表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
間章三 鳳は凰を求む
40/130

病膏肓に入る




 男達が集結したのは、同じく後殿にある皇帝の私室。こちらはもっぱら私的な書斎のように使用され、側近官の会議もできるようにコの字型に牀が並んでいる。現在その場に呼びつけられているのは、文叔の側近中の側近たち。朱仲先しゅちゅうせん耿伯昭こうはくしょう王元伯おうげんぱく馮公孫ふうこうそん、さらには大司馬を務める呉子顔ごしがん、そして陰麗華を南陽から奉迎してきた侍中の傅子衛ふしえい。宦官が彼らの前の案に温めたどぶろくを配る間も、皇帝・劉文叔は留守中にたまった木簡の巻物を卓上に広げて、何か書き入れながら、李次元からの報告を受けていた。


 文叔は黒地に地紋の入った直裾袍に黒い帯、佩玉を垂らしただけの軽装で、頭には長冠をつけている。――俗に劉氏冠とも呼ばれる、鳥の尾のように後ろの長い冠で、文叔の端麗な顔をよく引き立ててはいるが、皇帝に即位したにしては地味な服装で、飾りもない。

 「皇帝」を名乗っているとはいえ、関中には赤眉軍が擁立した劉盆子が「建世元年」の元号を建て、蜀(現在の四川省)では「蜀王」を自称する公孫述が「龍興元年」の元号を建てて、それぞれ正統を主張している。それ以外の有象無象の「自称天子」「自称皇帝」「自称将軍」……に至っては、いちいち数え上げることもできないほど、あちこちに割拠している状態だ。


 ――実のところ、劉文叔だって六月に河北の、鄗という寒々しい場所で壇を築いて即位した時は、そんな「有象無象」の一人でしかなかった。洛陽を落とし、更始帝政権の継承者として長安の赤眉軍に対峙することで、ようやく天下取り争いに名乗りを挙げることができたに過ぎない。服装などに構っている余裕もなければ、そもそも「天子の普段着」がどうあるべきか、誰も知らない。


 と、宦官が待っていた人物を導いてきたのを知り、文叔は木簡を片付けて立ち上がる。――入ってきたのは陰次伯、陰麗華の異母兄だ。


 陰次伯は白地にこげ茶の襟のついた直裾袍に、深い臙脂色の帯。これも前漢の未央宮ならば不敬と弾劾されかねない、要するに普段着に毛の生えた程度の地味ないでたちだが、何分、陰次伯も南陽から出てきて間もないし、文叔の側近たちも、戦場と往復している状態。「朝廷に出入りする正しい服装」などしたら、かえって悪目立ちしてしまっただろう。


 文叔は陰次伯に席を指定すると、控えていた文官や宦官を下がらせた。

 陰次伯の登場によって、側近官たちは、ここに耿伯山がいない理由を悟る。――耿伯山は郭貴人の従兄弟。この場の話が郭貴人に漏れるのを嫌ったのだ。 


 陰次伯は文叔の前まで進むと、しばらく複雑そうな表情で立っていたが、しかし、その場で膝をついて拝礼した。それを劉文叔は自身で立ち上がらせる。


 「今は私的な場だから、堅苦しい礼は不要だ。――皇帝ってのになってはみたけど、古くからの友人がいなくなるようで寂しいから、ここでは言葉遣いもこれまで通りで頼む」

 「……僕は構わないが、いちいち怒りだす人がいるからさあ……」


 そうつぶやいた陰次伯の前で、突然、劉文叔は両膝をついて叩頭した。それには、次伯だけでなく周囲の者がぎょっとする。特に、一番若い耿伯昭は驚いて、文叔を助け起こそうとする。


 「なんてことをするんです!あなたは皇帝なんですよ!」

 「だが、次伯には詫びなければならない。――陰麗華を、守れなくて申し訳なかった」

 「それは――実際、近くにいたのにむざむざ攫われた僕にも責任はある。……でも、一つだけ確認したい。君が李季文と語らって、陰麗華をあのクソ野郎に差し出したわけじゃあ、ないんだね?」

