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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
間章三 鳳は凰を求む
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天命の贄

 長い議論も陰次伯の熱弁も、呉子顔の一言によって振り出しに戻ってしまった。

 

 劉文叔には陰麗華を手放すつもりがなく、彼がこの洛陽における絶対権力者たる皇帝である以上、究極的には誰も逆らえない。――要するに、陰麗華は逃れられなということだ。


 「滅茶苦茶だ……麗華が全部、飲むしかないってことじゃないか」


 皇帝の私室から解放されて、ぐったりと呟いた陰次伯に対し、当初は反感を抱いていたこう伯昭は今では同情さえ感じて、彼を支えるように側近官の控室に連れ出す。途中まで一緒に陰次伯を送ってきた朱仲先が、耿伯昭に言う。


 「俺はこのあと陛下に呼ばれているから戻るが、次伯を頼む。口は悪いがまあ、その……お坊ちゃんでな。鄧仲華とも親戚になるんだ」

 「ああ、なるほどね。固いくせに、陛下に対して全く引かないところが、仲華にそっくりだと思いましたよ」

 

 耿伯昭が今、大軍を率いて関中にいるはずの同僚を思い浮かべて言えば、陰次伯が微かに眉を寄せた。


 「あれと一緒にしないでくれよ。……ああ、でもあいつ見ないと思ったら、今、長安にいるのか……」

 

 そう呟く陰次伯を気遣い、朱仲先は通りかかった宦官に声をかけ、控室にどぶろくと肴を運んでやるように頼み、踵を返して皇帝の部屋に戻る。


 前方に目をやった耿伯昭は、回廊の向こうからこう伯山が足早にやって来るのを見て、はっとした。


 耿伯山は郭貴人の従兄イトコ。――今度は、そちらとも話し合いをするということか。


 耿伯昭は陰次伯と耿伯山が鉢合わせしないように、慌てて控室に向かって回廊を曲がり、ポツリと呟く。


 「――女房が二人なんて、ロクなもんじゃねーな」

 

 あちらを立てればこちらが立たぬ。

 南陽に身籠った妻がいるからと、郭聖通との結婚を拒否した主君を、だがそれ以外に河北の豪族連中を味方に付ける手段がない、と説得したのは自分たちだ。男児が産まれていれば厄介なことになると、密かに危惧していたが、南陽の妻・陰麗華の子は死産であったと、最近知らされた。つまり今、主君には郭聖通の産んだ皇子・彊一人だけで、これが跡継ぎと考えて問題ない。――ならば当然、その母である郭聖通を皇后に立てるのが常識なのに。


 どうやら、主君の陰麗華への執着は常軌を逸していて、一方、肝心の陰麗華の方は、後宮の一人に落とされるよりは、と主君との離縁を望んでいるらしい。


 皇帝と離縁、というのが果たして可能かどうかは知らないが、即位後間もないこの時期ならば、陰麗華の存在も知られておらず、密かに離縁して故郷に帰すことも可能だろう。早々に誰かの元に縁づけてしまえば、戦乱の混乱に紛れて誤魔化すこともできる。今がギリギリの、最後の機会なのだ。――今を逃せば、政権としても陰麗華を囲い込まざるを得なくなる。陰次伯も主君も、薄々それに気づいているからこそ、必死の攻防が繰り広げられたのだが――。


 主君が陰麗華を手放さない以上、彼ら臣下たちが陰麗華に望むことはただ一つしかない。


 ――大人しく、主君の寵姫として、一側室の地位に甘んじ、後宮に飼われてくれること。


 もし、同じことを自身の妹に要求されたら、それも、一度は晴れて妻となった男の、妾になれと言われたら――陰次伯に肩を貸しながら、耿伯昭はひどく、その痩せた書生っぽい男に同情した。

 





