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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第九章 鴛鴦は梁に在り
62/130

皇后

白華菅兮、白茅束兮。之子之遠、俾我獨兮。

英英白雲、露彼菅茅。天步艱難、之子不猶。

鴛鴦在梁、戢其左翼。之子無良、二三其德。

有扁斯石、履之卑兮。之子之遠、俾我疧兮。

   ――『詩経』小雅・魚藻之什・白華



白華のかや白茅はくぼうつかぬ。

の子の遠ざかる、我をして獨りならしむ。


英英たる白雲、彼の菅茅に露す。

天步 艱難かんなんなるも、之の子ははからず。



鴛鴦えんおうはりに在り、其の左翼をおさむ。

之の子良きこと無し、其の德を二三にす。


へんたる石有りて、之をめばひくし。

之の子の遠ざかる、我をしてましむ。


  白いかやを水に浸して、白いちがやでこれを束ねる。

  あの人は遠く離れて、私は捨てられてしまった。


  沸き起こる白い雲が、束ねたかやちがやに露を落とす。

  日々の暮らしは辛くとも、あの人は何もしてくれない。


  鴛鴦は梁に羽を休め、仲睦まじく寄り添い合っている。

  (私はそれを遥か下から眺めているだけ)

  あの人は私につれなくて、何人もの女に言い寄っていた。


  踏みつけられた平らな石を、さらに踏んで踏みつけて

  あの人は遠ざかり、私をさらに嘆かせる。 



************************



 郭聖通の立后が決まり、雒陽の南宮の後宮も慌ただしさを増した。

 前漢以来の伝統に従い、皇后の住まう和歓殿は「長秋宮」または「中宮ちゅうきゅう」と呼ばれる。中宮に付属する官属の態勢も整い、その長官である大長秋には、掖庭令の孫礼が就任した。新たな掖庭令には陸宣が昇格し、また大長秋・孫礼とのバランスを取るため、文叔は黄門令の鄭麓を中常侍に昇格させた。――孫礼の官秩だけが突出して高くなるのを防ぐためである。


 建武二年六月戊戌、南宮の正殿である却非殿の前殿に百官が整列し、皇帝臨軒(*1)の上、郭皇后冊立の儀が重々しく執り行われた。皇帝のみことのりが読み上げられ、大司空宋弘が節(*2)を持して皇后の璽綬(*3)を奉じ、郭貴人に璽綬を受け渡す。皇后冊立儀礼には、陰麗華ももちろん貴人として参列して、文叔の帝国の威容を、ぼんやりと眺めていた。


 「皇后の尊、帝と体をひとしくし、天地に供奉し、宗廟を祇承し、天下に母臨す。長秋宮 け、中宮位をむなしくす。郭貴人は淑媛のり、河山の儀を体し、威容昭曜して、徳は後庭に冠たり。群寮のはかる所、な曰く、よろしきかなと。今 大司空弘をして節を持して璽綬を奉ぜしめ、宗正延(*4)をして副と為し、貴人を立てて皇后と為さん。后は其れ往きての位をみ、つつしみて礼典を宗とし、つつしみて中饋ちゅうきを慎しみ、朕がめいすたらしむる無く、ながく天禄を終えんことを」(*5)


 詔の読み上げが終わると、大司空が節、と呼ばれる天子の大権を象徴する旗指物を持った従者を従え、きざはしを登って殿上に進み出る。


 (……ああ、あの人、大司空だったのね)


 前殿の下から見上げて、陰麗華は先日、部屋にやってきた、名の知らない四十がらみの男性だと気づいた。大司空宋弘は大長秋の孫礼に皇后の璽綬を恭しく受け渡し、節とともに下がっていく。今度は女史、と呼ばれる後宮の女官が進み出て、孫礼から璽綬を受け取る。孫礼が下がると、陰麗華の背後の典礼官が囁いた。


