表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第六章 我が心は石に匪ず
37/130

後殿

 結局その日は南宮に泊まることになり、陰麗華は夕食の後で、後殿の一室に案内される。かなり広い部屋で、中央に立派な柱が二本聳えて、大きな牀が三つ、コの字型に置かれ、その背後には手のこんだ透かし彫りの屏風が配置されている。飛雲の中を鳥や羽仙が飛び交い、遠くに見える山並みは神仙の住むという蓬莱であろうか。部屋のあちこちにおかれた青銅製の灯台は、鳥や仙人などの凝った意匠が彫刻され、しょうや飾り棚、櫃にも煩くない程度、螺鈿や金の象嵌などの装飾が凝らされていた。


 「ずいぶんと立派なお部屋。豪華過ぎて落ち着かないわ」


 陰麗華がぽつりと呟くと、案内してきた李次元が笑った。


 「この奥の房は寝室です。臥牀もしきぶとんも、陛下が自ら吟味して選んで、あれこれと細かく指示しておられました。櫃の中にはご衣装も化粧箱も、物不足の中でもかき集めてございます。ただ、洛陽は数ヶ月包囲されていた関係で、どうしても人手不足で、十分な側付きを揃えられていないのですが」

 「側付きだなんて……」

 

 離縁の話し合いさえ終われば、とっとと出て行くつもりでいる陰麗華は、困ったように首を傾げる。

 陰麗華の隣で部屋をジロジロと見ていた陰次伯は、好奇心に負けて奥に房を覗きに行き、憮然とした表情で戻ってきた。


 「なんだかスゴイ、臥牀しんだいが置いてあったけど……まさか、あそこで陰麗華と寝るつもりで、ワクワク準備してたわけじゃあないよね? ちょっとあからさま過ぎない?」

 「まあ、それは……絶対に別れないと駄々を捏ねるほど惚れた女房の部屋ですから、寝台にはこだわるでしょう」


 そんな男たちのヒソヒソ話は陰麗華には聞こえていなくて、すっかり疲れ果てた陰麗華は部屋の中央の牀に腰を下ろす。

 ここ数日の旅で、陰麗華はかなり疲労がたまっていた。正直に言えば、今すぐにでも横になりたい。


 先にこの部屋に入って荷物の整理をしていた小夏が寄ってきて、陰麗華の前に、熱い白湯の杯の乗ったおぜんを置いた。


 「ありがとう、あなたも疲れたでしょう。あなたの部屋はどこなの?」

 「わたしはこの、もう少し先にお部屋を用意してもらいました。狭いけれど快適そうですよ?」

 「わたしもそんな部屋でよかったのに……広すぎて身の置き所がないわ」


 陰麗華が溜息をつくのに、小夏が笑った。


 「それよりも……陸宣さんが来てくれたんです」

 「陸宣?」


 陰麗華がその言葉にはっと顔を上げる。二人の会話を聞いていた李次元が、「ああ」と頷き、遠慮して部屋の入口付近に控えていた、まだ若い宦官を呼びいれた。


 「閹官えんかんの、陸宣です。今日から陰貴人付きになります」

 「お久しぶりです! 陰様……お元気そうで何よりです!」


 宦官が小走りに部屋に入ってきて、陰麗華の座る牀の前に跪き、宦官特有の甲高い声で言った。


 「……陸、宣さん?……まあ、あなた……」


 陰麗華も驚きのあまり声が出ない。二年前、李季文に騙されて劉聖公の後宮に放り込まれた陰麗華を、何かと助けてくれたのが、洛陽宮の宦官の陸宣だったのだ。


 周の都が置かれて以来、洛陽宮では連綿と、宦官が養成され続けてきた。もちろん、長安のあの巨大宮殿群にひしめく宦官の数にはかなうべくもないが、漢帝国には宮刑という刑罰もあって宦官の供給は尽きることもないし、地方の諸侯王の後宮など、宦官の需要もそれなりにある。

 陸宣はまだ二十代半ばの若い宦官で、幼い時に家族の罪に連座して洛陽宮に没入され、宦官となった。年少から掖庭の暴室(*1)に配属され、疾病のことに詳しく、妊娠中で体調の悪かった陰麗華の、半ば専門の付き人のようになって世話を焼いてくれた。陰麗華は早産を起こした時、陸宣の処置が適切だったおかげで、赤子は助からなかったが、陰麗華は一命をとりとめたのだ。――あの時、赤子とともに死ねなかったことを、陰麗華はずいぶんと恨んだけれど、陸宣の献身的な看護のおかげであるのは確かなことで、それについては感謝しかなかった。


