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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第八章 肅肅として宵に征き
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寵姫

   挿絵(By みてみん)




 黄河の北岸、孟津の渡し場は、遥かいにしえ、周の武王が悪逆非道な殷の紂王に兵を挙げた時、八百諸侯がこぞって集結した伝説に名高い場所。その渡し場まで、執金吾の賈君文将軍が出迎えに来ていた。


 黄河の北岸には漢の赤い旌旗がはためき、陽光に甲冑を煌かせた甲士が整然と居並び、皇帝・劉文叔の到着を出迎える。陰麗華はその威容を目にしただけで足が震えてしまうが、文叔は何でもないことのように彼女の腰を支えて、船を降りようとする。


 「いけません、こんな……女にかまけているように見えては、あなたの評判が――」

 「でも、他の男に君を預けるわけにはいかない。君が車に乗るまでの間だ。僕はここからは馬で行くし」


 陰麗華を抱きかかえるようにして船を降りてきた文叔を見て、すらりと背の高い、武装も華やかな将軍が、しかし悪戯っぽく笑ってヒューと口笛を吹いた。


 「聞きしに勝るってヤツですね。なるほど、そちらが例の、〈妻を娶らば陰麗華〉。想像以上の別嬪じゃねえっすか」


 兜をずらしながら眩しそうに目を眇めるのは、精悍な、少しばかり不良っぽい男。はすっぱな言葉遣いに、何となく故郷ふるさとの訛りに近いものを感じて、陰麗華は将軍をまじまじと見た。


 「お初に御意を得ます。賈復――字は君文と申します。生まれは南陽の冠軍、南陽の〈塩を守った男〉ってのは、俺のことっす。……え?知らない?マジで?」


 賈君文はかつて地元で小吏をしていた時、塩を輸送中に盗賊に襲われ、他の者たちが塩を放棄して我先にと逃げる中、ただ一人、応戦して盗賊を撃退し、塩を守り切って故郷に戻った剛の者だ。常勝に近い戦績に彩られた彼が、しかし自ら誇る最大の殊勲はこの一件であるらしく、常に〈塩を守った男〉を二つ名として名乗っている。


 「もう塩のことはいいって。他に自慢すべきことはないのか」


 もう聞き飽きたと文叔が言えば、賈君文は肩を竦める。

 

 「いやいや、世の中に、塩より大事なモンはそうそうねえ。人間、塩が無いと生きていけねえからよ」


 皆が下船するのを待ちながら、賈君文と文叔の下らない会話は続く。


 「やっぱり女は南陽の出が一番だ。陛下はわかってくれるでしょ? 河北の女は風が強いせいか、気が強くていけねえ。その点、南陽の女にはしっとりとした色気があるんですよ。何しろ俺のかみさんも南陽出ですから」

 「わかったから、そう一人で思っとけよ。……奥方と息子は息災か?」

 「ええまあね。ガキの手がかかるようになって、ちょっとキーキーしてるけど」


 賈君文は不良のクセに愛妻家で、常に戦陣にも夫人を伴っていた。


 「後ほど貴人様のところにご挨拶に行かせますよ」


 ニカっと白い歯を見せて笑う賈君文将軍に向かって、自分は子供を亡くしているから、赤子など見たくはないのだ、とは言えなくて、陰麗華は目を伏せる。その様子を見て、文叔は悪気はないであろう、配下の肩を叩き、言った。


 「河を渡ったのは初めてで、少し疲れたらしい。今夜は早く休ませるから、また改めて」


 文叔は陰麗華を馬車に乗せると、耳元で囁いた。


 「君文は南陽の出だから、君が以前からの妻だったと知っている。だから、わざわざ迎えに来てくれたんだ」

  

 陰麗華は目を見開いて、文叔と、その肩越しに少し下がって控える賈君文を見た。君文がちょっとだけ手を挙げ、困ったように眉尻を下げている。


 「――南陽の者は、郭聖通との結婚を反対できなかったことを、君に申し訳なく思っている。君が今、こんな立場になってしまったことに対しても。もちろん、一番、不甲斐ないのは僕自身だけれどね」


