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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第七章 澣わざる衣の如し
46/130

覆水収むべからず

日居月諸、胡迭而微

心之憂矣、如匪澣衣

  ――『詩経』衛風・柏舟

日と月とは なんたがいにくるや

心の憂うるは あらわざる衣の如し



 太陽と月のように、どうしてわたしたちは同時に満たされることはできないのか

 憂いに疲れた心は、まるで洗っていない衣のようにくたびれ果ててしまった


***********




 突き飛ばしてしまってから、陰麗華はしまったと思う。


 ――仮にも、皇帝だった。


 気まずそうに見上げると、文叔は茫然と陰麗華を見つめて、それから少し寂しそうに笑った。


 「ごめん……いきなり、図々しかったな……」

 「その……申し訳ありません。ですが、わたしは離縁していただいて、南陽に戻りたいので、そういうのはちょっと……」


 文叔は困ったように眉尻を下げる。


 「麗華……先ほども言ったように、僕は君を手放したくない。君を南陽に帰すつもりはない」

 「それは……困ります」

 「どうして困るの」

 「どうしてって……」


 陰麗華が俯くと、文叔が陰麗華の左手を掴む。その薬指にはまった指輪に触れて言った。


 「すっかり、指が細くなってしまって……でも、まだつけていてくれている。君の心が、まだ少しは僕に残っているからだろう?」

 「……それは……単なる習慣で……」


 文叔が陰麗華の腕を引っ張り、陰麗華は文叔の腕の中に倒れ込んだ。


 「だめ……」

 「麗華……やっと会えたんだ、君が欲しい」

 「……嫌です、離してください」


 はっきり拒絶されて、文叔は不満そうに眉を顰め、だが、陰麗華を抱き込んだまま、離さない。


 「……僕が、裏切ったのが、まだ許せない?」

 「裏切りとかではなくて……」


 現在進行形で他の女と婚姻継続中で、さらに子供までいる分際で、いったい何を言っているのだろうか。――事情が事情だから、もはや恨む気もしないが、昔の妻のことはすっぱり諦めて欲しい。


 「今、わたしとこうしているのは、あちらへの裏切りでもあるわ。わたしのことはもう、いいですから、あちらにお戻りになって……」

 「やっぱり拗ねてる……」

 「違います!」


 陰麗華は文叔の身体をやんわりと押し返し、少し睨むようにした。


 「わたしは、離縁してほしいとお願いしています。……正式に離縁していないだけで、ここ二年、あなたとの夫婦の関係は破綻しています。今さら……」

 「仕方ないだろう。僕は河北にいて、君の側にいられなかった」

 「……便り一つ寄越さなかったくせに」


 陰麗華の言葉に、文叔がぐっと詰まる。


 「それは……君が、離縁してくれなんて書いてくるから……」

 「他の方と結婚した以上、わたしとの結婚は終わりでしょう? ちゃんと離縁していただかないと、その後の生活に差し支えるじゃありませんか」


 当然でしょうと言う陰麗華に、文叔が凛々しい眉を歪めた。


 「……離縁したら、鄧少君のところに嫁に行っただろう?」

 

 陰麗華が目を瞠る。


 「わたしはそんなつもりはありません!」

 「君になくても、次伯は君を少君のところにやるつもりだった! 絶対許せないと思ったから……」


 その反論に、陰麗華は正直、呆れて声も出なかった。

 自分は他の女と結婚しておきながら、陰麗華が他の男のものになるのは嫌だなんて!


 「……最低」

 「わかってる。……でも、あそこで離縁したら絶対負けだと思って……意地でも離縁するかって……」


 少し気まずそうに視線を逸らした文叔は、しかしもう一度手を伸ばして、陰麗華を抱き寄せる。


 「ちょっと……ダメって……わたしはもう……!」

 「絶対、離縁なんかしない」


 暴れる陰麗華を、文叔はやすやすと押さえつけると、背後からがっちり抱き込んでしまった。


 「愛しているのは君だけだ……」


 耳元で囁かれるが、どうせ、あちらの人にも同じようなことを言っているに違いないと思うと、かつては胸をとどろかせた愛の言葉も、全て虚しく聞こえる。


 「……愛していただいても、もう、元には戻りません」


 どちらも誓いを破った。――覆水盆に返らず、と言うではないか。

 

 だが陰麗華の醒めた言葉は文叔をひどく傷つけたらしい。陰麗華を抱きしめる腕に力が籠り、ぎりぎりと締め付けられ、陰麗華は痛みに顔を歪める。


 「痛い……です……離し……離して……」

 「嫌だ、離さない。愛してる」


 もう一度言って、文叔の唇が、黒髪で覆われた耳朶に触れた。瞬間、耳朶に穿たれた孔と、その時の痛み、そして劉聖公との恐怖が蘇って、陰麗華は悲鳴を上げ、文叔の腕から本気で逃れようと身を捩る。


