ぬくもり
長い夢を見ていた。
ひどく辛い悪夢。あの恐ろしい男が追いかけてくる。いや、いや、……触らないで!
真っ暗な中を走って逃げるようとするが、脚が動いてくれない。捕まる、誰か――。
背後から伸びてきた腕に捕らわれて、濁流に呑まれ、流される。
大河の激流に翻弄され、疲れ切った陰麗華は、いつしか、暖かい場所で小さな猫のように丸くなっていた。その懐かしい心地よさを失いたくなくて、無意識に、手が触れた何かをギュッと握りしめた。
「いくら何でも図々しすぎませんか? 距離近すぎでしょ?」
「奥さんと寝るのに距離が遠くてどうするの。夫婦の間ってのはもっと近づいて、一つになるものだってのに」
「キモ! 朝から猥談とか、サイテー!」
「しー! 麗華が起きる……」
頭上で交わされる会話に、陰麗華の意識が浮上する。瞼の裏が明るく、朝が来たのだとわかった。
でもこの暖かい場所を失うのが勿体なくて、身体を丸め、頭に当たる何かにゴリゴリと頭を擦り付ける。
「んん……」
「麗華……相変わらず猫みたいなクセが……」
頭上から落ちてくる声に、陰麗華はハッとして目を開ける。
目の前にあるのは、白い、絹の寝衣。陰麗華が両手でそれをギュッと握り締めているが……。
「え……」
目をあげれば、目の前の黒い瞳と目が合う。心配そうに覗き込むその人は、彫りの深い顔に高い鼻梁、凛々しい眉――。
「麗華、目が覚めた? 気分は?」
「文、叔……さま?」
なぜ、文叔がいるのだ。しかも、陰麗華の眠っていた臥牀の、その同じ褥の上に。
「なん……で……?」
夢なのか? 自分はまだ夢を見ているのだろうか? 混乱する陰麗華の髪を、文叔の大きな手が優しく梳いた。
「遅くなってごめん、君が洛陽に到着するまでにと思ったけど、間に合わなかった。倒れたと聞いて慌てて駆け付けたんだけど……」
「え……でも……なんで……」
呆然と見上げる陰麗華の背後から、小夏がポンポンと言う。
「ほらあ。寝てる間に褥に潜り込むとか、図々しいにもほどがあるって言いましたでしょ?……お嬢様、ご気分はいかがですか?」
「それは……えっと……」
「図々しいってことはないだろう。夫婦なんだから。一緒の褥に眠るのが普通だろ」
陰麗華は自分と文叔が要するに一つ褥にいる事実に気づき、慌てて飛び起きようとし、ぐらりと眩暈に襲われて倒れ込む。それを、文叔が力強い腕で抱き留めた。
がっしりと包み込まれるような感触。――たしかに、憶えている温もり。もう二度と触れることはないと、思い切ったはずの――。
陰麗華が身を固くする様子に、文叔が背後から耳元で言う。
「……ごめん、まだ、怖い?」
陰麗華が俯いたのを、肯定だととらえたのだろう、文叔は慎重に、陰麗華を褥に横たえた。
「小夏、陸宣を――」
「御前に控えております」
文叔が声をかけるそばから、宦官特有の甲高い声が飛んだ。陰麗華が首を巡らすと、入口付近に陸宣が片膝をついて頭を下げていた。
「よい、近う。陰貴人の診察を」
「は。ただ今」
するすると小走りにやってきた陸宣は、臥牀の脇に膝をつき、「失礼します」と言って、陰麗華の細い手首を取り、脈を診た。
「熱も下がり、特段の異常もございません。少しく貧血がございますので、ご朝食には消化がよく、滋養のあるものをご用意いたします」
「では、私の朝食も頼む」
「畏まりました」
陸宣が頭を下げたまま、後ろ向きに下がって行くのを、陰麗華がぽかんと見送る。ここまでへりくだった動きは初めてだと思い、文叔が皇帝だからだ、と気づいた。
「小夏、私の温袍を取ってくれ、少し肌寒いな。それから、私付きの宦官の鄭麓が堂に控えていると思うから、髭剃りの手伝いを命じてくれないか」
「……かしこまりましたー」
棒読みでいかにもめんどくさそうに言いながら、小夏が、文叔に黒地に赤い刺繍の入った温袍を手渡す。
「朝のお白湯はこちらに置いておきます。今、鄭麓さんを呼んでまいりますので……くれぐれも、お嬢様に悪さしないでくださいよ?」
「わかっているよ。……麗華、白湯は飲めそう? 起き上れる?」
