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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
間章四 涼風、炎熱を奪う
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和歓殿

 郭聖通は母の郭主と顔を見合わせる。


 「ですが伯山にいさま、まさかあちらを皇后にだなんて……」

 「南陽からずっとついている、朱仲先将軍が漏らされた。〈陰麗華病〉が再発して、すでに病膏肓やまいこうこうに入ると。……陰麗華を繋ぎ止めるためなら、何でもやりかねないとね!」

 「何ですの、それは」


 耿伯山こうはくざんは面長の顔を顰め、首を振る。


 「以前から、執着度合いが病的だと言う話です。聖通に子も産まれたことで、吹っ切れたと思ったのですが。洛陽に戻ってからは、すっかり突き抜けてしまって――」

 「あたくしの聖通がそんな田舎女の下に置かれるなんて、あり得ないわ! 伯山殿、何とかならないの?!」


 甲高い声で叫ぶ郭主を宥めるように、耿伯山が言った。


 「皇后は聖通です。『母は子を以てとうとし』。現在、陛下の後継者は皇子のきょう一人だけ。ならばその母を皇后にするのが当然のこと。……これは、陰氏に同情的な南陽の者も一致している。もっと言えば、陰氏だって皇后になろうなんて思ってない。妾はイヤだから離縁してくれと言っているだけです。我儘を言っているのは陛下だけです」


 耿伯山が郭聖通をまっすぐに見た。


 「陰貴人が、側室の立場に甘んじてくれれば、ひとまず丸く収まる。皇后には聖通が立ち、皇子のきょうが皇太子になる。陛下は寵姫として、陰麗華を手元に置ける。全員が、そこそこの満足を得られる」

 「要するに――寵愛はあちらに譲って、わたくしには名ばかりの正妻でいろと?」


 つい、尖った言葉で従兄に詰め寄ってしまい、郭聖通ははっと口元を押える。だが、耿伯山はその通りという風に頷いて見せた。


 「最初から、この結婚は政略だと、陛下も宣言し、我々もそう言ったはずだ」

 「でも――」

 

 確かに最初は、劉文叔は結婚を渋った。南陽の妻を愛していて、他の女など考えられないと。でも――。


 「……文叔は……いえ、陛下はわたくしを愛しているはずですわ」


 郭聖通はまだ膨らまない腹を撫でる。耿伯山は面長の、表情の表れにくい切れ長の目を眇めるようして、郭聖通を見た。 


 「陰麗華からの離縁の申し出を無視し、傅子衛将軍には引きずってでも洛陽に連れて来いと命令し、掖庭えきていの一殿舎ではなく、後殿の一室に住まわせる。――愛情がどちらにあるか、明らかだ」 

 

 唇を噛んで俯いてしまった郭聖通に代わって、母の郭主が反論する。


 「でも、正妻は聖通よ! 結婚の条件はそうだったわ。ええ、そうでなければ、あんな南陽の田舎の三男坊と、あたくしの聖通との結婚など、許すわけないわ! 何しろあたくしの聖通は、天子を産むべく運命づけられているのだもの。だからこそ、あの男――いえ、陛下だって、聖通を妻に迎えたのでしょう? それを今更! 南陽の妻と離縁していないだの、南陽からノコノコ出てきた女を皇后にするだの……ふざけていますよ!」


 怒りを露わにする郭主に、耿伯山は言葉を慎むように注意してから、言った。


 「話に聞く限り、陰氏は大人しい女のようです。幸いに――と言ってはいけないが、子は死産で、彊の地位を脅かすこともない。ぎょしやすい女であることに感謝すべきかもしれない。兄という男も遠目に見た限り、皇帝の近親として権力を振るおうという野心もないようだ。現在、長安にいる大司徒の鄧仲華や、常山太守の鄧偉卿とも親族で、彼女を後宮に入れれば南陽の豪族連中を懐柔することもできる。側室としては申し分ない存在です。我々にとってはむしろ好都合と言える」

 

 耿伯山の冷酷な言葉に、郭聖通は胸の痛みを堪えるように、形のよい眉を顰める。


 「でも――」

 