 「そんなことするわけがないっ!」

 

 劉文叔はガバリを顔を上げ、陰次伯を真剣な表情で見た。

 

 「まさか、陰麗華もそう、疑っているわけじゃないだろうな?」

 

 陰次伯は首を振る。


 「陰麗華もまったく疑っていないわけじゃないと思うけど、それについて話したことはない。さすがに、君までが噛んでいると考えたら、正気ではいられなかったと思う」

 「断じて、私は陰麗華を劉聖公の人質にするつもりなんてなかった。本当に南陽に帰すつもりで……申し訳ないが、君では洛陽から新野まで、安全が保てるか不安だった。それに、君に頼めばきっと、鄧少君が出て来るに違いないと思って、それもイヤだったんだ」


 この場にいる人間は皆、いずれも沈鬱な表情で二人の会話を見つめている。


 「騙された、私が愚かだったんだ。私は李季文を信じて、陰麗華を託した。あんな男でも、一緒に昆陽の包囲を突破した戦友だと思っていたから。……鄧少君に託すのは別の意味で不安で……でもその、私のつまらない嫉妬のせいで、私は信じてはならない男を信じて、結局陰麗華が――」

 

 唇を噛んで俯いた文叔を庇うように、李次元も言う。


 「季文は文叔……失礼、陛下に対抗意識を持っていて……陛下が以前からの想い人と結婚したのを、妬ましく思っていたのだと思う。劉聖公に、陰麗華殿のことを吹き込んで興味を持たせ、それで――」


 陰次伯も辛そうに眉をひそめる。


 「まあ、そのことは信じるよ。李季文も死んでしまった今、言ってもどうにもならないし。騙されたものはしょうがない、ってのもおかしな言い方だけれど、僕の身の処し方も、力の無さも悪かったと僕は思っているから。そのことは、もういい。でも――」


 陰次伯は息を吸ってはっきりと言った。


 「叩頭するほど麗華に申し訳ないと思うなら、すっぱり離縁してくれないか。こちらから、頭を下げてお願いする。それが、お互いのためだと思う」

 

 陰次伯もまた、その場で膝をついて叩頭したが、しかし文叔は首を振る。


 「それはできない。離縁だけはしない。麗華は私のことを恨んでいるだろうが――」

 「麗華は恨んではいないよ。河北での結婚のことだって、僕たちは理解している。それは仕方のない、めぐりあわせだと。でも恨んでないことと、屈辱的な待遇を受け入れるかどうかは、話が別だ。我が陰家は管仲を祖とする由緒ある家だ。僕は、君が妹を正妻として尊重すると誓ったから、家長として妹を君に嫁がせると決めた。皇帝になったからと言って、一度は妻として娶った女を妾に落とすような待遇に、甘んじることはできない」 

 

 二人はともに床に膝をついたまま、向かい合った状態で、文叔がハッキリと言った。


 「私は陰麗華を皇后にする。妾に落とすつもりはない」

 「じゃあ、郭氏はどうする。最初から妾として娶ったわけじゃないんだろう?」

 「それは……でも、最初に娶ったのは麗華だし――」

 「そこの人がさっき言ったけど、子供がいるんだろう? 陰麗華が、うんと言うわけない。どちらにしろ、僕たちには受け入れられないんだ。それに、そもそも後宮とか、僕たちには無理だ。何でも、郭貴人とやらが言うには、皇帝の後宮には百二十人の女が必要だとか何とか。そんな生活は無理そうだし、僕たちは南陽でひっそり生きていく方がいい。陰麗華の幸せを思うなら、解放してほしいんだ」

 「百二十人って何の話だよ!」


 思わず叫んだ文叔に、朱仲先が横から言う。


 「『礼』だよ。『礼』の記に、王后の下に、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻。正妻の王后を入れると正確には百二十一人だな」