 「い、いや! 怖い! いやあ!……」

 「麗華……?」


 全身を恐怖で戦慄わななかせる陰麗華の様子に、異常を感じ取った文叔が顔を覗き込む。


 「い、いや……やめて……い……や……」


 ガクガクと震える様子が明らかに普通でなくて、文叔が慌てて手を離す。鈴を鳴らして宦官を呼ぼうとしたが、陰麗華がそれを制止した。


 「だい……じょうぶ……です……、ちょっと……思い出した……だけ……」


 手で口元を押え、肩で息をしながら冷たい汗をかいている様子に、文叔が遠慮がちに陰麗華の背中をさする。


 「ごめん……君が嫌がることはするつもりはないんだ……ただ……」

 「じゃあ……その……触らないで……怖いの……」


 陰麗華の一言に、背中をさすっていた文叔の手が止まる。


 「麗……」

 「やっぱり、離縁してください……わたし、もう……」


 ボロボロと泣き出した陰麗華を、文叔が慌てて抱きしめ、それからはっとして拘束を解いて、そうしてもう一度、そろそろと腕の中に抱き込んでいく。


 「ごめん……麗華、怖かったら……言って……怖い?」

 

 ふさふさと黒髪が揺れて、否定の言質をとって、文叔はホッと溜息をつく。


 「大丈夫なのと、ダメなときがあるんだね。……わかった。無理強いはしないから……」


 文叔が、陰麗華の黒髪を撫でながら言う。


 「麗華……ごめん、全部、僕が悪い……」

 「それは……文叔さまのせいでは……」

 「いや、そう言う意味じゃなくて、とにかく、全ての元凶が僕なんだ。たぶん……昔から……」

 「昔?」


 目を上げた陰麗華に、文叔が困ったように眉尻を下げ、申し訳なさそうに頷く。


 「そう昔……僕が生まれた時から、いろいろと不思議なことがあって……父さんは縁起がいいと言って、僕のことを愛してくれたけれど、母さんは違った。一つ年上の兄さんの身体が弱いのも、父さんが早死にしたのも、全部僕に吸い取られたせいだって、僕のことを嫌った」


 初めて聞く話に、陰麗華が目を見開く。


 「僕が生まれた時に、彗星ほうきぼしが現れたそうでね。母さんは、僕は不吉な凶星に呪われているって信じていた」

 「そんな馬鹿な……」

 「僕もそう、思っていたけど……」


 文叔が俯く。


 「郡大夫が君を妾にすると言い出したあたりから、僕も怪しいと思いだして……結局、僕は挙兵に追い込まれてしまった。疫病神とかそういう次元でなくて、何か、大きな力が働いているんだと思うようにしたら、少しだけ気が楽になったけれど……」


 陰麗華が首を傾げて文叔を見つめる。


 「悪いことばかりじゃない。昆陽で突然、戦場にすごい雨が降ったり、河北では凍ってなかったはずの河が突然凍って、おかげで河を渡れたり、いいこともあるんだ。……たぶん、そういうので、君を巻き込んでしまっている」

 「……運命……」

 「そう……たぶん……」


 不意に、郭聖通の言葉を思い出す。

 自分と、文叔が出会ったのも、運命だと彼女は言っていた。

 

 「運命だと、言ってらしたわ。……運命だから、故郷に妻がいても、あなたと結婚したと」

 

 陰麗華の髪を梳いていた文叔の手が止まる。


 「……和歓殿の人が?」

 

 無言で頷く陰麗華の頬に手をかけて、文叔は顔を上げさせ、正面から目を合わせる。


 「僕にとっての()()は君だけだ。……たしかに、彼女のおかげで助かったことは確かだし、ないがしろにはできない。でも、申し訳ないけれど、愛とは違う。……彼女にも、そう、はっきりと告げてある」

 「でも……子供が……」


 こんなことは口にすべきではないと思ったけれど、子供がいるということは、そこにしかるべき愛の行為があったということだろう。――男性は、愛のない相手でも抱けるというけれど(劉聖公もそうだったけれど)、女から見ればそれはさらにひどい裏切りだと思う。


 目を伏せた陰麗華の、まぶたに文叔がそっと口づける。


 「すまない。――裏切ったことは謝るし、もう、彼女は抱かない」


 その言葉に陰麗華がぎょっとして目を上げる。


 「それは――! わ、わたしは離縁してくださいってお願いしている身ですから! 皇帝にはたくさん、子供が必要だって言ってらしたし! わたしと離縁しないで、あちらと疎遠になるのは何か違います!」