 文叔と郭聖通との結婚は確かに政略目的だが、しかし、郭聖通は文叔と、夫婦の情愛を築けていると信じてもいた。――今更、本当に愛する女を取り戻したから、お飾りの妻に甘んじろと言われても。

 

 だが、郭聖通の胸の痛みを慮ることなく、耿伯山は言った。


 「とにかく、陰麗華は陛下の()()だ。皇后冊立を確かなものにするために、迂闊に触れてはならない。……聖通。君は天下の母となるべき運命を背負い、天下のために陛下の元に嫁ぐと誓ったのだろう? 今になって醜い嫉妬心など見せたら、陛下を幻滅させるだけだ。君は理想的な皇后でなければならない。わかっているな?」


 最後、耿伯山に真剣な目で言われ、郭聖通と郭主はしぶしぶ頷いた。







 結局、その夜に皇帝の訪れはなく、郭聖通はまんじりともせずに夜を過ごした。

 よく考えてみれば、洛陽に入って以来、夫がこの和歓殿に足を踏み入れたのは数えるほどで、朝まで過ごしたことは一度もないと気づき、郭聖通は愕然とした。


 皇后の住まうべき宮殿を与えられ、郭聖通は夫に愛されていると疑いもしなかった。

 夫は常に穏やかで礼儀正しく、郭氏の家族にも気配りを欠かさない。――だが言われてみれば、郭聖通との間に見えない隔てを置いて、自分の内心を見せまいとしているかのよう――。


 耿伯山らは河北豪族を糾合し、真定王家と劉文叔を結びつけるために、郭聖通と文叔との結婚を計画し、郭聖通も承諾した。――天下のため。それを表向きの理由に、しかし、郭聖通は初めから、劉文叔に惹かれていた。文叔には南陽に、身籠った妻がいると知らされても、天は自分と文叔を結びつけるはずだと、信じた。


 初めは南陽の妻への罪悪感から、聖通を抱くことを拒んだ文叔も、いつしか自分を妻として扱うようになったことに、郭聖通は胸をなでおろし、子にも恵まれ、満ち足りていた。


 南陽から、陰麗華が洛陽にやってくると聞くまでは――。


 陰麗華は、所詮過去の女だ。戦乱の中で引き裂かれ、信じた夫に裏切られた彼女は気の毒ではある。でも、それも天の定めた道だ。――しかも、和歓殿の侍女から聞いた話では、人質として劉聖公の後宮に囚われて、汚されたというではないか。


 郭聖通はその侍女を固く口止めした上で、表面は同情したような風を装ったが、内心、陰麗華という女をひどく軽蔑した。

 腹の子を守るためとはいえ、そんな女が、よくもまあ、のこのこと洛陽まで出て来られたもの――。


 いまだに図々しくも、文叔の「妻」でいるつもりならば、その鼻っ柱を叩いておいてやらねばと、庭に散策に出たところを急襲した郭聖通は、あずまやに佇んで池を眺める陰麗華の美しさに、重たい石でも叩きつけられたかのような、衝撃を受けた。


 錦秋に彩られた庭を背景に、華奢な体つきはあくまで嫋やかで、黒髪は青味を帯びて背中を覆い、飾りの少ない質素な髪型と衣裳が、かえって清楚で清新な雰囲気を醸し出している。振り向いた整った顔の、肌はあくまで白く、大きな黒い瞳をけぶるような長い睫毛が取り巻き、薄桃色の可憐な唇は咲き始めた花のよう。清楚で可憐で、しかもそこはかとない色香まであって、さぞや男たちの庇護欲をそそるだろうと思われた。


 ――夫が……劉文叔が真に愛するのは、こういう女なのか。


 跡継ぎに恵まれ、伯父は真定王で、後ろ盾も盤石。郭聖通自身も、十分に美しい部類に入ると自負していた。それでも、単純に美しさだけでいったら、絶対に敵わない――。

 

 嫉妬心を押し隠し、穏やかな笑顔の下で少しばかり揺すぶってみれば、女は憐れなほどあっさりと崩れ落ちる。弱すぎて、手の上に舞い落ちては消えていく雪の結晶にように儚なすぎて――。


