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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十一章 予が美しきひと此に亡し
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鄧奉討伐

 建武三年(西暦二十七年)うるう正月、赤眉軍の降伏を受け入れ、文叔は雒陽に帰還する。雒陽のまちは戦勝ムードに沸いていた。だが、文叔は眉間に皺を寄せて、ずっと無言で宙を睨んでいる。陰麗華は馬車に同乗しながら、気まずい雰囲気に耐えていた。


 ――宜陽では親友の鄧仲華と再会を果たしたが、今度はもう一人の親友とも言うべき、朱仲先が南陽で鄧少君の軍に捕らえられてしまった。赤眉が降伏して関中を手に入れても、南陽を平定できなければ、天下統一など夢のまた夢だ。


 そっと溜息をついてから、陰麗華が気分を変えようと話しかけた。


 「『伝国璽でんこくのじ』はご覧になりましたの?」

 「……ん? いや、よくは見ていない。すぐに城門校尉に預けたから。まずは高廟(高祖劉邦の廟)にお供えして、本物かどうかの確認も必要だし」

 「曄に聞いたのですけれどね、王莽が漢の帝位を奪った時、文母太后(元帝王皇后=王莽の伯母)は怒って、伝国の璽を投げつけたそうですの。その時、床に当たって、少し欠けているんですって。本当かしらと思って」


 文叔はその話は初耳だったらしく、黒い瞳を見開いて、陰麗華を見た。


 「へえ……じゃあ、欠けているかどうか、聞いておくよ」


 それから陰麗華の肩を抱くようにして顔を近づけ、こめかみに口づける。


 「ごめん……いらいらしてしまって。戦で友人を失うのは覚悟していたし、もう慣れていると思っていたけれど、仲先のことはどうしても……」

 「ずっと身近にいた方ですもの、当然です」


 陰麗華が文叔に寄り添った時、ちょうど馬車が門を通るところで、大きく揺れた。


 「きゃっ」

 「大丈夫?」


 文叔が両手で陰麗華を抱き留め、そのまま顔を近づけて唇を奪う。陰麗華も抵抗せずに受け入れて――やがて馬車が止まり、外部から声がかかる。


 「陛下、到着いたしました」

 「……わかった、すぐに降りる」


 文叔は陰麗華から離れ、馬車の垂れ幕を捲る。日差しが、馬車の中に差し込んで、雒陽南宮の威容が目の前にあった。


 また、後宮の日々が始まる――。





 赤眉の降伏は慶事であったので、文叔は詔を発し、天下に大赦を行う。後宮でも宴を催すと言うのを、文叔は取りやめさせ、ただその夜は長秋宮で夕食を摂ると言って出かけて行った。


 一人で食事をしていた陰麗華のもとに、陸宣が固い表情でやってきた。


 「その……これはどうしてもご報告しなければならないことで……いえ、めでたいと言えばめでたいことなのですが……」


 言い淀むその様子に、何となく予感があった。陰麗華は手にした椀と匙をおぜんに戻し、居住まいを正した。


 「大丈夫よ、言って」

 「はい……許宮人様と、それから魏宮人様と、どちらもご懐妊ということでございます」


 予想されたことであり、またそれが目的の嬪御なのだから、当然なのだ。陰麗華は指先から冷えていくのを自覚しながら、しかし必死に、背筋を伸ばして座っていた。


 そう、当たり前のこと。男と女が交われば、子ができる。陰麗華だって以前、そうだったではないか。

 昆陽が包囲される直前、戦場を抜けてきた文叔と土地神の祠で愛しあい、子を授かった。――そのおかげで母から勘当され、故郷にいられなくなったけれど――。


 あの日、文叔と陰麗華は誓いあった。生涯、互いだけだと。

 その誓いはあっけなく踏みにじられ、今、文叔の子は二人、さらに、他の女の胎に二人。ただ陰麗華のあの時の子だけが――。


 気づかぬうちに頬を涙が伝って、膝の上の掌に滴が落ちる。ポタ、ポタ……と落ちる涙に、陸宣が慌てて床に頭を擦りつける。


 「申し訳ございません! 陰貴人様のお気持ちも考えず――」

 「あ、……違うの、これは……違っ……」

 

 違わない。陰麗華だけが、現実を受け入れられずに未だに立ち止まっている。どうして……どうしてわたしだけ、先に進むことができないの。どうして――。


 ふと空気の流れを感じて顔を上げれば、木戸が開いて文叔が立っていた。何とも言えない表情で、じっと、陰麗華を見つめている。

  

