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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十一章 予が美しきひと此に亡し
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銀環

角枕粲兮、錦衾爛兮。

予美亡此、誰與獨旦。

  ――『詩経』国風・唐風・葛生

 角枕かくちん さんたり

 錦衾きんきん らんたり

 うるわしきひと 此に

 誰とともにかひとかさん


   つの材の豪華な枕に

   絢爛たる錦のふとん

   でも愛しいあの人はここにはいない

   ひとりぼっちで待つ夜明け




*****************


 ついにこの日が来た――。


 陰麗華は一人、臥牀の上で溜息を零す。

 覚悟はしていた。いや、他の女のところにも行けと、自ら文叔に進言していたではないか。 

 一人寝の寂しさなんて、慣れたものだと思っていたのに。


 文叔からの便りのないあの日々、無事を思って悶々と過ごした夜。

 文叔が河北で新たな妻を娶ったと聞いた後は、さらに狂おしくて泣きながら眠ったいくつもの夜。

 夫が自分以外の女を抱く。――それも、自分の侍女だった女を。

 夫以外の男に汚されて、さらに夫を受け入れられなくなった陰麗華には、嫉妬する権利すらないのに。


 いつも、横にあった体温がないことが、これほどこの臥牀を冷たいものにするのか。まるで自分の部屋ではないかのように感じられて、陰麗華は孤独に耐えられず、起き上がる。


 そっと絹の帳を開ければ、さらに冷えた秋の夜寒が流れ込んでくる。素足に毛皮の内張をしたスリッパをひっかけ、そっとまどに近寄る。高い位置に開けられた窗には蓮の花模様の格子が嵌められて、その隙間から夜半の欠けた月が見えた。


 もう、わたし一人の彼じゃない。


 そんなのはとうに、わかり切っていたじゃない。

 皇帝となった彼と共寝する恩寵を独り占めせず、他の女とも分け合うのが後宮だと。陰麗華とて納得したはずだったのに。


 雪香は、美しいと、思う。

 河北人らしい、色の白い瓜実顔に切れ長の瞳。右目の下に泣きぼくろがあって、どことなく成熟した色気がある。辛い暮らしを強いられてきた彼女が、嬪御に登る。何より、陰麗華が許宮人を薦めたという事実が、陰麗華の立場をも守るのだ。

 

 すべては君のため――。


 文叔の言葉が信じられないわけではない。でも、妻として役立たずな自分より、文叔は雪香に心を移してしまうかもしれない。雪香が子供を産んだら自分は――。


 「ああもう、どうしてわたしは――」


 思わず呟いて、陰麗華は両手で顔を覆い、窗の下の磚敷きの床に座り込む。結わない黒髪がバサリと顔の両脇から零れ落ち、床に届いた。


 辛い。大声をあげて泣いてしまいたい。まったく知らない女ならまだしも、自分に忠誠を誓っていたはずの女と、夫を共有する。自分だけのものだった彼の手が、他の女に触れる。

 耐えられない。辛い。でも、陰麗華には泣き叫ぶことさえ許されない。

 もう、帰りたい。ここは嫌。故郷に、南陽に、新野に――。


 でもその土地は今や、文叔への反旗が翻り、陰麗華が戻ることもできないのだ。


 

 

 


 どれくらいの時間、窗の下に座り込んでいたか。

 ふと、妙なざわめきを聞き取って顔を上げる。リュウの吠え声には甘えたような雰囲気があって、危険はなさそうだが。……でも、こんな時刻に誰が?


 表の堂の方がざわついて、何か小声で話す声がする。あの声は――。


 キイ、と木戸が鳴って、誰かが入ってきた。せかせかした足取りは、いつもの文叔のもの。

 驚いて窗の向こうの月を見上げれば、まだ夜明けには間のある時刻。


 ええ? どうして戻ってくるの?  

