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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第八章 肅肅として宵に征き
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変わりしもの、変わらざるもの

 脩武での視察を終え、皇帝の一行は再び孟津の渡し場に向かう。

 兄の陰次伯は執金吾・賈君文将軍の副将として南方、えん尹遵いんじゅんの討伐に向かうので、陰麗華は脩武で兄と別れた。

 

 「お兄様、ご武運を」

 「ああ、お前も気をつけて」


 南陽から出てきて四か月。陰次伯は遠征を経験して、見違えるように逞しくなって、武装もサマになっていた。陰麗華は文叔のために縫った絮衣わたいれを一枚、兄に渡していたが、もちろん文叔は面白くなさそうな顔で、陰次伯に言った。


 「次伯も早く結婚して、絮衣は奥さんに縫ってもらえよ」

 「……それは……朱仲先将軍が身を固めたらにします」

 「俺が?」


 急に話を振られた朱仲先が大きなギョロ目をさらに剥いた。


 「仲先はさ、別れた奥さんが忘れられないんだよ」


 文叔が言えば、朱仲先がブンブンと首を振る。


 「そんなことはない! あいつも今は幸せにやってるんだ。昔の女房に纏綿てんめんとするなんて、誰かさんじゃあるまいし。俺はすっぱり離縁したんだからな」

 「失礼な。陰麗華は昔も今も変わらず、僕の女房だ」


 不満そうに文叔が漏らして、大きな手で陰麗華の背中をするりと撫で、驚いて振り向いた陰麗華に向かって、にっこりと微笑んだ。



 

 

 


 事件は、孟津の渡し場に向かう途中で起きた。

 皇帝の一行は建威大将軍耿伯昭と建義大将軍朱仲先の二つの軍で前後を挟み、殿しんがりを馮公孫将軍が務める。皇帝と陰麗華の乗る馬車を、親衛の羽林騎で囲んで守って進む。馬車の横には黄門侍郎の陰君陵と、輔漢将軍の于匡、そして復漢将軍の鄧曄が騎馬で従い、さらに数台の馬車と輜重が続く。何事もなく進んでいた行列が、突如足を止めた。


 「下がれ、何者だ! 皇帝陛下の行列と知ってのことか! 斬り捨てるぞ!」


 先頭近くを行く耿伯昭が、行列の前を横切った女を避けようと慌てて手綱を引き、馬が後ろ脚立ちになる。周囲の馬脚が乱れ、一瞬、騒然とする。


 「馬鹿野郎、こんなところに飛び出していきやがって……へえ、申し訳ございません、とんだ粗相を……」


 砂埃の舞う道の真ん中に座り込ん若い女を、髭面の、いかにも柄の悪い男たち三人が追いかけてきて、女の腕のを掴み、引きずって戻ろうとする。


 「やめろ、皇帝陛下の御前で、狼藉は許さん」


 耿伯昭が馬を進めて剣を抜き、男たちと女とを引き離す。


 「いや、こいつは俺の小妻でございまして、まあ、ほんの痴話喧嘩で……」

 「違います、わたしは騙されて売られたんです!」

 

 女の甲高い悲鳴は、風にのって陰麗華たちの乗る馬車にまで聞こえ、陰麗華が思わず垂れ幕を開けて外を覗く。陰君陵が慌てて声をかける。


 「姉さん、出てきたらダメだ」

 「でも、すごい悲鳴よ?ただ事には聞こえないわ」


 文叔も精悍な眉を顰め、外の近侍に命ずる。


 「馬車を前に出せ。騒ぎを起こした者はそのまま逃げないように命じておけ」

 「しかし陛下」

 「いいから早くしろ」


 陰君陵が止めるが命令は下り、仕方なく鄧曄らは周囲の騎士たちに道を開けさせる。騎馬隊が両脇に避けた間を、皇帝の馬車がゆっくり進んで、耿伯昭のいる先頭まで進んだ。


 「陛下、あなたが出張るほどのことでも――」

 「ただごとではない悲鳴だった。何が起きた」


 皇帝、劉文叔が馬車の垂れ幕を開け、顔を覗かせる。行列を横切った女は腰が抜けたようにぺったりと膝をつき、ガタガタと震えている。追いかけてきた男たち三人は互いに顔を見合わせ、こちらはふてぶてしく肩を竦める。耿伯昭が一喝した。


