に入りの奴隷上がりの愛人を列侯にして、結婚させろと言い出すのではないかと、そっちを恐れていた。列侯と再婚したい、というのは、予想よりもはるかにマシなおねだりであったが、如何せん、相手が悪すぎる。


 「……うーん……本人が、姉さんの目の前で断れば、姉さんも納得すると思うけど……」

 「でも、いきなりお見合いみたいにして、結婚の話を持って行くんですか? それも奥様のいらっしゃる方に。奥様の方が気に病まれます。やっぱり内々に意向を確認するべきだと思いますが……」

 

 文叔が小魚の皿を受け取り、頭からガジガジと齧りながら考える。


 「そうだなあ……さりげなく意向を尋ねた時の様子を、こっそり姉さんが見ればいいんだよね?」

 「ああ、屏風の裏側かどこかで?」

 「そうそう。そうすれば、あの姉さんも諦めるよ」


 文叔はそう言って、計画を練り始めた。 




 数日後の夕刻、文叔は後殿の、ごくごく私的ないまに大司空の宋仲子を招いた。宋仲子は四十過ぎの渋い中年で、剛直の士だけあって厳しい空気を周囲に発散していた。


 「わざわざお招きいただき恐縮に存じます」

 「いやなに、ちょっといい酒が手に入ってね、河北の中山から取り寄せたんだけどさ。大司空にはいつもお世話になっているから」

 「そのようなお気遣いは無用です」


 宋仲子は文叔のすぐ横の牀に、反対側の牀には権威大将軍の耿伯昭と、その隣には衛尉の李次元が座り、文叔の後ろには黄門侍郎の陰君陵と郭長卿、それから征虜将軍の祭弟孫(*1)が同席した。祭弟孫は弘農郡の賊を討伐中に怪我をして、一時、陣を抜けて雒陽に帰っていた。怪我が癒え次第、再び討伐に向かうことになっている。文叔は祭弟孫を労う、というのをこの宴会の理由に挙げて、堅物の宋仲子を引っ張り出したのだ。


 宦官たちが干し肉と漬物の乗ったおぜんを運んできて、文叔が酒の甕を開き、宋仲子の杯に注いでやる。


 「実はさ、その――」


 文叔は何となく、ちらりと背後の屏風に目を遣る。その屏風こそ、以前に宋仲子に文句を言われて撤去した美人図の描かれた屏風であったが、今、文叔が屏風を見たのは屏風の後ろに姉・劉君黄が隠れているからである。


 屏風の裏側では劉君黄が男たちの会話に聞き耳を立て、それを少し離れて陰麗華と劉伯姫がハラハラしながら眺めている。


 宋仲子は文叔の不穏な視線の先にあるのが、くだんの屏風であると気づいて、チッと舌打ちした。まだあの破廉恥な屏風を後生大事に持っておるのか。そう怒鳴りつけたいのをぐっと呑み込む。皇帝ともなれば公も私もなく天下の規範となるべく、その身を慎むべきと考えている大司空の宋仲子にとっては、皇帝・劉文叔は戦場の雄でさらに仕事中毒ではあるが、どうにも軽佻浮薄な部分が目に余る。


 いきなり気まずい場の雰囲気に、耿伯昭が慌てて話を振る。


 「えーと、朱仲先将軍は今頃元気でしょうかねー」

 「まあ、仲先のことだから、元気でやってるだろう。あいつがいないと、小言を言う者がいなくて、静かでいい」

 「良薬は口に苦し、忠言は耳に逆らえども行いに利ありと申します。歯に衣着せぬ臣下は貴重なものですぞ?」

 

 宋仲子が厳しい調子で言い、「あー、そうだねー……」と文叔は話の接ぎ穂を失う。

 もう一人の主客である祭弟孫は異常なほど無口な男で、さっきから一言も喋らず、ひたすら料理をがっついている。堂内には祭弟孫の咀嚼音だけが響き、全然、盛り上がらない。

 なんとかして、この堅物に姉との結婚の話を持ち出し、はっきり断ってもらわねばならない。文叔がどうしたものか、と考えていた時。


 騎都尉の陰次伯が却非殿に上殿したと、宦官が知らせてきた。


 「次伯が? 呼んでないぞ?」 

 「主上おかみにではなく、妹御の、陰貴人様のもとに伺候するのだと……」


 陰次伯は貴人の兄なので、却非殿の後殿に入れる符を持っている。文叔は困ったなと、ちらりと屏風の方を見る。

 現在、陰麗華は屏風の後ろに隠れていて、部屋にはいない。部屋まで通って妹がいないと騒がれると、厄介である。


 「あー、今、飲んでるんだ。ちょうどいい、こっちに呼んでくれよ!」

 「は」


 歳の近い耿伯昭は陰次伯と仲がいいし、李次元とも以前からの知り合い。ここで陰次伯も宴会に巻き込んだ方がいいと、文叔は判断した。――しかし、文叔はこのとき、超堅物の宋仲子が、寵姫の異母兄である陰次伯を快く思っていないことを、完全に忘れていた。

