散玉
昼間の疲れで、朱仲先がウトウトし始めた時。
女の悲鳴のようなものが聞こえた気がして、仲先がはっと目を開ける。
女? 悲鳴? まさか陰麗華?……もしかして、アノ時の声?
文叔らのいる部屋からは、普通の話し声は漏れないけれど、大声で叫べば聞こえる程度の壁の厚さだ。――普通に睦み合う程度なら声は漏れないが、ものすごく盛り上がってしまったら、聞こえてくるかも、という程度。
いやいや、無理矢理はしないって、あいつも言っていたじゃないか!
しかし、久しぶりの再会に、焼けぼっくいに火がついて、いきなり超盛り上がって箍が外れちまったのか?
不埒な想像に、仲先がオロオロしていると、だが側付きの者を呼び出す鈴がけたたましく鳴らされ、不測の事態が発生したのだと悟る。朱仲先も即座に牀から飛び起きて、文叔のいる房へと走った。
「どうした、何が起きた!」
すでに部屋には陸宣と侍女の小夏が駆け付けて、小夏が必死に陰麗華を宥め、その隣で陸宣が何かの薬を煎じているが、文叔は茫然とした表情で、陰麗華には手を出しかねている。
――二人とも衣服の乱れのないことに、朱仲先はまずホッとする。
だが、陰麗華の様子はそれどころではなかった。細い両手を振り回し、髪を振り乱して必死に何かから逃れようとしている。
「いや! やめて! お許しください! いやぁ! 子供は……子供だけは救けて!」
「麗華、僕だ、僕だよ! 麗華っ!」
「お嬢様、落ち着いてください! 違いますって! お嬢様!」
陰麗華の長い黒髪が、白い絹の寝衣と、絹の褥の上を、まるで命ある者のようにうねって、彼女の苦悩を表すようにのたうち回る。
「いや、許して! 何でもするから! いやぁああああ!」
「麗華、僕だって!」
文叔が腕を伸ばして掴もうとするが、それを陰麗華の手が振り払い、小夏もまた文叔に言う。
「混乱してるんです、男の人は手を出さないでください!」
陸宣が陶器の杯に煎じた薬湯を入れ、水で冷ましてからそれを陰麗華の口元に持っていき、優しい声で語りかける。
「陰貴人さま、もう大丈夫でございますよ、さ、これをお飲みになって……」
「いや、怖いの! いや!」
「お嬢様、大丈夫ですよ、陸宣さんですからっ!」
小夏も手を添えるようにして陰麗華の口元に杯を宛がうと、ゆっくりと薬を飲み下した。
「すべて夢でございますから……さあ、これを飲めば、悪い夢は終わりです。……もう一度、お休みなさいませ」
「はあ……はあ……もう……文叔さま――ごめんな……さ……」
寝台の上で何もできずに見ていただけの文叔が、息を飲んだ。
陰麗華の閉じた睫毛の先から、大粒の涙がいくつも流れ落ち、白い頬を伝っていく。陸宣が慎重に陰麗華を褥の上に横たえると、陸宣の袍を掴んでいた陰麗華の白い手がするりと褥の上に落ちた。その左手の薬指には、例の、銀の指環――。
すっかり細くなった指に、その指環は第二関節で辛うじて、ひっかかかっていた。
その様子を、じっと見つめている文叔の目の前で、再び深い眠りに落ちた陰麗華の脈を取ってから、その細い手首を褥の上に戻し、衾をの中にしまった。陸宣は一旦、立ち上がると、臥牀の脇に両膝をついて叩頭する。
「……申し訳ございませんでした、主上」
「何を、謝る」
臥牀に座ったまま、文叔は茫然と陰麗華を見つめたまま、尋ねる。
「お見苦しいところを……ですが、貴人様は主上が戻っていらっしゃるとは存じ上げず……」
「わかっている……咎めるつもりなどない。だが、これは――」
小夏がまだ流れ続ける涙をぬぐい、陰麗華の髪を整えて、文叔を睨むように見た。――その目は、涙を堪えて真っ赤だった。
「二年前、李季文って男がお嬢様を騙して、無理矢理、劉聖公の元に連れていったんです! それからは、時々こんな風に……。洛陽を離れてからは、だいぶ落ち着いていましたけど、やっぱり洛陽宮に戻ってきて、ぶり返してしまって……お嬢様、赤ちゃんを守るために必死だったのに――」
最後まで言えずに泣き出した小夏の背中を、陸宣が宥めるように撫でる。朱仲先が劉文叔に聞いた。
「いったい、どうしてこんなになったんだ。……きっかけは? お前、何した?」
その問いに、文叔は慌てて首を振る。
