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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第五章 焉くにか諼草を得て
33/130

忘憂草

焉得諼草、言樹之背

願言思伯、使我心病

  ――『詩経』衛風・伯兮



諼草=萱草かんぞう。ワスレグサ。花は薬用・食用にする。

いずくにか諼草わすれぐさを得て、ここに之を背にえん

おもいてここに伯を思えば、我が心をしてましむ


 どうにかして忘れ草を手に入れて、あなたを待つ家の、裏庭に植えましょう

 ただひたすらにあなたのことを思い続け、わたしの心はすっかり病んでしまった



*************


 陰麗華は結局、新野までは戻らず、育陽の鄧少君のいえに仮の宿りを定めた。二月に皇帝・劉聖公が長安に移ってから、南陽の治安は急速に悪化し、赤眉軍のごろつきが流れ込んで掠奪を繰り返すようになり、新野も安全とは言い難かった。故郷の荒れた様子を陰次伯も見過ごすことはできず、破虜将軍として育陽を守る鄧少君の下で、彼もまた宛周辺の治安維持を担うことにした。


 故に、陰次伯は一人新野に赴き、継母・鄧夫人に事情を説明しようとしたが、鄧夫人は聞く耳を持たず、陰麗華の受け入れを拒んだ。


 「礼をまずに身籠った子供など、生まれなくてよかった。それにしても、劉文叔にまで捨てられるなんて、本当に陰家の面汚しね。帰ってきても家に入れるつもりはないわ」

 「母さん! 文叔は陰麗華を捨てたわけじゃなくて――」

 「同じよ。しかも伯升の死んだ直後に婚礼を挙げたそうじゃないの。それも、文叔の母親の喪中でもあったはずなのに。噂を聞いた時は本当に恥ずかしくて、死にたくなったわ。この後、麗華がどうするつもりかは知らないけれど、わたくしはもう、娘とは思わないわ」


 鄧夫人の態度はかたくなで、陰次伯は陰麗華を新野に置くことは諦め、そのまま育陽の鄧少君のいえに居候させるしかなかった。ただ、三人の弟たちが姉・麗華に同情的で、特に、麗華のすぐ下の弟・陰君陵が新野から育陽まで兄についてきて、新野に残っている陰麗華の衣服なども運び込んだりと、さまざま世話を焼いてくれたのが、陰次伯の暗い気持ちを少しだけ慰めてくれた。

 

 「言いたくはないが、お前の母親も少し異常じゃねぇのか? なんだってそんなに、麗華を目の敵にするんだ」


 新野から疲れ切って戻った陰次伯に、鄧少君が尋ねる。


 「……ああ、少君は知らなかったのか。ちょっとした、昔の行きがかりがあったみたいだよ?」


 陰次伯は嫁入り前から母に仕えていた、家婢の話だと断った上で、少君に語った。


 「母さんは、僕の父さんの後妻に入ったけど、もともとは別の男と婚約していたんだよ」

 「そうなのか、知らなかった……」


 次伯の言葉に、少君が目を瞠る。その頃、鄧少君は生まれたばかりだから、知らなくて当然ではある。


 「ところが、母さんが正式に嫁入りする前に、その男と恋仲になった女がいたらしい。なんと、そっちに子供ができてしまったそうだ」

 「なんだよ、それ……」

 「向こうの男も、子ができた女に情が移ってしまったんだろうね。結局、男はその女と結婚して、嫁入り直前だった母さんは、新しい嫁入り先を探すのが上手くいかなくて、お産で僕の母を亡くした父さんの、後妻に入ったんだ」


 新野の陰家の当主の妻であるから、後妻とはいえ悪い縁ではないが、プライドの高い鄧夫人には屈辱だったのではないか、と陰次伯は言う。


 「結婚後、数年は子ができなくて、最初に産まれたのが女の子の麗華で……翌年に君陵を産んで、母さんはやっと、ホッとしたんだと思う。だから、陰麗華には少しばかり冷たいというか、弟たちの方に思い入れが深いのかもしれない」


