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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十一章 予が美しきひと此に亡し
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赤眉降伏

 負傷した文叔を見て、陰麗華が声にならない悲鳴をあげる。二匹の狗――リュウの子であるヒツボウがキャン、キャンと吼え、それを咎めるように母狗のリュウがグルグルと唸った。


 「姉さん? どうしてまだ起きて――」

 

 そのまま文叔をしんしつまで運び込み、陸宣が素早く衣服を脱がせて止血をする。

 陸宣が于曄に命じて薬を取りに行かせ、小夏はお湯を沸かしに走る。陰麗華は部屋の長櫃から、白い布をたくさん出してくると、陸宣は文叔の脇腹を布で押えて止血をする。白い布はみな、見る間に朱に染まっていく。


 「これは刀傷でございますね? ……刺客でございますか?」

 

 陸宣が傷を観察しながら尋ねる。


 「……幸い、毒などは塗られていなかったようです……いったい……」

 「上東門のもんばんが今夜もあの堅物で入れなかったので、中東門に回ったんです。そしたら――」


 まだ若い郭長卿が真っ青な顔で言った。


 「声をかけても誰も出ないので様子がおかしいと思い、詰め所を覗いたら門候が殺されていて、刺客が――」

 「間一髪、陛下は急所は避けたのですが……」

 「長卿……」


 文叔が郭長卿を呼ぶ。


 「はい、陛下」

 「……このこと、長秋宮には言うなよ……」

 「しかし……!」

 「しばらく、麗華の部屋で、療養する。……長秋宮に、知られると……」


 于曄が持ってきた血止めの膏薬を塗り付け、陸宣が白布を巻き終える。傍らで于曄に煎じさせた痛み止めの薬を文叔を飲ませ、臥牀に寝かせた時には、すでに夜が明けていた。






 幸い、文叔の傷は浅く、また陸宣の処置が的確だったこともあり、大事には至らなかった。事情は限られた側近以外には伏せられ、文叔は傷寒カゼを患って療養中ということになった。


 「毎日のように狩猟に行かれるなんて……そんなに、お好きだったとも聞いておりませんでしたのに」

 

 方爐ひばちあまざけを温めながら陰麗華が問えば、文叔が気まずそうに視線を逸らす。


 「その……つまり……気晴らし? 何だか君が冷たくて……」

 「わたしが?」


 陰麗華が目を瞠る。


 「……たしかに、僕が約束を破ったのは確かだし……君が、怒るのは当然だとは思う。でも露骨に避けられていて、すごくその……辛くて……」

 「避けていたわけでは」

 「でも、いつも僕に背を向けて寝ていたじゃないか」

 「それは……」


 陰麗華は十一月中もずっと、訪れの遅い夜は掖庭の宮人のところに通っているのだと、思い込んでいたから――。


 背中に丸めた褥を当てて、文叔を臥牀の上に起き上らせると、漆塗りの杯に注いだあまざけに匙を添えて手渡す。


 「君が、僕を許せないもわかる。でも、君に背を向けられるのは辛い。自分で選んで皇帝になった以上、しょうがないとはいえ、何もかも投げ出してしまいたい気分になって……」

  

 馮公孫将軍を派遣したが、関中の情勢が一気に好転するとは思えなかった。南陽の派遣部隊は鄧少君とその麾下の董訢に振り回されている。部屋に帰れば陰麗華は冷たく、八方ふさがりな日々をつい、狩猟で紛らわしていたのだ。


 「山を走りまわっていると何だか憂さを忘れられて、ついでに門限も忘れてしまってね。――僕が、幾度か門限破りをしているのが、敵に知られていたんだね。巻き添えで殺された門候もんばんには悪いことをしたよ」


 文叔が溜息をついて、熱い醪を啜る。その横顔を見ながら、陰麗華は眉尻を下げる。


 「お願いですから、こういうのは控えてくださいね。……わたしもですが、長秋宮様もご心配なさっているのですから」

 「ああ、気をつける。……とりあえず、しばらくは君の側で大人しく過ごすよ」


 文叔はそう言って醪を飲み干すと、臥牀の下にうずくまるリュウの頭を撫でた。



 建武二年の臘月は、意外と穏やかに過ぎた。




    挿絵(By みてみん)