「えっと……その……皇帝、陛下?」
陰麗華がしどろもどろに呼びかけると、文叔が黒い瞳を見開き、陰麗華の顔をまじまじと見た。
「やめてくれよ、麗華まで。房ではただの夫婦なんだから、今まで通り、文叔と呼んでくれ」
「で、でも……わたしは、その……」
陰麗華は混乱していた。
文叔に会ったら、とにかく離縁してもらって、一日も早く南陽に戻るつもりだった。なのに、もしかして、自分は文叔と同衾してしまったのか――。
文叔が目元を緩ませて懐かしい――少し、痩せて精悍になったかと思う――笑顔を作り、陰麗華に言った。
「麗華の温袍はどこかな? 小夏が戻ってくるまで、僕のを一緒に着るのでいい?」
「い、一緒って?」
戸惑う陰麗華を無視して、文叔は陰麗華の肩を抱いてゆっくり抱き起すと、そのまま背中から包み込むように、自分の温袍で陰麗華の細い身体を覆った。
「辛かったら僕にもたれて……白湯を今……っと、ちょっと手が届かないな……」
陰麗華を抱き込んだままずるずると臥牀の脇の榻までズレて、長い腕を伸ばして盆の上に置かれた白湯の椀を掴む。まだ湯気の上がる椀を慎重に顔の側に持ってきて、ふうふうと息を吹きかけて冷まし、自分でも一口飲んで熱さを確かめてから、陰麗華の口元に椀を持ってきた。
「飲める? 火傷しないように……」
喉の渇いていた陰麗華は、文叔に抱き込まれている体勢に戸惑いながらも、大人しく白湯を啜る。こくこくと半分ほど飲んだところで、もういらない、と首を振ると、文叔が後ろから顔を覗き込み、微笑んだ。
その笑顔があまりに甘くて、そして自分の状況が恥ずかしくて、陰麗華は真っ赤になって俯いてしまう。と、「失礼します」と声がかかり、まだ若い宦官が髭剃り道具一式を捧げて、一礼して入ってきた。
「ああ、ご苦労。僕付きの宦官の鄭麓だよ。これからちょくちょく、こちらにも顔を出すと思うから」
「よろしくお願いいたします。陰貴人様」
鄭麓が丁寧に頭を下げる。陸宣より少し年上かと思われた。
「よ、よろしくお願いします……」
「麗華の温袍が見当たらないんだよね。小夏は食事の仕度に行ってしまったし……」
「小官はこの房に入るのは初めてでございまして……少々お待ちくださいませ」
鄭麓は髭剃り道具を臥牀の上に置くと、臥牀の脇の棚へと回って行った。
「これでございますか」
鄭麓が持ってきたのは温袍ではなく、陰麗華が渡すあてもなく縫い上げた、文叔の絮衣だった。
「そ、それは……」
陰麗華がぎょっとして首を振ると、その絮衣をじっと見ていた文叔が叫んだ。
「それ……新しいの! 縫ってくれたの!」
「いえ、その……それは……」
「鄭麓、それはたぶん、私用の新しい絮衣だから!」
「……承知しました。……では、以前のものは処分いたしましても?」
「以前の?」
陰麗華が首を傾げると、鄭麓がこともなげに言った。
「はい。主上はずっと、古い絮衣をそれはそれは、擦り切れるほど着ていらっしゃって。何度か新しいものをとお薦めいたしましても、これでなければ嫌だと……修繕も拒否なさるので、本当にボロボロで……」
文叔が気まずそうに陰麗華を見て、言った。
「春の書簡には絮衣が入っていなくて……それで、とうとう、君にも棄てられてしまったと僕はずいぶん落ち込んで……でも、君の絮衣がないと僕は戦場に立てないから、ずっと、以前にもらった絮衣をボロボロになっても着続けていたんだよ」
「そ、それは……」
それは申し訳なかったという気分と、あの郭聖通とやらに縫ってもらえばよかったじゃないの、という気分とで、陰麗華は言葉が見つからずに下を向いた。
――だいたい、棄てられたのはわたしの方だわ。
「それより、温袍はあったかな?」
「少々お待ちくださいませ」
鄭麓は絮衣を元の棚に戻し、棚ではなく、横の長櫃を開け、一番上に袖畳みにしてあった、橙色の温袍を見つける。
「これでございますか?」
「ええ、それです」
