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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第六章 我が心は石に匪ず
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軋む心

我心匪石、不可轉也

我心匪席、不可卷也

 ――『詩経』邶風はいふう・柏舟


我が心は石にあら

転がすべからざるなり

我が心は席に匪ず

巻くべからざるなり


  私の心は石のように硬いけれども石ではない。転がすことはできない。

  私の心はむしろのように平らだけれど、筵ではない。丸め込むことはできない。

  


********



 十二月初めの洛陽は樹々の紅葉も盛りを過ぎていたが、それでも名残りの紅葉は鮮やかで、くれないや黄色に染まった樹々の葉が舞い散り、池の水面を覆って、錦を浮かべたような美しさであった。


 「綺麗ねぇ……」


 池はそれほど大きくないが、池の畔にあずまやが作られ、反った屋根の瓦が冬の日差しに煌めいていた。陰麗華は陸宣の先導で池の周囲の小道を一めぐりし、亭の中の木の榻に腰を下ろし、ゆったりと池を見下ろす。


 「今日は天気もよく、暖かくて絶好の紅葉日和でございますね」

 「ほんと、ここ数年、ゆっくりと紅葉を眺める暇もなくて……」


 紅葉の季節も美しいが、春の花盛りにはさぞかし……と、樹々を眺めながら考える。しかし、陰麗華が春の景色を目にすることはあるまいと思い直し、そろそろ散策を切り上げようかと、陸宣に声を掛けようとした時、池の向こうから、派手な衣裳を纏った女たちの一団がやってくるのが見えた。


 「お嬢様、誰か来るようですよ?」 

 「あら、ほんと……お邪魔にならないうちに退散しようかしら」


 傅子衛将軍や李次元の話が嘘でないのならば、現在、後宮には郭貴人しかいないはずで、だとしたら掖庭の方からやってくる一団も、郭貴人の周囲の人たちなのだろう。寵愛を競うつもりがない陰麗華は、郭貴人にも挨拶は特にせず、ひっそりと離縁だけしてもらって、南陽に去るつもりだったのだ。


 「てぐるまが見えますので、郭貴人様ご本人かと思われます。――まさか、我々が庭園に出たのをわかっていて、わざとぶつけてきたわけではないと思いますが……」


 陸宣が眉を寄せる。陰麗華の部屋からは近いので、陰麗華は歩くつもりだったが、陸宣はてぐるまを用意してくれた。てぐるまを許されるのは貴人以上だと、その時に陸宣が言ったから、あの一行に郭貴人がいるのは確実である。


 「わたしがこちらにいると、知らずにいらっしゃったのでは?」

 

 陰麗華が問いかければ、陸宣が頭を下げた。


 「てぐるまを用意する関係で、掖庭えきてい令の方にも、陰貴人様がこちらの庭にお出ましになると、伝えてございます。たまたまかもしれませんが、あちらの宮殿には独立の中庭もございますし、この庭園までわざわざいらっしゃると、小官は想像もいたしませず……もしかしたら、官婢にもあちらと通じている者がいるかもしれません。小官が無理にお勧めしたばかりに、こんなことに……」

 「通じるって……」


 陰麗華の動向を、郭貴人が人を使ってまで探らせているということなのか?

 理由がわからず、陰麗華は困惑する。――真っ先に挨拶に出向いて、仁義を切っておかなかったからかしら?でも、今さら……ねぇ?

 

 陰麗華が首を傾げる。それでも、気づかぬふりをして、部屋に戻ろうかと腰を浮かしたところを、走ってきたらしい使いの小宦官が亭の入口で膝をつく。


 「陰貴人様に申し上げます。郭貴人様が是非、こちらの亭にてご挨拶申し上げたいと――」

 「それは――」


 できれば見逃してくれないか、と言いたかったけれど、郭貴人は郭貴人なりに、陰麗華の存在が気になるのかもしれない。


 (もう、跡継ぎも産んだのだから、わたしのことなど気にしなくてもいいのに――)


 でも、それではすまない女心も、陰麗華にもわからなくはないので、そっと溜息をついて了承する。


 「でも、こんなところでよろしいのですか?」

 「いえ、庭で偶然、遇ったくらいの方が、大げさにならなくてよいと――」

 「まあ、そうなのかもしれないけれど」


 瞬く間に竹製の榻が数個持ち込まれ、亭の準備が整えられる。陰麗華は田舎育ちで、偉い人に目通りしたこともほとんどないから、礼儀作法を知らず途方に暮れる。しかし、とりあえずその場で座ったまま神妙に視線を落とし、待った。