 「あなたがこの陸宣を信頼していたと聞いたので、今回、陰貴人のお付きとして、暴室から移動させたのです。見知った者がいればいくらかは安心でしょう」


 李次元の言葉に、陰麗華はほっとしたような表情になる。


 「あなたが付いてくれるの。……嬉しいわ、とても不安だったのよ」


 小夏も二年前はともに後宮で辛酸を嘗めたから、陸宣の存在は非常に心強かった。 


 「小官こそ、またお仕えできて幸いに存じます」


 陸宣がにっこりと微笑み、そこで李次元は陰次伯を促して部屋を出て行った。

 広い部屋に三人だけになってしまうと、なんだか妙に声も響いて落ち着かなかった。


 「今日は疲れたわ。……でも一人で眠るのは怖いわ。小夏、一緒に寝てくれない?」

 「それは……よろしいんですかね? ここは、以前の、趙夫人の宮とも雰囲気が違いますけど」


 小夏は躊躇するが、陰麗華は奥の房の立派な臥牀に絶句していて、とてもじゃないが、一人では恐ろしくて眠れまいと思う。小夏に手伝わせて衣服を改め、陸宣が盥にお湯を汲んできて、陰麗華はお湯で絞った布で身体を拭き清めた。


 「今日はお疲れのようですから清拭せいしだけで済ませますが、明日か明後日が温かいようでしたら、もっと大きな盥で薬湯浴をしても疲れが取れますよ」


 陸宣がてきぱきと着替えを用意しながら言うが、陰麗華は笑って首を振った。


 「お湯を溜めるのが大変だもの、そんなことまでしてもらわなくていいわ。申し訳なくて……」

 「いいえ、なんでもご遠慮なくお申し付けください。……あれ? これは陰貴人様のお召し物にしては大きすぎますね?」


 陸宣が手に取ったのは、陰麗華がここに来るまでの道中で最後の仕上げをした、文叔のために縫った絮衣わたいれだった。


 「あ、それは……わたしのではなくて……」


 なんとなくその様子に察したらしい陸宣が、「ああ、そうでございましたか」と微笑んで、その絮衣は寝台脇の棚の上に畳んで置いた。


 絹の襦衣に腰ひもを結び、上から温袍(綿入れ)を羽織り、陰麗華は白い絹の紗幕に覆われた、大きな臥牀に腰を下ろす。小夏が黒髪をくしけずって、長い一本の三つ編みにした。陰麗華が横たわろうとすると、臥牀の下で跪き、就寝前の薬湯の椀を受け取りながら、陸宣が控えめに尋ねた。


 「その後、お身体の方はいかがですか」

 

 心配そうに見上げる陸宣を振り向いて、陰麗華が微笑む。

 

 「ええ、ありがとう。あの後半年くらいずっと体調が悪くて……でも、小夏やお兄さまがゆっくり休めと言ってくださって、だんだんと持ち直してきたわ」

 「……その、月のものの方はいかがです?」

 

 陰麗華は宦官とはいえ、男性のような相手に話していいことか一瞬、戸惑う。


 「小官は暴室で長く勤めておりましたので、婦人の病には詳しいのです」

 「そうでしたね……しばらく止まっていたのですけれど、一年くらい前から戻ってきて、今は以前のとおり、順調よ?」

 「そうでしたか」


 陸宣が安心したように微笑む。


 「ならば、お身体の方は特に問題はなさそうですね。大事に養生なさったのがよかったのでしょう」

 「そうね、みんなのおかげね。……あなたにも、あの時はお世話になったわ。ロクなお礼も言えないままで、気になっていたの。本当にありがとう」

 「いいえ、滅相もございません」

 「趙夫人にも、お礼も言えないままになってしまった。……長安できっとご苦労なさっているわ。無事でいらっしゃればいいけれど」


 そんな話をしている間に、小夏も深衣を脱いで休む態勢を整えて臥牀に上がってきた。


 「うわ、フワフワ! こんな寝心地のしきぶとんで寝ちゃったら、普通ので眠れなくなっちゃいそう」

 「今夜ばかりはお疲れですからね、小夏さんも早くに休んでください。……申し訳ないですが、明日からはバリバリ、働いていただきますから。何しろ、小官と小夏さんだけなんで、人手が足りなくって大変ですよ」