 建武三年(西暦二十七年)が明けた。

 正月、怪我から復帰した文叔はまず、偏将軍の馮公孫を征西将軍に任じ、敗戦の続く鄧仲華を雒陽に召喚し、さらに詔勅を送って軽挙妄動を戒めた。


 「赤眉もまた食料不足に悩まされている。放っておいても東に逃げてくるに違いない。そうなったら私が出撃して叩き潰すのみ。むやみに兵を動かすな」


 ところが――。


 大司徒の重職と大軍を託されながら、赤眉討伐の任を果たせぬまま雒陽に戻るの鄧仲華は潔しとせず、なんと、馮公孫と一緒にもう一度赤眉を攻撃し、馮公孫まで巻き込んで回渓で大敗した。馮公孫は何とか残存の兵を纏めて軍を維持したが、鄧仲華の軍は壊滅し、わずか二十四騎で戦場を脱出した。


 「あんの、馬鹿がっ!!」


 帰還命令を無視した上の大敗北に、話を聞いた文叔が思わず手にした杯を床に投げつけた。


 「とにかく何でもいいから戻って来いって、誰か伝えろっ! いい加減、自分が戦下手なんだって、気付け!」


 文叔は親征を決意する。うるう正月、大司馬呉子顔将軍らを率い、雒陽の南西に位置する宜陽に行幸した。そこへ、尾羽打ち枯らした鄧仲華が辿りついて、敗戦の責任を取って大司徒と梁侯の印綬を返上した。

 

 「……申し訳ありません。ご期待に背き、さらに敗戦を重ねてしまいました……」


 二十五歳の若すぎる将軍には、大司徒の責はやはり重かった。恥じ入って恐縮する鄧仲華に、文叔は大司徒の解任はやむなしとしたが、梁侯の印綬はそのまま帰した。


 「いいんだ、生きて戻ってきてくれてよかった。君は僕の親友だろう、仲華」

 

 跪く鄧仲華を自ら援け起こしながら、敢えて〈僕〉という以前と同じ口調で言う文叔に、仲華が首を振る。


 「敗戦の将に甘すぎてはダメです。示しがつきません」

 「君は僕にとっての張良(*1)だ。張良はやはり、帷幕の中にいてこそだ」


 文叔が鄧仲華を慰めた。宜陽の陣にも当然、陰麗華は従っていたので、陣中で鄧仲華と再会を果たす。最後に会ったのが更始元年(西暦二十三年)の夏、新野から宛に送り届けてもらった時だから、三年半ぶりである。


 「仲華さん……ご無事でよかった」


 陰麗華の労いに、鄧仲華は相変わらず皮肉っぽい笑顔で肩を竦める。ひ弱で書生然とした、どこか少年の面影を残していた彼が、武装に身を固めてすっかり逞しくなっていた。関中の乾いた風に曝されて、抜けるように白かった肌も日に焼け、頬には剃り残した無精ひげまで散らばっている。


 「本当に面目なくて……それに君のことも……あの時、文叔の……いや、陛下の結婚を止めることができなくて、僕は……」

 

 鄧仲華と陰麗華の家は何重もの姻戚関係で結びついていて、しかも家も近所だった。年が近い二人は、年齢が一桁のころは、よく一緒に遊んだのだ。


 「郭聖通との結婚がどうしても避けられないとわかって、僕は、せめて君に離縁状を送るように言ったんだ。このままではいつになったら南陽に戻れるのかもわからないし、それにあのころは、君はまだ劉聖公の元にいると僕は思っていたから。劉文叔の妻の立場のままでは、君は次の人生に踏み出すこともできない。だから――」


 悔しそうに唇を噛みしめ、俯いた鄧仲華の姿に、陰麗華は言った。


 「もういいのよ、終わったことだわ……」

 「終わってないだろ。君はいまだに――」

 

 鄧仲華が、言いさして口を閉ざす。しばらく黙ってから、視線を逸らして言った。


 「あの時……君が雒陽の劉聖公の元に囚われたと、文叔に知らせたのも僕だ。文叔はすぐさま河を渡って君を救いに洛陽に戻ろうとしたが、僕はそれを止めたんだ。あそこで洛陽に文叔が戻れば、聖公は絶対に文叔を殺した。それが狙いで、君を捕らえたんだからね。……でも要するにそれは、君を見殺しにしたに等しい。その上、郭聖通と文叔との結婚も止めることができなかった。僕は――」


 鄧仲華は耐えられないという風に、両手で顔を覆う。かつて、家に籠って書物ばかり読んでいた彼の手は白く滑らかであった。しかし今、その手は武器を握り慣れ、寒風に曝されてひび割れていた。