「何も……っ!ただ、目を覚ましたようだったから、上から覗き込んで、声を掛けたら――」
「いないと思っていたところに、男性がいたので、恐怖心を感じられたのかもしれません」
「僕……いや、私のことが、怖いのか?」
震える声で文叔が陸宣に問えば、陸宣が考えるようにして言う。
「おそらくは、主上ではなくて――」
文叔が両手で顔を覆い、肺腑の底から絞り出すように呟いた。
「こんなに、恐ろしい思いをしていたなんて! 私は――」
「文叔、自分を責めるな。劉聖公の野郎が、下衆だっただけだ」
朱仲先もまた、文叔を慰めるものの、狼狽を隠せない。
陰麗華の心の傷が、かくも深いとは、想像もしていなかった。――どこかで、自分たちも文叔も、河北で死線を潜り抜けたのだから、仕方なかったのだと、自分たちを正当化しようとしていた。陰麗華が自ら命を絶っていても不思議はなかったと、なぜ、思い至らなかったか。
「……陰麗華は、私にとって瑕一つない、美しい玉のような存在だった……周囲に愛されて、苦労一つなく育って……それがこんな……」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
切り裂くような小夏の声に、文叔がはっと顔を上げる。驚愕に見開いた瞳で、じっと小夏を見て、それから眠る陰麗華に視線を動かす。
「……僕の、せいか?」
「今更何言ってるんですか! あの時、文叔さまが李季文にお嬢様を託したりしなかったら、こんなことにもならなかったのに! 劉聖公だって、お嬢様が文叔さまの妻じゃなかったら、後宮に攫ったりしなかったでしょう! 全部全部、文叔さまのせいじゃないですか!」
「……僕が……麗華と結婚したから……?」
「全部、文叔さまのせいなのに、お嬢様ったら、ずっと、ご自分を責めていらっしゃった! ずっと、ずっと――それなのに、何の便りも説明すらもなくて、あんな……あんな、いけすかない女と!」
「小夏さん、もうそれ以上は……」
陸宣が小夏の袖を引っ張って止めると、小夏もわっと顔を覆って泣き出した。朱仲先が慌てて、劉文叔を庇おうと、口を出した。
「郭貴人の件は、文叔の浮気心ってわけじゃないんだ。あの時は俺たちもみんなギリギリで……文叔は俺たちのために……」
「仲先、もういい……」
文叔を擁護する仲先の言葉を、文叔が止める。
「何を言っても今更だ。……理由がどうあれ、許されるべきじゃない。――要するに、僕は河北で臣下と陰麗華を天秤にかけ、陰麗華を捨てた」
「文叔――! それは――」
「どこかで、僕もわかっていた。――でも、考えないようにして、敢えて目を逸らしていた。だから書簡も書かず、郭聖通のことも一言も報告すらしなかった。もちろん、詫びも――」
文叔が大きな手で額を覆い、苦い声で言う。
「郭聖通のことを言えば、離縁してくれと言う話になるだろうと。……もともと、陰家は僕に麗華を嫁がせるのは反対だったし、子供がダメだったとなれば、次伯は僕から陰麗華を引き離し、鄧少君あたりに嫁にやってしまうだろうと。郭聖通と結婚してしまった以上、離縁しないわけにいかない。でも、離縁してしまったら、二度と取り戻すことはできない。だから……」
「どうして……お嬢様を裏切ったんですか。お嬢様ずっと、結婚する前から文叔様を信じて待っていたのに。赤ちゃんだけでも守らなきゃって必死で……」
涙声で責める小夏をじっと見て、それから文叔は視線を伏せた。
「……河北で僕に付いてくれた者たちは皆、家族も故郷も犠牲にして、僕に全てを賭けてくれた。妻子や母親を人質に取られた者もいるし、故郷の家を焼いた者もいる。彼らの忠誠がなければ、僕たちはあの厳寒の河北の、雪と氷の大地に斃れて、消え去るしかなかった。あの過酷な状況を逆転させるには、河北の有力者と結ぶしかない、それには真定王の姪と結婚するしかないと詰め寄られて――彼らの、家族や故郷の一族に犠牲を強いている僕が、故郷に残した妻を理由に拒否するなんて許されないと言われた。そして僕自身も、その通りだと思った」
文叔は眠る陰麗華の白い顔を見下ろして、辛そうに顔を歪めた。