 その場の男たちが全員、絶句して顔を見合わせる。馮公孫が、年齢より落ち着いて見える風貌で、生真面目そうに言い、堅物の王元伯が四角い顔でうんうん頷いて同意した。


 「一晩に一人でも一巡するのに四か月かかりますな。女を日替わりにするにも、限度ってものがあるでしょうに」

 「百二十人も、とてもじゃないが顔を覚えるのは無理じゃないですか? 好みの女がいても、四か月に一度しか会えないんじゃあ……」


 それを受けて、朱仲先が大きな目をギョロっと動かして言う。


 「いや、季節ごとの祭祀の前なんかは潔斎の日があって、毎晩女のもとに通うわけにもいくまい。半年で一回りも無理だと思う。一人あたり、一年に一回ってところじゃないか?」

 「牽牛と織女かよ!」


 男たちがワイワイと勝手なことを言い出し、文叔が叫ぶ。


 「そんな制度は絶対、取り入れない。だいたい、実行不可能だ!」


 しかし李次元が澄まして言った。


 「長安の陥落直前に、王莽が実行したはずです」

 「まじか、あのジジイ!」

 

 文叔がコホン、と咳払いし、陰次伯に宣言する。


 「私は王莽と違い、いにしえの、そんなふざけた制度を実行するつもりはない。郭聖通のことはもう、どうしようもないけれど、私は陰麗華を最愛の妻として、一生添い遂げるつもりでいる」

 「でも、陰麗華も離縁を望んでいるよ。……書簡てがみに何度も書いたはずだが、届いていなかったのか?」

 

 その言葉に、文叔がぐぐっと、濃い眉を寄せた。


 「嫌だ、離縁はしない! ……離縁したら、君は陰麗華を鄧少君に嫁がせるつもりだろう!絶対に嫌だ!」


 その子供のような言いぐさに、李次元が思わず天井を仰いだ。陰次伯が言う。


 「でも、実際、麗華はその郭貴人とやらに会って、急に体調を崩して寝込んでしまった。後宮でやっていけるとは思えないよ。あちらの人に子供もいるのなら、陰麗華を離縁するしかないと思うけど……」

 「絶対に陰麗華と離縁なんてしない! 陰麗華が後宮暮らしが無理だと言うなら、私も皇帝をやめる!」


 文叔のとんでもない発言に、一番若い耿伯昭が激昂した。


 「いい加減にしてください!女一人のために、あなたは天下を棄てるって言うんですか!」

 「ああ、もちろん。私にとっては陰麗華が全てだから」


 すっくと立ちあがり、傲然と胸を張って、まるで誇らしいことの如く宣言する文叔に、陰次伯は眩暈がした。


 「やめてくれよ。そんなことになってみろ、陰麗華は夫の大業を邪魔した稀代の悪女として、青史に名を留めることになるじゃないか。僕たちはそんなことは望んでない。跡継ぎのこともそうだが、いちいち陰麗華を巻き込まず、厄介はそちらで片付けてくれないか」


 陰次伯の言葉に、李次元も同意する。


 「一度即位した皇帝位を放り出すなんて、できるわけがないでしょう。一生、逃げ回って暮らすつもりですか? 陰麗華殿までそれに付き合わせて?」


 だが二人の常識的な言葉に対して、文叔は堂々と嘯いた。


 「大丈夫だ、問題ない。私は陰麗華さえいてくれれば、どんな苦難でも耐えられる」

 「全然大丈夫じゃないし、()()()()ないから! 陰麗華をその苦難に、強制的に巻きこむのをやめてくれ、って僕は言っているの!」

 

 陰次伯が叫ぶが、文叔は全く引くつもりがなく、朱仲先がはあーっと深い溜息をついた。


 「あきらめろ、次伯。文叔の〈陰麗華病〉は、筋金入りだ。病膏肓(こうこう)に入って、もうどうにもならん」

 「文叔が〈陰麗華病〉なのは僕だって知っている。でも、それはただ一人の妻であったから認められた。他の女に子供を生ませておきながら、陰麗華も手放したくないなんて、虫が良すぎるよ」