 文叔がそれだけ言って離れるのを、陰麗華は茫然と見送る。


 南陽・潁川と、河北と――。文叔の家臣団は二つの集団に分かれている。

 河北豪族の支持を得るために、文叔は郭聖通を妻に迎えたと、兄の陰次伯は言った。そして、南陽以来の者たちは、郭聖通の貢献を理解しながらも、文叔が郭氏や河北豪族に取り込まれてしまうことに、危機感を抱いている、とも。


 そんなことは自分とは関係がないと思っていた。でも――。


 自分が文叔の側にいることの政治的な意味を、陰麗華はこの時初めて考えた。






 大司馬の呉子顔将軍が駐屯する脩武のまちまで、馬車から見る風景は酷いものであった。 

 砂埃の舞う乾いた土地に、二月の冷たい風が吹きすさぶ。街道脇の柳はすっかり枯れて、まだ新芽も出ていない。木立の向こうに広がる畑地は、耕作者を失って立ち枯れた土地の間に、まばらに、僅かに手入れされた土地がポツポツと見える。――かつては、一面に広がっていたであろう豊かな畑地は、ここ数年の動乱で一気に荒れ果ててしまった。


 「ここらは、まだマシですよ。長安周辺の飢饉はこんなものではありませんでした。もし、あのまま長安城が落ちなくても、未央宮の食べ物なんてすぐになくなって、わたしも餓えていたに違いありません」


 垂れ幕をほんの少し開けて車外を覗いている陰麗華の背後から、于曄が言う。


 「一番悲惨なのは、未央宮内の、宦官や宮女ですね。彼らは自分たちで食べものを得る方法を知りません。それが、狭い場所に寄り集まって住んでいる。赤眉軍もまた、掠奪しか知らない。奪って火をつけたら、その時はいいけれど、その後はさらなる飢えが待つだけです」


 街道にもいくつか、行き倒れらしい流民の遺体が転がっている。平和な時代ならば土地の者が埋葬するが、今は誰にもそんな余裕すらなかった。親を失ったらしい子供たちが数人、馬車や輜重しちょうの行列を見て、バラバラと追いかけてくる。


 「将軍さま! お恵みを――」

 「お恵みを――」


 見ていられなくて陰麗華は垂れ幕を閉じた。陰麗華自身は文叔のおかげで餓えたりしていないけれど、さりとて他の者に慈悲をかける力はない。自分だけが安寧を貪っているようで、居たたまれなかった。

 故郷の南陽も、この二年でずいぶんと状況が悪化した。陰氏の配下にある下戸こさくにんには、何とか食料を分け合っていたけれど限界に近いと、陰君陵が言っていた。今、故郷では母が一人、荒れ果てた新野で陰家を背負っている。

 

 天下の乱れも、飢饉も、陰麗華のせいではない。それでも――。

 黄色く枯れた荒れた畑地の間を馬車で行きながら、陰麗華は考える。


 いつの日か、平和は訪れるのだろうか。かつての日々は、暮らしは、いつ戻るのか――。








 脩武の駐屯地は城壁の周囲にも、城内に入りきれない兵士たちの白い天幕が張り巡らされ、竈からの煙がいくつも上がっていた。河北の強風に煽られて、数えきれないほどの数の、〈漢〉の赤い旌旗がはためいて、黄色っぽい大地の上で、それはそれで壮観であった。


 陰麗華の馬車が着いた時には、騎馬で先行していた文叔らが、呉子顔将軍らの出迎えを受けているところだった。馬車の脇には兄の陰次伯がやってきて、陰麗華が降りるのを手伝う。


 「疲れただろう。今夜はまっすぐ宿舎に入って、早く休めとのご命令だ。将軍たちはこの後軍議を行うから、食事も先に済ませてくれ。――陛下は、夜遅くになるが、お前の部屋で休むそうだ」


