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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第一章 河の洲に在り
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白水真人

關關雎鳩、在河之洲。

窈窕淑女、君子好逑。

參差行菜、左右流之。

窈窕淑女、寤寐求之。

求之不得、寤寐思服。

悠哉悠哉、輾轉反側。

  ――『詩経』国風周南・関雎


 あらかた弁当が皆の腹の中に入ったあたりで、ふと、文叔が土手を見上げ、叫んだ。


 「あ、いけね! おーい! 牛牛ニウニウ! ダメだ、戻ってこい!」


 文叔が俊敏な動作で立ち上がり、土手に向かって走っていく。見ると、一頭の茶色いこうしが草を食みながら土手を上っていた。


 「こうし?」

 「そうなの、文叔にいさんが突然、宛の市で買ってきたのよ。牛は別に足りているのに」


 その姿を目で追って、陰麗華が尋ねると、劉伯姫が言った。

 文叔は無事にこうしを捕まえて、土手から戻ってくると、「遠くにいっちゃだめ」と犢に注意し、犢は我関せずと再び草を貪り始める。

 

 元の座についた文叔の竹筒の器に、鄧偉卿が酒を注いでやりながら言った。


 「犢は買ったのか? 生まれたのではなくて?」

 「そうなんだよ。あれは犠牲いけにえ用の牛でさ、育ちすぎちゃったんで、食肉用に売られてたんだけど、目が合っちゃったんだよ。何となく運命を感じて、つい」


 肩をすくめる文叔に、鄧偉卿が呆れたように言った。


 「こうしに、運命もくそもあるか。食肉用なら、今度の婚礼のご馳走にすればいいのに」

 「うーん。でも、兄貴の婚礼のために、可愛いこうしを潰すのも可哀想でねぇ」

 「牛耕用にはもったいないし、とっとと食った方がいいんじゃないか?」

 「でも利口なんだよ。目もクリクリで可愛いし。大きくなったら荷物も曳けそうだし、乗ったら楽しそうじゃない?」

 「牛に乗るつもりか?」

 

 陰麗華は牛に乗る文叔を想像して、思わず噴き出した。それを見て、文叔が笑う。

 

 「あ、やっぱりおかしい?……そう、ウケを狙うにはいいよね。例えば叛乱起こして一旗揚げる時に、みんな馬に乗ってる中、一人だけ牛に乗って登場するの。目立ちそうだよね~」

 「あほか!」


 偉卿が呆れて窘め、伯姫はまた始まった、とため息を吐く。


 「ほんと、どうすれば笑いを取れるかってことばっかり考えてるのよ、この人」

 「だって笑いがないとこの世の中、殺伐として生きづらいじゃないか」

 

 へらへらと文叔が言い、鄧少君と陰次伯が怪訝けげんな顔で文叔を見ている。自ら笑われようとするなんて、全くもって意味が分からないという風に。


 「そう言えば、市場でさあ……新しい貨幣、見た?」

 「新しい貨幣?……ああ、また貨幣を改めるとか言っていたな。もう入手したのか」

 

 文叔が突然話を変えると、鄧偉卿がどぶろくを啜りながら、文叔に聞く。 

 現皇帝である王莽は、まだ仮皇帝であった居摂二年(西暦七年)に、それまでの五銖銭ごしゅせんに加え、大銭と契刀けいとう錯刀さくとうという三種類の貨幣を鋳造した。契刀は大銭に刀をくっつけた形で、五銖銭五百の価値、錯刀は契刀に金文字を記入したもので、五銖銭五千の価値があるという、高額貨幣である。


 ところが、王莽は真皇帝となって新王朝を建国した始建国元年(西暦九年)に、契刀も錯刀も、そして五銖銭まで廃止した。その理由は――。


 「劉、という字を分解すると、〈卯〉〈金〉〈刀〉になるから、新王朝になったんだから金刀は廃止とか、ふざけすぎだ。……自分で作っておきながら」


 鄧偉卿が忌々しげに吐き捨てる。契刀も錯東も長さ二寸(五センチ弱)ほどの、金属の小刀型のものに銅貨がくっついたような形で、まさに金刀であった。それが漢王朝を象徴しているからと、五銖銭ともども廃止し、新たに重さ一銖の小銭を鋳造し、大銭と小銭の二本立ての制度に変えたのである。