 陰次伯の指摘に、文叔は苦い顔で言った。


 「それについてはいくらでも詫びる。事情はあったけれど、裏切ったことは確かだ。でも――」


 次伯はしかし首を振る。


 「さっきも言ったように、それについては、我々は責めるつもりはない。戦乱で、夫婦が引き裂かれ、別の道を歩むなんてことは、よくある。……僕たちが許せないと思うのは、君から二年、全く連絡がなかったこと。少なくとも、昨年の五月に邯鄲かんたんを落としてからは、こちらからの書簡てがみも届いていたんだろう? なのに一言の返事もないなんて。君が結婚したことも、さらに皇帝に即位したことも、全部、僕たちは人づてに、噂という形で知ったんだよ。その時の僕や麗華の気持ちを、君は考えたことある?」

 「それは――いつも、考えてていて……でも……」


 尻すぼみに小さくなる声と、気まずそうに逸らされる視線に、陰次伯はイライラする。


 「陰麗華は、子供がちゃんと産めなかったことを、ずっと気にしてた。劉聖公のことも。……もしや、君がそれについて怒っているのではないかと――」

 「そんなわけない!怒るわけないだろ!麗華のせいでもないのに!」

 「じゃあ、なんで一言も返事を寄越さなかったの! 気にするな、元気でいるか、の一言が書けないの!」

 「それは――」

  

 言葉に詰まった文叔を見て、馮公孫が思わずと言った感じで口を挟む。


 「ちょっと待ってください。もしかして……陰夫人……いえ、陰貴人には何の、お返事も差し上げていなかったのですか? お詫びも? 事情説明すらナシ? 絮衣わたいれももらって、嬉々として着ておられましたよね? ――私はね、裏切って新たな妻を娶った夫に、絮衣を送り続ける夫人は健気だけれど、ちょっとしつこいなと思っていたんですよ。でも、何の説明もなく、詫びも離縁状もなければ、そりゃあ、送り続けますよね?……しかも、え? 初耳ですけど、書簡で離縁を要求なさってたんですか? ちょっと、いくら何でもじゃないですか?」


 馮公孫に叱責され、劉文叔がシュンとなって項垂れる。


 「だって……裏切って、聖通と結婚したのは確かで……子供までできてしまって……仲先にも、仲華にも、公孫にまでも、陰麗華を離縁するしかないって言うから。……書簡てがみを書くなら、それに触れないわけにはいかないし、でも、絶対に離縁はしたくなかったんだ!」

 「……もしかして、離縁するしかないのはわかっていて、でも離縁したくないから、返事を書かなかったってこと?」


 陰次伯の目が据わり、声があり得ないくらい低くなる。


 「だって……離縁だけはしたくなかったから……お前たちだって、私と同じ立場になったら、返事なんて書けないと思うぞ?」


 気まずそうに視線を泳がせながら言う文叔に、馮公孫が呆れて溜息をつく。


 「まず、同じ立場になりませんから!……郭貴人との婚礼の前に、離縁状を書くべきだと言いましたよね? まさか書簡一つ出しておられなかったとは! 鄧仲華や朱仲先が言う〈陰麗華病〉ってのは、これだったのですね!」


 呆れて溜息をつく馮公孫に向かい、朱仲先がとりなすように言った。

 

 「まあ、これでも、酔って〈陰麗華〉連呼しなくなっただけマシなんだ」

 「マシじゃない!」


 陰次伯が叫ぶ。


 「離縁するしかないってわかってるんなら、今すぐにでも離縁――」

 「ぜーったい、し、な、い!」

 