 「陰貴人様、次です」


 陰麗華は頷いて立ち上がり、ゆっくりと殿上への階段を上る。殿庭には正装した百官がずらりと並んで、陰麗華の一挙手一投足を見つめている。心臓がバクバクして足が震えたけれど、何とか教えられた場所に辿りついて、まずは玉座の皇帝に向かい跪拝する。向きを変えて、女史より璽綬の入った漆塗りの函を受け取り、陰麗華はそれを押し戴くようにして捧げ持ち、北面して皇帝の正面に立つ郭聖通の前に進み出た。


 立后の儀礼において、皇后の璽綬を帯びさせるのは最も位の高い妃嬪の役目であると聞き、はじめ、文叔はそんな役目を陰麗華に押し付けるのを拒否した。儀式そのものを簡略化し、陰麗華には参列する必要はないとまで言った。しかし、他ならぬ陰貴人が当日、立后の儀に参列しなければ、かえって憶測を生むと李次元らに反対され、陰麗華も璽綬を帯びさせる役目を了承したのである。

 

 皇后となった郭聖通は紺の上着にくろい裙を着、襟と袖口の縁飾りには絹糸を平たく織ったじょう(真田紐)が使用されている。頭上には黄金に真珠と翡翠をあしらい、真珠の長い珥珠が垂れる金釵がいくつも揺れている。本来は黄金の山を模した冠を被るらしいが、現在の雒陽にそんなものはない。窮余の策だが、それでも郭聖通の皇后として威厳は損なわれてはいなかった。


 対して陰麗華ははなだ色の上下に、髪には玳瑁たいまいかんざし珥璫みみだまから垂れる真珠の垂珠は、いつもよりも小ぶりの珠を、しかし普段よりも数を増やして長く垂らしている。――文叔が昨日、わざわざ作らせたと言って持ってきたのだ。陰麗華は郭聖通の向かい、恭しく璽綬の函を捧げて跪き、函を置いてから深々と叩頭した。


 「あなたが引き受けてくださって、感謝します」

 

 郭聖通が陰麗華にだけ聞こえるような小声で言えば、陰麗華も軽く微笑んだ。


 「いえ、わたしも光栄に存じます」


 陰麗華は事前に教えられた作法通りに玉璽を取り出し、ずっしりと重いそれを押し戴くようにして、郭聖通に手渡す。それから璽に結びつけられた長く伸びた赤いくみひもを手繰り寄せ、跪いたまま、郭聖通の腰帯に一巡りさせて結び付ける。皇后の璽綬を帯びれば、郭聖通は名実ともに皇后になる。跪いた状態から見上げる郭聖通は凛として、天子の妻たる威厳に満ちていた。


 皇后の尊、帝と体をひとしくす――。


 先ほどの、詔に言葉が陰麗華の脳裏に蘇る。そう、さいは、さい。夫とひとしい、ただ一人の存在。


 『一たびこれひとしくなれば、終身改めず。故に、夫死すとも嫁がず、男子は親迎す。』


 文叔が経典の言葉を引いて、陰麗華を〈親迎〉したのは、ちょうど三年前の同じ六月のこと。今、夫とひとしい存在となったのは、自分ではなく、この人なのだ――。


 ふいに胸が苦しくなり、目の奥に涙が滲んできた。陰麗華は慌てて我に返り、素早く結びつけた綬を手繰って、郭聖通の襟の中に入れる。そうしてまた深く一礼してから、空になった函を手に向きを変え、下がろうとして顔をあげれば、正面の玉座に南面して立つ文叔と目が合った。


 劉氏冠とも呼ばれる長冠に、黒地に刺繍を散りばめた最大限に豪華な――それでも前漢の諸帝が着ていたものの華麗さには遠く及ばない――衣裳を纏い、文叔は陰麗華を見つめていた。

