之を思いて狂うが如し
有一美人兮、見之不忘。
一日不見兮、思之如狂。
鳳飛翺翔兮、四海求凰。
――漢・佚名(一説に司馬相如)『鳳求凰』
一美人有り、之を見て忘れず
一日見ざれば、之を思いて狂うが如し
鳳は飛びて翺翔し、四海に凰を求む
ひとりの美しい人を見て、忘れることができない。
一日彼女を見ることができないだけで、狂ったように焦がれてしまう。
まるで、鳳が天空を羽ばたいて、
世界中を番を求めて飛び回るように。
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建武元年(西暦二十五年)十二月、洛陽城の南宮に帰還した皇帝、劉文叔は、留守居役の太傅、卓子康、衛尉の李次元より、正殿である却非殿前殿において帰還の挨拶を受けると、労いもそこそこに、武装のまま速足で後殿に向かう。それを老齢の太傅は呆れて見送り、李次元は長い裾を捌きながら必死についていく。河北を転戦する間もずっと付き従っていた、朱仲先、耿伯昭らの諸将軍はさすがに慣れているのか、文叔の歩調に遅れたりはしないが、それでもあまりの勢いに、朱仲先が文叔の背後から、耳元で言った。
「落ち着け、相手は逃げない」
文叔はまっすぐ前を見据えたまま、断固とした口調で言い返す。
「いや、一歩間違えれば逃げられる。それだけはさせない」
「……彼女はここまでやってきた。受け入れるつもりはあるってことだ。焦る必要はない」
「……倒れたと言うじゃないか。生きている姿を見ないと安心できない」
小声のやり取りを耳にして、まだ若い耿伯昭は顔を顰める。――主君が足早に向かう先を想えば、しかめっ面にもなるというもの。
ここ数日、主君は気もそぞろだった。一日も早く洛陽に戻ると周囲を急かせ、どこか上の空でずっと南の方ばかり睨んでいる。河水を渡り孟津の津に着いて早々、伝令からの耳打ちに顔色を変え、そこから先は馬を飛ばしに飛ばして洛陽の城門をくぐった。馬を降りてからはひたすら小走りで、まるで放たれた矢のように一直線だ。
敬愛する主君の心がこうまで逸っているのは、愛する女が洛陽に来ているから。
――陰麗華。南陽の、富豪の娘。主君が最後まで、郭聖通との結婚を拒み続けた理由。長い婚約の末、たった二か月ほどの短い結婚生活を送っただけの、故郷の「妻」。
一時、主君はその女を思い切ったように見えたのに、再び元の通りの、いや、それ以上の執着を見せつつある――。
けたたましい足音を響かせ、乱暴に押しとおろうとする一行の前に、一人の小柄な人物が立ちふさがる。特有の帽子に、紺色のお仕着せ。――宦官だ。
「お待ちください、現在、陰貴人はお休みでございまして――」
「そこをのけ、私を通せ」
「お静かに。どうか――」
懇願する宦官の姿に、文叔もようやく我に返ったらしい。
「――倒れたと言うが、容態は?」
「旅のお疲れと、貧血……あとは、精神的なご負担がかさんだかと……」
「誰がそんな圧迫をかけたのだ!」
「大きな声を出さないでください!」
内部から若い女の声が飛び、文叔が思わず怯む。
「……えーと、お前、小夏……」
陰麗華が以前から使う侍女だと気づき、文叔はほっと息をはく。
「とにかく、中に麗華はいるんだな?」
「いますけど――」
侍女の視線は明らかに殺気を孕んでいて、後ろにいた耿伯昭などはつい、腰の剣に手にかけたくらいだ。
「通してくれ、小夏!」
「今お休み中です!……まさか、そんな大人数で、病人の枕元を騒がすおつもりなんですか?」
その指摘に、ようやく文叔は自分の背後についてきている、将軍たちの存在に気づいたらしい。朱仲先、耿伯昭、馮公孫、王元伯、祭弟孫、そして耿伯山。
「……たしかに。お前たち、しばらく下がっていろ」
「そうはいきません。陛下の御身を守る者がおりませんでは」
四角い顔の王元伯が言えば、文叔は溜息をつく。