 ――そう言えば、数日前の唐宮人の時は、陰麗華が就寝の仕度をしている最中に普通に戻ってきた。

 

 宦官も部屋から追い出し、自分でさっさと直裾袍を脱ぎ捨てた文叔は、帳を捲って叫んだ。


 「麗華?! どこだ!」


 慌てて帳台を出て、窗の下に茫然と座り込む陰麗華を見つけ、駆け寄ってきた。


 「文叔さま? なぜ、ここにいらっしゃるのです」

 「麗華、びっくりしたよ、どこにいったのかと!」

 

 そのまま有無を言わせぬ様子で抱きしめられ、陰麗華は意味が分からず目をパチクリさせる。


 「こ、今宵は雪香……いえ、許宮人のところにいらっしゃるのでしょう?」

 「ああ、もう済んだ」

 「……済んだって……」


 絶句する陰麗華を文叔はフワリと横抱きにすると、そのまま帳台へと向かい、陰麗華を臥牀の上にそっと下ろした。


 「僕の眠る場所は君の隣だと、いつも言ってるだろ」

 「で、でも……」

 

 まさか別の女を抱いたその足で、陰麗華の元にやってきたのか? 何となく汚らわしい気がして、陰麗華は無意識に、文叔の身体を押しやっていた。


 「……触らないで、いや」

 「まさか直接来たわけじゃないよ。身体は清めてきている。不愉快だろうが、こればかりは我慢して欲しい。浮気男は追い出したいかもしれないが、僕はここで眠るから」


 陰麗華は何と答えてよいかわからないが、不快感がすごくて顔を背ける。


 「麗華、怒っているの?」

 「怒って……いるわけでは……ただその……」


 陰麗華は長い睫毛を伏せたまま、文叔の方を見ないで言った。


 「……他の人を触れた手で触れられるのは、気持ち悪いので……」


 文叔が自分の掌を見下ろして、困ったように眉を顰める。


 「麗華……最低限しか触れてないよ。僕も仕事だと思って割り切ったんだよ。子供さえ孕んでくれれば、ひとまず義務は果たせるからね」

 「そんな言い方……」


 文叔が陰麗華の二の腕を掴み、強引に抱き寄せる。


 「……ごめん、でも、本当にこれだけは信じて。愛しているのは君だけだ」


 その言葉に、陰麗華が目を見開き、ゆっくりと文叔の方を向いた。


 「じゃあ……彼女は……雪香のことは、愛してないの?」

 

 文叔もまた、暗がりの中で目を見開いたらしい。 


 「当然だろう。僕が愛しているのは君だけだよ。過去も、未来も。聖通だって、愛したことはない」

 「じゃあ、なん、で……」


 陰麗華の身体に震えが走る。


 「好きでもない相手でも、あなたは抱けるの?……男の人は、みんな……」

 「麗華……?」

 「いや、触らないで! 離して!」


 陰麗華が文叔を突き飛ばし、自分を両腕で抱きしめるようにして、褥に突っ伏す。


 「わか、わからない……どうして? わた、わたしは嫌でたまらなかったのに! あなた以外は嫌だった、嫌で嫌で……いっそ、殺して欲しいくらい嫌だったのに、好きな人でなければ絶対に嫌だったのに、でも、でも――」

 「麗華? いったい……」

 

 肩に腕を回して抱きしめようとする文叔を、陰麗華は身を捩って拒む。


 「あの人だって、わたしのことなんて好きでも何でもなかった! ただあなたの妻で、あなたを辱めてやろうと、それだけだった! ただそんな理由で――」


 陰麗華が何を言っているのか文叔も気づき、ハッとする。


 「麗華、それは……」

 「あなたも同じだわ! いや、触らないで! いや! いや!」


 泣きながら抵抗する陰麗華を無理に抱きしめて、文叔が必死に宥める。


 「麗華待ってくれ、僕はあいつとは違う! 僕は君を守りたいんだよ! 麗華、君を傷つけているのはわかっているけど、他にどうしようもないんだよ! 麗華、話を聞いてくれ!」

 「いや――もう、いや、いやなの、やっぱり無理だったの、後宮なんて無理。皇帝の貴人なんて、もういや!」

 「麗華!」


 陰麗華の頬を、涙の雫が流れ落ちる。無理に身体を引き起こし、強引に抱きしめて、文叔はその濡れた頬に唇で触れる。


 「ごめん……でも、僕は君を愛してる。僕は君のためならできる限りのことをするから! 君が嫌だと言うなら、もう、雪香も、誰も抱かない」

 「違うっ……! そういうことを言っているわけじゃなくてっ……!」


 陰麗華は泣きながら、懸命に首を振る。

 

 「悪いのはわたしなの! わたしがっ……あなたを受け入れられなくて、子供が産めないからっだからっわたしをっ……もう、わたしを解放してっ」

 「それだけはダメだ! 僕が、君を諦められれば、君をこんなに苦しめることはなかった。僕は、君無しでは生きていけない。そして僕がもし、本当に天命を受けているなら、僕は君のために死ぬことも許されない。……酷い男だとはわかってる。でも、お願いだから側にいてくれ」