 ――皇后になる郭聖通ではなく、その前に跪いて綬を結びつける陰麗華を。本来ならば、彼のただ一人のひとしい妻だったはずの、かつての妻を。

 文叔の黒い眼はまっすぐに陰麗華を貫く厳しさがあって、そして整った顔は苦悩に歪んでいるように見えた。


 ほんの数瞬、殿上で絡まり合う視線。先に外したのは文叔であった。陰麗華も何事もなかったように踵を返し、きざはしを降りて元の場所に戻る。 


 陰麗華が殿上から去れば、璽綬を帯びた郭聖通が前へ進み出て、皇帝に向かって跪いた。


 皇后の冊立を祝い、群臣が「万歳」を称する。却非殿を揺るがす「万歳」の歓呼の声を聴きながら、陰麗華はとうとう、自分と文叔は真の意味では夫婦ではなくなったのだと感じた。

 




 


 郭聖通を皇后に立てざるを得なかったこと、何より、陰麗華本人の口から郭聖通の立后を願い出る状況に追い込んだことを、文叔は非常な負い目に感じているらしく、幾度もそれに対する詫びを口にした。


 「僕は本当に自分が情けない。……君を、こんな立場に置くつもりではなかった。約束する、僕は必ず、いつかは君を――」


 それ以上はいろいろと不都合のありそうな気がして、陰麗華は白い指を文叔の唇に当てて、口を封じた。


 「……もういいのです。わたしは皇后なんて柄じゃありませんし……もう、仰らないで。それより――」


 文叔の膝の上に乗せられた状態で、陰麗華が気まずそうに周囲を見回す。

 風が池の上を渡って、ヒラヒラと緑の葉が目の前を散り落ちていく。池の水面をさざ波が夏の陽光を反射して眩く輝く。


 「……よろしいのですか、昼間っからこんな。お仕事の方は大丈夫ですの?」

 「うーん、今はとりあえず小休止かな。やることは多いけど、戦争は将軍たちに任せてあるし、支配地域が狭いから、中央が決めても命令は行きわたらないしねー。李次元や朱仲先にも、あんまり働き過ぎるなって叱られるからさ」


 却非殿からほど近い、池のある庭園のあずまや――陰麗華が郭聖通に突撃された亭である――で、文叔は陰麗華を膝に乗せ、背後から抱き込むようにして言った。最近、文叔は時間を見つけると、陰麗華を連れて庭園を散策し、その後、昼間っから膝に乗っけていちゃつこうとする。……物堅い母に育てられた陰麗華は、誰かに見られたらと思うだけで、気が気ではなかった。


 「……だからと言って、昼間っから庭園で女といちゃつくのは、よろしくないのでは……」

 「別に奥さんと仲良くして、悪いことはないだろう?」 

 

 文叔は陰麗華の耳元で揺れる、真珠の垂珠を片手で弾きながら言う。


 「それに――よく考えたらさ、君とこうやって、ゆっくり過ごす時間もなかったと思って。婚約した後は戦争戦争で……せっかく再会できたんだから、離れていた分も取り戻したい」


 文叔の左手が、陰麗華の左手を掴んで、薬指の指環に触れる。


 「愛してる……」


 耳元で囁かれて、陰麗華は首筋まで真っ赤になって俯く。


 「文叔さま、こんなところで……」

 

 恥ずかしいからやめてと、陰麗華が身を捩るが、文叔は意に介さず、抱きしめる腕にさらに力を籠める。


 「いいんだよ、僕が本当に愛しているのが誰か、ちゃんと群臣に示しておかないと――」

 「でも……!」

 「あいつら、皇后を立てろとうるさいから皇后を立てたら、今度は子供が二人では少ないときた。陰貴人の子はまだかってね! 孕みにくい体質なら、別の女をと口走った奴は、もう少しでぶん殴るところだった」


 その言葉に、文叔の腕の中でもがいていた陰麗華の動きが止まる。文叔の顔を恐る恐る見る陰麗華に、文叔は困ったように眉尻を下げて微笑んだ。


 「気にしなくていいよ、奴らの言うことなんて。……僕は君だけだ。他の女なんていらない。だから――」

 