 完全平行線の話し合いに、陰次伯は脱力する。


 「ですが、陛下。お言葉ながら、陰貴人が離縁を求めておられるのは本当のことです」


 ずっと黙って聞いていた、傅子衛が右手を挙げるようにして発言する。


 「はじめ、陰貴人はそれがしも正式な離縁の使者だと思っておられ、洛陽に戻るのも躊躇っておられた。某は陛下が何があっても洛陽にと仰せになりましたので、もし、離縁を望まれるのでしたら、直接ご対面の上、話し合いを持たれるべきだと申し上げて、ようやく洛陽への同道を決意してくださったのです」

 「そうだったのか……」


 文叔は目を輝かせ、傅子衛に言った。


 「でかしたぞ! さすがだ、子衛!」

 「いや、ちょっと待て、喜んでる場合じゃないぞ、マジで愛想つかされてんじゃないのか?」


 朱仲先の突っこみに、文叔がまさか!という風に目を見開く。


 「そんな……いや、大丈夫だ! 陰麗華は本当に心根の優しい人なんだ。足に縋りついて泣いて頼めば、私のことも許してくれるはず……!」

 「今までずっと、そうやって麗華を絆して適当に丸め込んできたんだろう? もういい加減、麗華や陰家を巻き込むのはやめてくれないかな!」


 陰次伯が何度目になるかわからないくらい、陰麗華の解放を願うが、文叔は全く取り合わない。その様子に、傅子衛は四十を過ぎた落ち着きで、文叔の目をまっすぐに見て言った。


 「陛下。天子が、後宮を持つのは古来よりの習わしで、避けることのできません。ただ一人の妻を守り切った天子など、某も聞いたことはない。それは、天子となった以上、逃れられない定めです。……郭貴人はもともと、陛下のお心が南陽に残した妻にあることを承知の上で、陛下のもとに嫁ぐと決心された。天子の一夫人として、後宮の中で生きていく覚悟を決めておられるよう、某には見えます。ですが、陰貴人はそうではない。ただの一士大夫であった陛下の妻となり、一夫一婦を守るものだと思っておられた。そういった夫婦でも、夫が他の女に手をつけたり、心が離れてしまうことはある。しかし、陛下のなさったことはそういう、単なる浮気ではない。――陰貴人は、陛下のご身分が以前とは異なると、正確に見極めておられますよ?もう、かつて誓いあった、ただの夫婦ではないのだと、気づいておられる。その上で、後宮に入るのは嫌だと、拒否なさった。そのお気持ちを顧みることなく、ただ、愛情だけで縛りつけようとされれば、結局、傷つくのは陰貴人ですよ」

 

 文叔は傅子衛の目をまっすぐ見返して、頷く。


 「……わかっている。でも、私は誰にも陰麗華を傷つけさせたりはしない」


 だが陰次伯がすかさず突っ込む。


 「いや、もう、すでに傷ついてるし。……夫が留守中に別の女と結婚して、子供まで生まれてるって、これで傷つかない女なんていないから!」

 「それについては詫びる。一生かけて償う。……とにかく、陰麗華がいないと僕はだめなんだよ! 仲先はそれ、わかってくれるよね?」

 

 朱仲先を振り向いて文叔が言えば、朱仲先が呆れたように頷きながら言った。


 「ああ、わかってる。陰麗華からの絮衣わたいれがとうとう来なかったことでずいぶんとへこんで、そのまま順水で大敗して、えらいことになった。……それから、また〈僕〉に戻ってるぞ」


 朱仲先が文叔に指摘すると、劉文叔が慌てて口元を押える。文叔は公的には「私」と改まった口調を心掛けているが、興奮するとつい、「僕」に戻ってしまうのだ。 

 

 「ですが、陰貴人を皇后に、というのは些か無茶だと思います」


 四角い顔の王元伯が生真面目に言う。その言葉に、文叔は不満そうに眉を動かした。


 「何故? 元配(最初の妻)を重視するのは当然のことだ。高祖皇帝陛下も宣帝陛下も、即位前の最初の妻が皇后に立てられているぞ?」

 「その一方で、皇太子の母親が皇后に立てられるのも、漢家の習いです。『母は子を以ってとうとし』と申しますからね。武帝陛下は皇太子時代からの正妻だった陳皇后を廃し、皇太子の母である衛皇后を立てています。やはり、子のある郭貴人を皇后にするのが順当ですし、継嗣をめぐる争いを避けることもできます。……それに」