 しばらくして、数人の人間が亭に入ってくる気配を感じ、陰麗華はいっそう、深く頭を下げた。落とした視線の先で、鮮やかな青系統の衣装が動くのが見えた。


 「――郭聖通と申します。初めまして」


 想像していたよりも低い、しっとりした声。なんとなくだが、二十一になる自分より、郭貴人は年下と思い込んでいた。だが、落ち着いた声の様子に、もしや自分よりも年上なのかと戸惑う。


 陰麗華が覚悟を決めて顔を上げる。向かいに座る青い深衣に白い褶衣うちかけの女は、高髷を結った様子も化粧の雰囲気もすべて、陰麗華よりも大人びて見えた。色の白いうりざね顔に、目元はすっきりと涼しげな一重瞼。――目を瞠るほどの美女というわけではないが、理知的で犯しがたい気品が備わっていた。

 

 陰麗華は顔の前で拱手して軽く頭を下げる。


 「陰麗華と申します。本来ならばご挨拶に伺うべきところを、昨日こちらに着きましたばかりで、何分、勝手がわかりませず……」

 「堅苦しい挨拶は抜きにして、お楽になさって。わたくしの方こそ、あなたの元にご挨拶に伺うべきでしたが、却非殿には陛下のお許しなく入ることができませんので。――あなたが、こちらの庭に出たと聞いて、これを逃せばご挨拶が遅れることになると、慌てて参ったのですよ」

 「それは――申し訳ないことを」


 困惑が、表情に出てしまったのだろう、郭貴人が軽く笑ったらしい。


 「気になさらずとも。わたくしの、気分の問題なのです」

 「気分?」


 陰麗華が思わず、郭貴人の顔を見上げた、その顔を郭貴人は射抜くように見つめてくる。


 「……本当に、噂通りお美しい方ですのね」

 「えっ……と……」

 「わたくし、あなたにお詫びとお願いがあって、ずっと、あなたの到着をお待ちしておりました」

 

 どこか冷たい雰囲気のする白い顔は、表情がほとんど読み取れず、陰麗華は少しばかり身を固くする。

 

 「お詫びと、お願い……ですか?」


 郭貴人が陰麗華に詫びるとは、何だろうか。どういうきっかけでか知らないが、妻のいる男と結婚して、子供まで生んだことか。あるいは、以前の妻を蹴落として正妻に収まることか。そしてお願いとは?


 「この二年、あなたが大変なご苦労をなさったらしいことも、聞いております。あなたを半ば人質に差し出す形で、陛下は河北討伐に出て、大功を挙げ、ついには至尊の位におきになった。また、御子のことも――さぞ、お辛い思いをなさったことと思います」


 子供の話を出されて、陰麗華は微かに眉を寄せた。自分と違い、無事に子供を産んだらしい女に、同情めいたことを言われるのは正直、不愉快だった。


 「お詫びなんて……あの二年のことは、あなた様とは関わりのないことです。詫びていただく必要はありません」

 「いいえ。……あなたの辛い日々の間に、わたくしは陛下に出会った。わたくしにとっては、運命でした。それ以外の選択など、ありえないほど――」


 運命、と言った時に、それまで氷のようだった郭貴人の白い顔にほんのりと赤みが差し、ほっと蕩けるような笑顔を一瞬見せる。


 「故郷に身籠った妻を残している身で、陛下はわたくしと新たに結婚することに躊躇っていらっしゃったけれど、わたくしは陛下以外には考えられなくて……あなたの存在を知ってもなお、わたくしは陛下との結婚を望んだのです。このことをお詫びせぬままでは、わたくしの女としての良心が咎めてやみません」


 騙されたのではなく、文叔に妻のいることを承知の上で結婚したと言われ、陰麗華は鼻白んだ。――郭貴人の言葉の裏側に、文叔が南陽に残した妻の存在に躊躇いながらも、彼もまた郭貴人に惹かれ、気持ちを抑えきれずに結婚を同意したのだ、という含みを読み取ってしまい、陰麗華の胸が軋む。背後の小夏が怒りでフン、と鼻を鳴らした。