 文叔の唇が陰麗華の唇を塞ぎ、だがすぐに離れて頬から耳元へと滑っていく。


 「そろそろ僕を信じて、夜の方も受け入れてくれないか」

 「……それは……」


 思わず顔を背けた陰麗華の首筋を、文叔の唇が這う。


 「僕も聖人君子じゃないから、愛しい女と毎晩、同衾だけではそろそろ辛い。――君を裏切った僕への罰は、まだ足りない?」


 陰麗華ははっとして文叔の腕を両手で掴んで腕をつっぱり、文叔を睨んだ。


 「なっ……別に、あなたへの罰ってわけでは……ただわたしが……」


 最後まで言えずに俯いてしまった陰麗華の顎に手をかけて、文叔は陰麗華の顔を上に向け、正面から見つめる。


 「でも、君は僕が辛いと思っているのに気づいているんだろう?」

 

 陰麗華は反論できずに目を逸らす。

 毎晩のように拒否されて、文叔が辛そうに溜息を零すのを陰麗華は知っている。でも――。


 恐怖心が完全に消えたわけではないが、再会直後のような、圧し掛かられただけで錯乱するほどの衝撃はもう、感じない。陰麗華が拒めば、それ以上交わりを求めないでいてくれる文叔の優しさだけが、幾千もの愛の言葉よりも、今の陰麗華には彼の愛そのものに思われて、陰麗華はつい、文叔を拒み、そうして文叔が引いてくれることにホッとするのだった。


 試しているのかと言われたら、そうかもしれないと思う。


 「その……ほかの方もいらっしゃるわけですから、そちらにお泊りになれば――」

 「僕は女が欲しいんじゃなくて、君が欲しいんだよ。身体の欲を満たしたいわけじゃないと信じてもらうためにも、僕は他の女の元にはいけない。その誠意だけはわかってもらいたい」


 真剣な瞳でまっすぐに見つめられ、負い目のある陰麗華は目を伏せる。


 「申し訳……」

 「謝らないで。……君が受け入れてくれるまで無理強いはしない、郭聖通も抱かないと決めたのは僕だ。ただ僕は、愛しているのは君一人だと、君に信じてもらいたいだけなんだ」


 そう言ってもう一度抱きしめられ、陰麗華は文叔の腕の中で小さく溜息をついた。


 文叔は郭聖通を立后した後も、彼女と閨を共にしていない。――立后の儀式の夜くらいは、さすがに長秋宮に泊まると思ったのに、宴会の後まっすぐ陰麗華の部屋に戻ってきてしまい、陰麗華は真っ青になった。


 『いくら何でも、あちら様に不実でございます』


 陰麗華は苦言を呈するけれど、文叔は聞かなかった。


 『僕は自分の意志に反して彼女を皇后に立てざるを得なかった。これ以上譲るのは嫌だ』


 まるで意地になったかのように、その夜も陰麗華の部屋で何もせずに眠り、翌朝は早朝から政務をこなした。文叔の優しさに甘え、愛を試すようなことをしている自分は卑怯だという、自覚はあった。何より、仮にも皇帝の貴人でありながら、夜の営みを拒んでいることが他に知られたら、おそらく大問題になるだろうと、恐ろしい気もした。







 郭聖通の立后によって、後宮の秩序も明らかになり、皇后不在のために行われなかった、朔(一日)と望(十五日)の朝請も始まった。和歓殿あらため長秋宮の前殿に皇后郭氏が出御し、貴人以下、後宮の住人が集合する一種の朝礼である。現在のところ貴人も陰麗華一人だけ。大長秋、掖庭令、そして永巷令以下の宦官、女史以下の女官も数も少なく、簡素なものであった。