  

 宋仲子は宋仲子で、符を与えられて内朝まで出入り自由だという陰次伯が、優遇され過ぎであると思っていた。そもそも、皇帝の居宮である却非殿の後殿は、御寝に侍る者がその都度、召し出されるべきで、一人の寵姫を居続けにさせるなど、あまりに寵遇が過ぎる。


 呼ばれて入ってきた陰次伯は、いつもの面子に加わる宋仲子を見て、一瞬、目を見開く。――祭弟孫もいつもの面子ではないのだが、彼が無口でいてもいなくても変わらないのを知っているので、陰次伯は祭弟孫の存在をすぐに忘れた。


 「お呼びですか。僕は妹のところに少し用があって……」

 「ああ、ちょうどさあ、いい酒を開けたんだよ。次伯も飲んでいけよ!」

 「はあ……では遠慮なくいただきます」


 杯が満たされ、駆けつけ三杯飲ませたところで、文叔が言う。


 「次伯もそろそろ嫁さんを見つけないとなあ。どうだ?」 

 「前も言いましたが、朱仲先将軍が結婚したら、考えます。今はそれどころじゃありません」

 「あいつは別れた女房に未練タラタラだから、しばらく結婚しないぞ?……宋仲子はどうだ?」

 「それがしはすでに古女房がおりますので……」

 「いやでもさ、女房と畳は新しい方がいいって言うじゃないか」


 その瞬間、宋仲子の表情が凍り、室温が一気に下がった。


 「……陛下はそんなおつもりで、新たな嬪御をお召しになられたのですかな?」

 「え? 私?……私のことはどうでもよくってさ、その――」

 「以前から思っていたのですが、今日こそは言わせていただきます。陛下の、正妻たる郭皇后へのなさりようはあまりにひどい!〈糟糠の妻は堂より下ろさず〉、と申します。却非殿に居続けの陰貴人は、すぐに後宮に退去させるべきです。嫡庶の別は弁えなければなりません。媵妾ようしょうを優遇して正妻を蔑ろにするなど、聖徳の天子のなさることではない! 陰貴人のような妖婦は今すぐ――」


 バシャッと音がして、宋仲子が頭から酒を被っていた。酒をかけたのはもちろん、対面に座る陰次伯。


 「――なるほど、御高説いかにも承った。『糟糠の妻』は堂より下ろさず。まさしく至言と、この陰次伯も思いますよ。ねえ、陛下?」


 駆けつけ三杯、空きっ腹に飲まされ、やや目が座った陰次伯が、ギロリと文叔を睨みつける。その瞬間、耿伯昭も李次元もヤバイと思った。――あかん、この話題、陰次伯には地雷や。

 なぜなら、宋仲子は文叔が雒陽を陥落させて奠都てんとした以後に仕えたので、陰麗華との結婚の事情を知らないのだ。……ちなみに、祭弟孫も事情は知っているはずだが、彼は周囲の喧騒を完全に無視して、黙々と一人、(おぜん)の上の豚肉のにものを食べ続けている。そして祭弟孫、容姿は非常に整っていて美しいのである。むしろその無駄な美しさが、彼の残念感をいや増していた。

 

 さて、文叔は頭から酒の雫を滴らせる宋仲子と、胡乱なまなざしで睨みつけてくる陰次伯を交互に見て、しかし、口から出たのは、


 「もったいない、貴重な〈中山冬醸〉が――」

 

と酒の心配であったために、さらに陰次伯の怒りの火に油を注ぐ結果になった。


 「そう、僕もアンタに妹をやるって決めた時は、まさかこんなことになるとは想像もしてなかったよ。僕言ったよねぇ。妹を泣かせたら承知しないぞって。二年間放置の揚げ句に別の女と重婚の上、妹を妾に落とすなんてそんな――」


 郭聖通との重婚について管を巻き始めた陰次伯を、耿伯昭が慌てて止める。


 「わー、わー、わー、次伯、次伯、その話は禁句! 宋公はその話知らないんだから――」


 頭から酒をもろに被った宋仲子は、ポタポタと雫を垂らして呆然と固まり、黄門侍郎の二人と宦官とが慌てて手巾で拭っている。やがて我に返った宋仲子が懐から自分の手巾を出して顔を拭いながら、地の底から響くような声で尋ねる。