 こんな弱い女に、天下の母など務まるわけない。

 文叔が皇帝である以上、その妻は皇后でなければならないのだから。

 

 文叔は、目を覚ますべきだ。この女ではなく、自分を選ぶべきなのだ。

 何故なら自分は、天子の母となるべく、定められた娘なのだから――。


 

 

 


 翌日も訪れない皇帝・劉文叔に、郭聖通の辛抱の糸が切れた。


 「いったい、今はどこにいらっしゃると言うの!」


 掖庭令の孫礼に詰めよれば、なんと昨夜、皇帝は陰貴人を召した後殿に泊まったという。

 孫礼の息のかかった官婢からは、朝方は体調の悪い陰貴人に、皇帝自ら粥を匙で口に運んでやっていたと報告されたと。


 二年ぶりに再会した陰麗華への溺愛を隠すつもりもないらしい夫と、妾になるくらいなら離縁してもらう、と言いながら、ずるずると夫を泊めた陰麗華の二人に、強烈な嫉妬と怒りを覚えて、郭聖通の頭がズキズキと痛んだ。


 「……伯山にいさまは、陛下に伝えてくださったの? わたくしだってお話しがあると言っているのに!」

 「それは……郭貴人様のご要望もお伝えしておりますので、きっと今宵には……!」


 だが、その夕刻も後殿の陰貴人のいる部屋に入ったとの報告を聞いて、郭聖通は侍女の捧げる熱い白湯の入った碗を叩き落とした。


 ガチャ―ン!


 熱湯が飛び散り、陶器の碗が砕け飛ぶ。


 「も、申し訳ございません!」


 磚敷きの床に頭を擦りつけるようにして詫びる侍女を無視して、郭聖通は孫礼に言った。


 「……陛下を呼んできて。……どうしてもお伝えしたいことがあると……そうでなければわたくし、身体の具合が……」


 青くなった顔のこめかみを、白い指で押える。物音を聞いた母の郭主が、驚いて駆け込んできた。


 「聖通?! 大丈夫なの? まあ! なんてこと!」


 郭主は床に散らばる割れた碗の欠片を見て、傍らで叩頭する侍女を睨みつける。


 「聖通に怪我は? まったく、この宮の女たちときたら、役立たずの粗忽者ばかりだわ!」

 「……お母さま、わたくしは大丈夫。……その者を叱らないでくださいませ。わたくしの不注意でもあるのです」

 「聖通や、お前ときたら、なんて心根の優しい! こんな侍女まで庇うなんて」

 

 郭主が大げさに言うのに、郭聖通は内心、苦笑するが、それ以上は言わずに母を見上げた。


 「……お腹の子のことを、早く陛下に申し上げたいのに、今夜も――」

 「んまあああ! あの南陽の女ときたら、本当に忌々しいこと!」

 「そんな風には仰らないで、お母さま」

 「全くお前は昔から、優しいを通り越してお人よしだと言うのですよ! 孫礼! すぐに陛下を呼んで頂戴! とにかく何でもいいから連れていらっしゃいよ! この、役立たずが!」

 「ははあ!」


 宦官の孫礼は慌てて頭を下げると、あたふたと出て行った。






 皇帝・劉文叔が和歓殿にやってきたのは、それから半刻ほど後のこと。


 「話があると聞いたが……それから体調もよくないと?」

 「お呼びたてして申し訳ございません。ですが、どなたかに夢中で、わたくしのことなど忘れていらっしゃるようでしたので、失礼とは存じましたが。……どうしても早急に、お伝えしたいことがございまして」

 

 しおらしく頭を下げた郭聖通を、劉文叔は首を傾げるようにして、じっと見つめ、言った。


 「……それは、子供のことか?」

 「やはりあちら様から、お聞きになっていらっしゃった。……申し訳ございません。わたくしが、嬉しさのあまり気持ちを抑えきれず、つい、口が滑ってしまいました。あちら様のお気持ちを考えれば、口にするべきでなかったと、ずっと後悔に苛まれて」