 軍旅の最中でも陰麗華を手放すつもりのないらしい文叔を、周囲は何と思うのだろうか? 陰麗華は不安になって兄の顔を見る。


 「君陵は?」

 「君陵は黄門侍郎として陛下の近侍をしている。……護衛だからね。大司馬の呉子顔将軍には挨拶だけしよう」


 そう言った兄、陰次伯の表情が少し曇っているのを見て、陰麗華が首を傾げる。


 「……もしかして、気難しい方なのですか?」

 「気難しいと言うか何と言うか……僕にはよくわからん。顔が怖いけど、悲鳴を上げるなよ?」

 「まさか、余所様のお顔に悲鳴を上げるような、不作法はいたしません」


 そんなことを言いながら、次伯に導かれて将軍たちの方に歩み寄る。周囲を取り囲む兵士たちが、皇帝の寵姫を目にして、低いざわめきが広がっていく。


 「……すげえ別嬪だな」

 「そらー皇帝の女だからな。これでブスだった日には……」

 「いやいや、やっぱり皇帝も男だな、美女を連れて戦争とは、羨ましい……」


 値踏みされるような視線に、陰麗華の足が竦みそうになるが、己を叱咤して足を運ぶ。

 文叔たちのいる場所に近づいて、ようやくホッとする間もなく、陰麗華はじっと自分を見つめる視線に気づき、顔を上げる。正面にあるのは、顔の半ばが髭に覆われ、さらに傷痕まである眼光炯々(けいけい)とした偉丈夫――。


 陰麗華がギクっとして身を固くするが、容貌魁偉な偉丈夫は、髭の下の口角を二ッと上げて少し微笑んだらしく、さらに凶悪な表情になって陰麗華が気絶しそうになる。偉丈夫は傍らの文叔の背中をバシっと叩いてニヤリと笑い、一言。


 「歓迎する。ゆっくりしていってくれ」


 それだけ言うと踵を返し、周囲の下士官たちに指示を飛ばしながら城門を先にくぐる。呆然と立ち尽くす陰麗華に、するりと寄ってきた文叔が言った。


 「合格だってさ」

 「合格?」

 「呉子顔はさ、なんでも()で決めるんだ」 

 「顔?」

 「僕に仕えるのも、僕の顔が気に入ったからだってさ。……麗華の顔も気に入ったらしいよ」

 

 意味が分からず目を丸くする陰麗華に、横から朱仲先が言う。


 「鄧仲華と李次元は合格、耿伯昭は辛うじて圏内だが、俺はダメらしい」

 「ふ、不合格だった場合は、どうなるんですか?」


 陰麗華が不安げに尋ねれば、文叔が肩を竦める。


 「別にどうってことはない。……個別認識できないだけだってさ」

 「いや、密かに大事オオゴトだぞ? 敵も味方も同じなんだからな。いつ斬りつけられるかわからん身になってみろ!」


 朱仲先の喚き声を聞きながら、陰麗華は遠ざかる偉丈夫の背中を見送った。


  




 

 漢軍は脩武県の官衙を接収して将軍たちの宿舎にしていた。文叔と陰麗華のためには、県令の住居が割り当てられていて、陰麗華はお湯で手足や顔を洗い、絞った布で身体を拭いて、こざっぱりした絹の寝衣に着替えて温袍わたいれを羽織り、ようやく人心地ついた。


 文叔が脩武への視察に陰麗華を伴うと聞いた時は、非常に驚いたし、女の身で迷惑をかけるだけだと尻込みしたけれど、文叔がいない雒陽で郭聖通に怯えて過ごすよりは、はるかにマシだったと思う。


 脩武への同行は文叔が勝手に決めたことで、陰麗華の意志はまったく反映されていない。あるいは陰麗華が同行を強請ったと、郭聖通は思っているかもしれない。

 

 陰麗華がいくら抵抗し、また文叔が夜の営みを強要しないでいてくれるとはいえ、傍目にはただの寵姫にしか見えないだろう。もう、南陽に帰ることもできず、いつまでもグズグズと心を決めずにいる自分の情けなさに溜息が出るが、しかし、妾になってしまった自分を前向きに受け入れることが、まだできない。