 別に陰麗華は、文叔に郭貴人と別れてくれと要求するつもりはないのだ。


 「でも、そうでもしないと、愛しているのは君だけだと、君は信じてくれそうもない」

 

 文叔はそう言って、両腕に力を込めて陰麗華を抱きしめ、強請るように言った。


 「……口づけしても?君がイヤだと言うなら、それ以上はしない。でも許してもらえるのなら――」

 「文……」


 まだ、了解の返事をする前に文叔の唇が降りてきた、陰麗華の唇を塞ぐ。最初は触れるだけの、そして、陰麗華がそれを拒まないのを確認してから、文叔はさらに深く口づけ、別れていた年月を取り返すかのように、長く深く貪った。


 


 

 結局のところ、陰麗華は臥牀から劉文叔を追い出すことはできなかった。

 文叔は何度も、陰麗華に口づけを繰り返したが、それ以上は恐ろしくて陰麗華は彼を拒んだ。一瞬、辛そうに眉を顰めたけれど、文叔は誓った。


 「君が、僕をもう一度受け入れられるまで、無理強いはしない。でも、君と同じ褥で眠りたい。……僕は君の夫だから」


 陰麗華は溜息をつく。


 「明日、お兄様も挟んでもう一度話し合って――」

 「何度話し合っても無駄だよ。僕は離縁しない」

 

 漢の法では、夫からは一方的に離縁できるが、妻からは夫の了承が必要だ。――万一、どちらかに不満があって揉めた場合には、親族や郷里の三老などの顔役を通し、話し合いをすることになり、それでも話が拗れた場合は、官府に訴え出ることになるのだが。


 「そうだね、普通に訴え出たら、君や次伯の主張が通るだろう。僕は河北で勝手に別の女と結婚して子供もいて、そちらとも別れるつもりがないのだから。――でも、君はどこに訴える?」

 「……洛陽の……官府?」

 

 陰麗華が顎に手を当ててて考えた時、文叔がぷっと笑った。


 「夫が皇帝になったから離縁してほしいけれど、了承してくれないって? そんな訴え、皇帝である僕が潰すに決まってるだろう? 何のために皇帝になったと思ってるんだ」

 

 その答えに、陰麗華が息を飲む。


 「まさか! 離縁したくないから皇帝になったわけじゃ……」

 「アハハハ。かなり近い。ただの劉文叔だったら、陰次伯が君を絶対に離縁させてしまったけれど、少なくともこの洛陽で、僕から君を奪える人間はいないよ」

 「そんな理由で……諧謔じょうだんにしても、ふざけすぎです!」


 そう言えば、この人はいつもくだらない諧謔ばかり飛ばしていたと、今更ながら思い出し、陰麗華が憤慨する。文叔が彫りの深い顔に甘い笑顔を浮かべて、さも可笑しそうにひとしきり笑ってから、ふと真顔になる。


 「全てが君のためだと言っただろう? 君を手に入れるためなら、皇帝になるぐらい、何でもない」

 「わたしは皇帝の奥さんなんて、無理ですから!」

 「困ったなあ……じゃあ、皇帝もやめて逃げようか。……東の、海の彼方にでも。君さえついてきてくれるなら、僕は何もいらないから」

 「わたし一人のために、あなたに忠誠を誓ってきた方々を捨てるなんて、最低です!」

 

 陰麗華が怒れば、文叔は眉尻を下げて困ったように言う。


 「そうだね。……でも僕は、今まで君に苦難を強いてきた。もう、これから先は、君を優先してもいいと思う。君にこれ以上辛い目には遭わせないと誓う」

 「あなたの誓いは軽すぎます」


 ぷいと目を逸らす陰麗華に、文叔が肩を竦める。


 「誓う時は常に真剣だ。……なかなか、思うように守れないだけで。でも、本当にこれだけは信じて。……僕には君だけだから。帝位も天下も、君のためなら全て投げ出す覚悟はある」

 

 真剣な表情の文叔に、陰麗華が言った。


 「そんなことになったら、わたしはきっと、とんでもない悪女として青史に名を留めることになりますわね。そんなのはご免です。……陰家の、恥ですもの」

 

 その答えに、文叔はまたアハハと笑う。


 「さすが兄妹だね。次伯も同じことを言ったよ。でも僕は、後世にどう、批判されても構わない。愛しているのは君だけだから」


 その夜、文叔と陰麗華は褥に並んで横たわり、ただ文叔の要望で手だけを握って眠りについた。


 




 

 翌朝、二人で黍粥と漬物、洛水の魚の煮込み、干した果物の朝食を食べると、鄭麓と陸宣がいまに大きな木の盥を用意し、沐浴の仕度を始めた。

 官吏は五日に一日、洗濯と沐浴のための休暇があって、普段は官府に詰めている者も家に帰る。文叔は皇帝になってからも、非常時以外はこのサイクルを維持しているのだという。