 「ついでに正月の縁起物の〈剛卯〉まで廃止するなんて、なんつーか、チッコイよね?」

 

 文叔も笑う。〈剛卯〉とは、正月の卯の日に腰に佩びる縁起物の飾りのことだ。金属や玉、あるいは桃などを使い、中央に穴を穿って色糸を通して飾り、『正月剛卯』などの刻銘をつけ、疫病除けなどを願ったものである。〈剛卯〉程度なら禁じられたところで特に生活には響かないが、五銖銭の廃止は経済に大混乱をもたらした。


 五銖銭一種類の貨幣制度に慣れた民衆は、重さ一銖の小銭五十が、重さ十二銖の大銭一個に相当する、という貨幣制度が受け入れられない。どう考えても大銭の方が価値が高いから、当然のように、小銭を鋳つぶして大銭を勝手に鋳造する者が出る。

 この段階ですでに、数種類の貨幣が機能していないというのに、なんと王莽は翌年、金・銀・亀甲・貝・銅という素材を用いた、二十八種類もの貨幣制度を打ち出し、これと大銭・小銭を併用させたからたまらない。戦国時代に流行した、時代遅れの〈布〉、と呼ばれる奇妙な形の貨幣や貝の貨幣など、本気で流通させるつもりがあったのか、と聞きたいくらいだが、実際、まともに流通したのは大銭と小銭だけで、民間ではこっそりと五銖銭を使い続けた。

 

 そして今年、天鳳元年(西暦十四年)には、この大銭と小銭も廃止し、新たに重さ五銖の「貨泉」と、やっぱり戦国時代の布銭のような「貨布」の二本立てとした。この「貨布」は重さは二十五銖なのに、「貨泉」二十五個(つまり五銖×二十五)が「貨布」一つに相当するとされたから、どうせ「貨泉」を鋳つぶして「貨布」を偽造する者が出るに違いない。


 ――貨幣が改まる度に、経済は混迷の度を深める。口賦(人頭税)は銭納が決まりだから、穀物を売って銭に代えなければならないが、値段が上がりすぎると宛の市場にいる五均官という官が無理な介入を行うので、非正規の取引を行うものが後を絶たない。六筦制度という専売制度も厳しさを増しており、経済はさらに混乱する一方だ。


 「あのこうしを買った時に、少し混じったんだね。ホラ」


 文叔から懐から、真新しい銅銭を取り出し、偉卿に示す。天円地方を表す四角い穴の開いた丸い銭には、「貨泉」の文字が鋳込まれていた。


 「へー、初めて見た」


 鄧偉卿が文叔の手からそれを取って、目を細めてしげしげと見る。


 「大きさも重さも、五銖銭と変わらないじゃないか……結局」

 「名前が違うのが大事なんじゃないの? 地名も官名も変えまくりだし」

 「まったく……盗鋳銭(違法に鋳造された銭)を取り締まって、違反者は死刑だなんだとやってるが、そもそも、理解不能なヘンテコな貨幣制度に変える方が悪い」


 偉卿がブツブツ言い、銅銭を隣に座る陰次伯に回す。陰次伯も初めてみるのか、珍しそうに裏返したりしてから、ふと言った。


 「この貨幣だって、ヘンテコなこと言い出して、すぐ廃止されるんじゃないですか?……例えばホラ、卯金刀みたいに漢字を分解して。泉は白水に分解できますよね?」

 「白水?……ほんとだ!貨の方も分解すると、〈化け貝〉?白水のヌシみたいな、ドブ貝のことかな」


 文叔の冗談に皆がクスリと笑うが、次伯はしばらく銅銭を見つめて、「あっ」と呟く。


 「……貨の字は、〈眞人〉に分解できますよ。〈白水真人〉、なんかそれっぽくなってきた!」

 