 溜まっていた執務の、急を要するものを片付け、夕食も議論しながら粟粥と漬物で済ませて、ようやくある程度めどがついたところで、劉文叔は筆をいた。


 「今日はこれまでにしよう。仲先も伯昭も今日はゆっくり休んでくれ。孟津から駆け続けだったからな」

 「陛下は今夜はどちらに」

 「……陰麗華のところに。まだ、目が覚めたという連絡が来ないけれど、明日は次元が姉さんや妹を連れて来るから、陰麗華の容態を知っておかないと、特に伯姫に殴られそうだ」

 「では俺も、お伴しますよ」


 朱仲先の言葉に、劉文叔は露骨にぎょっとする。


 「なんで!」

 「警備の者が必要だろう。今夜は俺が控えの間で泊まる」

 「必要ないよ!」

 「……心配だ。主に、陰麗華殿が」

 「どういう意味だよ?」

 「……二年ぶりで逸る気持ちもわからんではないが、意識のない相手に無理強いはいかんぞ」

 「しないよ!」

 

 文叔は叫んでから、朱仲先に言った。


 「仲先もさ、いっぱしの将軍なんだから、私の小間使いみたいなのは、もうやめないか?」

 「だが、お前に死なれては困る。危険はないと言うが、洛陽だって安心はできない。信頼できる奴が誰かはついてないと」

 「でも、仲先だってたまには家でゆっくりしたいだろう? どうせまた、すぐに戦にでなきゃならん」

 「どのみち、俺は独身だし、宿直するのは気にならん」


 その言葉に、文叔が一瞬、気まずそうな顔をした。朱仲先の妻は、文叔らの叛乱にくみすると決めた時、官憲の手が回らないよう、離縁して実家に帰していた。その後はずっと、彼は独り身を通している。――ちなみに、離縁したかつての女房は、数か月に及ぶ宛の包囲戦で辛酸を嘗め、今は新しい夫と幸せな家庭を築いているはずだ。

 

 「仲先も、いい縁があるといいね。……というか、奥さんをあんなにあっさり離縁しちゃうからさ……」

 「だって、あの時、俺が離縁しなかったら、郡に収監されて確実に殺されてたぞ? 俺の一筆で命が助かるなら、いくらでも離縁するさ。――俺はお前みたいな執着男じゃないから」

 「悪かったな、執着男で」


 文叔はぶっすりと言い、立ち上がって身なりを整える。


 「ほら、お前たちも言ったじゃないか。僕は〈陰麗華病〉だって」

 「まあ、今に始まったことじゃないからな。……それから、また、〈僕〉だ。いっそのこと、〈ちん〉だったら言えるんじゃないのか?」


 二人は宦官を先導に、背後には護衛の衛士を二人従えて、すっかり暗くなった回廊を行く。中庭には篝火が焚かれ、軒に吊るされた青銅の灯籠にも火が入って、ぼんやりと照らしている。


 却非殿の後殿は壮麗な殿舎ではあるが、皇帝の私室から陰麗華がいる部屋までは、それほどの距離はない。――もともと、皇帝のお召しがあった掖庭こうきゅうの女たちが待機して、寵愛を受ける部屋だからだ。文叔はそれを、陰貴人専用にしようというだけの話。 


 陰貴人の部屋の前には衛士が二人立っていて、皇帝の姿を見ると頭を下げ、皇帝と朱仲先だけを中に入れた。先ぶれを出してあったので、すでに陸宣が堂の入口で待ち構え、頭を下げていた。堂内に他の人間は居らず、小夏はもう休んでいると知って、朱仲先はホッとした。


 「まだ、目は覚めないのか」

 

 文叔が問えば、陸宣が深く頭を下げる。


 「実は、主上おかみが洛陽にお戻りになるほんの直前に、ひどい悪夢にでもうなされたのか、発作のようなものを起こされましたので、少しばかり強めの、鎮静作用のあるお薬を処方いたしましたのでございます」

 「……発作……」

 「小夏どののお話しでは、二年前に洛陽であったことが、相当の心の傷になっておられるようで、その直後は何度か、同様のことがあったと。ここ半年ほどは落ち着いておられたそうですが、洛陽に戻られたことで、心の傷が開いてしまわれたかもしれません」