 初めての朝請の時、郭聖通はがらんとした堂を見回して、陰麗華に向かってにこやかに言った。


 「天下統一は道半ばとはいえ、これはいくら何でも寂しい事態と言うべきよね。やはりもっと、陛下のお側には女性たちが必要とは思わなくて?」

 「えっと……その……仕事の量に比べて人が少ないということですか?」

 「そうではなくて、陛下にはもっと多くのお子が必要ということよ。陛下のお側に侍るに相応しい徳を備えた、優れた女性を探し出し、陛下のお子を産んでもらわなければ。そうでしょう、陰貴人。――あなたが洛陽にやってきてかれこれ半年以上たつのに、まだ妊娠の兆候はないのかしら。いえ、責めているわけではないの。子供のことはやはり天の命だから。ただ――」


 郭聖通は嫣然と微笑んで、周囲を見回す。


 「この半年、陛下はあなたのところで一番多くお過ごしになられた。わたくしが妊娠中だったこともあって、陛下のご寵愛の恩徳はあなたお独りの上にあったのに――それでも御子の恵みがないというのは。陛下のご寵愛を他にも譲るべきだと思うのよ。そうすれば、陛下のお子も増えて、漢の御代の栄えにもなると言うものです。……ね、そうでしょう?」

 

 皇帝の閨を独占しているくせに、いまだに孕まない陰麗華に対しての郭聖通の厭味に、周囲の女たちもヒソヒソと囁き合う。後宮に住まいする者にとって、皇帝が非常識にも陰麗華を却非殿の後殿に留め置き、毎晩、彼女のもとで過ごすというのは周知の事実であった。第二子を出産して皇后に冊立されたものの、陰麗華が雒陽に来て以来、郭聖通の部屋にほとんど通っていないのも、皆知っている。


 陰麗華の背筋に、冷たい汗が流れる。

 子ができないのは当たり前である。文叔と再会して以来、まだ夫婦の行為に及んでいない。陰麗華がどう答えるべきか戸惑っていると、陰麗華から少し下がって控えていた趙夫人が口を挟む。


 「畏れながら、それもまた、天の命でございましょう。……長秋宮さまにおかれましては、すでに二人の皇子をお生み奉り、漢の継嗣も安泰でございます。あまりに歳の近い異母兄弟が続いても、継嗣を混乱させるもと。天命と陛下の心遣い故と、わたくしなどは感嘆しております」

 「……まあ、それはそうかもしれないわね」


 郭聖通も素直に頷き、慈愛溢れる笑みを浮かべ、言った。


 「ですが、この宮にも陛下のご寵愛を受けるに相応しい徳のある者がまだ、隠れているかもしれません。もしそのような優れた女性がいたら、もちろん陛下にご推薦申し上げなければ。そうしてこそ初めて〈白華〉の恨み(*6)を防ぐことができると言うもの。……特に陰貴人、あなたは陛下にお目通りする機会も格段に多いのですから、陛下の耳目が広がるよう、何かにつけてよくお導きになって。陛下の恩徳は多くの者と分け合ってこそ。……そうでしょう?」


 もう一度名指しで呼びかけられ、陰麗華はびくりと肩を震わす。いい女がいれば皇帝に薦めろと言われても、陰麗華は混乱するばかりだ。


 「そ、その……どのような女性が相応しいのか、わたくしのような才の浅い者には見分けられませず……」

 「んまあ、ご謙遜を……!」


 郭聖通が白い手を口元に当て、ころころと鈴を転がすように笑った。


 「この半年というもの、陛下はあなたに夢中よ? あなたのような方がお好みに決まっているじゃない。違っていて?」

 「い、いえ、そのようなことは……」

 「陰貴人は容姿も後宮に冠絶するほど美しいけれど、謙虚なお人柄もまた、陛下のお気持ちに適ったのでしょうね。陛下から皇后にと言われて、でも子のないことを理由にわたくしに譲ってくださった。わたくしが今、こうして皆の前に立てるのも全て、陰貴人のおかげよ? 皆も、陰貴人をよーくご覧になって。陛下のお好みはこういう方よ。もちろん、見かけだけではダメよ? 徳目や教養も、陰貴人のように素晴らしい方がいたら、是非、わたくしのところに寄越してくださいな」