 得意気に言う次伯に、偉卿も文叔も、最後に残った握り飯を、しつこく食べ続けていた鄧少君もぶっと笑う。


 「たしかに、めちゃくちゃソレっぽい。……〈白水真人〉参上!……なんちゃって」

 「文叔おじさん、かっこいい!」


 文叔がおどけて奇妙なポーズを決めると、それを鄧汎が真似て、伯姫と陰麗華がケラケラ笑った。

 川べりの柳の枝が風に揺れ、ヒバリたちが上空で啼き騒ぐ。白水の流れは滔々として、青空に白い雲が流れる。


 再び男たちは釣りに戻り、文叔と匡は犢鼻褌ふんどし一枚になって川に入り、仕掛けておいた網を引き揚げる。鄧汎と伯姫がそれを岸から乗り出すよう見て、囃し立てている。陰麗華は曄と二人、少し川下で食べ終えた桶や竹筒を洗った。

 曄が洗い終えた桶を引き上げると、匡が妹に呼びかけた。


 「取れた魚を桶に入れて帰るから、こっちへ桶を持ってきてくれ!」

 「はーい、ただいま!」


 曄が桶を二つ抱えて兄の方に行ってしまう。陰麗華は残った竹筒の器と魚の串を洗い、籠にまとめて置き、最後に酒を汲んだひしゃくを洗う。


 「あ、いけない!」

 

 ついうっかり、杓から手を離してしまい、杓が流れ始めた。慌てて腕を伸ばすが、杓は遠ざかる一方だ。どうしようかと青くなったが、岸を追いかけていくと、幸い、杓は途中の淀みで停まっている。何とか、ギリギリ手が届きそうな場所だ。


 陰麗華は岸に膝をついて、上半身を伸ばし、杓を拾おうとした。

 あと少しというところで、ぐらりとバランスを崩す。


 (――落ちる!)


 だが、誰かの力強い腕が、背後から陰麗華を抱き留めた。


 「危ない!……何てことしているの、このお嬢さんは!」


 振り返ればそれば、犢鼻褌ふんどし一丁の劉文叔だった。――裸同然の男に背後から抱きしめられて、陰麗華は硬直する。背中に背中に感じる体温と、堅い筋肉の感触。陰麗華が息もできずに茫然としていると、劉文叔はそっと両腕で陰麗華を抱きしめるようにして、ホッと息をついた。


 「びっくりしたよ……間に合ってよかった。まだ水は冷たいよ。落っこちていたら傷寒かぜをひくどころでは済まなかったかも」


 劉文叔は陰麗華を抱き上げて川岸から離れ、柳の根元にそっと下ろす。まだ茫然としている陰麗華を、困ったように見下ろしている。


 「何であんなに水際にいたの。浅瀬でも時々深い場所があるからね」

 「ご、ごめんなさい……杓を……不注意で流してしまったから、拾わないとって思って……」


 犢鼻褌ふんどし一丁の若い男を目の前にして、陰麗華は真っ赤になって俯く。――夏場など、こんな姿で働く男衆を見たことはあるが、それは陰家の僮僕とか、下戸こさくにんとかで、文叔のような士大夫とは種類が違う人間ばかりだ。どきどきと鼓動が早くなって、どうしていいかわからなくてモジモジしてしまうが、劉文叔にとっては陰麗華はただの子供――それこそ、鄧汎と同じ範疇に入る存在――にしか見えないのだろう。