 「謝ったからって、どうかなるもんじゃないでしょう?」


 小夏が突っかかるのを、陰麗華が慌てて押しとどめる。


 「小夏、おやめなさい。……申し訳ありません。これは南陽の田舎育ちで……」


 慌てて頭を下げる陰麗華に、郭貴人が微笑む。


 「いえ、その者が申すのももっともです。逆の立場であれば、わたくしの周囲の者たちも黙ってはおりますまい。……わたくしたちが出会いましたころ、陛下は河北で、本当に厳しい戦いを強いられておいででした。実は王郎という卜者うらないしでしたが、漢の成帝の落胤を名乗って、河北の者は正しい漢の後継者だと信じて、こぞって帰順して。むしろ陛下は同じ劉氏でも傍系の反逆者と、命を狙う者が多くいた。……伯父の真定王は河北の支配者にこそ、わたくしを嫁がせようと考えておりました。わたくしを王郎に嫁がせ、その上で真定の兵を挙げて帰順しようと。……でもわたくしは、陛下こそが真に天命を受けた真天子であると信じておりました。ですから――」


 郭貴人は陰麗華の方をまっすぐに見つめた。


 「わたくしの方から、陛下にお願いしたのです。わたくしと結婚し、河北を……いいえ、この天下をお救い下さいませ、と。陛下にはすでに夫人がいると知っていても、わたくしは天下のためだと、陛下に結婚を迫った。全ては河北を手中に収め、王郎を倒すため、すべては天下と民草のためだと、陛下を説得したのです」


 詫びる、と言いながらも、郭聖通の態度からは、大義のために自身の信条を押し通したという誇りが滲み出ていて、微塵も悪いなどと思っていないように見えた。陰麗華は圧倒され、どうしていいかわからず、辛うじて言葉を絞り出した。


 「その……結婚はあの方が決断なさったことで……何分、この戦乱の世。夫婦が生き別れになり、それぞれが別の道を歩むのも、よくあることと聞いておりますので……わたしは……」


 郭貴人がいかに迫ろうとも、文叔の同意なしには結婚はあり得ない。天下のためだからと、妻のいる男に結婚を迫ることは、陰麗華には想像もつかないけれど、天下国家のことなど考えたこともない陰麗華には、もはや頭も気持ちもついていかなかった。


 視線を逸らして俯く陰麗華の方に、郭貴人が少し顔を寄せるようにして、言った。


 「ですから、陛下を責めないでいただきたいの。陛下は確かに、あなたを裏切ってわたくしと結婚しました。でも、陛下は大義のために小節を捨てたにすぎません。わたくし、どうしてもそのことをお願いしたくて、ご迷惑も顧みず、押しかけて参りましたの」


 小節――ちっぽけな節操――と表現されて、陰麗華がはっとして顔を上げる。

 陰麗華ただ一人を愛すると誓った結婚の誓いは、大義の前には踏みつけにしていいものだと?


 出会ってからの十年以上、守り、育み続けた愛の誓いを――?

 

 陰麗華の、見開かれてた黒目がちの瞳を射抜くように見つめながら、郭聖通が囁く。――ひどく穏やかで優しい声で紡がれるのに、陰麗華の耳には灼けるような毒薬を注ぐように感じられた。


 「陛下はあなたのことを、ずっと気にしておられた。ご自分の子を身籠ったあなたを、劉聖公の元に人質として残してきたことに対して、ずっと罪悪感を抱いて――」

 「お待ちください。わたしが洛陽に残ったのは、別に文叔さま――いえ、陛下のせいでは……」


 思わず口を挟んだ陰麗華を、郭貴人は涼やかな眉尻を下げ、ほんのり憐れむような視線を向けてきた。

 

 「……ああ、そう、信じていらっしゃったのですね。ええ、そう思わなければ耐えられないことだったでしょう。……でも、陛下を恨まないで差し上げて。陛下を守るために、配下の者たちも妻子や一族を犠牲にしてきたのです。陛下が、妻を人質に差し出すのも、また戦乱の世の習いですもの」

 

 郭貴人の言葉は陰麗華の心のよりどころの、最後の砦をあっけなく破壊した。――まさか、あの時、文叔は李季文に裏切られたのではなくて、もともと陰麗華を劉聖公に差し出すつもりで――?