 「あ……へい……か……」


 文叔は無言で近づいてくると、陸宣に下がるように言い、陰麗華の前に跪く。パタンと扉の閉まる音がして、文叔が陰麗華を見上げ、涙に濡れた左手を取り、その薬指に光る指輪に触れた。


 「ごめん……結局、何をしても君を苦しめる。……本当に、ごめん……」


 無言で顔を逸らそうとする陰麗華の涙に濡れた頬を両手で包み、文叔は陰麗華の唇を塞ぐ。


 「何を言っても陳腐になる。でも……何度でも、これしか言えない。愛しているのは君だけなんだ。本当に……」  


 二月初旬、慶事に沸く雒陽南宮を後に、文叔は陰麗華を連れて河を渡り、懐の離宮に行幸した。


  

 


 

 

 表向き、河北の青犢せいとくの賊の討伐を理由に、文叔は懐に滞在した。繁華な雒陽から河を隔てた懐の離宮を、文叔は半ば軍都のように使っていて、しばしばこの地で軍議を開いている。大規模な軍隊を駐屯させるにも都合がいいのだろう。だが、この地に滞在する一番の理由は、『陰麗華』を後宮から遠ざけるためだと、本人にはわかった。見せたくないもの、聞かせたくないものから陰麗華を守ろうという気持ちは、ありがたく思うべきかもしれない。でも、子供はいずれ生まれてくる。


 (その場だけ取り繕っても、しょうがないのに――)


 後宮を離れている間はただ、一夫一婦の並みの夫婦のように錯覚してしまうけれど、それは所詮、まやかしに過ぎない。陰麗華は文叔に知られないように、そっと溜息をついた。


 そして三月、文叔は雒陽に戻ることなく、懐から直接、南陽への親征に踏み切る。


 南陽で反旗を翻した鄧奉――鄧少君――の強さは常識外れだった。 

 鄧奉討伐軍の総大将は征南大将軍に任じた岑君然しんくんぜん。さらに隻眼の漢忠将軍、王顔卿。彼は、かの昆陽の戦いにおいて、たった十三騎で脱出した劉文叔らの救援を信じ、百万の軍に包囲された昆陽を守り抜いた、まさしく漢の中の漢。その後、更始帝・劉聖公に仕えるも、建武二年夏に自ら帰順して以来、文叔の絶大な信頼を得ていた。

 加えて常勝将軍とも言える執金吾しつきんごの賈君文、そして建義大将軍の朱仲先他の八将軍で総勢二十万近いにもかかわらず、数か月たっても叛乱軍を下すことができていない。一時は鄧奉の配下の董訢とうきんに宛まで落とされ、先に南陽に派遣されていた揚化将軍の堅子伋けんしきゅうが決死の覚悟で夜に城門を登り、かんぬきを落として突入する離れ業で奪還した。だが、宛城は食料も尽きてここ数か月、城内の雑草を食んで粘っている状態だ。

 そして文叔の側近中の側近、建義大将軍の朱仲先が鄧少君に敗れ、軍中に捕らえられる(*1)におよび、ついに皇帝・劉文叔の親征が決定されたのである。



         挿絵(By みてみん)





 文叔自身が率いる軍も万を超えているが、さらに権威大将軍耿伯昭と、大司徒の印綬を返上した後、右将軍に任じられた鄧仲華、騎都尉の陰次伯ら、側近が周囲を固める錚錚そうそうたる布陣で、諸将と鄧少君の軍がにらみ合う堵陽とように向かい、山地を東から迂回する形でしょう県付近を通りかかった時。


 山地に潜んでいた董訢の別働部隊数千人が道を塞いで、文叔の大部隊は身動きが取れなくなってしまう。


 陰麗華の馬車に同乗していた文叔は、周囲の警戒を命じ、自らげきを手にし、馬車の垂れ幕を上げさせる。


 「大丈夫だ、君は僕が守る。――前方の部隊を排除せよ!」

 

 文叔があたりに油断なく目を配りながら命じる。以前、脩武からの帰り道に刺客に襲われたことはあるが、その時とは軍団の規模も違う。陰麗華は馬車を取り巻く騎馬の群れに、思わず唾を飲み込む。

 

 内黄でも宜陽でも、陰麗華は戦闘時には後ろの安全な場所にいた。だが今、文叔と同じ馬車は間違いなく、敵の一番のターゲットだ。


 (――少君――)


 今から夫が、大軍を率いて討伐する相手は、自分の幼馴染で恩人だなんて、信じられない、信じたくない。だが、彼の方も本気で、文叔の命を狙ってきているのだ。


 馬の嘶きと、地の底から響くような馬蹄の轟き、咆哮――。


 「来ました!」


 陰君陵が剣を抜き、馬を馬車の前に立てる。その横では郭長卿が緊張した表情で、やはり馬上で槍を構えている。

 うねった山道の樹々の影から、黒い鎧を着た騎馬の集団が突進してくる。


 「防げ!」


 ガキーン!打ち下ろされる剣を、陰君陵が力で弾き返す。数本の矢が馬車の至近まで飛んできて、馬が暴れる。次々と襲いかかる敵を、馬車を守る羽林騎が応戦して切り結び、撃剣の音があちこちで鳴り響く。中の一人が、豪華な馬車とその中で男に庇われる美女を見て、叫んだ!