 身の置き所がなくて陰麗華が視線を泳がせていると、背後から曄が慌てたように走ってきた。


 「お嬢様? どうなさいました?」


 文叔が曄を見て、にっこり微笑む。その笑顔に陰麗華は、理由はわからないが、胸が締め付けられるような気がした。


 「川に落ちそうになっていたお姫様を、この僕が英雄的行為によってお救い申し上げたところ」

 「ええ?! 大丈夫でしたか?」


 曄が心配そうに陰麗華を覗き込み、その背中をさする。


 「うん、その……文叔様のおかげで、落ちないですんだの。どうもありがとうございます」

 「まあ、とにかく気を付けてよ?……僕はもう一つ仕掛けを引き上げないと」


 文叔はそれだけ言うと、くるりと振り向いて川に向かい、まだ冷たい水の中に躊躇なく飛び込んで、ザバザバと流れを突っ切っていく。すでに曄の兄の匡が中洲に近い葦の繁みから仕掛けておいた網を掴んで、ゆっくりと川岸へと戻ってくるところだった。水の中で、網にかかった魚がピチピチと跳ね、時に大きな鯉がバシャンと飛沫を上げる。


 文叔は匡を手伝って、「せいの」と重たい網を岸に引っ張り上げる。ザバーと水があふれ、網の中の魚がピチピチ、バシャバシャと暴れる。用意しておいた大きな木の桶に、網から魚をぶちまけると、鄧汎の背丈ほどもありそうな、巨大な鯉魚が盛大に跳ね、その勢いで小さな魚が桶から零れ落ち、草の上でピチピチ跳ねる。


 「さあ! 急いで帰ろう! これだけあれば、伯升兄さんの婚礼の宴のご馳走も、きっと十分だ!」


 文叔がそう言って、破顔した。 


 



 

 劉伯升の婚礼は無事に終わり、たいがいの客は舂陵しょうりょうを後にした。

 後片付けのために残っていた劉君元たちも、明日には新野に戻る。都合、五日の滞在だったけれど、陰麗華も明日、早朝に帰宅の途に就くのだ。

 

 その午後、陰麗華は劉伯姫と白水坡にやってきた。今日は水辺まで降りるつもりはないので、いつもの曲裾深衣に、くつを履き、髪は下ろしたままだ。太陽はすでに傾いて、西の空が夕焼けに染まり始める。――白水のさざ波が、夕焼けの太陽を映してキラキラと煌めく。


 綺麗――。


 新野の陰家は河川から遠く、夕陽が川に映る様子など、見たことはなかった。陰麗華は土手に腰を下ろし、陶然と夕焼けを見つめる。山に向かって、鳥たちが黒い影になって飛んでいく。


 伯姫の方はそんな風景は見慣れているので、物も言わずに夕焼けに見惚れている陰麗華に呆れつつ、はっきり言えば退屈になってきた。ふと周りを見回すと、兄の文叔がこうし牛牛ニウニウを連れて散歩の最中であった。手を振ると、文叔も二人に気づく。


 文叔は膝下の藍染の単衣に袴で、牛牛の首にかけた紐を引っ張りながら、ゆっくりと土手を上ってくる。


 「麗華がすっかり夕焼けに見惚れちゃって」

 「おやおや」


 文叔がうっとりと夕焼けに魅入る麗華を見下ろして微笑む。


 「でもあたしは飽きちゃったし、母さんから手伝いを頼まれているの、思い出したの。先に帰るから、麗華のお守りをお願い」

 「ああ、いいよ。じゃあ、牛牛も連れて帰って」


 その会話に、はっと我に返った陰麗華が二人を振り仰ぎ、慌てて言った。


 「あ、いいの! わたしも、もう帰るから!」

 「いいよ、僕がいるから。新野の城内じゃあ、こんな風景は見られないでしょう。滅多にない機会なんだから」

 「そうそ、夕食までには戻ってきてね」

 

 伯姫は文叔から牛牛の紐を受け取り、軽やかに土手を下りていく。文叔は陰麗華の隣に座ると、うーんと伸びをした。


 「明日帰るんだったね」

 「う、うん……お世話に、なりました」

 「どういたしまして。わざわざありがとう。お母様にもよろしくお伝えください」


 文叔が屈託なく言うけれど、麗華は初日の「このまま嫁に来る?」発言以来、どうしても文叔を意識してしまって、身体を縮こませる。


 「あ、ほら、見てごらん」


 ふいに、文叔が川の中州を指差す。葦の生い茂るこんもりとした場所を、さっきから二羽の鳥が入れ替わり立ち代わり飛び交っている。


 「あそこにああやって巣を作って、子育てをするんだ。鳥は、種類によっては一生、同じ相手と添い遂げる」

 