「もちろん、郭聖通を娶る以上は、陰麗華を離縁するしかないと、誰しもが言った。――妻は〈斉〉、夫と斉しい存在である以上、一人だけだ。……あそこで、郭聖通を妾にする選択があり得ないことくらいは、小夏もわかるよね?」
小夏が涙を懸命に堪えながら頷けば、文叔は続ける。
「陰麗華に離縁状を書かなかったのは、僕が卑怯だからだ。僕の方から離縁しなければ、陰麗華はまだ、僕の〈妻〉だ。どんな言い訳をしても裏切ったのは間違いないし、重婚は孔子も律も認めない卑劣なやり口だとわかっていたけれど、どれだけ罵られようと、僕は絶対に陰麗華を手放したくなかった」
「……でもつまりそれは、お嬢様を無理矢理囲い込んで妾にするってことですよね? そもそもお嬢様は文叔さまの〈妻〉だったから、劉聖公に人質にされて酷い目に遭ったんですよ? それを今度は妾にするって、愛してるからって許されることじゃないでしょう? 愛してるなら正妻にしてあの女を何とかするか、それが無理ならお嬢様を解放するべきです!」
「それは、わかっている。でももう少し根回しが必要なんだ。いずれは陰麗華を皇后にする。絶対に」
挑戦的な瞳で文叔を睨みつけてくる小夏を正面から見返して、文叔は誓った。
「……ずいぶん、痩せてしまった。僕は劉聖公の件で麗華がここまで傷ついたいるなんて、想像もしていなかった。……いや、考えたくもなくて、目を背けていたんだ。次伯は、麗華は僕のことを恨んではいないと言ったけれど、そんなことはないだろう?」
陰麗華の白い頬に手を伸ばして、優しくそれに触れながら、文叔は小夏に尋ねる。
「……口では何も仰いませんよ。むしろご自分を責めておいででしたし。文叔さまに合わせる顔がないって泣いておられましたよ」
小夏の言葉に、文叔が溜息をつく。
「合わせる顔がないのは、僕の方なのにね。……洛陽まで出て来てくれてよかった。拒否されたら、僕が自分で軍隊率いて行くところだったから」
「……やっぱりそのつもりだったのか……」
朱仲先が呆れたように言えば、文叔は陰麗華の顔から目を離さずに言う。
「当たり前だ。鄧少君と本気で武力衝突になるのも、覚悟していた」
「女一人のことで、育陽周辺を焼野原にするつもりか!」
「でも、少君は本気だったろう。……一対一だと絶対負けるから、軍隊の数で勝負だと思ってたんだけどな。二万も動員すれば、いくら少君でも……」
鄧少君は育陽を守ってはいるが、せいぜい、三千ほどの兵を動かせる程度だ。
「いくら何でも卑怯すぎるだろ……」
朱仲先が呟くが、文叔はそれを無視して、今度は少し乱れた陰麗華の髪を指で梳いた。
「髪は相変わらず綺麗だ……麗華の髪を持っていたけれど、河北で水に落ちた時に失くしてしまったんだ……」
そう、言いながら文叔が黒髪を指に巻き付けるようにしていて、ふと、手を止める。
「……これ、は……?」
文叔の視線をたどれば、陰麗華の黒髪の隙間から、小ぶりな白い耳が覗いていた。形の良い耳朶に開けられた、無残な孔――。
小夏と陸宣が思わず顔を見合わせる。
二年前に洛陽で、劉聖公が陰麗華に無理に付けさせた耳璫の痕――。
「それは……その、以前、こちらにおられた時に、その――」
「……劉……聖公が……?」
文叔の瞳に鋭い眼光が蘇って、ギロリと小夏と陸宣を睨みつける。今までの穏やかな雰囲気が一変し、思わず背筋を正してしまいそうな気迫に、小夏も息を飲む。
「……あの野郎……絶対、この手で殺してやるっ!」
「文叔!」
はっと我に返った朱仲先が文叔を止める。
劉聖公は長安の覇権を失い、現在は赤眉軍に囚われているはずだ。それを自分の手で殺すということは――。
「今はダメだ!……文叔、いや、陛下! 今は、長安に親征なさるべき時ではない!」
「だがっ! 妻を犯した男を野放しにしろというのかっ!」
「しぃっ!」
朱仲先が強い調子で言い、臥牀のすぐ脇まできて膝をつくと、文叔のそばで声を落とし、早口で言った。
「そのことは口にするな。陰麗華の名誉はお前の名誉だぞ? 劉聖公が陰麗華を辱めたのは、お前を辱めると同じことだからだ! もし、今、お前が自ら長安に兵を向けて聖公の首を要求すれば、聖公は陰麗華とのことをぶちまけるだろうし、そうなれば陰麗華は完全に壊れるぞ!」