 陸宣の答えに、朱仲先が眉を顰める。


 「心の傷……それは、塞がるのか?」

 

 陸宣は首を傾げた。


 「身体の傷は比較的容易に塞がりますが、それでも痕が残る。心の傷は見えないだけに、いつまでも奥底で痛み続けることがございます。あるいは、お子様のことが引き金になられたかもしれません」

 「……郭聖通のことか……」

 「畏れながら、主上おかみのお側にお仕えなさるのでしたら、避けられぬことかと存じます」

 「……お前まで陰麗華を解放しろと言うのか」

 「小官はそこまでは。女性にとって、お産で御子を失うのは、きっと自身の命を失うより、哀しいことかと存じます。……あるいは、次の御子様を無事に産み参らせることができましたら、貴人様のお心も救われるかもしれません」

 

 その言葉に、文叔は小柄な若い宦官をじっと見た。


 「お前が、麗華のお産を診てくれたのだったな。……ありがとう。お前の処置が適切だったおかげで、命を拾ったと聞いている」

 「勿体ないお言葉にございます」

 「……麗華は、まだ子は孕めそうか?……いや、もう無理だとしても、私の彼女への態度が変わることはないが……」

 

 出産の状況が悪ければ、二度と子を孕めない身体になることも多いと文叔は聞いていた。それについては、陸宣は断言はしなかった。


 「絶対に大丈夫……とは申しませんが、無理ということはないのではと、考えております。これはあくまで小官の見立てですが、前回のお産の時は母体の状態がよろしくありませんでした。洛陽城に連れて来られて以来、精神的な問題でお食事がまともに取れず、どんどん痩せ細られて。それでも御子のために無理に食事を摂ろうとなさって、結局吐いてしまうことの繰り返しでございました。陰貴人様は本来、問題のない健康なお身体をなさっておられますが、あれでは……。ですから、健康に留意し、精神的に落ち着いた環境であれば、御子は十分、望めるのではないかと――」

 「そうか……それはよかった……」


 だがそこまでの辛い目に遭わせてしまったのだなと、文叔は溜息交じりに呟いて、奥の房へ向かおうとしたが、その袖を仲先が引っ張って止める。


 「どこへ行く気だ」

 「どこって……私もそろそろ休むから、奥のしんしつに……」

 「まさか、そこで寝る気か? この部屋で寝るんじゃないのか」

 

 仲先がギョロリとした目を見開けば、文叔は何で、という顔をした。


 「どうして僕が夫婦喧嘩で追い出された夫みたいに、堂で寝なきゃいけないの。せっかく再会したのに。僕と奥さんのしんしつだよ? 病める時も健やかなる時も、夫婦は一つのふとんで寝るもんだろ?」

 「いやいやいや、意識のないことに付け込んで、別れてくれと要求している女房のふとんの中に滑り込むとか、図々しいにもほどがあるだろ」

 「なんで? まだ夫婦なんだし……もちろん、横に寝るだけで、何もしないよ? 意識のない状態でどうこうとか、そういう性癖はないよ。反応がないと面白くもなんとも――」

 「そういう問題じゃない!」


 少なくとも陰麗華は離縁を求めていて、文叔もそれを知っている。にもかかわらず、相手の意識がないことに付け込んで同衾しようとは、面の皮が厚すぎる。

 

 ――それに。

 もし、ここで()()()同衾してしまえば、陰麗華には()()()寵愛があった、ということになってしまう。そうなれば、陰麗華を南陽に帰すことも難しくなる。


 朱仲先はそれを指摘しようとして、口を噤んだ。


 ――文叔はわかっていてやっているのだ。

 この男は穏やかそうな表情と口調をしているときこそ、腹の中で悪だくみを考え、着々と実行しているのだ。陰麗華を絶対に離さない手段など、すでに幾重にも講じているに違いない。