 そういう過去もあり、もともと、鄧夫人は教条主義で固いところがある。(だから婚約中に寝取られたりしたのかもしれないが。)我が娘でありながら、婚礼前に男に肌を許した陰麗華が殊更に許せないのだろう、と陰次伯は溜息をつく。――劉聖公との一件などが鄧夫人に知られたら、あの継母はさらに怒り狂うに違いない。そう思えば、陰麗華とその母は引き離しておくしかないだろう。


 母親として、お腹の子を守るために、自らの貞操を犠牲にし、そして子を守り切ることができなかった陰麗華。おそらく誰よりも傷ついている彼女を、しかし、その母なる人は頑なに受け入れようとしない。


 女が貞操を守るのは、何よりも彼女自身を守るためであるはずなのに。

 傷つけられ、踏みにじられた者が、さらにその傷によって貶められていく。


 破壊と暴力とが、美しかった彼らの故郷をも、飲み込もうとしていた。


 劉聖公も赤眉軍も、もとは王莽政権の暴政を覆すために兵を挙げたのではなかったか。その彼らが、暴力と無秩序そのものとなって、弱き者たちから収奪していくこの現実。


 南陽は浅い春を迎え、しかし、かつては当たり前のようにあった、穏やかな日々はいつ戻るか、予測もつかなかった。

 



挿絵(By みてみん)



 育陽に身を落ち着けてすぐ、陰次伯は劉文叔への書簡てがみを託して、左武を河北へと送った。左武は敏い男で、邯鄲かんたんまちまではすぐに辿りつくことができたが、しかし、邯鄲は劉子輿りゅうしよの支配下にあり、また邯鄲より北の情勢は混乱を極めていて、劉文叔がどこにいるのか、その行方を追うことができなかった。ただでさえ慣れない河北。河南の、さらに南方のなまりを持つ左武は、劉聖公政権の間諜だと疑われたりと、危険な目にも遭い、邯鄲から引き返すべきか迷う。


 だがせめて、と左武は太行山脈の東側に数珠のように連なるまちを農民に紛れるように北上し、元氏県にまで辿り着くことができた。元氏県は常山郡の郡治で、常山太守として、新野の鄧偉卿が赴任しているはずである。


 河北一帯はまさに麻の如く乱れていて、各地で武装勢力が割拠していた。新の、王莽によって任命された太守と、劉聖公より任命されて赴任した太守がそれぞれ軍閥を率いて争い、さらに土着の豪族が私兵を集めて砦を築き、その隙間に流民上がりの盗賊集団が闊歩する、絵に描いたような無秩序状態。それぞれの軍閥が自立するか、あるいは劉子輿政権にすり寄って自己の利権と安全を確保するか、離合集散を繰り返して先行きもまったく見えない。そんな中、鄧偉卿は劉聖公の威光など全く及ばない河北で、何とか元氏県一城を維持しているだけ、いっそ立派であった。――ここに、劉文叔は逃げ込んでいるのではないか、と左武は期待したのであるが。


 左武が元氏に到着したのは、更始二年(西暦二十四年)の三月も末、河北にも遅い春が訪れていた。

 衣服も髪もボロボロで転がり込んだ左武だが、その南方の訛りが決め手となって、太守である鄧偉卿とも対面が叶い、陰次伯からの書簡てがみを渡すことができた。


 「遠い、それも危険なところをよくぞ辿りついたものだ」


 鄧偉卿が左武をねぎらい、だが、劉文叔はここには来ていない、と言った。


 「今は鉅鹿のまちを囲んでいる。俺も加わろうとしたが、常山で補給を担当してくれた方が助かると言われて、元氏に戻ったのだ」

 「んだば、元気にしとらっせるっちゃね」


 左武の素朴な訛りに鄧偉卿は懐かしそうに顔を綻ばせたが、次の瞬間、厳しい表情になった。


 「……次伯の書簡てがみに依れば陰麗華は……」

 「んだ。赤子は残念なことになったずらが、お嬢様は無事だっただ。身体の具合はよくはねぇみたいだども」

 「……そうか……」


 鄧偉卿はしばらく逡巡してから、左武に言った。


 「文叔への書簡は俺が預かっておこう。……いつ、渡せるかはわからないが、ここから、お前が鉅鹿に向かうのはやめた方がいい。どこが戦場になっているか、まったく予想もつかないし、土地勘のない者がうろつける状況ではない」