陰麗華が壊れる――その言葉に文叔がぐっと奥歯を噛みしめる。
「だが――それでは――」
朱仲先がコホンと咳払いしてから、噛んで含めるように説く。
「……陰麗華と聖公は、何もなかった。……もちろん、陛下と、聖公の間にあるのは、劉伯升の恩讐のみ。陛下は先に、朱長舒(朱鮪)を下して洛陽を落とす際に、朱長舒のことはお許しになり、劉伯升の件については不問に付す、と明言なさった。陛下は更始政権の継承者として、聖公には儀礼的に対応しておくべきです。遠からず、聖公は殺される。陛下のお手を汚すまでもなく、赤眉か、あるいは長安にいる、鄧仲華の軍によって」
お前と言ったり陛下と言ったり、ころころと口調を変える朱仲先に、小夏と陸宣が戸惑ったように顔を見合わせる。
「しかし……それでは僕はただの腰抜けだ!麗華の恨みも晴らさないで、どうして夫を名乗れる!」
「だから! 陰麗華の夫でいたいのなら、劉聖公に対してはこれまで通りの対応を貫け。何もなかった風を装うんだ。……言っておくが、傷ついているのはお前じゃなくて、陰麗華なんだぞ? お前が対応を誤れば、陰麗華がさらに辱められて、周囲からの攻撃材料になる。お前はそんなことは望まないだろう?」
文叔は怒りを抑えるように、荒い息を吐いて気を鎮めようとしていたが、なかなか上手くいかないらしかった。朱仲先は臥牀の脇で両手を地につき、畏まるような姿勢で、まっすぐ顔を文叔に向けてなおも言う。
「……とにかく、今、長安に出兵など、口にされるべきではありません。陛下。昨年、鄧仲華を関中に送り、陛下自身は河北の足元を固めて洛陽に拠る。――この方針を決めた以上は、貫くべきです。一時の感情に動かされてはなりません」
朱仲先の言葉は、感情はともかく理屈では納得したのだろう。文叔は唇を噛んで、じっと陰麗華の耳の孔を睨んでいた。
「……これは、塞がらないのか?」
文叔が陸宣に問えば、陸宣が頭を下げる。
「はい。もとは孔はもっと大きかったものが、だいぶ塞がりつつはありまして。ですが、これ以上は……」
「……塞がっても傷痕が残るのか……」
「はい。陰貴人さまは耳をずっと髪で隠していらっしゃって……」
陸宣が申し訳なさそうに答えるのに、文叔は頷いた。
「そうか……痛かっただろうな。可哀想に……」
「その……」
小夏が遠慮そうに声をかけ、文叔が振り向く。
「なんだ?」
「それも、お嬢様はすごく、すごーく、気にしておられて……文叔さまに合わせる顔がないっておっしゃる、一つの理由なんだと思います。……はっきりは仰いませんけど。だから……」
「だから?」
「あまり話題にしないようにお願いします。……本当に、お嬢様はご自分が悪いって、全部思い込んじゃう人なんです。文叔さまのせいにして、暴れられる人だったら良かったんですけど……」
その言葉に、文叔は黒い目を一瞬見開いて、だが言った。
「しかし、全く話題にしないのも、不自然じゃないか? これだけ目立つのに」
文叔はまだ、視線を陰麗華の耳朶から動かさない。
「それに私も、これを見るたびに頭に血が上りそうだ」
しかし文叔は陰麗華の黒髪でその耳朶を隠し、陸宣に尋ねた。
「お前の薬はどのくらい効くのだ」
「今は少しだけ薄めに作りましたので、明日の朝には目が覚めるのではないかと……」
「そうか。……じゃあ、私ももう一度休むから、お前たちも下がってくれ。騒がせてすまなかった」
しれっと言う文叔に、朱仲先が仰天する。
「ちょっと待てよ、お前まだ、ここで寝るつもりか?」
「ここは夫婦の房だろ? 私の寝る場所はここ以外にない」
それには陸宣も小夏も不満を漏らすが、文叔は頑として忠告を受け入れない。
「ならば、あたしもこの房の隅っこで寝ます! それでもいいですか?!」
最後の手段とばかりに小夏が言えば、文叔が渋々といった風に頷く。
「今夜は麗華の体調が心配だから仕方がないな。特別に許可する」
「ちゃっかり、お嬢様を囲い込むおつもりなんでしょう!」
「当たり前だ。二度と離すもんか」
「……お嬢様のお気持ちは無視ですか……」
上目遣いに睨みつける小夏に、文叔がはっきりと言った。
「それは諦めてくれ。僕は〈陰麗華病〉だから」