 ここで仲先がそのことを口に出してしまえば、その危惧は本物になり、周囲にも周知されてどうやっても撤回不可能になる。


 朱仲先の脳裏に、陰次伯の必死の形相が浮かぶ。なんとか、陰麗華を南陽に帰してやろうと思ったら、ここで文叔を留めて部屋の外に連れ出さなければ――。


 「その――まだ、和歓殿の方に顔を出してないだろ? ヤバくないか? 後で揉めたら――」

 「大丈夫だよ。聖通はその程度で嫉妬に狂ったりはしないよ。……少なくとも表面的には」


 文叔はそう言うと、仲先をちらりと振り向いて、口角を少しだけ上げた。彫りの深い顔に陰が差し、男でも一瞬見惚れるような甘い笑顔で、仲先に言った。


 「――邪魔するなよ、仲先。陰麗華は僕の妻だ。絶対に手放さない。次伯には、諦めるように言っておいてくれ」


 そうして仲先にも控えの間に下がるように命じて、文叔はさっさと奥の房に入ってしまった。


 ――後には、朱仲先が透かし彫りの屏風の前に残され、一人立ち尽くした。






 朱仲先が引上げたのは、廂と呼ばれる脇の小部屋のうちの一つだ。牀が置いてあって、護衛や側仕えが仮眠を取ったり、待機中に寛いだりする。陸宣が気を利かせて、小宦官に命じて運ばせてくれたので、桶に入った熱い湯で顔を洗い、手巾を絞って身体を拭いた。それから、脇のおぜんには、寝酒にと、熱いあまざけ。あまり酒に強くない朱仲先は、牀の上に敷かれた褥の上にゴロリと寝転がって、片肘ついた状態で、ちびちびと醪を嘗める。


 ――要するに、俺たちは陰麗華を人身御供に差し出したも同じだな。


 そう思えば、陰次伯にも、そして以前から見知っている、鄧仲華、鄧偉卿らにどう言い訳するべきかと、頭を悩ませる。


 陰麗華を洛陽に迎えると文叔が言い出した時、河北に渡る以前の事情を知る者たちの間で、幾度か話し合いが持たれた。洛陽宮から陰麗華の脱出に手を貸した李次元の報告と、その後の調査が主たる内容だったが、やはり妾に落とすか離縁するしかない、という結論が出た。


 どう言い繕っても、文叔の河北での結婚は重婚である。南陽に正式な妻を残しながら、河北でも郭聖通と、略式ながら正規の作法に則って婚礼を挙げ、真定王の姪を娶ったと周囲に宣伝した。最近、文叔に帰順した者は皆、文叔の「妻」は真定の郭氏だと思っている。朱仲先ら周囲もまた、「南陽の妻」の存在をひた隠しにしてきた。

 ――重婚は、孔子の教えはもちろんのこと、漢の法的にも認められない。もし、文叔が天下を取れず、逆賊として歴史書に名を留めることになったら、文叔の悪逆の一つとして、必ずやり玉に挙げられるであろう。


 今となっては、「陰麗華との婚姻」など、初めからなかったことにしてしまいたい。――郭聖通との婚姻前に離縁状を送るべきだと馮公孫だけでなく、朱仲先も言ったが、文叔はモゴモゴ誤魔化して結局、正式に離縁しないまま、ここまで来てしまった。離縁について確認しなかった朱仲先らも悪いが、文叔もわざと黙っていた節がある。だが、それは要するに二年間も陰麗華を放置したわけで、その上、妾に落とすなんてこと、さらに酷い。連絡の行き違いを陰家には十分に詫び、陰麗華には新たな夫をあてがって、南陽で穏やかに暮らしてもらう。これが朱仲先や李次元らの当初描いた落としどころだった。


 李次元ははっきりとは口にしなかったが、あの劉聖公が陰麗華のような美女を前にして、手を出さないはずがない。どうも、腹の子の命を盾に取られて脅されたらしい。しかも、子供も死産。劉文叔の妻だったおかげで見舞われた不幸であり、また強いられたこととはいえ、陰麗華もこのまま文叔の妻の座に留まることを、いさぎよしとしない気持ちがあるのだろう。――陰家の側から離縁を望むのは、士大夫の感覚としては、当然だと思う。


