【登場人物紹介2】雲台二十八将他
【男祭り名前地獄】を乗り切るために。随時更新
(本日、二話更新しています。ご注意ください)
建武元年時点の年齢、官職。【】の年齢は史料からわかる年齢。【】のない年齢は作者が設定したもの。
キャラクターの書き分けを重視して、作者がフィクション交えてデフォルメした設定集に近いです。
◎登場済み、○登場予定。
*無印の人も必要に応じて登場させますが、できれば最低限に抑えたいところ。
1、◎鄧仲華:鄧禹
南陽新野の人。大司徒。陰麗華の親戚。【24歳】。
光武帝の七歳下で、長安遊学時代からの親友。文叔の非常識をズケズケ諌めて、少しだけまともにした。
建武元年現在は長安で大軍を率いて苦労中。
13歳で太学に遊学した天才少年。陰麗華とは親戚で、冷めた美少年(醤油顔)。軍師タイプ。
陰麗華が洛陽に囚われたことを陰次伯に知らされ、文叔の暴走を止めるために自ら黄河を渡って河北の文叔に合流。以後は朱仲先とともに最側近として常に身近にいて、河北で死にそうな目に遭う。繊細なお坊ちゃんで、顔が美しいからとガサツな呉子顔につきまとわれ、辟易して文叔に押し付ける。はっきり言って戦争激弱い。そのくせ序列一位とか、まじ疑問。
2、◎呉子顔:呉漢
南陽宛の人。大司馬。髭面で傷があって人相が悪い。33歳。
南陽の人だが罪を犯して北方に逃げていた荒くれもの。酒豪、豪快、細かいことに拘らない。
見かけによらず美しいものが好き(観賞のみで男色趣味はない)。はじめ薄い系の鄧仲華の顔が気に入って付き纏い、迷惑した仲華が文叔に推薦、濃い系の美男子の文叔の顔が気に入って、忠誠を誓う。全て顔で決めるので、陰麗華及び陰氏兄弟のことは気に入っている。戦争は強いが掠奪をためらわない(顔が美しくない者には関心を向けないので、平気で掠奪する)。
3、〇賈君文:賈復
南陽冠軍の人。執金吾。30歳
かつて、塩を輸送中に盗賊に襲われ、他の人々が塩を棄てて逃げる中、ただ一人、塩を持ち帰った。別名「塩を守った男」。
瀕死の重傷を負っても、奇跡的に回復した。
戦隊モノで言えばやさぐれた不良系二枚目ポジションだけど、人気は熱血リーダーとか破天荒荒くれのやつに負ける感じか。戦績は無敗クラス。
頭の中のイメージは、「スラムダンク」の炎の男・三井寿。理由は聞かないで。私も何故だかわからない。
4、◎耿伯昭:耿弇。
扶風茂陵(長安の一部)の人。建威大将軍。【24歳】
父親が上谷太守の耿況。若く短気な、ハイスペックイケメン。
同い年の鄧仲華をライバル視しているが、熱血タイプで性格は正反対。文叔に心酔している。
絶対、俺の方が鄧仲華より活躍してる!って本人も思ってるに違いない。
5、〇寇子翼:寇恂
上谷昌平の人。河内太守・行大将軍事。44歳。
耿弇の父親の部下で、吏事と兵站に長じた職人タイプ。耿伯昭のことを「坊ちゃん」と呼ぶ。
刑事ドラマで言えば、みんなに「おやっさん」と呼ばれるポジション。不良の賈復にやたら反発され、子犬系の鄧禹には懐かれる。
6、〇岑君然:岑彭
南陽棘陽の人。新時代は下級官吏。37歳くらい?