 「君に、申し訳なくて――」


 鄧仲華の指の間から涙が溢れ出すのを見て、思わず陰麗華は彼に寄り添い、その肩を抱いた。


 「仲華さん……もういいの、もういいのよ……わたしは……」


 そこへ、軍議を終えた文叔がやってきて、ほとんど抱き合っているような二人の姿を見て凍り付く。


 「仲華お前……戦争に負けまくったばかりか、この上、私の妻を奪うつもりか!」

 

 ハッとして鄧仲華の側を離れた陰麗華は、文叔に向かってぶんぶんと首を振る。


 「仲華さんとは親戚の幼馴染ですからっ!」


 だが涙に濡れた顔を上げた鄧仲華は、ギロリと文叔を睨みつける。


 「僕は! 陰麗華に離縁状を送れって言ったはずだ!重婚して他の女に子供まで生ませておきながら、さらに妾にしてまで囲い続けるなんて! この鬼畜! クズ! 恥知らず!」


 その言葉に、文叔の背後についていた耿伯昭が色をして突っかかる。


 「貴様! 敗戦将軍の分際で、陛下になんて口のききようだ! 陛下の旧友だからって、甘え過ぎだ! さらに陛下の貴人に接近して……お前こそ恥知らず! スカポンタン!」

 「なんだと、この、熱血だけが売りの鼻毛坊ちゃんが!」

 「俺が坊ちゃんなら、お前なんかスカしたお坊ちゃまじゃねーか! やーい、敗戦将軍、ばーか、ばーか!」

 「お前ら、いい加減にしろ! どうして会うたびに子供の喧嘩みたいになるんだ!」

 

 文叔が同い年の二人を怒鳴りつけてから、陰麗華を抱き上げるようにして牀に誘い、並んで腰を下ろす。


 「……ったく。こいつらは二人一緒にすると、いきなり精神年齢が下がって、ガキみたいな口喧嘩を始めるんだ」


 互いにプイっと顔を逸らした二人を見て、文叔が溜息をつく。


 「長安の日々は悲惨だったが、この熱血バカがいないだけマシだったな」

 「なんだとお!」

 「やめんか!」

   

 怒鳴りつけられて、鄧仲華が文叔を睨みつける。


 「……でも、まさか、離縁状を送ったフリでずるずると重婚状態を続けていたとは、想像もしなかった。陰次伯がよく、陰麗華を洛陽に戻すのに同意したよね?」

 「軍隊二百人付きで迎えに来られたら、一般人が太刀打ちできるわけないだろ?」


 鄧仲華の疑問に、背後からもう一人別の声がして、全員が振り返る。騎都尉の陰次伯であった。


 「次伯もこっちに来てたのか!……久しぶり。ずいぶん、雰囲気が変わったね? 前はもっとなまっちろかったのに」

 「お前に言われたくないな……」


 陰次伯が苦笑し、鄧仲華の隣に座る。そして文叔を見て言った。


 「さきほど、馮公孫将軍から早馬が来ました。崤底こうていで赤眉を破ったと」

 「何だと?! 本当か?」 

 「まだ第一便なので、状況ははっきりしませんが、おっつけ、詳しい使者がくるでしょう。大司馬閣下がこちらからも斥候を派遣していますが、事前の打ち合わせ通り、赤眉の残衆は宜陽に向かっていると思われます」

 

 陰次伯の報告に、文叔がホッと息を吐く。そして自信に満ちた笑顔を取り戻して、言った。


 「いいか、次の戦で赤眉はぶっ潰す。漢を再興する劉氏は我々だと、天下にはっきりと示すんだ」


 さっきまで子供じみた口喧嘩をしていた鄧仲華と耿伯昭も居住まいを正し、文叔に向かって頭を下げる。


 「は!」

 「ようやく、天下統一に一歩近づきますね!」


 耿伯昭の言葉に、文叔が頷く。


 「そうだな。関中を手に入れたのは、大きな前進だ。あとは――」


 だがそれ以上は鄧仲華も陰次伯も、口にすることはできなかった。

 

 あとは、南陽を平定する。――そこに立ち塞がるのが、彼らの幼馴染である鄧少君だからだ。







 建武三年閏正月、雒陽の『漢軍』は宜陽周辺に大軍を展開した。

 先鋒には大司馬呉子顔将軍の精鋭が居並び、その次の中軍が文叔の本陣。その威容を遠目に見ただけで、敗残の赤眉軍は恐怖し、使者を遣わして降伏を打診してきた。二日後、赤眉軍の皇帝・劉盆子ら君臣十万余は皆、自ら手首を後ろに回して縛し、高祖が秦より受け継いだ秦始皇帝以来の璽――いわゆる「伝国璽でんこくのじ」――を文叔に奉じて降伏した。