 「だども、返事がねぇとお嬢様はがっかりなさるにちげぇねえだ」

 「……それなんだがな……」


 鄧偉卿は非常に言いづらそうに、劉文叔の現状を語り始めた――。

 

 


 

 


 左武が、鄧偉卿からの書簡てがみを携えて南陽は育陽に戻ってきたのは、五月に入ってからであった。五月と言えば、暦の上では夏の盛り。汗ばむような日もある鄧少君の執務室で、左武の報告を聞いて叔父からの書簡を読んだ鄧少君と陰次伯は、驚愕のあまり声を失う。

 数瞬の沈黙の後、陰次伯が喘ぐように言った。

 

 「……劉文叔が、結婚した? どういうことだ?」


 左武と鄧偉卿からの書簡の内容を総合すれば、昨年十二月に邯鄲で成帝の落胤を名乗る劉子輿が即位し、当時北方のけいにいた劉文叔は、突然、劣勢へと追い込まれ、翌一月から二月にかけて、厳寒の河北一帯を逃げ回る羽目に陥ったという。


 潮目が変わったのは、この三月の頭。


 「鄧偉卿の旦那の話だば、常山郡の近くの真定国の王様の姪っ子だばいう女と結婚して、河北の豪族連中を味方につけてから、一気に挽回したとか。オラが河北にいた間に鉅鹿を落とし、そのまま邯鄲かんたんの城を攻めるっちゅう話だっただ。もしかしたら、今頃は邯鄲も落ちてるかもしらねぇけんど」


 左武の言葉に、陰次伯が鄧少君を見る。少君は机の上に散らばる報告の木簡をバサバサと漁って、河北の情勢に関わるものを選びだすが、首を振った。


 「数日前の報告では、まだ邯鄲は落ちていねぇよ。劉聖公もさすがに援軍を送って、合同で包囲中だってさ。……それから、どうも劉子輿が漢の成帝のご落胤ってのは真っ赤な嘘っぱちで、正体は王郎っていう、ケチな卜者うらないしらしい。こういう話が出回るってことは、邯鄲は遠からず落ちるだろうな」


 陰次伯がさらに尋ねる。


 「……文叔が結婚したってのは?」

 「そんな報告まではこねぇだろう。河北には王国が多かったから、その血筋のスカした家なんかも多いだろうよ。文叔は劉氏と言ったって、舂陵しょうりょう侯ってケチな列侯家の、さらに末端の分家のしかも三男坊だ。普通にしてたら河北の豪族連中には歯牙にもかけられねぇだろうよ。それをひっくり返すために、自慢のご面相と舌先三寸で、初心なご令嬢を口説いて諸侯王家の婿に連なるってのは、あり得ねぇ話じゃねぇと、俺は思う」


 鄧少君のやけくそ交じりの言葉に、陰次伯は荒い息を吐きながら消えそうな声で呟く。


 「だけど!……文叔は確かに、宛で陰麗華と……!」


鄧少君はもう一度、叔父からの書簡を読み直し、肩を竦める。


 「……媒酌も立てて正式に婚礼を挙げた、って書いてある。しかも披露の宴会までして。陰麗華の時より、よっぽどまともな婚礼だよ!」

 「それって重婚じゃないか!」

 「大きな声を出すな、麗華に知られたら……!」


 思わず叫んだ陰次伯を、鄧少君が窘める。


 「どういう経緯いきさつで、真定王の姪っ子のお姫様と知り合ったかは叔父貴も知らねぇようだが、文叔が今、何とか生き残ってるのはこの結婚のおかげだそうだ。裏切ったのは確かだが、文叔を責めるなとさ!」

 「責めるよ! どんな理由があろうとも、重婚は重婚だ! 孔子の道云々以前に、法的にも許されない!」


 鄧少君も凛々しい眉を寄せ、難しい顔で言った。


 「俺もそう思う。でも、文叔の周囲には鄧仲華もいるはずだ。あいつが止めないってことは、やっぱり、他に方法がなかったんじゃねぇか。……叔父貴が言うには、陰麗華とは結婚期間も短いし、離縁させるしかないだろうと――」

 「そんなっ……」


 陰次伯が絶句する。鄧偉卿も、鄧仲華も、陰麗華を昔から知っている彼らが、文叔の新たな結婚を仕方ないと認めたのだ。それほど、抜き差しならない状況があったのだろう。

 でも――。事前に何の相談もなく、事後に一言の説明も、詫びもないままで――?