朱鮪の下についていたことがあり、洛陽を落とすときに朱鮪を説得して降服させる。
似たような名前の人が敵にも味方にもいて(岑延とか)、全然、人物像が浮かばねぇ( ゜Д゜)。
7、◎馮公孫:馮異。
潁川父城の人。偏将軍。35歳
(史料を読み直すと、もしかしたら文叔より若いのかもと思ったけど、最初にオッサンで想像してしまったので)
老けて見える。初めて会った時、文叔は40はとっくに超えていると思っていた。
世話好きで、河北では麥粥焚いて文叔に食べさせたりと、文叔軍のお母さんのような存在。
悩みや愚痴を聞いてもらい、励まされたり、時には叱ってもらったり。
いっそおネエキャラにしようかと思ったけど、ファンが多そう(何となく)で、怖いので普通のオッサンに。喫茶店のマスターみたいな感じかな。
8、◎朱仲先:朱祜。
南陽宛の人。建義大将軍。文叔の幼馴染。ギョロ目という設定。33歳
将軍号が耿弇と対になっているので、二人で文叔の左右に控えていたと思われる。
挙兵に先立ち、奥さんを離縁して、現在独り身。あまり酒に強くない。
文叔の一番の側近と言えばこの人。
9、◎祭弟孫:祭遵。
潁川潁陽の人。偏将軍。28歳
無口で喋らないので存在感は薄いが、ぼそっと言う一言が鋭い。怒りが臨界に達するといきなり殴り殺しちゃう危険なタイプ。昔ながらの遊びに興じる素朴なところがある。子がいなかったため、兄さんが妾を送ってよこしたけど送り返し、奥さん一筋を貫いた。有言不実行の文叔と異なり、不言実行の人。
10、〇景孫卿:景丹
馮翊櫟陽(長安の一部)の人。驃騎将軍。58歳。
王莽時代に朔調連率副貮(上谷太守の副官)となる。つまり耿弇の父親の部下。ご意見番的的存在か。たぶん、文叔は「じーさんうぜー」と思っていた。
病気なのに、文叔から「君ならできる! 行くなら今でしょ! 君なら寝てるだけでも敵は逃げ帰るよ!」と修造ばりに励まされて病身をおして戦地に赴き、直後に病死。文叔サイコパス説の根拠の一つ。
11、〇蓋巨卿:蓋延
漁陽要陽の人。虎牙将軍。35歳くらいか。身長八尺=184センチ。力自慢。
呉漢と一緒に河北で文叔に仕える。
12、〇銚次況:銚期
潁川郟の人。魏郡太守・行大将軍事。29歳。
身長が八尺二寸(一尺=約23センチ)、つまり188.6センチ。当時としてはかなりの巨人。
13、◎耿伯山:耿純。
鉅鹿宋子の人。前将軍。母は真定王揚の妹で、つまり郭聖通の従兄。32歳
もともと李軼(李季文)の下にいたが、邯鄲で文叔に会い、自ら臣従する。キツネ顔。
耿伯昭とともに、河北出身の将軍の中心的人物。郭聖通と文叔との結婚をお膳だてし、さらに文叔に皇帝即位を決意させたのも彼である。理想主義的なところがある。
14、臧宮
15、馬武
16、劉隆
17、馬成
18、王梁
19、陳俊
20、杜茂
21、◎傅子衛:傅俊
潁川襄城の人。侍中。42歳
ひっそりと昆陽の戦いにも参加。陰麗華を南陽まで迎えに行く。ヴィジュアル・イメージは太る前の岡〇真澄。スターリンほど怖くない。
22、堅鐔
23、◎王元伯:王覇。
潁川潁陽の人。偏将軍。顔が四角いという設定。27歳
潁川にやってきた文叔にほれ込み、押しかけ部下になって、昆陽の戦いにも参加。
「疾風勁草」の故事で有名。河北では農民に何度も石を投げられたりと、苦労する。
ガンダムで言えば「足なんて飾りですよ! エラい人にはそれがわからんのです!」の人のイメージ。
24、〇任伯卿:任光
南陽宛の人。信都太守。もともと宛で郡吏をしていた。宛が劉伯升らの叛乱軍に陥落したとき、いい服を着ていたので殺されて奪われそうになるが、劉賜に助けられてその後、漢軍に参加し、昆陽の戦いにも参加した。更始帝から信都太守に任じられ、王郎の軍に追われてヨレヨレになって逃げこんできた文叔らを助ける。朱仲先とは宛では家が近所だった。年齢はよくわからないが、40歳と設定。とりあえずめっちゃいい人。
25、〇李仲都:李忠
東莱黄の人。任伯卿の部下で、信都都尉。元始中に郎に任官しているので、かなりのオッサン。45歳くらい?
26、〇萬君游:萬脩
扶風茂陵の人。信都県の県令。偏将軍に任じられ、文叔に従う。
これもオッサンであろう。50歳近い?
27、〇邳偉君:邳彤
信都の人。王莽時代に河北の和成郡の卒正(太守)に任じられているので、やはりオッサン。50くらい?