 更始帝・劉聖公が失った覇権、二つに分裂していた復興劉氏はここに、劉文叔の下に再び一つになった。


 関中と関東を分ける秦嶺の深い山並みに続く宜陽の丘の、黄土高原に連なる黄色く乾いた大地は、その日、蒼天の下にはためく赤い漢の旌旗せいきで埋め尽くされた。戦勝を祝う怒号と、歓声、地鳴りのように万歳を称する声が響き渡り、大地を揺るがす。


 陰麗華はその光景を、本陣からやや離れた丘の上に停めた、馬車の中から見ていた。その横についているのは、一旦、役職を解かれた鄧仲華。


 「……すごいわね……本当に、天下を取ってしまうのかしら……」


 陰麗華のつぶやきに鄧仲華がくすりと笑った。 

 その表情は、かつての世の中を斜めに見ていた、天才少年の頃とあまり変わっていない。


 「天下を取ってもらわないと、困るさ。他の奴らに天下を渡したら、僕も君も、みんな逆賊として、天の果てまで逃げても許してもらえなくなる。皇帝になるってのは、そういうことなんだよ」 

 「じゃああの、劉盆子……って言う、赤眉軍の皇帝も、文叔様に殺されてしまうの?」


 陰麗華は、ほんの遠目にちらりとだけ見た、赤眉軍の皇帝だという少年を思う。――まだ、十七、八の子供ではなかったか。


 「さあ、どうだろう。劉盆子はクジ引きで決まった皇帝だし、実権は何も持っていなかった。文叔の性格としては、殺しはしないんじゃないかな。……生かしておいたところで、何かできそうでもないし。でも、逆の立場だったら、文叔は間違いなく殺されるよ。危険すぎるからね」


 誰もいないところだと、鄧仲華はまだ「文叔」と呼んでいる。彼が六裨将ろくひしょうを付けられた上で、赤眉討伐のために関中に派遣された時はまだ文叔は河北で皇帝位に即いていなかった。それから丸々二年以上、関中を転戦し、文叔の即位後はわずか二十四歳で大司徒に任じられ、重責を担ってきたのだ。


 「僕は、文叔こそ天下の主に相応しいと思い、彼の元で戦う道を自ら選んだけれど、君はそうじゃない。君は文叔に愛されて、巻き込まれただけだ。文叔はいい加減なところはあったけど、愛しているのは君一人だと僕は知っていたし、君に対しては誠実だと信じていた。――でも、河北の過酷な運命は、文叔にそれを許さなかった。僕も、反対はしたけれど、結婚を止めることはできなくて――せめて、文叔が誠実を貫けない以上、僕は親戚として、幼馴染として、文叔は君を解放するべきだと言った。……もう一人の、君を愛している友人に託すべきだって」


 陰麗華は、鄧仲華の言葉にハッとしてその顔を見た。鄧仲華のどこか冷淡にも見える端麗な顔が、しかし衷心よりの後悔で歪んで、切れ長の瞳が揺れた。

 鄧仲華の言う「もう一人の友人」とは、二人の共通の幼馴染であり、鄧仲華と同じ鄧氏の一族である、鄧少君――現在、南陽で文叔への叛乱軍を率いている鄧奉――のことだ。


 「でも、文叔はそれは嫌だって。少君にも、誰にも陰麗華を渡したくない。君は、自分だけのものだって」


 鄧仲華は赤い旗の翻る丘の下の軍中、中央の本陣にいるであろう、皇帝・劉文叔の旌旗を見下ろす。


 「勝手な言い草過ぎて、さすがの僕も殴ってやろうかと思ったよ。……自分は、他の女と結婚を決めておきながら、捨てる妻のことも手放したくないだなんて。僕があんまりしつこく言うものだからさ、文叔は手紙は送ったって言ったんだ。だから、僕はそれを信じた。なのに――ウソだったんだよ、あんのクズ男! 信じられないよ。僕のことまで騙して。……君を育陽から迎えて貴人にしたって聞いた時は、本当に仰天したんだ」