 「皇帝陛下の御前である!が高い!」

 「へ、へぇ!」


 男たちが慌てて地面に這いつくばるように頭を下げる。文叔は赤い斗篷マントを捌いて身軽に馬車を降り、陰麗華に手を貸して降りるのを手伝ってやる。馬車は軍旅だけあって飾りの少ない質実な雰囲気ながら、周囲を覆う幕にも錦が使用され、使用者の権力を象徴していた。その奥から現れた〈皇帝〉の威厳と彼が寵愛しているらしい女の可憐な姿に、男達が息を飲み、思わず喉を鳴らす。

 

 「悲鳴を聞いて私の妻が怯えている。何事か」

 「へえ、この女が……その、俺の小妻なんでございますが、脱走いたしまして……」

 「違います! わたしはこんな男の妻ではありません! この人が無理矢理……」

 「何言ってやがる! おめぇは二百銭で売られてきたんだ! 証文だってあらあ! いい加減、諦めて――」


 やり取りの端々から滲む女の悲惨な境遇に、陰麗華が思わず顔を背け、文叔の胸に顔を埋める。


 「状況がよくわからん。それに、二百銭というのはあまりに安くないか? その取引は本当に適正なものか?」

 「騙されたんです!この人たちはわたしの夫を騙して、わたしを買い取ったんです!わたしは故郷に帰りたくて――」

 「黙れ! 余計なことを言うんじゃねぇ!」


 三人の男たちのうち、首領らしい髭面の男が女に殴りかかろうとして、素早く取り囲んでいた兵士たちに取り押さえられる。


 「やめろ! 陛下の御前で見苦しい!」

 

 耿伯昭が剣で男たちを威嚇すれば、男たちはははあ、っと畏まって頭を下げる。


 「お、俺たちはその――脩武周辺で荷駄の輸送を請け負っているもんで……以前は檀郷に参加してたんですが、漢軍に降伏したんでごぜえます。この女は食い詰めた書生が、命欲しさにてめえの女房を売っぱらったんでさ。んで、俺が面倒見てやっているでございますよ」

 「違います! あなたたちは金を用立てると言って、あの人を騙して――」

 「ああもう、御前で控えろ、馬鹿者が!」


 あまりに生々しい話に陰麗華の細い肩が震えて、文叔がその肩を抱き寄せ、耿伯昭も陰麗華の耳に入れるべき話でないと、両者の間に割って入る。

 文叔は凛々しい眉をぐっと寄せていた。飢饉と戦乱で郷里の日常は破壊され、飢えと貧困が蔓延していた。土地を手放して放浪する者や、土地に縋りつくために僅かな代償で女房や子供を売り飛ばし、当座の糊口を凌ぐ者も後を絶たない。騙されて売られたのだ、と言い張る女は、なるほど、衣服はみすぼらしく、顔も髪も手足も泥と砂で汚れているが、もとの容貌はそれなりと思われた。年の頃は二十歳前後、彼女を売ったのは夫か、あるいは婚家の義父母かもしれない。


 「――あまりにお気の毒です。何とか、なりませんか?」


 陰麗華が文叔の耳元で、小声で囁いた。文叔は眉間に皺を寄せたまま、女をじっと見た。


 「こういうのをいちいち助けていたら、キリがないんだがな。……でも、君がそう言うならば」


 文叔は小声で答え、髭面の男に問いかける。

 

 「契約の金額は二百銭だと言ったな。ならば、その倍額を支払おう。私の署名のある符を渡すから、それを持って脩武の呉子顔将軍の元に出頭すれば、四百銭を支払うように命令しておく」

 「いや、それは――」

 

 男たちが渋るのを、耿伯昭が剣を振り回して脅しつける。


 「陛下のご厚情を何と心得る。タダで取り上げてやってもいいんだぞ?」

 「しかし――」


 脇に控えていた陰君陵が懐にしまっておいた木簡を出し、矢立から出した筆とともに文叔に手渡す。文叔がサラサラと木簡に書いて陰君陵に手渡せば、受け取った君陵が髭面の男たちにそれを渡した。一方、文叔が別の兵士の耳元で何事か囁き、兵士は一礼してすぐに下がって行った。