 

 硬直する陰麗華の顔の横に郭貴人の顔が寄り、ふわりと沈香の香りが漂い、陰麗華がはっと息を止める。郭貴人の唇が陰麗華の耳元をかすめ、ほとんど声にならないほどの小さな声で、陰麗華にだけ聞こえるように呟いた。


 「劉聖公は、随分とあなたがお気に入りでしたのね?」


 黒い瞳を見開いたる陰麗華の耳元から、郭貴人はすっと身体を引き、まっすぐに正面から見据えて言った。


 「ご安心なさって。他で言ったりはいたしません。陛下の、恥にもなりますもの。――陛下だって、苦しまれたのですよ。陛下は最後まで、わたくしとの結婚を渋るほど、あなたを気にかけていらっしゃった。……だから、陛下を責めないで」

 「なん……で……」


 どうして、郭貴人が劉聖公とのことを知っているのか。陰麗華の声にならない疑問に対し、郭貴人は嫣然と微笑んで答えた。


 「和歓殿は以前は、劉聖公の正妻だった趙夫人がいた宮殿だそうですわね。……あなたのことを憶えている宦官も宮女も、まだ残っているのです。でもご安心なさって。秘密を漏らすことのないよう、固く口留めしてありますから」


 呆然と見つめる陰麗華に向かい、だが郭貴人は相変わらず、感情の読めない微笑を湛えるだけだ。彼女の言葉による攻撃は表面的には穏やかに優しく、だが確実に、陰麗華の息の根を止めつつあった。

  

 その時、突然、侍女たちの背後から赤子がむずがるような声がして、周囲を囲んでいた侍女の人波が割れ、暖かそうな産着にくるまれた赤子を抱いた、一人の女が進み出た。


 「郭貴人様、皇子殿下が――」

 「ああ、起きてしまったの?……こちらへ」


 むずがる赤子を侍女から抱き取って、郭貴人が赤子を揺らす。まるまると太った、大きな目をした赤子。――誰が見ても、文叔によく似ていた。

 郭聖通が赤子を抱いたまま、陰麗華に微笑みかける。


 「長男の、彊と申しますの。この子のことも、あなたにお目見えしなければと思って。――あなたの御子は残念なことになりましたけれど、幸い、わたくしの子は無事に産まれてくれました。できれば、愛してやっていただければと思いまして――」


 陰麗華の全身の血が凍り付く。


 一度だけ腕に抱いた、冷たい小さなむくろの感触が蘇る。動揺を見せまいと思っても、頭が痺れたように動かない。


 ――耐えられない、と思う。こんな場所で、文叔の子と、それを産んだ女の近くで生きていくなんてこと、絶対にできないと思う。一刻も早く南陽に戻ろう。そうでなければ、心が壊れてしまうに違いない。


 「もし、よろしければ、抱いていただいても――」


 そうして差し出される赤子を、陰麗華は真っ青な顔で遠慮した。


 「いえ、わたし、不調法でございますから……大事な御子に何かありましたらと……」


 吐きそうだった。頽れそうになる身体を必死に立て直し、何とか持ちこたえる。――張寧の子供なら可愛いと思い、赤子の誕生も心待ちにしていたのに、文叔の子と思うと心が軋んで耐え難いと思う、自分の醜さにも絶望する。


 郭貴人はぐずぐず言う赤子を腕の中で揺らしながら、歌うような穏やな声で陰麗華に言った。


 「あなたがこちらに出ていらっしゃって、正直、ホッとしているところもあるのです。……あのまま、あなたが意地を張って南陽に籠ってしまわれたら、陛下は一生、あなたへの罪悪感に苦しめられてしまいますものね。とても、責任感の強い方ですから。――だから、あなたが陛下を赦して差し上げれば、陛下の心もお楽になられるでしょう。それに――」

 

 郭貴人が妖艶に微笑みながら陰麗華を見る。


 「もはや陛下は単なる一士大夫ではなく、皇帝ですもの。その妻がわたくし一人というわけにはまいりません。あなたが、わたくしとともに陛下を支えてくださるなら、わたくしも安心です」