「ここで刺客に狙われるなら、どこでも同じだ。少しは寛がせてくれ。……わかった、仲先と伯昭だけ残って、後は着替えて待機してくれ。私もそれほどはかからずに戻るから」
そう言って、さらに耿伯山に向かって言った。
「伯山は、和歓殿の方に顔を見せておいてくれないか。なるべく早く、私自身で顔を出すと」
耿伯山が「はっ」と頭を下げる。――和歓殿は郭貴人の住まう殿舎。掖庭を中心とした後宮の殿舎には、宦官以外の士人の出入りに制限をかけてはいたが、親族は別であった。耿伯山は鉅鹿宋子の出身で、その母は真定王の妹、つまり郭聖通の母方の従兄である。ちなみに、扶風茂陵(長安の一部)の出身である耿伯昭とは親戚でもなんでもない。
武装を鳴らして去っていく将軍たちを見送ってから、文叔は侍女に向き直る。
「この二人くらいは大目に見てくれないか。……小夏」
「本当のこと言えば、文叔さまにも、ご遠慮いただきたいんですが……」
そこで、若くて辛抱の効かない耿伯昭がキレた。
「お前、さっきから陛下に対し、なんて口のきき方だ!」
朱仲先は片手で耿伯昭を制止し、もう片手で強引に通ろうとする劉文叔の腕を掴む。
「二人とも落ち着けって。……文叔、眠っているなら逃げはせん。静かに、そっと、覗くだけにしろ。こんな鎧を着た状態では、驚かせてしまうぞ」
仲先もそうだが、挙兵以前の文叔を知る者は、どうしても以前と同様の口調になってしまうし、文叔もそれを特には咎めだてはしない。むしろあまり畏まった言葉遣いをすれば文叔が嫌がる。その辺り、仲先は絶妙のさじ加減で表と裏を使い分けているが、二年ぶりに再会したばかりの陰麗華の侍女に、それを要求するのは無理だ。――何より、文叔の不実は朱仲先も十分、承知しているから、侍女が攻撃的なのも当然だと思う。
逸る気持ちはわかるが、ここは周囲の空気を読んでいったん引き、着替えてからにしろ。――朱仲先はそう、遠回しに言ったつもりだったが、妻との再会に頭に血が上った文叔は理解しなかった。
「……無理。触れて抱きしめて匂いを嗅いで接吻して舐めないと気が済まない」
「黙れ、変態が!……抱きしめるのはダメだ。鎧が痛くて目が覚める。匂いを嗅ぐのは認めてやるから、そっと行ってこい。……舐めるのはやめておけ、そこの侍女に殺されたくはなかろう」
極めて不愉快そうな目で文叔を睨んでいる侍女を見て、仲先が警告する。主従のやりとりを聞いた耿伯昭が、はあ、と諦めたような溜息を零し、そっぽを向いた。
結局、寝顔だけでも確認しなければ死ぬと言い張る文叔に宦官と侍女が折れ、宦官の先導で、文叔たちはまず堂に入る。朱仲先と衛尉の李次元は何度か足を踏み入れているが、耿伯昭は初めて入る部屋に目を丸くする。――同じ後殿にある文叔の私室はもっと武骨で質素な造りだが、この部屋は文叔が陰麗華を迎えるために、あれこれ自ら家具や調度品を選んだだけあって、ずいぶんと華やかな雰囲気だった。
皇帝となった文叔は、却非殿を正殿と定め、その南側の前殿を公的スペースに、北側の後殿を私的スペースとした。後殿では皇帝の日常生活だけでなく、側近官との極秘の会議なども開かれるので、こちらを「内朝」と呼び、内朝に出入りを許された官僚を「内朝官」と称する。一方の、前殿より南、百官の官府等を「外朝」と称し、三公九卿以上による「公卿議」、百官を招集した「大議」、その他の元旦の朝会などの儀式は、却非殿の前殿で開催される。
却非殿の後殿を含めた北側、掖庭を含む皇帝とその家族の生活スペース一帯は「禁中」と称し、特に許可を得た官僚たちと宦官、宮女だけの、限られた空間であった(*1)。
文叔が却非殿の後殿に、陰麗華のための部屋を調え始めた時、朱仲先はもちろん反対した。夫人は後殿ではなく、掖庭に独立の殿舎を与えるべきで、李次元も同じ意見であった。後殿に皇帝の寝所をしつらえ、掖庭の女たちを日替わりで呼びつけるのが普通だ、と。