 (子供も――亡くした子は戻らないし、いつまでもウジウジするべきじゃないけれど、でも――)


 船上で囁かれた言葉が胸に甦る。

 文叔の言うことはもっともだし、陰麗華とて、皇帝を拒み続けていいわけないとわかっている。

 でも何かのきっかけで劉聖公に強いられた辛い行為を思いだし、全身に恐怖が蘇ってしまう。

 それに――。


 文叔はいつも甘い言葉を囁くけれど、以前だったら信じられた言葉が、陰麗華の心にはもう、響かない。同じことを郭聖通にも言っているのだろうと思うと、それだけで気持ちが冷めてしまう。


 ならばもう、文叔を愛していないのかと言えば――。

 

 そうだったら、どれほどいいだろうかと思う。

 もし彼を愛していないのなら、いっそあっさり、身体を差し出したかもしれない。

 権力者への生贄として、無力な自分に諦めもついたのに。

 

 陰麗華が文叔を受け入れられないのは、矛盾しているようだが、きっと、まだ文叔を愛しているから。


 《あれが皇帝の新しい女だ》

 《さすがの別嬪だな》

 《皇帝も美女には弱いってこった》

 

 ヒソヒソと囁かれる言葉が、陰麗華の耳を、心を抉る。

 自分が美しいのかどうか、陰麗華にはよくわからない。南陽では化粧もろくにしなかったけれど、雒陽の宮殿では周囲に説得されるがままに装っている。しかし、自分の見かけの美に文叔が溺れているように言われるのは、陰麗華としては心外であった。


 陰麗華は身の回りのものを詰めた竹で編んだ行李から、縫いかけの絮衣わたいれと、針道具を取り出す。灯台の灯りで、陰麗華が針を運んでいると、小夏が温めたあまざけを持って入ってきた。


 「そこで、左武さんに会いましたよ。張寧さん、無事に女の子が生まれたそうです」


 陰麗華が針を持つ手を止め、目を瞠った。


 「本当? よかったわ!」


 南陽からずっと陰麗華に付いていてくれた張寧の無事の出産を聞いて、陰麗華は喜ぶ。――身近で出産を見守りたかったのに。そう思って、陰麗華はすぐに、何か出産のお祝いをと、考える。と、小夏が陰麗華の前にあまざけの椀の載ったおぜんを置いて、言った。


 「……どうやら、陰次伯の若様は、このままエンの方まで遠征に行くらしくて……」

 「エン? それ、どこにあるの?」

 

 陰麗華がぽかんとして尋ねれば、小夏も眉を顰める。


 「あたしもよくは知りませんけど、南の方だそうです。河北の方はまあ、例の、真定王の謀反も不発だったんで、やっぱり南がヤバいってことで。それから南陽。――左武さんが言ってましたけど、劉聖公の残党が、南陽でいろいろやってるらしくって……」

 「南陽が?――まさか、南陽にも兵を出すと言うの?」


 信じられない思いで陰麗華が呟く。南陽は、陰麗華だけでなく、文叔の故郷だ。故郷に兵を送る? そんな馬鹿な。


 「劉聖公の残党のエン王をですね、ホラ、あのみなとまでやってきた不良っぽい将軍が、討伐に向かうのだそうです。で、若様がその副将に選ばれたんですって」

 「お兄様が……」

 「それから南陽の宛。宛には、あの顔のコワイ将軍様が行くそうです」

 「……まさか、少君が討伐されるわけでは……」

 

 陰麗華が青ざめた表情で聞けば、小夏も首を振った。


 「まだ、何か仕出かしたわけではないですから……でも……」


 兄の陰次伯を南陽ではなく、南方に派遣するのは、さすがに故郷への出兵を憚るせいか。 

 何とも言いようのない嫌な予感が、陰麗華の中で黒々と蟠っていく。 


 怖い――。

 どうして、こんなことに――。


 陰麗華は心がざわめくのを抑えきれず、その夜は絮衣を縫うのを諦めた。




 