 「いたぞ!きっとこの女が陰麗華だ! 殺すな! 鄧将軍のところに連れていけ!」

 

 吊り目が特徴的な部隊長らしき男が郭長卿の横をすり抜け、馬車の中の陰麗華へと腕を伸ばす。


 「いや! やめてっ!」


 文叔がブンッとげきを横に薙ぎ払えば、男はチッと舌打ちしてそれを避け、一旦、馬車を離れ、もう一度剣を抜いて文叔の戟に応戦する。ガキーン!


 「汚い手で私の妻に触るな!」

 「何が妻だ! 重婚の上、妾に落としたくせに! 鄧将軍の想い人を奪っておきながら!」

 「お前、少君から命じられてきたのか? 陰麗華を攫えと」

 「戦場に連れてきているようなら、傷つけるなと言われただけだ! だが、鄧将軍のために無傷で連れていく!」

 「お前ごときに触れさせるか! 下がれ!」


 文叔が戟を男の兜に向かって叩きつけるのを、男は剣でギリギリで防ぎ、凄まじい金属音と青白い火花が飛び散った。男は身軽で、また手練れではあったが、さすがにこの大軍の中から陰麗華を無傷で攫うのは不可能と悟り、チッと舌打ちして目標を変え、文叔の首を狙う。だが文叔も陰麗華を守りながらカン、カンと何合も打ち合わせ、男を追い込んでいく。


 「征南大将軍閣下の軍が来ました! 救援です!」


 敵の背後にはためく赤い漢の旗幟を見て、陰君陵が叫ぶ。堵陽とよう周辺にいた岑君然将軍が、皇帝の危機を聞いて軍を寄越してきたのだ。


 「クソッ! 撤退だ! 引け! 引け―!」


 吊り目の男が周りの配下たちに叫び、文叔軍の行く手を塞いでいた数千の兵は馬首を返して去り、それを西からきた岑君然将軍の兵が追う。

 自身も馬首を巡らして退却しようとする吊り目の男を、文叔が呼び止める。


 「待て、少君に伝えろ。私はまだ、君の投降を受け入れる用意がある、と」

 「チッ ふざけんなよ! 卑怯者のくせに!」


 会話を聞いていた郭長卿が男に槍を振り下ろして叫んだ。

 

 「無礼な! 陛下になんて口のききようだ!」


 男は若い郭長卿の攻撃などやすやすと躱し、


 「小僧、今回は勘弁してやる!」


と捨て台詞を残すと、羽林騎の攻撃を全てすり抜け、風の如く馳せて走り去っていく。

 

  

 その夜のうちに、堵陽とように陣を張っていた鄧少君の軍は西に撤退し、跡形もなく消え去っていた。






 

 「小長安……だと?」


 堵陽の陣で報告を聞いた文叔は、思わず眉を顰めた。


 「は。小長安近郊の平原に陣を張り、こちらを待ち構えているとの、斥候の報告です」


 文叔の前で片膝をつくのは、征南大将軍の岑君然。年齢はもうすぐ四十に届こうかという、ガッチリした体格。かつて、雒陽を落とす時、単身、洛陽城の城壁を登った豪胆な男だ。


 「選りによって小長安だなんて……」


 小長安はかつて、文叔ら舂陵しょうりょう劉氏の叛乱軍が、当時の南陽の地方官だった前隧ぜんすい大夫らの軍に大敗し、多くの犠牲を出した場所だった。文叔はその時、姉の劉君元とその娘三人を亡くしている。――劉君元の夫、鄧偉卿は鄧少君の叔父。鄧少君にとっても血を分けた幼い従妹たちを失った、因縁の場所だ。


 ――南陽の苦しみを思い出せ。それは、お前、劉文叔の罪だ。


 鄧少君はそれを、文叔に告げようとしているのか。

 文叔はしばらく目を閉じていたが、目を開き、顔を上げて命令を下す。


 「小長安へ。――()()鄧奉を倒し、南陽に平和を取り戻す。出発せよ」

 「は!」


 文叔の面前に居並ぶ諸将が一斉に頭を下げる。それを、少し離れていた鄧仲華と陰次伯が複雑な気分で見ていたが、文叔と目が合い、彼らもまた、頭を下げた。


 