 周囲の女たちからの値踏みするよな視線と、郭聖通の柔らかな声の奥に潜む棘が、陰麗華の皮膚をチリチリと刺して、陰麗華は思わず唾を飲み込んだ。


 そう、この状況こそ要するに、針のムシロ――。


 

*1

臨軒:天子が自ら儀式に臨むこと。


*2

節: 天子の大権を象徴する旗指物。


*3

璽綬:皇后の印璽とその紐。位によって、綬の色と長さが異なる。


*4

宗正:皇族のことを担当する官職。劉氏の一族がついた。建武初期の宗正は劉延(『後漢書』馮衍伝にみえる)) 


*5

立皇后の詔は、『続漢書』礼儀志中の劉昭注補が引用する蔡質『漢官典儀』の「立宋皇后儀」を改変した。ちなみに、その原文(立后儀礼の部分のみ)は以下のとおりである。(台湾中央研究院漢籍電子文献より引用http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw) 


維建寧四年七月乙未、制詔、『皇后之尊、與帝齊體、供奉天地、祗承宗廟、母臨天下。故有莘興殷、姜任母周、二代之隆、蓋有内德。長秋宮闕、中宮曠位。宋貴人秉淑媛之懿、體河山之儀、威容昭曜、德冠後庭。羣寮所咨、僉曰宜哉。卜之蓍龜、卦得承乾。有司奏議、宜稱紱組、以母兆民。今使太尉襲使持節奉璽綬、宗正祖為副、立貴人為皇后。后其往踐爾位、敬宗禮典、肅慎中饋、無替朕命、永終天祿。』皇后初即位章德殿、太尉使持節奉璽綬、天子臨軒、百官陪位。皇后北面、太尉住蓋下、東向、宗正・大長秋西向。宗正讀策文畢、皇后拜、稱臣妾、畢、住位。太尉襲授璽綬、中常侍長秋太僕高郷侯覽長跪受璽綬、奏於殿前、女史授婕妤、婕妤長跪受、以授昭儀、昭儀受、長跪以帶皇后。皇后伏、起拜、稱臣妾。訖、黄門鼓吹三通。鳴鼓畢、羣臣以次出。后即位、大赦天下。皇后秩比國王、即位威儀、赤紱玉璽。


宋皇后は後漢末霊帝の皇后(後廃位)なので、官職等、後漢初期の状況に会わない部分(太尉→大司空、章徳殿→却非殿)と変更した。また後漢にはないはずの婕妤、昭儀が登場するのは謎ではあるが、前漢以来の儀注が色濃く残っていたと考え、「最も位の高い妃嬪が綬を帯びさせる」と解釈した。詔勅の中でも経典を引用している部分は、説明が煩雑になるので省いている。


*6

白華の恨み:詩経・小雅の詩〈白華〉。後宮で打ち捨てられた女の詩とも言われる。



追記:詔勅部分超訳

「皇后の尊厳は皇帝と一心同体であり、皇帝とともに天地を奉じ、皇帝の宗廟みたまやに仕え、天下の母として君臨する。今、皇后は空位で皇后の住む宮殿は誰もいない。郭貴人は淑女と徳を備え、(皇帝=天に対する)地を体現して、その容姿も光り輝くよう、その徳は後宮で一番である。群臣に相談したところ、皆、(郭貴人が)よろしいと言う。今、大司空の宋弘に節を委ねて皇后の璽綬を受け渡させ、宗正の劉延をその副使に命じ、郭貴人を立后して皇后とする。皇后は位につき、礼典を尊び、婦人の仕事に勤めて、私の命令を忽せにせず、天命を終えることを願う。」


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