 きつく抱きしめられ、懇願されるけれど、陰麗華はただ、涙を流して言う。


 「だってもう、苦しいの……これ以上、ここにいたら、わたし……」

  

 目の前で愛する男と他の女との関係を見せつけられ、他の女が次々と文叔の子供産んで、嫉妬心を露わにすることすら許されず、自身の存在意義すら見つけられず。そんな暮らしがこの先もずっと続くとしたら――きっと、心が壊れてしまう。


 「麗華……ごめん。本当に、ごめん。でも、君が苦しいのは、僕を愛してくれているからだろう? 僕も愛してる。本当に君だけだ。だから、お願い、僕を棄てないで。側にいて」 

 

 文叔は陰麗華の細い体に縋りつくように抱きしめ、肩口に頭を預ける。

 

 「ごめん、愛してる。麗華。君を、喪うことだけはできない。ごめん……」


 何度も繰り返される言葉に、陰麗華はただ、涙を流し続けるだけだった。 



 


  


 翌、十月朔日の朝請では、嬪御となった三人が宮人きゅうじんとして並んだ。その背後には、采女さいじょに挙げられながら、まだ皇帝の御寝に侍ることのできていない、十一人の女たち。しかも、皇帝は彼女たちを独身の将軍・官吏のもとに嫁にやると言い出している。それでは何のために、後宮に入ったのかわからない。


 それまで、彼女たちの嫉妬の対象は陰貴人ただ一人に集中していたが、今は三宮人に向けられている。

 許宮人と魏宮人の左腕には、銀の環が光る。郭皇后はそれに目を留め、尋ねた。


 「その……銀環は?」

 「はい。畏れながら申し上げます。ご寵愛を得た嬪御は、銀環を賜うのが後宮の仕来りとか」


 すらすらと許宮人――雪香が応え、魏宮人も慌てて頷く。が、その横に並ぶ唐宮人は蒼白な表情で唇を噛んでいる。


 「でも唐宮人は?」


 彼女の腕には銀環はない。


 「いえ、その……」

 「唐宮人は賜っておりません」


 代わりに応える雪香の顔には、明らかな侮蔑と優越感が滲んでいて、唐宮人が俯く。


 「どういうこと?」

 「じゃあ、まだ嬪御じゃないってこと?」


 ざわざわと背後の采女たちが囁き合い、陰麗華も思わず、横に控える趙夫人と顔を見合わせる。


 「静かに」


 郭皇后が周囲を宥め、大長秋の孫礼と掖庭令の陸宣に問いかける。


 「どういうことか聞いていて?」


 掖庭令の陸宣が陰麗華の背後より進み出、郭皇后の前に膝をつく。


 「は、当日の係の者も、唐宮人にご寵愛はなかった、と確認しております」


 淡々と述べる陸宣の言葉が、長秋宮の堂内に響く。


 「唐宮人は何か、陛下の御気色みけしきを損なうような粗相をしたの?」


 郭皇后の問いかけに、陸宣が首を振った。


 「小官は理由については聞き及んでおりません。ただ、許宮人と魏宮人には銀環を遣わせと、ご下命がありました。その折、仕来りどうりでは指環でございますが、主上おかみより特に、腕環にせよとのご指定がございました」


 陰麗華はハっとして、無意識に左手の薬指の指環を隠すように握った。


 「では唐宮人は采女に降格するの?」

 

 皇后の問いに、陸宣がさらに頭を下げる。


 「いえ――唐宮人は長秋宮が推挙した嬪御故、降格はしない。ただ、以後は召すに及ばずと」


 唐宮人は真っ青な顔で、唇を噛んでブルブル震えている。

 つまり、皇帝は唐宮人は気にいらないが、皇后の顔を立てて嬪御のまま置いておく。しかし御寝に召すことはないと――。


 「何それ、曝し上げじゃない?」

 「やだ、もしかしてこのまま永遠に処女のまま?」


 背後のざわめきが零れだして、耐え切れなくなった唐宮人が両手で顔を覆ってわっと泣き出す。クスクスと唐宮人を嘲笑する空気が堂内に蔓延し、陰麗華は居たたまれなくなった。

  