 「……こちらに何の便りもないまま、勝手に結婚するなんて……せめて、離縁の手紙ぐらい――」

 「すでに書簡も送っていたけれど、行き違いがあったのかもしれねぇ。南陽も最近は荒れているし。邯鄲が落ちれば文叔も落ち着くだろうから、こちらから、もう一度連絡するよりほか、ねぇだろうな」

 

 少君が言い、陰次伯が苦悩に顔を歪め、左武を見た。


 「……お前、もう一度河北に渡れるか? 帰ってきたばっかりで、さすがに――」

 

 左武は何でもないことのように頷いたが、しかし、言った。


 「オラは構わねぇだども、お嬢様に説明しねぇわけには、いがねぇずらよ」

 

 左武の言葉に、陰次伯と鄧少君は顔を見合わせる。

 陰麗華はゆっくりと回復しつつはあるが、しかし、ただでも大きく傷つけられた彼女の心に、追い打ちのような辛い事実をどうやって話すのか――。


 二人は、陰麗華に劉文叔の裏切りを伝えられないまま、いたずらに夏の日は過ぎていく。


 

 


 暦の上では秋になり、日中は暑いものの、朝晩にはやや、涼しい風が忍び寄る、八月。陰次伯と鄧少君の逡巡も気遣いも、すべてがぶち壊しになった。


 劉聖公から宛王に封じられていた劉子琴は聖公の従兄弟であるが、人情には厚いものの将帥としての才に欠ける彼は、大都市・宛を維持することができなくなり、とうとう放棄して育陽に逃げ込んできた。名目上、少君はまだ劉聖公配下の破虜将軍であるから、追い返すわけにもいかず、渋々受け入れたのだが――。


 劉子琴は南陽の、肉親愛に篤く、涙もろくて正義感の強い男――言い換えれば、声のデカイ、無神経な田舎の親父であった。その頃には、劉文叔が邯鄲の偽ご落胤であった王郎を撃破し、河北で着々と地歩を固めつつある、との噂も、南陽まで流れてきていた。劉子琴は親族だけあって、劉文叔が新野の陰麗華と結婚していたことを憶えており、育陽で陰次伯の顔を見て、突然、周囲の状況も顧みず、自身の正義感をぶちまけ始めたのである。


 「貴卿は劉文叔の妻()()()陰麗華の兄であったな! わしも最近耳にしたのだが、本当にひどい話ではないか! 真定王の姪だかしらんが、河北で新たに結婚するなんて、不実にもほどがある!……離縁の書簡はもう、参っていたのか? 全く、貴卿の妹には同情するよ」


 本当にたまたま、手の離せない小夏の代わりに、酒肴を運んできた陰麗華がその話を聞いてしまった。


 さすが、富豪の娘としてきちんと躾けられた陰麗華は人前で取り乱すこともせず、何も聞いていない風に陰次伯の横に酒肴の載ったおぜんを置いて、そっと部屋を出ていった。陰次伯は蒼白な顔でその後ろ姿を見送るしかなく、無神経な劉子琴はなおも大声で話し続ける。


 「して、貴卿の妹はどうされるのかな。もし、再婚するならば、わしもいろいろと伝手があるが――」


 陰麗華はその声に追い立てられるように速足で回廊を通り抜け、途中からは深衣の裾をからげて、走って裏庭の、人のいない木陰へと逃げ込んでいた。


 心臓がどきどきと脈打ち、頭がガンガンした。信じたくない気持ちと、だが、どこかではやり、と思う気持ちとが、胸の内でぐるぐると回る。


 実は以前から、いろいろと不自然だと思っていた。

 育陽に身を落ち着けて半年になろうというのに、文叔からはまったく、音沙汰がない。兄たちは当然、河北へと使いを送っているはずなのに、彼らもまた、何も告げてはくれない。文叔が今どうしているのか、無事でいるかさえ、話の俎上にすら上がることはなかった。――まるで、それに触れるのを、避けているように。