 「もういい。……妊娠は確かなのか?」


 くどくどと言い訳を連ねる郭聖通の言葉を遮って、劉文叔が尋ねれば、郭聖通は睫毛を伏せて頷く。


 「そう。……いつ、わかった」

 「陛下が懐に行幸に出かけられて、すぐに。お便りをとも思いましたが、できれば直接お知らせしたくて。なのに陛下のお戻りが待ちきれず、つい――」

 「今後は、その手のことは迂闊に口にするな。他から聞かされれば、正直なところ、ありがたさも半減する」

 「申し訳ございません」


 重ねて、郭聖通が頭を下げ、その場にいた郭主もとりなす。


 「娘は本当に喜んでいたのでございますよ、嬉しいことはつい、喋ってしまうものでございましょう?」

 

 劉文叔は郭主に対して、少しばかり苦笑した。


 「……まあ、今回はもう、仕方がありませんが、ここでの話を他で漏らしたりはしないでください。『漏泄禁中語』は罪に問われますのでね。話がそれだけだと言うなら私は――」


 切り上げて立ち上がろうとする夫の袖を、咄嗟に郭聖通が掴む。


 「お待ち下さいませ。――もし、よろしければこちらにて夕餉を」


 引き留められて、ほんの一瞬だが凛々しい眉を顰めた。


 「耿伯山殿が河北に戻られると聞いて、今宵はささやかながら宴席を設けておりますの。是非、陛下も――」

 「……しかしだな……」


 逡巡する劉文叔に、郭主が「そうですわ、是非」と口添えし、劉文叔がちらりと背後の控える耿伯昭を振り返る。しかし、耿伯昭は肩を竦めただけで助け舟を出してくれず、劉文叔は溜息をかみ殺して頷いた。


 「……わかった……伯山の帰郷は私の命令でもあるし……」





  


 和歓殿でささやかな宴席の準備が整うまで、劉文叔は乳母が抱いてきた息子、劉彊をあやしながら、遅れてやってきた耿伯山と近侍の耿伯昭、そして郭聖通の弟の郭長卿と世間話をする。


 「この時期の河北はもう、ずいぶんと寒いでしょうね」


 十六歳の郭長卿が言えば、耿伯山も耿伯昭――ちなみに一字違いのこの二人、親戚でも何でもない――も、河北の厳しい冬を思い浮かべ、頷いた。

 

 「今から出ても、臘祭ろうさいを故郷で過ごすのは無理でしょうね」

 「悪いな、厄介な時に」


 耿伯山の言葉に劉文叔が申し訳なさそうに言えば、伯山が顔の前で手を振った。臘祭とは十二月の最後のいぬの日に、一族や郷里の者たちが集まって、過ぎゆく年の感謝と来る年の幸福を祈って、盛大に宴会するしきたりであった。それを旅の最中に迎えなければならないことを、詫びたのである。


 「真定につくのは年明けになるだろうな」

 「真定には何用で?」


 郭長卿の問いに、


 「ああ、伯父上に用があってな」

 

と、耿伯山がぼかして答えれば、若い郭長卿は首を傾げた。


 「河北で何か問題でも?」


 郭長卿は機密に踏み込んでいるのだが、若いためにそれを察することができない。しかし、文叔は穏やかに微笑んだ。


 「問題なんていつでも起きているよ。大事にならないうちに対処するのが肝心だ。二年前に、私はそれを思い知らされたよ」

 

 二年前、と言われ、耿伯昭がああと頷く。二年前、河北の豪族連中を味方につける交渉の最中に、成帝の落胤を名乗る劉子輿りゅうしよ邯鄲かんたんで兵を挙げ、文叔らは一気に劣勢に追い込まれてしまったのだ。


 「一昨年の正月は本当にえらい目に遭いましたよね」


 耿伯昭が溜息交じりに言い、劉文叔もしみじみと述懐する。


 「全くだ。けいまちで突然、自分が賞金首になったと知らされて、大混乱の中で道案内のはずの伯昭はどっかに行ってしまうし。……あの時はあの若造、逃げやがったなと、マジで恨んだぞ?」

 「もう、その愚痴は何回聞かされるやら! ちゃんと俺についてきてくれないから! 俺だって気づけば陛下も誰もいなくて、大恐慌でしたよ!」

 