 「出発するぞ。あの女を保護し、孟津の渡し場で事情を聴く」

 

 文叔が命令を下し、騎馬隊からゆっくりと動き始める。文叔と陰麗華も馬車に戻り、静かに出発を待った。





 

 「よろしかったのですか? 四百銭も支払って……」


 ガラガラと揺れる馬車の、幕に覆われた中で陰麗華が尋ねれば、文叔はふっと笑った。馬車の中は薄暗く、互いの表情は見えない。


 「君がそうしろと言ったんじゃないか」

 「それは……そうですけれど、よろしかったのかと――」


 不安そうに睫毛を伏せる陰麗華を、文叔が微笑んで抱き寄せる。


 「呉子顔には人身売買について、調査を命じた。あの髭面の男が四百銭が惜しくて出頭したら最後、呉子顔が奴らを逮捕するだろう。……さあ、どう出るかな?」


 文叔は陰麗華の顔に唇を近づけ、こめかみに口づける。


 「しかしゾッとするな。生きるためとはいえ、妻を二百銭ぽっちで売るだなんて……」

 「陛下、こんなところでは……」


 身を捩って逃げようとする陰麗華に、文叔はわざとらしく溜息をつく。


 「僕の奥さんは強情だな、本当に」


 そう言ってから、文叔は話を変えた。


 「冗談抜きに、妻子を売り払ってしまう夫は多いんだ。脅されたり強いられたり――売られた方の艱難かんなん辛苦は言葉では言えない」

 「酷い話ですね」

 「世の中、酷い夫がいるもんだろ。……僕も人のことは言えないが」


 文叔は陰麗華を抱き寄せ、髪の香りを吸い込むようにして、溜息をつく。


 「この戦乱で、多くの民が様々な理由で隷属身分に落ちてしまった。――なんとか、故郷に帰して、もとの暮らしに戻してやりたいのだが……」

  

 抱き寄せられた陰麗華は、文叔の纏う硬く冷たい金属鎧の感触にドキリとする。

 

 「――戦争は、いつまで続きますか?」


 陰麗華が問えば、文叔は唇を額から瞼、そして頬へと滑らせて言った。


 「わからない。明けない夜はないというから、いつかは終わると思うが――」


 文叔は唇を離して、正面から陰麗華の顔をじっと見つめた。黒い瞳が、僅かに漏れる光に煌めく。


 「僕は、君を奪われたくなくて叛乱を起こした。だから、生涯をこの戦乱の終息のために捧げる義務がある。――たとえ何年かかろうとも、ね」


 文叔の唇が、陰麗華の唇を塞ぐ。車輪の音が響き渡り、振動が伝わる。

 気づけば、陰麗華は抵抗もせずに両腕で文叔の肩に縋り、彼の貪るまま、その唇を差し出していた。薄暗がりの中、背中を這い回る文叔の大きな手の感覚がやけに鮮明に伝わってくる。――記憶にあるよりも、手の皮が硬くごつごつしていた。二年以上、戦場を駆け抜け、剣と手綱を握り続けた戦う男の手。舂陵しょうりょう稼穡かしょくに勤しんでいた、穏やかで優しい男の手では、もうなかった。

 

 ぐっと力を込めて抱きしめられた時、不意に空気を切り裂くような音がして呻き声が聞こえ、馬車が止まり、悲鳴と馬のいななきが響く。周囲のざわめきに、文叔がはっと我に返った。

 鄧曄将軍の、女にしては低い声が響く。


 「敵襲だ! 馭者がやられた! 矢はあの、道の向こうからだ!」

 

 ヒュンヒュンと風を切るような、何本もの矢が飛来する音がして、命中したのか悲鳴や呻き声、そして馬脚が乱れる音、馬の嘶きとで、周囲は騒然となる。文叔は全身に緊張を漲らせ、陰麗華を庇うよう左手で抱き寄せると、右手で腰の剣の柄に触れ、位置を確かめる。


 「何事か!」

 

 鋭く叱咤した文叔に、すぐに馬車の外から陰君陵の緊迫した声がした。


 「何者かが行列に矢を。前方の部隊が襲われているようです、今、状況を――」


 言いかけた陰君陵の声を、鄧曄将軍の声が遮った。


 「前は囮だ! すぐ横からも来た!」

 「防御! 馬車を守れ! 後方の馮将軍に伝令を!」

 