「郭氏と陰氏と、片方だけを依怙贔屓するのは、無用な軋轢を生むだけです。後殿ではなく、掖庭に一殿舎をお与えになる方がよろしい」
だが、文叔はその忠告をまるっと無視した。
なぜならば陰麗華は自分の妻だから。妻と夫は一つの部屋、一つの褥で眠るものだろう、と。
それは普通の夫婦ならば極めて当たり前な認識だったが、皇帝としてはまったくもって非常識であった。
なおも、陰麗華には掖庭の一殿舎を与えるべきだと李次元が言い張れば、文叔はさらに非常識なことを言い出した。
――じゃあ、陰麗華の殿舎に自分も住むから。却非殿から遠くなるけど、別に構わないな。
さすがに、皇帝が後宮の一夫人の部屋に居続けでは、いくらなんでも外聞が悪すぎる。
あまりの非常識さに、とうとう李次元が折れた。――その部屋はそういう経緯で整えられた、劉文叔の陰麗華への執着を具現化していた。耿伯昭が眉を顰めたのは、劉文叔の歪んだ執着心を何となく察知したせいかもしれない。
堂を足早に通り過ぎて、奥の房へ向かう。房の戸口の前には繊細な透かし彫の屏風を置いて、奥への視線を遮り、また余人の侵入を阻む狙いがあった。文叔が恐るべき速さで奥の房に駆け込もうとし、宦官も侍女の小夏も、そのスピードについていけず、侵入を許すかと思われたその時。
今にも屏風を蹴立てて房内に踏み込もうとした文叔の面前に、踊り出た人影があった。
「勝手に入るな! この、クズ男がっ」
文叔の前に立ち塞がった人物は、陰麗華の異母兄、陰次伯――。
「次伯――そこ、どいてくれ!」
「嫌だね。僕の妹に軽々しく触れるな。この最低の浮気野郎が!」
「それはっ……」
「もう、あちらには子供もいるそうじゃないか。……しかも二人目まで。もう、うちの妹は用済みだろう? あんたが離縁に同意してくれさえすれば、わざわざ洛陽まで出てくる必要もなかったのに」
「同意するわけない! 私は陰麗華と離縁なんか――」
「お静かに!」
一触即発の二人に、宦官の陸宣が割り込む。
「陰貴人は今、お休み中なんですよ! 静かにできないなら、出ていってくださいませ!」
遠慮しいしい、屏風のすぐ裏まで来ていた朱仲先も、陰次伯に言う。
「あんたの気持ちはわかるが、対面させてやってくれ。孟津からずっと駆け続けてきたんだ。それが済んで落ち着いたら、説教するなり、二、三発殴るなり、好きにしていいから――」
「仲先将軍、昔なじみの気安さとは言っても、殴るのはやりすぎですよ」
やはり背後からついてきた耿伯昭が仲先を窘めた。まあまあと、李次元が耿伯昭を宥め、それから陰次伯に近づき、袖を引っ張って文叔から引き離す。
「少しだけです。こちらで見張っていますから、不埒なことはできません」
ブツブツ言いながら陰次伯が屏風の背後に下がるのを待って、陸宣が房内に文叔を導く。奥の、白い紗幕に包まれた臥牀に突進した文叔の前で、陸宣がそっと幕を開いた。文叔は臥牀の前に膝をついて、眠る陰麗華を覗き込む。
房の外から覗いていた朱仲先にも、遠目ながら、眠る陰麗華の横顔が見えた。
二年前と変わらぬ長い睫毛と、艶やかな黒い髪。抜けるような白い肌も滑らかなまま。だが、その頬はやや痩せて、顎も心もち尖っているように見える。儚さを増して、今にも消えてなくなってしまいそう――。
「麗華――」
文叔がまるで壊れ物か何かのようにそっと、その白い頬に指で触れ、顎の線をなぞる。静かで規則正しい呼吸に、彼女が眠っているだけだと確認して、文叔はほっと息をつく。それからその額に口づけて――。
「もう、よろしいでしょう? 目を覚まされたら、お知らせしますから」
今度は侍女の小夏に袖を引っ張られ、文叔はムッとした顔で小夏を睨む。
「まだ、二秒も経ってないじゃないか。……もう少しだけ……」