 

 「重婚……とは? どういうことですかな? 陛下?」

 「あーいやー、そのー」

 

 どう、取り繕ったものか、文叔があわあわしていると、さらに追い打ちをかけるように、背後でガッターンと凄まじい物音がした。


 今度は何だ! と耿伯昭らが一斉に音のした方を見れば、なんと屏風を蹴倒して湖陽長公主が仁王立ち(*2)していた。


 「姉さん……」

 「……湖陽長公主? ……なぜ?」


 偉そうに両腕を組み傲然と顎をあげて睥睨する湖陽長公主の背後では、止めきれずに頭を抱える寧平長公主と、両手で胸を押え、涙目でウルウルしている陰貴人。


 李次元も耿伯昭も、あっちゃーという顔で天を仰いでいる。一人、祭弟孫だけが、表情も変えず、黙々と肴の干し肉を齧っている。


 普段の堅物ぶりもどこかに行ってしまって、酒の雫を滴らせながら、呆然とする宋仲子に対し、湖陽長公主は威勢よく啖呵を切った。


 「見損なったわ! 渋い美中年イケオジだと思ったのに、ただの厭味親父じゃない! 事情も知らずに勝手なことばっかり言って、可哀想な陰麗華ちゃんを妖婦だなんて! 陰麗華ちゃんは何も悪くないのよ! 結婚したのに二年も放置されて、しかも結婚前にお腹が大きくなっちゃって仕方なくって、もっぱらの噂だったわ。要するに文叔が最低のドスケベ野郎だったせいなのに。なのに文叔ったら、河北であの年増と結婚して、陰麗華ちゃんを離縁するならまだしも! 未練タラッタラで皇帝の権力とやらにあかせて囲い込むなんて、ホント、我が弟ながら最低だわ! いいこと、うちの劉文叔は最っ低の重婚野郎なのよ! そんなこともわからない厭味中年なんて、頼まれたって再婚なんてしないわ!」

 「姉さん、いくら何でもひどい……!」


 姉にボロクソに言われてさすがにヘコんでいる文叔を、宋仲子が怪訝な表情で見る。


 「再婚?……誰が再婚するのですと? まさかそれがしと、湖陽長公主が?」


 文叔は慌てて首を振る。


 「いや、別に押しつけるつもりはなかったの! 私が言っても聞かない人だから、宋公から直接断らせようと思ったの! その方が話が早いから――」

 「いいや、そんなことより糟糠の妻ですよ、糟糠の妻。たしかに我が陰家では、陰麗華にぬか漬けまでは作らせたりしませんでしたが、宛のまちで文叔のくされ野郎に妹を嫁にやる決意をした時は、それでも妹の幸せのためにと、男泣きに泣いたもんです。それがどうです!まさかの二年放置の上の重婚!妹の男運の無さにもう、涙も出ませんよ!」


 完全に酔っぱらった陰次伯は、宋仲子の肩をガッシと組み、宋仲子の杯にドクドクと酒を注ぎ、クドクドと管を巻き始めた。


 「もしかして、陰貴人と陛下は河北に行かれる以前からの仲なのですか……?」


 湖陽長公主と陰次伯の言葉から、ようやく事情を知った宋仲子が周囲を見回せば、文叔が決まり悪そうな顔で頭を掻いている。


 「……まあその、河北では本当に死にそうな目に遭ってね。聖通と結婚したおかげで助かったのは確かだし……その……」

 「いやいや陛下、そんなことはどうでもいいんですよ、戦乱ですからね。僕があんたを酷いと思うのは、絶対離縁しないって言い張って、陰麗華を妾にしたことですよ!あそこでちゃんと離縁しておいてくれたら、僕はたぶん妹を少君の嫁に出して、あいつが叛乱起こすこともなかっただろうに――そう思うと、僕は、僕は――」


 今度はさめざめと泣き始めた陰次伯を、皆は持て余して宋仲子から引きはがし、宦官に命じて別室に連れていかせる。……きっと明日は二日酔いだ。

 

 屏風を蹴立ててひとしきり文句を言ったことで、湖陽長公主こと劉君黄は満足したらしく、妹の寧平長公主と陰貴人を連れ、これから陰貴人の部屋で女子会をするから、と勝手に言いおいて出て行ってしまう。