 建武三年四月。五年前の悲劇の現場となった小長安の地。小さな集落の外に広がる平原に、二軍はそれぞれ、陣を敷いた。


 陰麗華は本陣からかなり離れた、小長安聚に近い場所に馬車を停め、騎都尉の陰次伯が率いる三千騎と、鄧仲華が皇帝から特に託された羽林騎五百を率いて陰麗華の護衛に当たる。


 「……大げさよ、陛下も」


 陰麗華の言葉に、鄧仲華が首を振る。


 「まさか少君が君を攫うことはないと思っていたけれど、配下の者が先走る可能性はなきにしもあらず。それに何より、陛下は僕や次伯を戦闘から遠ざける名目に、君の護衛を命じたんだよ」

 

 兄の陰次伯も悲痛な表情で頷く。


 「僕たちが直接、彼と刃を交えるのを、避けようとしてくれているんだ。……実際、そんな現場は見たくない」


 陰次伯にとって、鄧少君は生まれた時から知っている、無二の親友だった。鄧少君が叛乱を起こした後も、次伯は何度も書簡を送り、雒陽への帰順を説いた。皇帝・劉文叔だって南陽の苦境は理解している。南陽に平和をもたらすための派兵だった。掠奪行為は許されるものではなく、大司馬呉子顔将軍は雒陽に召喚されて譴責されている、と。


 何よりも――次伯は書簡が人の目に触れることを思い、遠回しにしか述べることができなかったが――少君の軽挙によって、古い知り合いは皆、心を痛めていると。自分も、そして自分の家族も。どうかここは鋒を収め、皇帝の傘下に下ってもう一度、天下のために力を尽くして欲しい。


 だが、少君からの返事はなかった。少君は雒陽政権と決別したのだ。


 「常山の偉卿兄さんも、何度も書簡を送って説得したそうだけど、聞く耳はもたなかった、申し訳ないとの上奏があったよ……」


 鄧仲華の溜息に、陰麗華も長い睫毛を伏せる。


 「……少君だって、勝ち目はないってわかっているでしょうに……」

 「でも、少君の強さは脅威的だった。歴戦の将軍たちを軒並み撃破して……まず呉子顔将軍に、ほぼ無敗に近かった賈君文将軍を負傷させて、朱仲先まで生け捕りにしてしまった。――陛下が、自ら出て来ざるを得ないまで、少君は我々を追い込んだ」  


 圧倒的な兵力差を、地の利と気力で補って、鄧少君はここまで粘った。そうして、文叔を雒陽から引きずり出したのだ。





 「一騎打ちだと? ふざけるな! 仮にも皇帝陛下に!」


 建威大将軍耿伯昭が叫ぶ。皇帝・劉文叔の面前に、鄧奉の要求を伝えに来た配下の将・董訢とうきん――葉県で馬車を襲撃した吊り目の男――は、いけしゃあしゃあとした表情を崩さない。


 「――とにかく、鄧将軍の要求は皇帝陛下との一騎打ちか、陰貴人の身柄の、どちらか一つ。そうすれば、戦わずに兵を引き、南陽の支配も明け渡す、と」

 「陰貴人を渡すことはあり得ない。私の妻だ」

 「ならば一騎打ちだね」

 「そうだな。一刻の後に向かう。双方、立ち合い人を置き、手出し無用」

 「意外と話がわかるやね」

 

 あっさりと去っていく董訢を見送ると、怒りのあまり口もきけない耿伯昭に代わって、岑君然将軍が尋ねる。


 「……鄧奉と陰貴人には何か関係が?」

 「幼馴染で、あいつが勝手に横恋慕していただけだ。陰麗華は何とも思っていない」

 「お譲りになるという、選択肢は?」

 「あるわけない」


 にべもなく答える文叔に、横で腕を組んで見ていた隻眼の王顔卿将軍が、ニヤニヤ笑いながら言った。


 「そらまあ、譲れねぇよなあ。……南陽の郡大夫に取られるの嫌さに叛乱まで起こした例の嬢ちゃんだろう? 新野の、陰麗華」

 「『妻を娶らば陰麗華』……陛下もしつこいやね」


 負傷した左腕を白布で吊った賈君文将軍も、大きな肩を竦める。

  

