彼岸と此岸
*現代の位置に引きずられて、孟津の位置を南岸と勘違いしていたので、修正しました(4月16日)
誰謂河広、一葦杭之。
――『詩経』衛風・河広
事前の約束の刻限をとうに過ぎていたが、鄧少君は打ち合わせ通り、洛陽城の西北、上西門の近くで待っていた。
ひっそりと門を出てきた車の、脇に付き添った馬に乗るのが陰次伯だと遠目に気づいて、鄧少君がすぐに馬を寄せてきた。
「心配したぞ! 麗華は馬車の中か?」
「……ああ、すまない、ちょっといろいろあって、連絡もできなかった」
「それはいい。……麗華が、無事なら」
鄧少君はそう言ってから、疲労の色の濃い、陰次伯に尋ねた。
「すごい顔色だな。少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「実は、僕も小夏も昨夜一睡もしていない。だがこの機会を失うと南宮から出られなくなると思って、無理をして出てきた。悪いが、もし荷馬車でもあるなら、僕はそちらで寝かせてくれるか」
「わかった。馬車と護衛はあっちの目立たない街道脇に待たせてある。荷物を積みかえて、すぐに出発しよう」
鄧少君の誘導で馬車は野営地に行き、出立の準備をする。荷馬車から降りてきた男女を見て、陰次伯は少しだけホッとした。
「左武、張寧、ご苦労だったな。子供たちは?」
「子供は兵士さんたちと朝飯ずら」
「お嬢様は?……ご挨拶できそうだか?」
夫婦がこもごも言うのに、陰次伯が頷く。陰次伯が馬車を指さすと、張寧が走り寄って声をかけた。
「……お嬢様、起きておいでやすか?」
返事の代わりに小夏が垂れ幕を上げた。
「寧、元気だった?」
「へえ、おらたちはお蔭様で。……お嬢様は?」
馬車に頭を突っ込んで何か話していた張寧が、陰次伯と鄧少君の方にやってきた。
「お嬢様が、河水を観たいと仰っているだ」
「河水を?」
鄧少君と陰次伯が顔を見合わせる。洛陽の城のすぐ北側に横たわる邙山を越えれば、黄河を渡る渡し場があって、黄色い大河が中原を横切って流れていく。
「せめて、赤ちゃんを河の向こうの文叔さまに見せたいと――」
張寧の言葉に、鄧少君が眉を寄せる。
「赤ん坊……生まれたのか?」
だが陰次伯が首を振った。
「ダメだった。……早すぎて、助からなかった。遺骸は、南陽で埋葬するつもりでいるけれど、母さんがなんと言うか……」
鄧少君も返す言葉が見つからず、唇をかみしめる。――婚礼を挙げる前に孕んだ子を許さず、陰麗華を追い出した母の鄧夫人ならば、その子の遺骸を陰家の墓に入れるのを拒否するくらい、やりかねなかった。
「……わかった。たいした寄り道じゃない。むしろ、追っ手をまけて、ちょうどいいかもしれない。……渡し場は兵もいるだろうが、その近くであれば、寄ってやれる」
鄧少君が決断を下し、一行は北へ――黄河へと向かって出発した。
邙山は黄河の南岸に東西に連なる山というよりは丘陵地帯である。この小高い部分の存在が、度重なる黄河の氾濫から南の平原地帯を守り、はるか昔から、洛陽を中心とする古代文明を育んできたのだ。
二月の寒い時期、黄河からの冷たい風に逆らって丘を登り、邙山でも最も高い翠雲峰に上れば、眼下には濃い緑の森が広がり、その向こうに黄河の、黄色く濁った雄大な流れが見えた。
「河水だ――本当に、黄色く濁ってやがる」
鄧少君が何の気なしに呟くと、横の馬車が停まって、中で動く気配がした。
「外、観るか?……寒いぞ?」
少君が声をかけると、垂れ幕がそっと開かれて、陰麗華の白い顔がのぞいた。数か月ぶりに見る恋しい人は、思わず息を飲むほど痩せて、やつれていた。結わずに下ろしたままの黒髪が、河からの風に乱れ、流される。黒髪の隙間からチラリと見えた白い耳には無残にも孔が開いていて、鄧少君ははっとした。
――身体髪膚、これを父母より受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。