 「はーい、がんばりまーす!」


 小夏がお気楽な返事をし、陸宣が外から幕を下ろす。寝台の中が暗くなり、部屋の明かりが薄い幕を通してチラチラと揺れた。


 「室内は灯籠に一つだけ、灯を入れておきます。殿舎の外に篝火を焚いて、外には衛兵がおりますので、何かありましたらお声をおかけください。私はこの裏の小部屋に休みますので」

 「ありがとう、お休みなさい」

 「おやすみなさいませ、陰貴人様」


 陸宣が挨拶をし、室内の灯りを落として去ったのを感じると、陰麗華はほっと息をついた。


 「陰貴人様……か」

 

 何気なくつぶやいた陰麗華に、暗がりで小夏が囁いた。

 

 「……それは、要は後宮のお妃さまの称号ってことですか?」

 「……そう、なるわね。この宮殿に入るのに、どうしても爵号が必要だから、今は割り切ってくれって、李次元さんに言われたの。文叔さまに正式に離縁してもらって、南陽に帰るつもりなんだけど……」

 「この臥牀の気合の入り具合から言っても、帰してもらえなさそうですよ?」

 

 心配そうな小夏の言葉に、陰麗華が天井を見上げる。


 「でも……別にここは、わたしの部屋ってわけじゃあないんでしょ? どうしてここに通されたのか、よくわからないけど。もう一人の方は、どちらにいらっしゃるのかしら」

 「ええと……あの、以前、趙夫人がおられた宮のようですよ。和歓殿って言ってましたから」


 その言葉に、陰麗華の胸がチクリと痛む。

 和歓殿が皇后の――正妻の住まう宮だとは、以前に趙夫人のところにいた時に聞いていた。皇后の宮らしく前殿と後殿を備え、他の夫人たちを集めた朝請も行われる、後宮の中心となる殿舎。そこに郭貴人を住まわせたということは、やはり、彼女を正妻にするつもりなのだろう。

 

 ――バカね、もう、すっぱり身を引いて、南陽に帰るつもりでいるのに、いつまで未練たらしいこと。


 今日一日で、皇帝のなんたるかを見せつけられた気分で、陰麗華はそっと溜息をつく。

 南陽の田舎育ちの陰麗華には、雲の上の存在だ。……もう、文叔と自分とは天上人間(天と地ほど)の隔たりがある身になったのだ。


 柔らかな絹の褥と、羽毛のかけぶとんの温かさが、真綿で包むように陰麗華を締めつけてくる。

 豪華な宮殿、豪華な臥牀。幾重にも重ねられた絹の薄い紗幕。この華麗な寝台で、皇帝が一人寝するなど考えられなかった。いずれ、劉文叔も劉聖公のように、数多あまたの女を枕席に侍らすことになるのだろう。――あるいはもう、すでに、何人もの女がいるのかもしれない。


 ――わたしには無理ね。


 かつて、劉聖公の後宮で、趙夫人に庇われていたとはいえ、時には韓夫人や他の女たちの嫉妬の視線にさらされることもあった。一人の夫をめぐって、後宮でけんを競うなんて、陰麗華にはできそうもない。まして後宮の長として、女たちを総べるなんて、絶対、無理。


 ――河北で娶ったという郭貴人ならば、諸侯王の姪だというから、豪華な場所で人の上に立つのも、きっと慣れているのだろう。もう、子供も産まれているというから、その子は文叔の跡継ぎだ。ならば、跡継ぎの母が正妻として遇されるのは当然のこと。

 

 「その……お嬢様……後で、他の人からお耳に入るよりはと思うのですけれど……その、郭貴人とかいう方なんですけどね……その……」

 「ああ、李次元さんから聞いているわ。子供のことでしょう?」


 言い淀む小夏に向かって言えば、暗闇の中で小夏が身じろぎしたらしい、衣擦れの音がした。


 「文叔さまが河北に向かってから、もう、二年になるわ。結婚がいつかは正確には知らないけれど、生まれていても不思議はないわね。……男の子?」

 「ええ……みたいです」


 小夏が躊躇うように息を吸ってから、言った。


 「結婚したのが、一昨年の……河北に渡って歳を越して、その春だそうですよ。いくら何でも、早すぎじゃないですかね?」

 「何が?」

 「……だって、その頃はまだ、お嬢様はようやくあの、劉聖公の後宮からなんとか逃げ出したところで……お身体の状態だってすごーく悪くて、言っちゃなんですけど、いつ死んでも不思議はないっていうか、今、生きてるのが不思議なくらいの状況だったのに。なのに、夫の方は河北で新しい女と……なんて言って口説いたのか知らないけど、男も男だけど、女も女ですよね? 諸侯王の姪っ子だかで身分があるってんなら、相手の男に女房がいるかどうかくらい、確かめてから結婚するでしょう? 騙されてたんなら間抜け過ぎるし、わかってて結婚して、さらに子供まで生んだのだとしたら、性悪過ぎると思いません?」