文叔は陰麗華の肩口に顔を寄せて、スーハーとその香りを吸い込んでいるらしい。傍から見ればただの変態である。……はっきり言って、キモい。皇帝でなかったら、絶対に「キモい、いい加減にしろ」と膝の裏に蹴りを入れている。
「キモいですよ。いい加減にしてもらえませんかね。二年も放置したくせに、何様のつもりですか」
さすが、侍女の小夏は遠慮がない。文叔も身に覚えがあり過ぎて反論もできず、ぐっと詰まっている。房の外の、屏風の裏側で聞いていた耿伯昭がいきり立った。
「お前、さっきから! 陛下に対して何て口のききようだ!」
「伯昭、大声を出すな……陰麗華が目を覚ましてしまう」
文叔が振り返って耿伯昭を制し、臥牀の上で眠る陰麗華の頬を、もう一度愛おしげに撫でた。それから名残惜しそうに立ち上がり、房の外に出てくる。
「いいんだ。罵られて当然のことをしたんだから……」
文叔はそう言って、それから堂内の牀に座り、側近たちにもそれぞれ座るように言う。皆の席が定まり、小夏に白湯を言いつけてから、控えている宦官の陸宣に向かい、尋ねる。
「倒れたのは三日前だと聞いたが……状況を聞かせてくれ」
陸宣が恭しく頭を下げ、言った。
「はい。その前日にこちらにご到着になりまして、衛尉殿より簡単な事情の説明があり、ご夕食の後にこちらのお部屋にお通りなさいました。その日はそのままお休みになりましたが、あまりよくお眠りにはなれなかったようでございます。翌朝、身支度とご朝食が済みました後、小官が勧めて掖庭の庭園の、池の畔の亭までご散策においでになりました。――そこへ、和歓殿の方がお出ましになられまして――そうですね、半刻ばかりでございましょうか。この部屋に戻りまして、直後に――」
「郭聖通と会ったのか!」
文叔が思わず李次元を見る。李次元が頭を下げた。
「なぜ報告しない」
「報告する間もなく、こちらに駆け込んだのは、いったいどなたですか」
「隠していたわけではないのだな?」
「そんなはずないでしょう。……もっとも、それらの出来事は、私が自宅に戻っている間のことで、油断していたことは認めますし、お叱りはいかようにも。ですが、私も久しぶりに妻と再会しましたので――」
「もういい!……それで、その直後に倒れただと? 何か、妙なものを口にしたりは?」
文叔の問いに、陸宣がまた頭を下げた。
「いいえ、亭にてほんの偶然に出会われた風を装われましたので、特に召し上がりものもなく――」
「……では、何か盛られたわけではないのだな」
「先ほども申し上げましたように、旅の疲れと、貧血、それから精神的なものだと存じます。ご対面で、かなりの衝撃を受けておられるように、お見受けいたしました」
「……衝撃?……郭聖通が何か言ったのか?」
文叔の言葉に、白湯を運んできた小夏が答えた。
「……それはまあ、いろいろと。それでなくとも、夫に別の女ができて、それが正妻面して赤んぼまで抱っこして押しかけてきた上に、二人目の子供ができたから、夫の百二十人の愛人の一人にしてやるし、夜のお勤めもしっかりね、なんて言われても平気でいられるほど、うちのお嬢様は図太くないんですよ。倒れて当たり前だと思いますけどね」
「そんなこと言ったのか!」
これには文叔だけでなく、李次元も、朱仲先も、さらには郭聖通に好意的な耿伯昭までも目を剥いた。陰次伯に至っては憤死寸前だった。
「百二十人の愛人って何の話だ? それに二人目? 私は何も聞いていないぞ?」
狼狽する文叔に向かい、陸宣が慌てて訂正する。
「いえ、それはちょっと言いすぎで……。内容はその……そこまでは仰ってはいらっしゃらないので。その、もっと柔らかな言い方でございましたし……」
だが、文叔の眉間には深い皺が穿たれたままだ。
「わかった……郭聖通には何か余計なことを言っていないか、確認しておく」
だが、文叔の言葉に対し、李次元が言う。
「それはむしろ逆効果ではございませせんか?」