南陽に帰ろうとした文叔を説得して止めた。
28、〇劉伯先:劉植
鉅鹿昌城の人。一族数千人を率いて河北で逃げていた文叔を迎え入れる。40歳くらい?
真定王劉揚の姪、郭聖通と文叔の結婚を仲立ちする。
追加の四将
29、〇王顔卿:王常
潁川舞陽の人。弟の敵討ちをしてお尋ね者となり、緑林軍の一部、下江兵の首領となる。38歳
小長安でボロ負けした劉伯升と文叔の軍に合流し、以後、反乱軍の主力となる。13騎で脱出した文叔らを信じ、100万に包囲された昆陽を守り抜いた男の中の男。隻眼。
30、◎李次元:李通
南陽宛の人。建武元年時点、衛尉。年齢不詳の美貌。35歳
文叔と一緒に挙兵した。李軼(李季文)の従兄弟。劉伯升と同じ年で、劉伯姫の夫。年齢不詳の白皙美形。人形劇で言えば白髪の長髪で羽箒みたいなの持って妖術使いそうな感じ。
31、竇融
32、◎卓子康:卓茂
南陽宛の人。太傅。齢七十歳超のじーさん。文叔に頼まれて大臣をやっている。
【めちゃくちゃ活躍したのに入れてもらってない人】
◎来君叔:来歙
南陽新野の人。光武帝の母方の従兄。新野県の吏をしていた。35歳
建武元年当時は漢中王の劉嘉(文叔の族兄)に従って南方の蜀にいた。
劉嘉とともに洛陽にやってくるのは建武三年。親戚枠は除外なのか?
【それ以外】
◎鄧偉卿:鄧晨
南陽新野の人。光武帝の姉、劉元(新野長公主を追封)の夫。常山太守。36歳
新しもの好き。文叔とは姉の縁で仲が良く、官憲に追われた文叔を匿ったりもした。
陰麗華の母・鄧氏の親戚で、文叔との結婚では媒酌を務めた。
◎鄧少君:鄧奉
南陽新野の人。字は不詳なので作者が付けた。鄧偉卿の甥。破虜将軍。27歳
脳筋。陰麗華の幼馴染。陰麗華が好きだが、言い出せないうちに文叔に掻っ攫われる。
◎陰次伯:陰識
南陽新野の人。陰麗華の異母兄。騎都尉。27歳
優男の書生風。お坊ちゃん。でも気が強いところがある。
〇陰君陵:陰興
南陽新野の人。陰麗華の同母弟。建武二年に黄門侍郎になる。20歳
兄貴とちがって体格に恵まれ、武芸が得意。
◎陸宣
洛陽南宮の宦官。暴室(病気の宮女を面倒みる部局)に勤務していたため、医薬に長じている。20歳くらい。小柄で見かけは十代半ばくらいに見える。よく気は付くが、優しい性格なので、人の悪意に疎い。
〇郭長卿:郭況
真定藁の人。郭聖通の弟。字不詳なので、作者が付けた。黄門侍郎。【16歳】
素直なお坊ちゃんで、あっさり陰君陵に懐いてしまい、郭主がキーキー言う。
〇郭主:郭聖通らの母。
真定王の妹。王族であることが誇りの、アテクシ系おばちゃま。陰家がとにかく気に入らない。
◎孫礼
洛陽南宮の掖庭令。宦官のトップ。35歳だが宦官故に老けて見え、みかけは50歳くらい。
オバチャンに弱く、趙夫人にも顎で使われていて、今は郭主のいいなり。
〇鄭麓
洛陽南宮の宦官。小黄門として皇帝・文叔に仕える。無表情。26歳だが二十歳過ぎに見える。
◎劉伯姫:文叔の妹。23歳。建武二年に寧平長公主に封じられる。
陰麗華とは幼馴染み。姉の縁で新野の鄧偉卿の家にはよく出入りしていた。お転婆。
いつの間にか李次元と結婚していた。
〇劉君黄:劉黄。建武二年に湖陽長公主に封じられる。夫は湖陽の人、胡珍。
普段はおっとり猫を被っているが、スイッチが入ると周囲の迷惑を顧みず暴走する迷惑な人。
夫の死後、長公主の特権を振りかざしてやりたい放題。
◎于匡:輔漢将軍。30歳
もとは陰家の家僮で、王莽の隠し子(実は父親は王莽ではない)として長安に。
脱走して鄧曄らに助けられる。析県で「輔漢右将軍」を名乗って挙兵し、武関を落として長安を陥落させる。鄧曄の番頭件副官。
◎鄧曄:復漢将軍。24歳