 「転戦中も女房を手放さないおぬしに言われたくはないな、君文」

 「そりゃー俺は『塩を守った男』っすからね、女房も守るっすよ」

 「もう、塩のことはわかったから……」


 ガハハハハと笑い合う主従に、とうとう我慢できなくなった耿伯昭が叫ぶ。


 「そんな冗談言ってる場合ですか?! 一騎打ち? いい加減にしてください。皇帝のやるこっちゃないでしょ?」

 「かつて、高皇帝は項羽と対峙した広武山で、項羽から一騎打ちを持ち掛けられていたぞ? やっちゃいけないってことはあるまい」

 「あんときは断ってるでしょうが!」

 「相手が項羽なら、私も断るよ。勝ち目がない」

 

 文叔の答えに、賈君文が言う。


 「鄧奉、意外と強いっすよ。……『塩を守った男』であるこの俺様が、この体たらくっすからね」


 賈君文が白布に包まれた左腕を少しだけ持ち上げる。


 「知っているよ。昆陽で、一緒に包囲を抜けた。……それに、あいつには昔、決闘で負けてる。何しろ脳筋だから」

 「じゃあ、なんで!」

 「しょうがないだろ、陰麗華を差し出すくらいなら、死んだ方がマシだからね」


 さも当然のように言う文叔と、「そらそうっすね」とうんうん頷く賈君文と王顔卿。岑君然は微妙な表情で文叔を見ている。


 「……別に、条件を飲まないといけないことはないでしょう? このまま普通に戦えば、戦力差もあるし、勝ちますよ」

 「でも、もう約束してしまったし。どんな圧勝が約束されていても、戦わずに済めば、それに越したことはない」

 「でも!!」


 耿伯昭がますます理解できないという表情で言った。


 「万一あなたが死んだら、天下はどうなるんですか! わが軍は!」

 「そのことがあるから、一刻、時間を取った。……陰君陵! 大至急で、鄧仲華を呼んで来い。……陰貴人も。もちろん、陰貴人についている、陰次伯もだ」

 

 すぐに馬を引いて駆けていく陰君陵を見送り、文叔は周囲に言った。


 「負けることはおそらくない。だが、万一ということがあるから、言っておく。もし、私が軍を率いることができない、となったら、全権は鄧仲華に委任する」


 全員、息を呑むが、だが半ば予想されたことだったのか、反論する者はいなかった。


 「ひとまず軍を引いて雒陽に戻ることになると思うが、その際の指示は全て、鄧仲華に従え。雒陽に戻ってからも然り」

 「……鄧仲華将軍に、天下を取る才があるとお思いで? 正直、後継が彼ではいささか……」

 

 岑君然の言葉に、文叔も頷く。


 「仲華はおそらく、雒陽に戻れば、皇太子の彊を立てて自分は補佐役に徹するだろう。それに従うかは諸卿ら次第。……だが、言っておくが、私は負けたりはしないよ。鄧少君は脳筋だが、私だって書生だったころの私じゃない。かつて一度勝っていることが、おそらくあいつの負ける原因となる」


 それだけ言うと、文叔は従兵を呼んで、武器を並べさせる。


 「……立ち合い人は、おぬしに頼む。伯昭。それからその他の者は、気を抜かずに常に戦闘態勢を整えておけ。……少君は脳筋で卑怯な手は使わないが、あの、吊り目野郎は狡猾だ。一騎打ちの隙に仕掛けてくる可能性がある。その時は容赦はいらない。完膚なきまでに叩き潰せ」

 「は!」


 頭を下げる将軍たちの向こうから、鄧仲華が率いる一団が近づいてきていた。


 


岑君然しんくんぜん:岑彭。南陽棘陽の人。廷尉から征南大将軍に任命される。


王顔卿おうがんけい:王常。もともと挙兵直後、小長安で大敗した文叔・伯升兄弟が援軍を頼った平林兵の首魁だった。昆陽の戦いでは、援軍を求めて脱出した文叔らを待ち、百万の大軍から昆陽を守り切った。後、更始帝に仕えていたが、その死後は雒陽に帰順し、文叔の信頼を得ている。


賈君文:賈復。南陽冠軍の人。ほとんど雒陽に入らず、ずっと転戦したいたっぽい。自称、「塩を守った男」。


堅子伋けんしきゅう堅鐔けんたん。潁川襄城の人。揚化将軍。

ちなみに一緒に南陽に派遣されていた右将軍の萬脩(萬君游)は宛の陣中で病没している。その後、大司徒を免じられた鄧仲華を右将軍に任命。



*1

『後漢書』朱祐伝によれば、朱仲先が鄧奉に敗れたのは建武二年の冬とあるので、十一月に出征して早々に負けて捕まったらしいが、ここは物語を盛り上げる?ために年明けにずらしてあります。

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