「逆効果?」
聞き返した文叔に、李次元が説明する。
「あちらの方がわざわざ接触してこられたのは、不安だからでございましょう。とくに、陛下は陰貴人には掖庭の一殿舎ではなく、後殿の一室をお与えするつもりらしいとなれば――」
「だが、郭聖通にはもう、子がいる。何も不安がる必要は――」
「子がいるからこその不安というのもございますよ。そこへ、陰貴人に対し、余計なことを言うななどと頭ごなしに釘を刺されましたら。一番、厄介なのは、さらなる攻撃が陰貴人に向かうことです」
「それは――」
複数の妻を持てば、妻同士の軋轢は必ず起きる。夫にはそれを捌く器量が要求されるのだ。
黙り込んでしまった文叔に、斜め前に座った陰次伯が、殊更に明るい声で言った。
「いや、そんなことで悩む必要はないよ! 陰麗華をすっぱりさっぱり離縁してくれたら、万事解決!」
「絶対しない!」
陰次伯の画期的な提案にも、文叔は断固、首を縦に振らなかった。
「ですが――陰麗華殿はただ、離縁をしてもらうために来ただけだと――」
李次元のその言葉に、文叔が唇を噛み、拳を固く握りしめる。
「……私は、陰麗華を離縁するつもりはない。……それに、お前たちには今、はっきり告げておく。皇后には陰麗華を立てる。最初の妻だから、その方が筋が通っている。何より、私が愛しているのは、陰麗華だけだから」
断言した文叔に、その場にいた者が息を飲む。
「しかし――!」
ややあって、耿伯昭が反論した。
「皇子はどうなるのです? 郭聖通……いえ、郭貴人しか、子は産んでいないのに!」
「跡継ぎと皇后は別だ」
「そうは参りません。皇子の母を差し置いて別の女を皇后に立てれば、いずれそちらに子が生まれたら、跡継ぎが交代になると皆思うでしょう。皇位継承の混乱を招くだけです!」
だが文叔は不愉快そうに首を振った。
「まだ、赤ん坊だ。皇位継承も何も、こんな戦争だらけの状態で、何を言う」
「ですが、後に禍根を残すような真似はおやめください」
「そういう生臭い話に陰麗華を巻き込む前に、すっぱり離縁して解放してほしいんだけど……」
陰次伯が口を挟むと、耿伯昭が今度は陰次伯にも食ってかかる。
「あんたも、貴人の兄だからって、陛下への口のきき方が失礼過ぎる! 少しは遠慮しろ!」
「うるさい、自称皇帝なんかにいちいちヘイコラできるか!」
「なんだと!」
いきり立つ二人を、朱仲先が間に立って宥める。
「二人ともいい加減にしろ。耿伯昭も誰彼構わず凄むな。陰次伯は気持ちはわかるが、もう少し言葉遣いに気を遣ってくれ」
「それ以前に、もう少し病人に気を遣って声を落としていただけませんでしょうか……」
陸宣に言われ、李次元が潮時だと文叔に声をかける。
「陰貴人はしばらく目を覚まされないでしょう。今のうちに着替えて、為すべきことを為されてはいかがですか」
文叔も了解し、小夏の淹れた熱い白湯を一気に呷って、案の上に杯を置いた。
卓子康:卓茂。南陽宛の人。太傅。すでに齢七十超のじーさん。
李次元:李通。南陽宛の人。衛尉。
朱仲先:朱祜。南陽宛の人。建義大将軍。
耿伯昭:耿弇。扶風茂陵の人。建威大将軍。西暦三年生まれ。
耿伯山:耿純。鉅鹿宋子の人。前将軍。
馮公孫:馮異。潁川父城の人。偏将軍。
王元伯:王覇。潁川潁陽の人。偏将軍。
祭弟孫:祭遵。潁川潁陽の人。偏将軍。
*1
後漢の草創期である建武の初期、洛陽宮には宦官や宮女も少なかったと思われ、また、皇帝の周辺は即位以前からの側近で固められていたはず(皇帝自身が、宦官だけの生活に慣れていないこと、戦時下の刺客等に対する護衛の必要性)で、後宮から士人を完全に排除できなかっと考えられる。この小説では、皇帝に同道する時、皇帝からのお使い、後宮の二貴人の親族は、後宮にも出入りする。貴人の男性親族は、皇帝から特に符(通行証)を支給されている、とする。