 陰麗華も、兄や鄧少君を問いただすのが恐ろしくて、ただ、渡すあてもない、絮衣わたいればかり縫っていた。


 無事に産めなかった子のことも、いつかは文叔に伝えなければと思いながらも、陰麗華も自ら口にする勇気がなかった。もう、文叔が自分のもとに戻る日は来ないかもしれないと、諦めにも似た気持ちで、しかし想いを断ち切ることもできず、ひたすら絮衣ばかりが溜まっていく。このまま、永遠に待ち続けるしかないのだろうか――。


 そんな毎日に、突如もたらされた衝撃的な事実。

 

 文叔が、河北で新しい妻を娶った。


 劉子琴の言葉を聞いた時、陰麗華は反射的に、陰次伯の顔を見た。兄は驚いてはいなかった。ただ、陰麗華を見て、しまったという風に顔をひきつらせた。


 ――そうだ、兄は知っていたのだ。そして、陰麗華には黙っていた。……間違いなく、それが真実だということだ。


 衝撃は、ある。でも、思ったよりも落ち着いている自分がいて、陰麗華は、裏庭の木陰の、草の上に座って、樹にもたれて葉陰から夏の青空を見上げる。


 蝉の声が響いて、蝉の声しかしなくて、とても煩いのに、とても静かだった。


 河北でも、蝉は鳴くのだろうか。この青い空の遥か向こうで、文叔もまた、蝉の声を聞いているのか。一人で? それとも、誰かと――?


 《僕は生涯、陰麗華一人を妻とすることを誓って、〈親迎〉の儀式だけはしたい》

 《麗華……僕も誓う、生涯、君一人を愛する》


 陰麗華は左手に嵌めた銀の指環ゆびわを右手で触れる。――彼にもらった金釵きんかんざしは、洛陽宮で劉聖公に取り上げられたきり。残ったのはこの銀環一つだけだ。


 《僕に万一のことがあっても、誰のものにもならないと誓って》


 あれはほんの、一年と少し前のこと。

 文叔は昆陽で百倍する敵を退け、陰麗華のもとに戻ってきた。そして陰麗華と夫婦の契りを結び、それから河を渡って――。


 陰麗華が目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、夕暮れの中、黄河を流れ下っていく、小さな竹籠のひつぎ。太陽は西に山の向こうに沈み、空には星が輝いていた。その星よりもさらに遠く、見ることも叶わない河の向こう岸。


 何度も交わされた誓いも、何度も囁かれた愛の言葉も、幼い時から胸に抱いてきた陰麗華の恋も全て、大地を切り裂く黄色い流れの彼方に呑みこまれていく。泣いても喚いても、けして越えることのできない深い深い河に阻まれて、想いも悲しみも、何も伝えることができないまま――。


 閉じた目尻から溢れた涙が、頬を伝い、耳の側を通り過ぎた時、陰麗華の心が軋む。

 

(――わたしが、裏切ったから? 赤ちゃんのために誓いを破って、結局、赤ちゃんも産めなかった。だから――)

 

 最初に約束を違えたのは、わたし。赤子の命さえ、守り切ることはできず、ただ、無意味に汚されただけの、わたし――。


 裏切られたのは、きっとその報い。わたしに、あの人を責める資格なんてない。


 でも、ならば直接、詰って欲しかった。

 裏切りに裏切りで返すのではなく、なぜ、裏切ったのかと責めて欲しかった。

 せめて、ごめんなさいと詫びる機会が欲しかった。どれほどの罰でも受けるつもりだったのに――。


 劉聖公に穿たれた耳のきずが、耳朶ではなく、陰麗華の心を抉ってくる。


 穿たれたのは、陰麗華の心。粉々に砕かれて踏みにじられたのは、約束か、誓いか、それとも――。


 蝉しぐれの中、声もなく泣き続ける陰麗華のすぐ傍らの叢で、橙色の百合のような花が揺れていた。





 