 脩武での数日間を、文叔は各軍団への指示と慰撫を精力的にこなしながら、夜は普段よりも熱烈に陰麗華に愛を囁いた。雒陽の南宮と異なり、脩武の宿舎は県令の官舎であるから、要するに文叔が所属する階層の、本来過ごすべき家に近い。――文叔の父も県令であったから、幼少時は似たような官舎暮らしだったのだ。


 「本当ならこんな、こじんまりした家で君とのんびり暮らしたかったんだがなあ……」


 視察を終えて戻ってきて、陰麗華に手伝わせて戎服を脱ぎながら言う。鎧の下に着こんだ絮衣わたいれは、陰麗華が南陽から持ってきたものだが、早くも裾が綻びかけていた。


 「新しいのを出しておきますから、明日はそちらをお召しになってください。これは洗って、ほつれを直しておきます」


 南宮で、陰麗華は郭聖通と鉢合わせするのが怖くて、自室でひたすら針仕事をしていた。おかげで一月ちょっとで絮衣が三枚も縫えてしまったのだ。


 「悪いね、ありがとう。……あの、ボロボロのはどうしたの?」

 「ああ、以前のですか? 鄭麓さんは捨てるって言ってたんですけど、勿体ないので解いて、洗ってありますよ? あれだけボロボロだと雑巾か、裂いて布草履にするくらいしか、使い道がありませんけれど」


 この二年間に陰麗華が送った絮衣は全部で十着ほどだが、全て無残なほどにボロボロに着古されていた。鎧から身を守るために綿を入れてあるから、夏は相当に暑苦しいと思われ、脇のところには汗染みも浮いて、到底、皇帝が着るものとは思われなかった。

 

 「新しいものを用意してもらえばよろしかったのに、頑固な方――」


 陰麗華が文叔の絮衣を脱がせ、熱い湯を絞った布で背中を拭く。南宮ではこれらの世話も宦官たちに任されているが、文叔は戦場に宦官を伴わず、従兵か、酷い場合は朱仲先などがしていたらしい。


 「僕は君の絮衣じゃないと戦場に立てないと言っただろう?」

 

 文叔が肩越しに振り返りながら言えば、陰麗華が脇の下を拭きながら肩を竦める。


 「そういうゲン担ぎなんですか?」

 「違うよ。――怖いからだよ」


 怖い、という言葉に陰麗華の手が止まる。と、文叔がくるりと向きを変え、裸の胸で陰麗華を抱きしめた。


 「だいぶ、怖がらなくなったね。……やっと、僕との生活を思い出してきた?」


 ギュッと腕の中に閉じ込められて、陰麗華がはっとする。――再会したばかりのころは、男性の筋肉質の身体でさえ、恐ろしくて震えが止まらなかった。今はそこまでではないが、しかし背中をもの言いたげに這いまわる、文叔の大きな熱い掌の感触に陰麗華は眉を顰め、逃れようと身体を捩る。


 「麗華、愛してる――」

 「その……困ります……離して……」

 「嫌だ、離さない。……せめて接吻キスして」

 「それは……んんっ……」


 強引に唇を塞がれ、力を込めて抱きしめられる。長く深い口づけからようやく解放されて、ホッと息をつく陰麗華の耳元で、文叔が囁いた。


 「僕は君さえいれば何もいらないし、君がいなければ全ての意味を失う。いい加減諦めて、もう一度僕のものにおなり。……絶対に、逃げられやしないんだから」


 陰麗華の力では、文叔の腕を振りほどくことはできない。しかし文叔は無理には彼女を抱こうとはしないのに少しだけ安心して、陰麗華はそっと溜息をつく。


 「強情だよね、麗華も。……でも、僕も執念深さにかけてはきっと負けないから」

 

 こうして二人だけで身を寄せ合っている時間だけが、二人が夫婦だった時の名残のような気がして、陰麗華は文叔の腕の中で目を閉じた。



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