 「小夏!」


 ぶちまけるように暗闇でまくしたてる小夏に、陰麗華は自分の醜い気持ちを言い当てられたような気がして、思わずきつい口調で咎めた。

 

 「事情がおありになったのよ。……今さら言ってもしょうがないわ」


 陰麗華はむしろ自分に言い聞かせるつもりで、はっきりと声に出して言った。


 「そばにいられなかったし、ちゃんと子供も産めなかった。それに……」

 「子供は不可抗力ですよ。お産が上手くいかないことなんて、普通にありますもの。わたしの母さんも、お産で死んだんですよ。お嬢様が生きているだけで、本当に幸運だったんですから。だいたい、あんなに体調が悪くなったのも、全て、後宮に放り込まれたせいでしょう? お嬢様は何も悪くないですよ」

 「でも……」


 それ以上は口に出せず、陰麗華は目を閉じる。どんな理由にせよ、陰麗華が約束を守れなかったのは、確かだ。 


 それに子供も――。


 負い目のある陰麗華は、文叔だけを責めることができない。


 (お互い様だわ……だから、めぐりあわせが悪かったんだと諦めて、わたしが身を引く方がいい……)


 李次元が言ったように、あの時の子供が無事に生まれていたら、陰麗華だってもっと強気に出られたかもしれない。子供のためにも文叔に縋りついたに違いない。


 でも――。陰麗華の子はこの世に生まれず、別の女が文叔の子を産んだ。


 ならば、文叔が戻ってきたら離縁を願い出、穏便に南陽に戻してもらう。

 できれば、趙夫人に救いの手と、長安に行った後の曄や匡の足取りと――。


 (そんなにいろいろとお願いするのは、図々しいと言われてしまうかしら。でも――)


 自分を手放さないと文叔が言っていた、という李次元の話が本当だとすれば、その僅かに残った情に縋って、せめて恩ある人を救いたいと、陰麗華は思う。


 陰麗華はぼんやりと天井を眺めて思う。

 陰麗華の子が死んでいることも、陰麗華の裏切りも全て知っているのに、なおも陰麗華を手放さないと言う、理由は何か。

 

 もう、他の女と結婚し、子供も儲けた。陰麗華に便り一つ寄越さず、忘れ去ったと思っていたのに。

 

 (ああ、そう言えば、あの絮衣わたいれどうしよう。やっぱり、持ってくるべきじゃなかったわ。あんなの、もう一人の方が見たら、きっと不快に思うわね。処分するか、お兄様に差し上げるか……)

 

 隣から、小夏の規則正しい寝息が聞こえてきたが、疲れているのに陰麗華は目が冴えてしまい、眠れぬまま、夜を過ごした。

 





 翌朝。

 ほとんど眠れていないが、陰麗華は習慣で早く起き、小夏に手伝わせて身支度を整える。忙しくしんしついまとを往復する陸宣が、刺繍の襟のついた、薄く綿の入った褶衣うちかけをいくつか出してくる。


 「朝晩は冷えますのでこちらを……衣装がお好みにあえばよろしいのですが」

 「え、でも……わたしはそんな贅沢なものは……」

 「仮にも主上おかみの貴人ともあらせられる方が、そのような質素ななりでは、他から侮りを受けます。ひいては主上の恥にもなります。やはり身分に相応しい装いをされませんと」

 「……わたしはいずれ、南陽に帰るつもりだから……」


 しかし陸宣は童顔に、困ったような笑顔を浮かべる。


 「たとえ短い間でも、誠心誠意お仕えいたします。そちらの深衣には、褶衣うちかけはこちらの色目がよさそうですね。帯ももっと華やかなものに変えましょう。それは地味過ぎですよ」


 陸宣は金糸刺繍の入った朱の帯を、陰麗華の胸の下あたりで凝った結び方をし、余った先を長く垂らした。手早く赤い襟のついた、全体に草花文様を刺し子(キルティング)した梔子色の褶衣うちかけを着せ掛け、帯には佩玉を吊るす。それから、鏡を小夏に持たせて、手早く髪を結う。ほんのり花の香のする髪油をつけて丁寧に梳きながら言う。