 心底、腹に据えかねるという風に毒づく鄧仲華を見て、陰麗華はつい、笑ってしまった。


 「……ありがとう、わたしのために、主君に盾ついてくれたのね」


 鄧仲華は陰麗華から目を逸らし、漢の赤い旌旗が翻る青い空を見ながら、幼い日々を懐かしむように言った。


 「昔さ……君の家の庭でよく、ままごとに付き合わされたの、憶えてる?」


 陰麗華は突然の話にちょっとだけ驚いたけれど、すぐに微笑んで頷いた。


 「ええ、もちろん。お兄様と少君は女となんか遊べないってどこかに行ってしまって、弟たちは言うことを聞いてくれないし……仲華さんだけだったわ。わたしに付き合って旦那様役をやってくれたの」

 「座って本を読んでればよかったしね。……学者で無口な夫っていう設定だったから」

 「でも、ご飯を食べる真似はしてくれたじゃない」


 葉っぱの皿に泥団子のご飯を盛って……幼い日を思い出し、陰麗華がクスクスと笑った。あの頃は世の中も平和で、戦乱なんて別世界の話だと思っていた。士大夫が馬に乗り、人を殺す時代になるなんて、誰が思っただろうか。


 「僕の母さんはそれを見てさ、僕のお嫁さんには君を貰うつもりでいたらしいよ。……本当にあの人は、何でもかんでも勝手に決めるからさ」

  

 初めて聞く話に、陰麗華が目を丸くする。


 「その頃の僕にとって、君はただの親戚の幼馴染だった。でも、話が持ち上がれば、僕は断らなかったし、君だって文叔の事がなければ、何の疑問も抱かずに僕と結婚しただろう。君は、周りに逆らったりしない人だから。それでも、僕たちはそこそこうまくやったと思う。――でも、未来はそうはならなかった。僕が君のことを好きだのなんだの思うより前に、文叔が君のことを攫っていってしまった」

 

 劉文叔が、陰麗華に恋をしなければ。陰麗華の人生は全く違ったものになっていたに違いない。――あるいは、この天下の運命もまた――。


 「あの日、小夏が僕の家に飛び込んできて、お嬢様が鄧夫人に勘当されちゃうって。陰次伯坊ちゃまのところに行きたい、馬車を出して欲しいって。……君が倒れた時、僕は側にいたし、さすがの朴念仁の僕にも理由の察しはついた。――あの頃、文叔は昆陽の包囲のただなかにいて、未来は絶望的だった。もし、昆陽が落ちたら、いや落ちなくても、僕は君のお腹の子の父親は僕だと嘘をつくべきか、かなり迷った」


 その告白に、陰麗華は茫然と鄧仲華を見つめる。


 「仲華さん、それは……」


 鄧仲華はくすりと皮肉っぽい笑みを浮かべ、言った。


 「そんな嘘をつかれても、君は迷惑に思うに違いないけれど、本当の意味で君を守るには、きっとそれしかなかった。僕が、君を宛に送り届けて、君は文叔と結婚した。そのせいで、君は歴史の激動に巻き込まれた。……文叔をめぐる、天下争いの渦に。僕は――」

 「仲華さん……」


 陰麗華が首を振る。


 「わたしが、文叔さまのところに行きたいと言ったの。わたしが、彼との結婚を望んだのよ。だから……」


 鄧仲華が少し色素の薄い茶色い瞳で陰麗華をまっすぐに見つめて、尋ねる。


 「……ねえ、君は今、幸せ?」


 その問いに、陰麗華は睫毛を伏せ、首を振る。


 「……わからない……」

 「じゃあ、今でも文叔を愛してる?」


 今度は、陰麗華は無言で頷いた。そのしぐさに、鄧仲華は少しだけホッとしたらしい。


 「そう……なら、よかった……」

 

 そんな鄧仲華の言葉を聞きながら、陰麗華は赤い旌旗の翻る大軍の中央、皇帝の存在を示す華蓋のある本陣を見る。文叔の姿は遠くてわからなかった。

 それが、現在の二人の間の距離なのだ。

 ――皇帝と、一貴人。もう永遠に、夫婦として並びたつことなどないのだろう――。

 

 



 

 赤眉降伏の余韻に酔いしれる文叔軍に、この日、密かに南陽から報せが届いていた。

 文叔の腹心中の腹心、建義大将軍・朱仲先が鄧奉の軍に敗れ、軍中に捕われた、と――。



*1

張良:字は子房。前漢高祖の功臣、三傑の一人。「籌策を帷帳の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する」(『史記』高祖本紀)と評される天才軍師。帝王の師、王佐の才の代表例。

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