 正月で二十五歳になる耿伯昭が、若気の至りの失敗をあげつらわれて反論していると、彼らの前におぜんや食器を並べていた宦官や宮女たちが、熱い料理を運んできて、宴の準備がほぼ整ったと知る。乳母が劉彊皇子を抱き取って下がり、郭主と郭聖通も堂に現れ、それぞれ席について食事が始まった。


 「まずは耿伯山の旅の無事を祈って、乾杯!」

 「「「「乾杯!」」」」


 劉文叔が杯を掲げて言えば、男たちも杯を掲げ、唱和する。ぐいっと杯を空けてしまってから、劉文叔が言った。


 「年明け後には、幾人か封爵したり、官職を授与したりする予定だ。その時に、長卿にも官職を与えるつもりだ」

 「僕も?! 本当ですか!」

 

 文叔の言葉に、若い長卿が身を乗り出す。

 

 「もう一人、南陽からも貴人の弟を呼び出すので、同じく黄門侍郎にするつもりでいる」


 その言葉に郭長卿が目を見開く。


 「南陽から……というと……」

 「ああ、南陽の新野の陰君陵と言ったかな。二十歳か二十一歳になるはずだが、仲良く仕えてくれ」


 文叔がにこやかに言い、郭長卿が勢い込んで言った。


 「僕頑張ります!姉上の七光りなんて言われないように!」

 「あはは、そんなに気負うことはないさ」

 

 男たちの和やかな様子の横目に、郭聖通は密かに唇を噛む。

 郭氏と陰氏。二人の貴人の弟をそれぞれ黄門侍郎に取り立て、両者を対等に扱う。

 

 ――皇子を産んでいる郭聖通を優遇するつもりはない、という表明か。

 

 本気で、陰麗華を皇后にするつもりかと問い詰めたい気持ちを、郭聖通は何とか飲み込む。

 二人目の子の妊娠を告げても、特に嬉しそうな顔もしない夫に、郭聖通の胸はギリギリと締めつけられる。今夜だって引き留められて仕方なく、宴席に身を連ねているだけだ。何も言わなければ、まっすぐあの女の元に向かったに違いない。


 「――真定の兄も、長卿の任官を聞けば歓びますでしょう」


 郭主が口を出せば、耿伯山が頷く。


 「ええ、叔母上も相変わらずお元気で口うるさい、とお伝えしておきますよ」

 「んまあ、なんてこと! お前は相変わらず口の悪い。……でも、兄上にはきっと、聖通の立后はまだかと、せっつかれるでしょうね?」


 さりげなく真定王劉揚の存在を仄めす郭主に対し、しかし文叔はいつもの、蕩けるような笑みを浮かべて伯山を労うだけだった。


 「ああ、そうだったな。私からもよろしく言っていたと、お伝えしてくれ。彊も健やかに育っていると」

 「承知しました」

 「ではもう一度、伯山の旅の安全と、我々のさらなる繁栄を祝って乾杯しよう」

 「「「乾杯!」」」


 男たちがもう一度杯を掲げるのを、郭聖通は複雑な思いで眺めていた。


 



 宴がお開きになって、郭聖通はもちろん、劉文叔は今夜はこちらに泊まるのだと思い、夫の腕に手を絡め、寄り添って囁いた。


 「わたくしの部屋でもう少しお飲みになりますか?」

 

 だが、劉文叔はするりとその腕を抜いた。


 「いや、あなたも妊娠しているのだし、私は、もう失礼する」

 「……失礼するって……どちらに?」

 「どこって……却非殿きゃくひでんに帰るだけだ」

 「お待ちくださいませ! まさか今から、あの人のところに?」


 思わず文叔の袖を掴んで言えば、文叔は困ったように眉尻を下げた。


 「……あなたは最初から、彼女の存在を承知の上で私に嫁いだんだろう? 今さら、嫉妬なんてあなたらしくもない。お腹の子にもよくないしね。……じゃ、おやすみ」


 呆然と立ち尽くす郭聖通の手を振りほどいて、文叔は素早く踵を返すと、早足で回廊を遠ざかっていった。

  

 

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