 于匡が周囲の羽林騎に命令する。文叔は馬車の幕を開いて状況を確認し、すぐ横にいた陰君陵に声をかけた。


 「君陵、お前は馬車に張りついて麗華を守れ!」


 羽林騎が馬車を取り囲んで防御の態勢を固める中、街道の脇から騎馬の一団が乱入して、列が乱れ、混乱が広がる。もうもうと砂埃が上がり、金属のぶつかる音と怒号がざわめきのように広がる。


 「南陽の劉秀か! 覚悟!」


 黒い鎧を着た一段が、長槍を振るって駆け込んでくる。馬車の前にいた一騎が槍に横薙ぎにされ、すぐ後ろにいた于匡が槍で応戦するが、あまり武芸が得意ではないのか、明らかに劣勢であった。


 「相変わらず下手っくそだねぇ、もう!」

 「うるさいっ! 俺は頭脳労働専門だっ!」


 馬を寄せた鄧曄が素早く剣で切り込んで、相棒を救うために敵の槍をへし折り、剣の平で馬上の男の顔をぶっ叩けば、黒ずくめの男は馬からもんどり打って転げ落ち、ついでに横の黒ずくめを巻き込んでいく。文叔はその間に馬車の脇の従兵からげきを受け取り、馬車の前方の幕を切り裂いて視界を確保する。額に矢を受けた馭者は馬車から滑り落ち、こと切れているようだった。文叔は、あまり馬術が得意でないらしい于匡に命ずる。


 「匡、お前は馭者をしろ!」

 「承知致しました!」

 「少しずつゆるゆると動かし、万一の時は周囲を気にせずぶっ飛ばせ」

 「了解です」


 于匡が馭者台に上がる間に、文叔は馬車の脇で緊張のあまり蒼白な表情をしている陰君陵に声をかける。君陵は武芸自慢ではあるが、実戦を潜り抜けた経験はないのだ。


 「君陵! 敵の手綱を狙え!」

 「は、はいっ!」


 すでに剣を抜いていた陰君陵が、近づく凶手の手綱に向けて剣を振るう。一度目は槍で躱され、だが君陵は膂力りょりょくで槍をへし折り、次いでもう一度振りかざして手綱を切る。制御を失った騎手は、馬から雪崩落ち、隣を駆けてきた味方の馬蹄にかかり、聞くに耐えない悲鳴が響きわたった。一瞬、その声に怯んだ若い君陵を、文叔が叱咤する。


 「後ろ、来るぞ? 気を抜くな!」

 「はいっ!」


 君陵は次の襲撃者を左肩から袈裟懸けにして、血飛沫が飛ぶ。


 「ぐへぁ!」


 悲鳴と、馬の嘶き、馬蹄の響き、刃物の打ち合う音。陰麗華は間近に聞く戦闘の音と、血の匂いに頭が真っ白になり、馬車の中で身を縮め、両手を口に当てて震えていた。と、文叔が馬車の中に戻ってきて、陰麗華を強引に抱き寄せる。


 「文……?」


 今、そんなことをしている場合では――。


 と陰麗華が思った次の瞬間、陰麗華がいた馬車の後方に外部から槍が差し込まれた。文叔はそれをげきで打ち払い、左手で槍の柄を掴んでぐっと引き寄せると、馬車の幕に向かって戟の尖った部分を勢いよく突き刺す。

 