 陰次伯から事情を知らされた小夏が、裏庭にいる陰麗華に声をかけようとしたが、張寧が止めた。


 「あたしらが話かけたら、お嬢さんは無理にでも笑って大丈夫やら言うけん、今は静かに置いておくんが一番っちゃ。時が薬っちゃいうけんね」

 「でも……」


 それでも、しばらくしてから、真っ赤な目をした陰麗華が、厨房の方に戻ってきた。


 「喉が渇いたから、お水をくれる?」

 「は、はい!ただ今……あ、梅漿(ジュース)があるんですよ! これにしませんか!」


 小夏が甕から梅漿を出し、井戸の水で薄めて差し出すと、陰麗華は儚く微笑んで礼を言った。


 その横で、張寧が干した橙色の、花の蕾のようなものを広げているのを見て、首を傾げる。


 「これ……裏庭で咲いている……」

 「この花、食べられるんだ!」


 小夏も横から、笊の上に並べられた橙色の花の蕾を覗き込む。


 「萱草ワスレグサですけん。薬にもするけん、身体にもいいっちゃ。オラたちの田舎では夏になるとよう食ったけんど、新野ではあまり見かけんばってんが、ここの裏庭にはようけ咲いとるけん」

 「食べられるお花なんてあるのねぇ……」 


 『いずくにか諼草わすれぐさを得て、ここに之を背にえん』


 ふと、『詩』の文句を想い出して、陰麗華はくすり、と笑った。


 ――この花のスープをどれだけ飲み干したら、砕かれた心も元に戻るのか。





 陰麗華は縫い溜めた絮衣わたいれを抱えて、劉文叔にこれを届けて欲しいと、兄の陰次伯に頼んだ。陰次伯も、妹に向かい、気まずそうに頭を下げた。


 「……すまなかった、どう、伝えていいのかわからなくて……ちゃんと、僕の口から伝えておくべきだった」


 陰麗華は俯いて小さく笑った。


 「……仕方ないわ。わたしも、ずっとウジウジしていたから……」

 「陰家としては、噂が本当だとしたら、このような宙ぶらりんな状態は許せないのだが……」

 

 陰麗華も溜息をつく。


 「そうね……きちんとしてもらわないと、困るわね……」


 鄧偉卿の書簡てがみによれば、文叔の結婚からすでに半年近くが経過している。今に至るまで、陰家側に何の知らせがないのは、あまりにも不実であった。

 それでも、詰問口調にならないように、注意深く書簡てがみしたため、左武を使いに河北へと送る。


 おそらく今度こそ、文叔からの離縁状がやってくるだろう――。

 




 萱草ワスレグサの花の季節がとうに終わっても、文叔からの返事は来なかった。

 左武は鄧仲華の伝手も頼り、返事を求めたけれど得られなかったと、意気消沈して戻ってきた。

 何かの行き違いがあったのかと、今度は別の、鄧少君の家僮に書簡てがみ絮衣わたいれを託したけれど、結果は同じであった。


 「劉文叔将軍には届いているはずです」


 使いに出した者たちはいずれも口を揃えたが、返事は未だに届いていない。


 これはもう、意図的に陰麗華や陰家を無視しているとしか、思われなかった。


 陰麗華との結婚など、はじめからなかったことにしようと言うのか。高貴な血筋の妻の手前、以前の結婚を隠しているとしたら、離縁を求めることさえ、厄介だと思われているのか。あるいは、貞操も守れず、子すら満足に産めない女のことなど、思い出すのも嫌なのか。


 文叔のことはもう、思い切らねばと思うのに、絮衣を縫うのをやめられなかった陰麗華は、ある日突然、糸が切れたように絮衣を縫う気がしなくなった自分に気づく。


 完成間近の絮衣を見下ろして、陰麗華は思う。


 ――ようやく、あの花のスープの効力が出たのね。




 更始三年(西暦二十五年)、陰麗華は育陽で二度目の春を迎えていた。



劉子琴:劉賜。劉聖公の従兄弟。宛王に封ぜられるが、維持できなかった。





巻之一が終わります。


……ようやくあらすじに追いついた……

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