 何を言い出すのかと、陰麗華は目を瞠る。


 「あの、その、――わたしはその、皇帝を支えるような大それた人間ではございませんので――」


 洛陽には離縁してもらいに来ただけで、自分は南陽に帰るつもりだと、陰麗華が言おうとするが、子供を見せつけられた衝撃もあって、舌がうまく回らない。その隙に、郭聖通はさらにとんでもないことを言い始めた。


 「本来、皇帝の後宮なら、皇后の下に三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御女の百二十人が必要ですけれど、現状、そこまでは無理ですが、あなたにはその上位の夫人として……」

 「百二十人?! 奥さんが百二十人ですか? 一人の男に? ウソでしょ!」


 素っ頓狂な声をだした陰麗華に、郭貴人は呆れたように言った。


 「経典にはそう、書いてありますわ。いにしえの聖王にはそれだけの後宮が――」


 郭貴人はまるで躾けのなってない子供でも見るような目で陰麗華を見たが、田舎の富豪の家に生まれた陰麗華には、百二十人の妻と言われてもまったく理解不能であった。


 「それは……わたしは、そんな中に入るのはちょっと――」

 「継嗣を広めることも、皇帝の大切な務めですわ。実はわたくしね――」


 郭貴人は、翡翠の腕環をはめた白い手で、するりと腹を撫でる。


 「実は……まだ、陛下にも申し上げる機会がなかったのだけれど、ここに二人目がおりますの」

 「はいっ?!」


 何の話だと、陰麗華の声が思わず裏返る。――心が軋んで上げる悲鳴を、陰麗華は必死に圧し殺した。


 「しばらくはおしとねの方もご遠慮申し上げなければなりません。新たな妃嬪を召し上げるにも、右から左と言うわけにも参りません。こればっかりは、陛下のお好みもございますしね。その点、もともと結婚なさっていたあなたでしたら、陛下のお好みに合うのは間違いないわけで。安心して、陛下にお薦めすることができます。まだまだ、たくさんの御子たちが陛下には必要ですもの。男でも、女でも、どちらも歓迎ですから、今度こそ、健康な御子を上げていただきたいの。彊だって兄弟姉妹が多い方がいいに決まっていてよ」


 ――この、目の前の女は、本当に自分と同じ種族なのだろうか?


 目の前で赤子を抱きしめ、優し気な笑顔で語る女が、陰麗華には人外の怪異ばけもののように思われた。女の切れ長の目の奥に、黒々とした闇がわだかまり、陰麗華を飲み込むのではと、恐怖で身体が竦んだ。


 理解できない者に対する恐怖と嫌悪感と。

 耐え難い吐き気がこみ上げてくるが、ここで吐いたら負けだと、普段は張らない女の意地だけで、懸命に唾を飲み込んで堪える。


 「……その、わたし、以前の出産があまりよくなくて、まともに孕めるかどうかも、定かではございませんので――」






 その後、どうやって郭貴人の前を辞したのか、陰麗華はよく覚えていない。

 とにかく、フラフラになって割り当てられた部屋に戻ってきた陰麗華は、そのまま奥の房の臥牀に倒れ込んだ。


 「お嬢様!」

 「陰貴人様!」


 小夏と陸宣が慌てて駆け寄るのを制して、辛うじて言う。


 「大丈夫、昨日、よく眠れなくて……それと、たぶん旅の疲れで……少し、休んだら……」

 「やはりご対面はお断りするべきでしたね」

 「それもそうだけど、あの女気持ち悪いわよ!――いきなり子供見せつけて、しかも二人目の子がいるって! お嬢様が子供を亡くしているのを知っているくせに!」

 「しい、声が高い!」


 二人のやり取りがやけに遠くに聞こえ、陰麗華の意識が遠ざかる。


 文叔さまの――子供。

 あの子だけはと、どれほどの屈辱も甘んじて受けた。なのに――。



 もう、割り切ったつもりだったのに。

 二人目の子――文叔さまは、あの人を愛してる。

 わたしだけだと言った、愛の言葉もすべて――。


 ――わたしだけが、忘れたくても、忘れられずに――。


 ――もう、わたしのものじゃないのに――。


 


 ずぶずぶと、意識が泥のように沈んでいく、その泥濘ぬかるみの闇が、陰麗華の疲労した心には心地よくて、陰麗華は自ら浮き上がることを放棄した。


 




次話、文叔登場!

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