 「長秋宮様、陛下の閨房のことでございますから、これ以上は――」


 陰麗華が郭皇后に進言し、皇后もはっとして頷く。


 「そうね、唐宮人にはまた改めて事情を聴くわ。――大長秋、次の話題を……」


 郭皇后は進行役の孫礼を促し、その場はひとまず収束した。







 朝請が終わり、陰麗華が自室に戻ろうとすると、雪香が近寄ってきて挨拶した。


 「陰貴人様、ごきげんよう。少しお話しが――」

 「雪香……いえ、許宮人。ごきげんよう」


 正直に言えば、夫と寝た女と相対するなんて、無理だ。しかし、陰麗華は内心を押し隠し、精神力で口角を上げる。


 「こちらの魏宮人をご紹介させてください」


 雪香の背後には、もう一人の女が畏まっている。その腕に光る銀環を見て、目の前が暗くなる。魏宮人の順番は雪香の後のはずだ。――もう、誰も抱かないと言いながら、やっぱり、魏宮人も抱いたのだ。


 魏宮人の部屋から戻った夜は、陰麗華は文叔の言い訳を聞くのが嫌で、眠ったフリをしてやり過ごした。結局、嘘ばかりの男に振り回されている。


 「……ごきげんよう、魏宮人。これからよろしく」

 「陰貴人様、こちらこそ、よろしくお願いします」


 魏宮人が丁寧に頭を下げる。戦争未亡人で流産経験があり、郭皇后が呼び出したときも初めは固辞したと聞いている。もし、夫に操を立てたいと願っていたとしたら、不幸なことだ。

 

 (……わたしに似ているっていう話だけど……そんな理由で嬪御にさせられるなんて、お気の毒なこと)


 陰麗華は魏宮人をしげしげと眺めるが、自分に似ているかどうかは、わからなかった。ただその左腕に光る銀環が、彼女と夫との関係をはっきりと示していて、陰麗華の胸の内にドロドロしたものがたまっていく。つい、左手の銀の指環に右手で握り締める。


 ――後宮でね、天子様のお手がついた女は、銀の指環を嵌めるんだって聞いた。僕は君以外の女に手をつけるつもりはないけど、君がこれをつけてくれると思えば、安心できる――


 いつかの、文叔の言葉。他の男に嫁ぐ寸前だった陰麗華を、半ば無理矢理に奪ってこの指環を渡してきた。君はもう、僕のものだと言って。


 繰り返されたいくつもの誓いも、愛の言葉も、すべて破り捨てられ、踏みにじられていく。 

 銀の指環ではなく、腕環にしたのは、文叔の僅かに残った良心なのか。それとも誤魔化しか。

 言われるままに指環を外せない自分は、本当に愚かな女だ。


 ああでも、あの人はもう、ただの劉文叔ではなく、皇帝なのだから――。


 「もう一人の方はよろしいのかしら」


 陰麗華の背後から、趙夫人の声がかかり、陰麗華がハッと我に返る。周囲を見回せば、唐宮人は宦官に連れられて長秋宮の奥へと向かっていた。陰麗華の視線に気づいた雪香が言った。


 「彼女はこの後、長秋宮様に呼び出されていますから。ホラ、例の問題で」


 雪香が自分の左腕の銀環を示す。


 「大騒ぎだったんですよ? 魏宮人とわたしのところにだけ、掖庭令の陸宣さまがコレを持ってこられた時は。ズカズカやってきて、どうして自分にはないのかって。唐宮人様にはご寵愛が確認できないので、ありません、て陸宣さまが仰ったら、もう、暴れて!」


 雪香が黒い瞳を悪戯っぽく煌かせながら、さも面白そうに言う。陰麗華が両手で胸を押え、趙夫人が食いついた。


 「暴れるって? あらやだ、名家の出なんじゃないの?」

 「雒陽の商家の出だと聞いてます。戦争で商売が立ちいかなくなって、後宮に入ったみたいですけど。唐宮人は自信満々だったんです。わたしたち三人の中で、自分だけが生娘だし、自分が一番美人だから、絶対に陛下の寵愛がいただけて、皇子を産んでって。……フフフ、取らぬ狸の皮算用、ってやつでしょうか?ところが――」


 ここで、雪香が声を落とし、顔を乗り出すようにして小声で言った。


 「あの人、死んだ魚みたいに寝てるだけだったんですって。もしかしたら初心ウブなフリして陛下を惹きつけるつもりだったのかもしれませんけど、陛下が面倒くさいからって途中で帰っちゃった!」