 文叔の言葉に、麗華は最近、習った『詩』を思い出す。


 「ええっと、この前習ったわ。『関関たる雎鳩しょきゅう、河の洲に在り。窈窕ようちょうたる淑女は、君子の好きつれあい』って」


 その言葉に、文叔が目を細める。


 「よく知っているね。勉強好きなんだ」

 「え、だって、これ一番最初の詩だし……」


 孔子が集めたとされる『詩』三百篇の、まさしく開頭に置かれた詩。生涯、ただ一人の相手と連れ添い合う鳥のつがいにかけて、君主の幸せな結婚を寿ことほぐ詩。普通に教養ある家庭で育てば、否が応でも耳に入る、そんな詩だ。


 「そのあとも知ってる?」


 文叔の問いに、陰麗華が覚えている限りを暗誦するが、緊張しているのか、途中でつっかえてしまった。――親戚の鄧仲華だったら、三百篇全部、憶えているはずなのに。彼はまだ十三歳なのに、『詩』を修めて長安の太学に遊学が決まっているのだから。


 「ええっと、窈窕たる淑女は……淑女は……」

 「窈窕たる淑女は、さめてもてもこれを求む」


 文叔が横から助け舟を出し、それから二人で一緒に暗誦した。


  窈窕たる淑女は、寤めても寐ても之を求む

  之を求めて得ざれば、寤めても寐ても思いした

  はるかなるかな、悠なる哉、輾轉反側す


   (物静かで美しいあの乙女のことが、寝ても覚めても忘れられない

    彼女を得たいと思いながらも得られなくて、寝ても覚めても彼女のことばかり

    ずっとずっと長いこと、彼女のことを想い続け

    寝返りばかりうって、眠れぬ夜を過ごしている)


 陰麗華は夕暮れに染まる川の中洲で飛び回る二羽の鳥と、刻々と変わっていく夕焼けの空を眺めていた。東の空から、ゆっくりと藍色の夜が近づいて、少し欠けた月が空に上りつつある。


 ふと視線を感じて見上げれば、隣の文叔はじっと、陰麗華を見つめていた。


 「ねえ、ここは気に入った?」

 「……う、うん……」

  

 陰麗華が頷くと、文叔が整った顔に微笑を浮かべ、まっすぐに陰麗華の目を見て、言った。


 「じゃあ、お嫁に来る?」

 

 風が、草原の上をわたり、陰麗華のまだ結わずに下ろしたままの、長い髪を揺らす。意味を知って恥ずかしくて目を逸らしたかったけれど、目の前の青年があまりにまっすぐ陰麗華を見つめてくるので、それもできない。慌てて息を吸って、辛うじて掠れた声で言った。


 「……ほんと、諧謔じょうだんばっかり……」

 「本気だよ?」

 「だって、わたしはまだ子供だもの」

 「いつかは大人になる。……僕はもうすぐ都の太学に行く。戻ってくるのは五年後くらいだと思う。その頃、申込みに行ってもいい?」


 突然の告白に陰麗華は戸惑い、文叔の大きな黒い目と、高い鼻梁と、形のよい唇を見つめる。


 「僕が嫌い?」

 「……ううん。……諧謔じょうだんじゃなくて、本気にしていいの?」

 「もちろん、本気だよ?」

 

 陰麗華は恥ずかしくて睫毛を伏せ、ほんの微かに頷いた。その耳元に文叔が顔を寄せ、囁く。熱い息がかかって、陰麗華がくすぐったくて思わず身を竦める。


 「じゃあ、約束だ。僕が、長安から戻ってくるまで、待っていて」




鄧仲華:鄧禹。南陽新野の人。元始二年(西暦二年)生まれ。鄧仲華の家は鄧偉卿の家の陂池ためいけを挟んだ反対側にあった。二つの鄧家の関係は不明だが、親戚ではあるだろう。

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