 「ぐああああ!」


 幕の向こうから男の断末魔の声がして、馬車の幕に赤い染みがみるみる広がっていく。


 「!!!」


 陰麗華はもう悲鳴すら上げることができず、必死に目を逸らして文叔の背中に縋りつく。


 「大丈夫だ! 君に手出しはさせない」


 文叔は血糊を拭きとるように戟を引き抜き、半ば失神したようになっている、陰麗華を抱き寄せる。


 砂埃の中で刃物の打ち合う音と、男たちの怒号が響く中、新たな馬蹄の音がして、聞きなれた声が響く。


 「慮外者が! 漢の皇帝陛下のお命を狙う不届き者、建義大将軍の朱祜しゅこ、字は仲先なるぞ! 俺が相手になる、来い!」

 「仲先が来た! もう大丈夫」


 文叔が血塗れになった幕を戟で切り落とすと、朱仲先率いる後方の部隊が駆け付け、刺客と交戦している状況が目に飛び込んで来る。


 「仲先! どこの手の者か確認したい、生け捕りにしろ!」

 「無茶言うな!そう簡単に捕まってはくれんよ!」


 朱仲先が向かってきた敵の剣を剣で弾き、返す刀を振り下ろし、凶手を叩き斬る。その頃には馮公孫将軍も駆け付け、不利を悟った襲撃者は次々と馬首を返して逃亡を始める。


 「敵は撃退しました。――逃亡者は馮公孫将軍の配下が追撃しています」


 朱仲先の報告に文叔は頷き、負傷者の応急手当が済み次第、出発すると命じた。幸いにも損害は軽微で、敵はおそらくは檀郷他の、河北の武装集団のいずれかであろうと。


 何事もなかったかのように動きだす馬車の中で、だが陰麗華は恐怖で身体の震えが止まらない。その細い肩を文叔が抱き寄せ、深紅の斗篷マントで覆い、背中を撫でて宥める。

 文叔と陰麗華の乗る馬車は、幕も全て取り払ってしまったから、文叔に抱き寄せられる陰麗華の姿が周囲から丸見えであった。


 「文叔さま、い、いけません、外から……」

 「でも、震えている。怖い思いをさせて、済まなかった」

 「いえ、それはいいのです。でも――」


 しかし実際、心臓はバクバクと波打って歯の根もかみ合わず、カタカタ震えている。文叔の紅い斗篷マントに包み込まれ、彼の体温を感じなければとても生きてはいられなかった。固い鎧でさえ、今は有り難くて気づけばその腕に縋りついていた。その様子を、馬車を馭しながら于匡がチラチラと振り向いて、何か言いたげであった。


 「……ちゃんと前を見て馭せよ、匡」

 「いえ、まあその――」

 「そう言えば、お前たち結婚するんだろう?」

 「ええ? 今ここで、そんな話します?」


 突然話を振られた于匡が、ちらりと視線を鄧曄将軍の方にやって、困ったような表情になる。


 「どっちから口説いたんだよ」 

 「いや、それは――まあその――」


 煮え切らない于匡の答えに、文叔が面白そうに鄧曄将軍の方を見る。


 「じゃあ、鄧曄将軍に聞くぞ?」

 「それは勘弁してくださいよ。――まあ強いて言えば、成り行き?」

 「成り行きって?」

 「いやその――まさか、初めてだとは思わないじゃないですか、ね?」

 

 于匡の返答を聞いて、文叔は腹を抱えて笑い始める。


 「うわっ何だよそれ! 最高って言うか、むしろ最低だな、匡!……聞いたか、麗華。世の中の男なんてこんなもんだ」

 

 しかし、陰麗華は文叔の斗篷マントに包み込まれたまま、首を傾げる。襲撃の恐怖と、そして命を落とした者もいると聞いて、陰麗華の胸はざわめいたままだ。それなのにこんな風に笑い転げる文叔が不謹慎だと思った。


 「文叔さま、いえ、陛下。さきほどの騒ぎで亡くなった方や、怪我を負われた方もいらっしゃるのですよ? 笑い声はお慎みなさいませ」


 その言葉に、文叔は一瞬、黒い大きな目を見開いて、于匡に向けて言った。


 「于匡、聞いたか。さすが私の愛する麗華は思いやり深い」

 「麗華お嬢様がお優しいのは昔からで――お嬢様、陛下も俺もすっかり戦場に慣れて、人の死に鈍感になってしまったんですよ。戦場では人が死ぬなんてのは当たり前すぎて、いちいち気にしていられないんです」

 「でも――陛下を守るために命を投げ出した者もおりましょう。そんな態度はよろしくありませんわ」


 陰麗華の非難の言葉に、文叔はしかし、眉尻を下げて困ったような表情をして、陰麗華の額に口づけると耳元で囁いた。


 「その通りだね。……麗華、君は昔と変わらない――」


 その後は、孟津の渡し場に着くまで、文叔は陰麗華を抱き寄せたまま何も言わなかった。


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