 

 ぷぷっと両手で口元を覆って、雪香が笑い、趙夫人も袖口で口元を覆ってクククと笑う。


 「あらまあ、意外と気が短いのねぇ、陛下も」

 「そうなんですよ! とにかく、ご寵愛があったとは認めてもらえなくて。当然、銀環ももらえなくてすっごくゴネて、もう一度陛下にお渡りしてもらいたい、今度こそちゃんとやるって、掖庭宮の宦官に向かって暴れたんですよ。それで陸宣さんが辟易して、陛下のご意向を伺ったそうです。そしたら!」

 「『以後は召すに及ばず』……」 

 

 陰麗華は何かが引っかかった。わざわざ、朝請の場で明かすなんて、陸宣も陸宣である。あんな場で暴露しなくても……。陰麗華は何となくモヤモヤしていたが、趙夫人は気にもせずに、雪香に問いかける。

 

 「許宮人も魏宮人も、ご寵愛の証の銀環を賜っているのに、自分だけがもらえないんじゃねぇ……」

 「そうなんです。魏宮人にはもっと露骨に突っかかって……ねぇ?」


 雪香がちらりと同輩を振り返れば、魏宮人が困ったように頷く。


 「わたしみたいな下賤な、それも()()()を寵愛して、自分を抱かないなんて、おかしいって」

 「中古品……」


 あまりの言いぐさに、陰麗華が思わず息を飲んで両手で胸を押さえる。

 

 「わ、わたしも、陛下の前で直接、とても嬪御になれるような身分でもないし、子供も一度流産しているから、ちゃんと産めないかもしれないし、ご辞退したいって申し上げたんです。そしたら、陛下は死んだ夫に操を立てているのか、とお尋ねになったので、そうではなくてと申し上げたら、ならば、一度でも自分の手が付けば、生涯生活の保障をすることができるからって……その……」


 魏宮人が申し訳なさそうに目を伏せ、上目遣いに陰麗華を見た。


 「その……陰貴人様も公にはしていないけど、お腹の御子を亡くしておられると。もしわたしがもう一度孕んで無事に産めたら、陰貴人様にとっても希望になるかもしれないからと……本当に陰貴人様を大切に思っておられるのだと知って、わたし、感動して……」


 何かウルウルとした目で見上げられて、陰麗華はええっと硬直する。

 

 「わたしは、陰貴人様のご寵愛を奪おうとか、そんな大それたことは考えておりません。ご不快かもしれませんが、後宮の片隅に置いていただければ……」


 恐縮そうに頭を下げる魏宮人に、陰麗華は慌てて言う。


 「いえ、そんな……この後もよく陛下にお仕えしてください……」


 陰麗華は頭を下げている二人に声をかけてから、その場を後にする。背後からついてきた趙夫人が、いかにもおかしそうに言った。


 「陛下も本当に、策士ねぇ……」

 「ええ?」


 意味が分からずに趙夫人の顔を見れば、いつもの余裕のある笑みで、趙夫人が頷く。


 「後宮みたいな閉ざされた場所ではね、いろんな欝憤が溜まっているのよ。いつも誰か、嫉妬ややっかみの対象を探しているの。これまでは、それが陰麗華ちゃんだった。でも、陛下はわざと、嫉妬と嘲笑の的を新たに作ったんじゃないかしら」

 「……それが、唐宮人?」


 陰麗華の問いに、趙夫人が喉の奥でクククと笑う。

 

 「考えてもごらんなさいよ。この間まで、同輩の采女だったのよ? それが一人だけ嬪御に取り立てられた。采女とは待遇も段違い、俸給は上がるし個室ももらえる、配給される衣類の格も上がった。羨ましい、妬ましいと思っていたら、蓋を開けたら一人だけ寵愛してもらえなくて、目立つ銀環ももらえない。つまり曝し上げよね? みっともないなんてもんじゃないわ。しかも、皇后の推薦だからって格下げもされず、でもお召しはないのも確定なのよ。わざわざ、陸宣に朝請の場で暴露させるなんて……陰麗華ちゃんへの批判を逸らすためだとしても、陛下ったら相当に性格がお悪いわね!」

 「わたしのため?……まさかそんな……」


 陰麗華のギョッとした表情を見て、趙夫人は綺麗に整えられた指先を口元に当て、オホホホホと笑った。



 

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