 王元伯はちらっと陰次伯を見て、目を伏せた。


 「俺は宛で、陰麗華殿との婚礼に立ち会いました。次伯殿と、麗華殿を陛下のいえまでお連れしたのを憶えております。陰麗華殿は謙虚で、控えめな性格の人です。すでに子のいる郭貴人を差し置いて、自分が皇后になるのは、同意なさらないと思います」


 王元伯の言葉に文叔がさらに眉間に皺を寄せる。


 「それは……でも、陰麗華は後宮で側室にされるのは嫌だと……皇后もだめ、側室もダメなら、どうしろって言うんだ」

 「だから離縁してくれってさっきから言ってる!」


 陰次伯はもはや絶叫であったが、文叔は凛々しい眉を顰め、周囲の側近たちを見回した。


 「離縁はしたくない!」

 「……離縁……なさるしかないと思いますが」

 

 李次元が言い、耿伯昭も馮公孫も、王元伯もその言葉に頷いた。劉文叔が救いを求めるように傅子衛を見るが、傅子衛も静かに頭を下げる。


 「陛下は冷静なお心をもって、陰貴人のお言葉を聞くべきです。陛下の妻となったことで、陰貴人がこの二年、どれほどの辛酸を嘗められたか。それがしはもちろん、陛下のご苦労もこの目で見ておりますが、それで陰貴人の苦難が帳消しになるわけではございません」

 「子衛まで……」


 孤立無援になって、劉文叔は最後の一人に目を向ける。今まで一言も口をきかなかった、容貌魁偉な大男、大司馬の呉子顔だ。


 「子顔も……陰麗華を手放すべきだと言うのか?」

 

 呉子顔は飲んでいたどぶろくの椀を自分の前のおぜんに置くと、まっすぐに劉文叔を見た。その顔の下半分は髭に覆われて、頬には薄くはなったが刀創かたなきずがある。


 「俺は……」

 

 呉子顔が濃い眉の下の、鋭い目を少しだけ眇めるようにして、周囲を見、陰次伯の上で視線が固定される。歴戦の勇将だけに凶悪な面構えで、気の弱い陰次伯はゴクっと唾を飲み込んだ。


 「俺は、何があっても陛下の味方だ。陛下が、陰麗華と別れたくないってなら、そうすればいい」

 「子顔!……君こそ真の忠臣だ!」

 

 感激する劉文叔の横で、陰次伯がとうとう牀の上にくずおれ、耿伯昭が咄嗟にその身体を支えた。朱仲先も盛大に溜息をつく。

 

 もはや、理屈も常識も通用しない。


 なぜなら、劉文叔は〈陰麗華病〉で、それがすでに病膏肓こうこうに入っているから――。



呉子顔ごしがん:呉漢。南陽宛の人。大司馬。

傅子衛ふしえい:傅俊。潁川襄城の人。侍中。


劉盆子りゅうぼんし:太山式の人。前漢高祖劉邦の長男、斉悼恵王の子、城陽景王劉章の子孫。父は式侯だったが、王莽の簒奪によって爵位を失う。赤眉軍が太山郡を通った時、劉盆子は兄二人とともに攫われて軍中で羊飼いをしていた。更始三年=建武元年(西暦二十五年)六月、赤眉軍中で劉氏の皇帝を立てる際、最も城陽景王に血筋の近い者として、兄弟の中でくじ引きをして、十五歳だった末子の盆子が皇帝に擁立された。元号は「建世元年」。


公孫述こうそんじゅつ:扶風茂陵の人。更始三年=建武元年(西暦二十五年)蜀王を称して国号を「成家」とし、成都に自立政権を立てる。


なお、建武元年段階では隗囂かいごうはまだ光武帝政権と対立するにはいたっていない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
web拍手 by FC2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