 堂の一角に目隠しの衝立を並べ、小宦官たち何人もが、熱いお湯を運んできては盥に入れる。白地に草花文様の曲裾深衣を着た陰麗華も、タスキをかけて文叔の髻を結っている紐を解き、髪を洗う手伝いをする。――わずか二か月の新婚生活だったけれど、洗沐の手伝いはいつも、陰麗華が行ったのだ。


 真っ裸になって大きな盥に座り、腰までお湯に浸かった文叔の、頭からそろそろと温めた米のぎ汁をかける。河の向こうから洛陽まで、馬を駆った間に相当の埃を被ったのか、肩を過ぎる髪からは砂埃の匂いがした。十分に濡らした髪を、陰麗華が細い指で丁寧に洗っていくと、文叔が気持ちよさそうに目を細めた。


 「ああ二年ぶりだ……」


 文叔がしみじみと言う。


 「実は二年前、洛陽に無事に帰るまでは髪を洗わないと願をかけたんだけど、一月くらいで周囲から文句を言われて断念したんだよ。……河北で敵に追われて死にそうになった時は、あの誓いを破った報いかと、とても後悔したんだが……」

 「その誓いは迷惑だし、不衛生です。……破って正解です」


 二年も髪を洗わない、悪臭が芬芬ふんぷんの夫に戻ってこられても困る。

 髪を洗ってから、鄭麓が用意した糠袋で文叔の首筋や背中を丁寧にこする。目立つような大きな傷もなくて、陰麗華はホッとするが、二年前よりも身体は鍛えられて、痩せていた。

 宦官が追加で運んできた熱い湯で身体を濯ぎ、文叔が浴槽から立ち上がるのを、陰麗華は恥ずかしくて正視できず、さりげなく場を外して逃げようとした。だが、その手首を文叔が捕まえる。


 「どこへ行くの。……次は麗華の番でしょ」

 「ええ? わ、わたしはいいです!」

 「どうして、宛ではいつも、僕の後で入っていたじゃない。あの頃みたいに僕が洗ってあげる」

 「嫌です!」


 言下に拒否すれば、文叔は傷ついたように表情を曇らせる。


 「やっぱりまだ拗ねてる……」

 

 その会話を衝立の向こうで聞いていた小夏が、口を挟む。


 「拗ねるとか、そんな生易しいもので済んでるだけ、感謝してくださいよ! 刺されても文句言えないクセに!」

 「……わかってるよ。でも、ホラ、お湯が勿体ないからさ、早く」

 「それは……」


 宛では左武や張寧らの僅かな使用人しかいなかったから、沐浴のお湯を運んでもらうのも大変だった。だから、世話を省くために、陰麗華も続いて入浴していたのだが……。


 「……沐浴はしますから、あなたはあちらに行って」

 「なぜ。僕が洗ってあげるって言ってるのに」

 「皇帝陛下にそんなことはさせられません!」

  

 しつこい文叔を追い払おうと、陰麗華が切り札を切れば、文叔は整った顔にニヤリとした笑みを浮かべる。――まるで、その言葉を待っていたかのように。


 「ほう、君は皇帝たる僕の命令に背くの。……僕が、洗ってあげる言っているのに」

 「そんな……」


 陰麗華が絶句し、それから叫んだ。


 「この、暴君が!」 


 さすがに会話を聞いていた陸宣が間に入って、陰麗華の入浴は小夏が介助し、文叔は衝立の向こうに追い払われてしまった。







 衝立の隙間からは、陰麗華の白く華奢な背中だけがわずかに覗ける程度。

 白い背中を真珠の粒のような水滴が転がり落ちていくようすを、食い入るように見つめている()()のいじましさに、陸宣は少しばかり同情したが、望まぬ行為を強要すれば、陰麗華の心の傷は修復不能に悪化するかもしれないと、皇帝に禁欲を説いたのも陸宣自身である。


 小夏が長く豊かな黒髪を持ち上げたとき、白い耳朶の痛々しい孔が目に入った。


 「――陸宣」


 皇帝が陰麗華の着替えを準備している陸宣を小声で呼ぶ。


 「は」


 陸宣が向き直れば、文叔は指でもっと近くに、と手招きする。陸宣が近づいた耳元に、文叔があるものを用意するように命じ、陸宣が目を見開く。


 「――それは!」

 「痛みと化膿を抑える方法は、お前が心得ているだろう? すぐに準備しろ」

 「しかし――」


 陸宣はちらりと、何も知らずに侍女に手伝われて湯浴みする女主人を見た。


 「いいから早くしろ。――命令だ」


 そう言った皇帝の口調は、さきほど愛妻と戯れていた時とは別人のように、冷酷に響いた。



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