 ところが――。


 陰麗華を皇后にするなどと、文叔はふざけたことを言い出した。郭聖通がすでに長男の彊を産んでいるのにかかわらず。──『母は子を以てとうとし』。『春秋公羊伝(くようでん)』の言葉に従い、跡継ぎの生母を皇后とするのは、漢王朝の言わば国是である。


 皇后とならずとも、皇帝の寵姫として、後宮で栄耀栄華を極めるのもまた、女の出世の一つではある。だがその一方で、後宮とは半ば賎民のような女であっても、女の武器一つで成り上がることのできる弱肉強食の世界で、娘や妹を後宮に放り込み、その縁で出世するなんて、まともな士大夫のすることじゃない、という考え方も根強い。最初から覚悟の上で後宮に入ったわけでない、生涯ただ一人の妻として大切にすると誓われて嫁いだ陰麗華が、後宮入りに尻込みするのも無理はない。


 陰家の方でも、早々に文叔との結婚に見切りをつけたらしい。宛、新野周辺が落ち着かないこともあって、陰麗華は故郷の新野ではなく、育陽の鄧少君のいえに寄寓していると聞き、すでに婿候補もいるのであれば、案外、あっさり落ち着くのでは、と考えていた朱仲先らは、完全に舐めていた。――文叔の不治の病、〈陰麗華病〉を。


 陰麗華が育陽の、鄧少君の保護下にあると知った時の文叔の剣幕が、彼ら側近たちの楽観ムードをぶち壊した。


 『絶対に洛陽に連れ戻せ。場合によっては私自身で行く!』


 もし、すでに陰麗華と鄧少君が夫婦同然であったとしても、文叔はそれを認める気はない。陰麗華はまだ、自分の「妻」であり、鄧少君が陰麗華の引き渡しを拒んだ時には、武力に訴えても奪い返せ、と――。


 傅子衛から、無事に陰麗華が育陽を発ったとの知らせが届いて、朱仲先は心底からの安堵で胸を撫でおろした。少なくとも、女一人のために皇帝親征するなんて、みっともない事にならずにすんで、とりあえずはよかった。最悪の事態は免れたのだ。


 だが、朱仲先個人としても、陰家の兄妹に対し、罪悪感を抱かずにはいられない。

 どう考えても、このまま文叔の後宮に留まるより、南陽で鄧少君と新たな家庭を築いた方が、陰麗華は幸せだ。たしかに美しい女だが、後宮でけんを競っていく強さはない。夫の裏切りと周囲の悪意に、心を擦り減らしていく未来しか見えなかった。


 なんとか、解放してやれたらよかったんだが――。

 文叔あいつが、あそこまで陰麗華に執着するだなんて、俺も思わなかったんだよ――。


 文叔の、陰麗華への執着は度を越している。陰麗華を失ったら生きて行けないと、()()()()()()()。その理由を、古くからの友人である朱仲先ですら知らないが、文叔が皇帝として戦場に立ち続けるためには、陰麗華に留まってもらうしかない。


 天下を取る。麻の如く乱れた天下を再び一つにし、かつての漢の平和を取り戻す。王莽に奪われた天命を、もう一度劉氏の、そして天の認めた「天子」の上に輝かせるために。

 その「天子」こそ劉文叔その人であると、朱仲先らは信じた。


 劉文叔は漢の再興を宿命づけられて生まれた、天命を受けた「天子」であり、自分はその将として彼とともにいつか、天下統一を成し遂げるのだ。文叔の元に漢帝国を復興し、かつて、彼らの故郷にも確かにあった、平和と幸福をもう一度築き上げる。そのためには、いかなる犠牲も厭いはしない。


 「ああ、そうか――」


 朱仲先は灯火の届かない、天井の暗がりを睨んで一人、呟く。


 「それは、文叔の野望じゃない。俺の……俺たちの野望だ。俺は、自分の野望のために、陰麗華を生贄にしたんだな」


 その事実を、忘れてはならないと朱仲先は思いながら、目を閉じた――。



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