鄭麓が差し出す温袍を文叔が受け取り、素早く広げて、陰麗華の細い肩に着せ掛ける。文叔のぬくもりが離れたことにホッとするような、残念なような、複雑な気分で、陰麗華は臥牀の上で温袍にくるまって座っていた。
鄭麓が鏡を持ち、文叔が剃刀で顎髭を剃っていると、陸宣と小夏が朝食の案を運んできた。
「薤と鴨肉の粟粥でございます。薤は、温室で育てたものでございますよ。身体が温まります」
陸宣がにこやかに言って、二人の前に案を並べる。後ろからやってきた小夏は土鍋を運んできて、もう一人の見知らぬ侍女が運んできた、案の上に置いた。目の前の案に並ぶのは、赤と黒の模様の入った、漆塗りの揃いの食器。生姜や蕪の漬物、胡麻などの薬味が盛られている。薤を添えて炊いた鴨肉入りの粟粥を、小夏が手早く漆の椀に盛り付けると、髭の手入れを終えた文叔が陰麗華を促して案の前に座る。早速、粥の椀に手を出し、木の匙で粥を掬った。
「ああ、これは美味そうだ。麗華もホラ、あーん」
「なっ……自分で食べられますっ!」
ぎょっとして避けようとする陰麗華の背中に腕を回して強引に抱き込むと、ふうふうと冷ましてから匙を陰麗華の口元に差し出し、食べさせようとする。
「はい、あーん」
「いえ、だからっ!」
「お嬢様が嫌がってるじゃありませんかっ!」
小夏が止めるが、文叔は頑としてやめようとしない。もう一人の侍女が、何とも言えない表情で、チラリと牀の上の二人を見てから、頭をペコリと下げて房を下がっていく。
「麗華、どうして僕の手から食べてくれないのかな?」
「だって、そんな……やめてください、朝から……そ、それに人前でっ……」
真っ赤になって首を振る陰麗華に、文叔がニッコリと微笑む。
「じゃあ、その可愛いお鼻をつまんで無理矢理食べさせちゃおうかな?」
「や、やめ……た、食べます! 食べますからっ!」
ついに屈服し、粥を口に入れられて、モグモグ咀嚼しながら陰麗華ははすでに涙目であった。
(ちょっと! なんで朝からこんな目に!)
小夏は顔をひきつらせているが、陸宣は微笑ましそうに見ているし、鄭麓という宦官の方は、表情も変えずに淡々と仕事をこなしている。だが、その無表情な宦官が、髭剃り道具を片付けて下がる前に、チラリと主の方を振り返り、「ふっ」と笑った。
『朝っぱらから何やってんだか』
そう、言われたような気がした陰麗華は、一気に顔に火がついたように真っ赤になった。
(お願いだから、誰か止めて……)
しかし陰麗華の心の声には誰も気づいてはくれず、せっせと餌付けされる鳥のように、陰麗華は文叔の手から粥を食べさせられたのであった。
朝食が終わった後も、陰麗華は今日一には臥牀でゆっくりするようにと、文叔に言いつけられてしまい、また自分でもまだ頭がクラクラするところから、陸宣が煎じた薬湯を飲んで、もう一度、臥牀に横たわる。文叔は鄭麓に手伝わせて身支度をし、長冠を被ると、臥牀の中の陰麗華に振り向いて言った。
「今日はこの後、伯姫らが参内するんだ。僕はその後、政務があるけれど、伯姫は後でこちらに来るように言っておくよ」
「あ、ありがとうございます。その……わたしは、あなたにお話が……」
なんだか勢いに押されてのんびりと朝食など食べてしまったが、本来の目的は正式に離縁してもらうことだ。できれば、今日中に話し合いがしたい。
文叔はじっと陰麗華の顔を見てから、頷く。
「ああ、夜にはまたこちらに来るよ。夕食も一緒に摂れるようにするから、その時に」
「……よろしくお願いします」
文叔が房を出ようとしたところに、ちょうど朱仲先が迎えに来た。
「陰麗華殿――いや、陰貴人は目が覚めたのか?」
「ああ、もちろん」
房の入口から朱仲先が顔を覗かせ、陰麗華に向かって手を挙げて軽く挨拶をした。――文叔が河北に赴く以前、朱仲先は毎日のように宛でも洛陽でも、邸に顔を出していたから、当然、陰麗華も面識があった。宦官の鄭麓が後に従い、部屋を出ていくのを見送って、陰麗華は溜息をつく。
「……ねえ、もしかして、これ、まずいわよね?」
「何がですか?」
房を片付けていた小夏が陰麗華に尋ねれば、陰麗華が臥牀の中から不安げに問いかける。