 賑やかな一団が去って、文叔や李次元がやれやれ、と肩を落とし、宋仲子に言う。


 「陰貴人と南陽ですでに結婚していたことは、まあその、……秘密なのです。いくら何でも重婚は外聞が悪いでしょう?」

 「だが、それでは陰貴人があまりに――」

 「いずれ、陛下が天下を統一して政権が盤石になった暁には、明らかにしてもいいかもしれませんが、関中や南陽がまだ落ち着かない段階では、あまり大っぴらにはできません。陰次伯も君陵も理解しているので、周囲の批判を甘んじて受けているのですよ。……まあ、要するに、陰貴人を諦めない陛下が悪いのですけどね」

 「では、鄧奉と恋仲だったというのも――」


 それについては文叔が即座に反論した。


 「それはあいつが勝手に懸想していただけだ。あいつは陰麗華とは家が隣で、次伯と同い年の親友だったから。だから、私が陰麗華を皇后にしなかったことに、裏切られたと思ったんだろうね。……でも、陰麗華自身は何も思ってなかったはずだ」


 宋仲子は眉間に皺を寄せて、いかつい顔をさらにいかつくして話を聞いている。南陽の豪族間の、婚姻ネットワークの網の目は複雑だ。とりわけ、陰家と鄧家が何代も婚姻を繰り返していることは、宋仲子も耳に挟んでいた。それらが何重にも結びついた地縁血縁のしがらみと、男女の痴情のもつれと。――宋仲子とて士大夫の出身であるから、理解できないわけではない。 

 

 「とにかく、改めて仕切り直しと参りましょう」


 李次元が、皆の杯に酒を注いでいると、それまでずっと黙っていた祭弟孫がポツリと言った。

 

 「〈糟糠の妻は、堂より下ろさず〉……じゅん、覚えた」

 「一体なんだ、急に喋るなよ、びっくりするじゃねぇか」


 耿伯昭が言えば、祭弟孫がずずーっと酒を啜ってから、言う。


 「兄貴が、勝手に決めて……困ってた。……妾」

 「は?」


 文叔がしばらく考えてから、尋ねる。


 「お前の兄貴が、勝手に妾を娶って、お前の家に送ってきたのか。……そうか、お前もまだ子供がいなかったな」

 

 こくこくと祭弟孫が頷き、言う。


 「妾、帰す。でも、理由ないと、妾も可哀想。……糟糠の妻って、兄貴に言う。じゅん、勉強になった」

 

 子供のいない祭弟孫を心配し、兄が妾を送りつけてきたが、妻一筋の祭弟孫は妾を傷つけずに親元に戻す理由が思いつかず、困っていたのだろう。『糟糠の妻は堂より下ろさず』なんて、普段、ほとんど喋らない弟が言い出したら、きっと弟孫の兄貴もびっくりして、妾を押しつけるのを諦めるに違いない。――いや、その前にだ。祭弟孫とその女房はいったいどうやって会話しているんだ? 女房は読心術を極めた方術之士(エスパー)なのか?


 耿伯昭が複雑な気分で、無言でおぜんの上の料理を片づけ始めた同僚を、上から下まで眺めていると、文叔がその手があったか、という風に膝を打つ。


 「そっかあ、私もそうやって断ればよかったんじゃん! 何でもっと早く教えてくれないの、大司空ったら、堅物の上に気が利かない!」

 「はああ?」


 謂れのない非難を浴びた宋仲子は再び憮然とする。横で聞いていた李次元が溜息をついて、主君の無茶ぶりを窘める。


 「郭皇后と結婚する時点ではまだ、宋公は陛下に仕えておられなかったでしょう。知り合いでもない相手に、何を教えるというのです。無茶をおっしゃるものではありません」


 李次元に窘められ、文叔は「そっかー」と溜息をついた。それからちょっと考えてから、いいこと思いついた、という風に得意気に言った。


「まあ何にせよ、姉さんとの結婚が無事になくなってよかった。間違って宋公が承知したら、それこそ大惨事だと思ってたんだよね。宋公も離縁せずにすむし、めでたしめでたし。〈()()の妻は堂より下ろさず〉、なんちゃって」

 

 文叔の最後っ屁のような駄洒落を、当然のように一堂は華麗に無視スルーした。

  

*1

祭弟孫:祭遵さいじゅん、潁川郡潁陽の人。

本当はたぶん雒陽まで戻ったりしないと思うが、張満という賊を包囲中に少しだけ治療と報告のために戻ったことにした。


*2

この時期、仏教は伝来はしていたはず。が、仁王像はまだなかったと思われる。でも他に言い方が分からないよ。

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