武関を中心に活動した鏢局〈山狼〉の女元締め。気風のいい男装の姐御。
于匡とともに「輔漢左将軍」を名乗って挙兵し、武関を落として長安を陥落させ、更始帝政権でもそこそこ待遇を受ける。(劉聖公は女だと気づかなかった)
◎于曄:于匡の妹。26歳
陰麗華の侍女だったが、王莽の隠し子として長安に行き、異母姉の黄皇室主に仕える。
◎劉聖公:劉玄。更始帝。長安で覇権を失い、赤眉軍に拘束されている。
◎趙夫人:劉聖公の正妻。陰麗華を助けたことがある。アタクシ系だけど実は気のいいおばちゃん。
◎李季文:李軼。南陽宛の人。李次元の従弟。もう死んでる。
◆超ざっくり! 官職、将軍号について
男祭り名前地獄とともに、訳が分からないのが官職です。どっちが偉いの? ……というのは、非常に難しいのですが、ごく簡単な目安だけを。
①一番偉い官:三公と太傅
三公は大司馬・大司徒・大司空です。この三つが一番偉い宰相の官です。
太傅は名誉職的な、ご意見番というか、長屋のご隠居様みたいな職です。はっきり言えばいなくてもいい。
②尉がつくのは武官
衛尉、というのは宮殿を警備する官なので、当然、下に兵力を持っています。陰次伯がついた騎都尉、も武官です。
③将軍号
ある意味一番ややこしいのがコレ。時代によっても異なりますので、あくまで前漢から後漢初期の話を。
「将軍」とは文字通り一軍を率いている人のことで、つまり兵権の一部を握っている人です。
〇将軍号を持っていると禁中に入れる
平和だった前漢では、皇帝が信頼する人にしか兵権は与えない=外戚や特別な信頼を得ている近臣が保持。必然的に彼らは内朝にも出入りできました。
〇将軍号にも格がある
大将軍・車騎将軍・驃騎将軍あたりが最も格の高い将軍号となります。
これに次ぐのが、周代から存在する前将軍、後将軍、左将軍、右将軍。そして衛将軍。耿伯山(耿純)は前将軍ですが、これは「以前将軍だった」という意味ではありません。鄧仲華が大司徒になる前が前将軍でした。耿伯昭(耿弇)の建威大将軍、朱仲先の建義大将軍は格の高い大将軍を一人に独占させるのではなく、号を加えて複数人に授与している、そんなところでしょうか。寇恂や銚期が、郡太守に「行大将軍事」が付与されているのも、大将軍に近く、かつ禁中に入れる資格を与える意味があると思われます。(「行+官職+事」とは他の官職についていながら兼職する時の言い方。)
【重要】大将軍・車騎将軍・驃騎将軍、前・後・左・右将軍、衛将軍は別格。側近中の側近です。
それから何人もいる、「偏将軍」。文叔も挙兵してすぐに更始政権下で偏将軍をもらっていますが、要するに一軍を率いるのを認められる、という意味です。
これをもう少し、かっこつけたのが蓋延の「虎牙将軍」とか鄧奉の「破虜将軍」とかです。挙兵の最初に勝手に名乗って、そのまま……という例と、親分からもらうのとあると思われます。暴走族が厨二病風味の名前をつけたがるのと、共通した感覚かなと。
于匡は最初「輔漢右将軍」、鄧曄は「輔漢左将軍」を勝手に名乗って挙兵しますが、後、更始帝からそれぞれ「輔漢将軍」と「復漢将軍」をもらいます。これは名前だけでなく、もともと率いていた兵力の指揮権を認められる(私兵が公的な軍隊として認められる)意味も持っています。ちなみに王莽政権に叛逆するにあたり、勝手に「輔漢将軍」系の将軍号を名乗る人は多く、「輔漢将軍」対「輔漢左将軍」の戦いなど、訳が分からなくなります。漢を輔けたいなら協力すればいいのに(笑)。
こういった勝手に作った系の将軍号はひっくるめて「雑号将軍」と呼ばれ、三国から魏晋南北朝の動乱を経てドンドン増加し、価値も下落し、唐代には武官の官品を表す武散官へと引き継がれていきます。