「だって、あの人、わたしの部屋に泊まった、ってことになるのよね?……離縁をお願いするつもりだったのに」
「とりあえず、昨夜はあたしもこの部屋の隅で寝ましたから、何もなかったって証言なら喜んでしますよ!」
そんな証言が、何かの意味を持つのだろうか? というよりも、なぜ、小夏も陸宣も、文叔をあっさり泊めるのだ。なぜ追い出してくれなかったのだ。
……そう、口にしたかったが、三日ほど意識が戻らなかったらしい自分には、文句を言える立場にないように思われ、陰麗華は言葉を飲み込む。
「……あちらの方は、ご存知なのかしら?」
離縁するつもりだと言いながら、夫を部屋に泊めた陰麗華を、郭貴人はどう、思うだろうか。――あの白い、冷たい雰囲気の顔を思い出して、陰麗華は思わず自身を抱きしめる。怖い。
劉聖公の後宮で、韓夫人に責められた時も、甄阜の元に小妻に入ることが決まり、甄阜の妻に頭ごなしに詰られた時もそうだが、陰麗華は嫉妬心を剥き出しに攻撃してくる相手が苦手だ。劉聖公も甄阜も好きでもなんでもない男だったから、陰麗華にとって、相手のは嫉妬心はただの迷惑な感情であった。しかし、劉文叔に対しては陰麗華にもまだ恋情があるだけに、とりわけあの、郭貴人には言い訳のしようもない。――実際には男女の営みはなかった、なんてのは、言い訳にもならないとわかっているから、なおさらに怖い。
「気にすることないですよ。何せ、百二十人で夫を共有するのも気にしないくらい、お心の広いお方なんですから!」
「そ……そうよね。嫉妬に狂って部屋に突撃してきたりは、しないわよね……?」
韓夫人のあれは本当に、恐ろしかったと、思い出しながら陰麗華が呟けば、いい匂いのする薬草の束とすり鉢、坩堝などを満載した案を抱え、房内に入ってきた陸宣が笑った。
「それは大丈夫ですから、ご安心ください」
陸宣は牀の横の明るい場所に案を置くと、すり鉢で乾燥した薬草をゴリゴリと磨り潰しながら言う。
「この却非殿の後殿は、主上のお許しがなければ、立ち入れません。郭貴人が後殿に入るには、その都度、主上のお許しを得なければなりませんので」
陰麗華が目を瞠る。
「それは……でも奥様なのでしょう? 夫の部屋に入っていけないって、納得なさったの?」
「普通の夫婦ならば、納得しないのでしょうかね? 小官は幼少時にこちらの宮に入りまして、普通の夫婦の感覚には疎いのですが……後殿は内朝官も出入りいたしますので、女性の出入りは制限されております」
「……わたしはいいの?」
意味がわからず、陰麗華は眉を寄せる。
「後殿の東寄りの一帯は、主上の私的な執務場所でございますから、陰貴人の立ち入りも禁じられてございますよ? 数日前、衛尉の李次元閣下より説明を受けられたあの部屋、あそこが境界となっております。こちらの堂と房室は、主上が掖庭よりお呼び出しになった妃嬪が待機し、御寝に侍るべき場所でございますので、もともと、その都度、許可の出た女性以外の出入りはできないのですよ。ですから、現在は陰貴人がこちらにお入りになり、郭貴人はお入りになれない、というだけのお話です」
陸宣の返答に、陰麗華はしばらく考える。房内には、陸宣が薬草を磨り潰すゴリゴリという音だけが響く。
「つまり……わたしの部屋は、本当は後宮内のどこかにあって、今は呼び出されている、という状態なのね?」
だが、陸宣はあっさり首を振った。
「制度的にはそうですが、主上としては陰貴人以外の方を呼び出すつもりはなく、そのままなし崩しに居続けさせようという、計画のようです」
「……なにそれ……」
呆れたような陰麗華の声に、陸宣も軽く笑った。
「小官も最初聞いた時には耳を疑いましたが……昨日からのご様子を見るに、本当にひと時も離したくないという感じでございますね。そう簡単に離縁をご承知なさるとは、到底思えませんので、陰貴人様も、ご覚悟なさるべきかと」
「そんな……」
陰麗華は溜息をつくと、朝の文叔の様子を思いだし、恥ずかしさがぶり返して、衾を頭からかぶった。