 「陰貴人様の御髪は、癖がなくて真っ黒で艶やかで……本当にお美しいですね」

 「癖がなさすぎて結いにくいのよ。……あの、耳が出ないようにして」

 

 上流の女性の間では、髪を高々と結い上げるのが流行し始めているが、陰麗華は髪を中央で二つに分けけ、後ろに流して垂らし、背中でまとめるという、昔ながらの髪型ばかりしていた。――耳朶の穴を隠すには、その髪型が一番いい。


 鏡に映る陸宣が一瞬だけ、複雑な表情をしたのを、陰麗華は見てしまったが、陸宣はすぐに微笑んで言った。


 「では、髷を作るときに、横の髪を垂らして耳を覆う感じで……ほら、こんな感じで如何でしょう? 残りは自然に背中でまとめる感じにしますか? これはこれで、清楚で陰貴人様の雰囲気に似合います」

 「お嬢様、この髪飾り素敵ですわ、これにしましょうよ!」


 小夏が取り出したのは、布で作った大きな、牡丹の花の造花のついた髪飾りであった。


 「やめてよ、そんな大きなの。飾りなんていらないわよ」

 「ええーそうですかぁ? せっかく素敵なのに……」


 小夏が渋々、牡丹を箱に戻し、陸宣が中から金細工の小花がたくさんついた、華やかだが可憐な雰囲気のかんざしを選んで、それを頭の上に挿した。キラキラ揺れる飾りがついていて、長く垂れる玉とガラス玉、金の飾りが耳の横で揺れる。


 身支度を済むと陸宣は恭しく陰麗華を朝食の席に導き、方爐ひばちの上で温めておいた土鍋から黍の粥をよそい、木の匙を添える。おぜんの上には数種類の漬物、葱などの薬味の小皿が並んでいる。陰麗華が慎ましやかに朝食を食べ始めた時、兄の陰次伯がやってきた。


 「お兄様、おはようございます」

 「すまないが、麗華、僕の朝食もあるかな?……僕の泊まった部屋は本当に牀しかなくって、李次元もいないから、どこで飯を食っていいのかもわからない。人はいないくせに、出入りにはやたらうるさくて、ここに来るまでに、何度、誰何すいかされたやら……符(通行証)を見せないと通してくれなくて、辿りつけてよかったよ……」


 次伯が腰に下げた、金色の虎の形の符を掲げて零すと、陸宣が心得て、すぐにもう一つの案に食器を用意する。


 「申し訳ございませんね。もともと洛陽宮は離宮で、最低限の宮人しか置いておりません。……以前と違って、今の主上おかみは禁中の出入りは厳格に管理するよう、お命じになられました。刺客などが入り込むとよくないと、そんな話も聞いてございます」

 

 温かい粥をもらい、陰次伯がほっとしたような顔をする。


 「……しかし、文叔……じゃなくて、皇帝がいつ戻ってくるかわからないんじゃあ、身動きも取れない。僕も念のため、洛陽に家を探すことにするよ。……長期戦になりそうな予感がするから」


 陰次伯はそう言って、朝食を食べると早々に出て行った。

 

 一人になり、何もすることのない陰麗華が途方に暮れていると、陸宣が陰麗華に庭の散策を勧める。

 

 「ここを出てすぐのところに池のある庭がございましてね。禁中の区分になっておりますので、出入りできる者も限られておりますし。以前、劉聖公の時代には女たちがうろついておりましたが、現在、掖庭こうきゅうにも人はほとんどおりません」

 「でも……」

 「前回の時はずっとお部屋に籠ってばかりおられた。体調も悪かったのもありますが、そのせいでお心が塞いでしまわれたのですよ。身体がお元気なのでしたら、やはり外に出て新鮮な空気を吸うのが健康には一番です。今は紅葉が見事なものですよ?」


 躊躇する陰麗華になおも勧めれば、小夏も言った。


 「こそこそする必要はないですよ! せっかくなんですから、洛陽の紅葉でも見て帰りましょうよ!」 

 

 前回、趙夫人の客人として匿われながら、ただ、部屋で怯えているだけだったのを思い出し、陰麗華はそうねと微笑む。――後宮にいるのは今のところ、郭貴人だけのようだし、この広い後宮で、そうそう鉢合わせすることもあるまいと、陰麗華は高を括っていた。

 



 

*1 暴室

後宮内の病を得た女性が収容される施設。その長が暴室丞。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
web拍手 by FC2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