『孝経』のはじめにある文句は、学問嫌いの鄧少君でさえ憶えているほどの有名な言葉。鄧家も陰家も、孝の教えの通り、自らその身を損なうことは礼に悖り、孝の精神に背くと叩き込まれている。
陰麗華が、自ら、耳朶に孔を穿つはずはないのだ。だとすれば――。
「……あの向こうが、河北?」
細い声で尋ねられて、少君が答える。
「そうだ」
「あんなに……大きな河なのね……船が……あんなに小さい」
黄土色の濁流を、船が一艘、渡っていくのが見えた。向こう岸ははるかに遠い。
「……文叔さまは、河北でどうしていらっしゃるかしら……」
あんな奴のことなんか、もう忘れちまえよ! そう、喉元まで出かかるのを必死に堪え、少君は言った。
「……邯鄲の城で、漢の皇帝の落胤が即位したとか聞いた。その後、あいつから便りはあんのか?」
陰麗華は首を振る。
「……きっと、許してはくださらないわ。わたしが……」
言いかけた陰麗華を、車の中から小夏が遮る。
「お嬢様は何も悪くありません! もとはと言えば、あんな信用ならない男にお嬢様を託した文叔さまだって責任はあるんです!……さ、冷えてきましたから、中に入って。黄河の近くまで行くんでしょう?」
小夏が陰麗華を中に引っ張り込み、垂れ幕から顔を出して少君に言った。
「もう、行きましょう。山の上は風が強くって……」
「ああ、わかった……」
鄧少君は周囲に合図を送り、今度はゆっくりと、なだらかな丘を河岸へ向かって下り始める。
実のところ、陰麗華の身に何が起きたのか、鄧少君もはっきりとは聞いていなかった。ただ、陰次伯が言うには、陰麗華は南陽に戻るはずだったのに、李季文の裏切りで南宮に囚われてしまったのだと。
李季文は李次元の従弟で、劉文叔とは挙兵以来、行動を共にしていた。行き掛かり上、鄧少君も一緒に昆陽に包囲される羽目になり、チャラチャラした男だという印象しかない。ただ、あの昆陽の百万の包囲網を突破した十三騎の一人ではあり、共に死線を潜り抜けた仲間とは言えた。あの時、劉文叔と李季文の息はピッタリ合っていて、劉文叔の絶対に勝算のある賭けしかしなさそうな安定感と、李季文の妙に人を食ったような自信満々な態度があったからこそ、わずか十三騎で百万の包囲網を突破するという、非常識かつ無謀な作戦を敢行できたのだと、鄧少君も思う。
だからはじめは、むしろ劉文叔が自ら、陰麗華を劉聖公に差し出したのではないかと疑った。鄧少君から見れば、軽佻浮薄なところがある、という点では、文叔も李季文も同じ人種だと思っていたからだ。
だが現在、劉文叔は河北でかなりの苦境に陥っているらしい。女を貢いでさらに河北に島流しでは、平仄が合わない。劉文叔は河北に追放されるに及び、せめて妻を安全な場所に送り届けて欲しいと信じて頼った戦友に裏切られ、最愛の妻までも奪われたのだ、と考えた方が筋が通っている。
――ざまあみろ。
腹黒男は、さらなる腹黒男によって、辛酸を嘗めるのさ。今まで散々、いろいろやってきたんだろうし。
昆陽の戦いの時に、劉文叔が垣間見せた冷酷さと、計算高さを思い出しながら鄧少君は思う。たしかに、あいつの知略(という名のズル賢さ)と、大胆な決断力(という名の破れかぶれさ)がなければ、百倍の軍勢を壊滅に追い込むなんてことは、できなかったに違いない。
それでも、キレイで穏やかそうな外見の裏側に、背筋が凍るような非情さを隠し持ったあの男は、周囲が言うほど清廉潔白なわけはない。少なくとも、鄧少君は絶対に信じていない。――アイツは何だってやるさ。陰麗華を手に入れる時に、俺を踏み台にしたみたいにな。
まだ何も知らない無垢な少女を囲い込み、自分を愛するようにゆっくりと刷り込んで、彼女の目の前で、わざと俺にぶっ飛ばされて最後の仕上げをした、あのやり口。家族や親類を巻き込むことを承知の上で、許嫁を取り戻すために叛乱まで起こし、いつの間にか彼女の純潔まで奪って孕ませて自分のものした、用意周到で陰険な男。
でも、そうまでして手に入れた女を、あっさり奪われた。その肝心な女が鄧少君の愛する陰麗華でさえなければ、盛大に快哉を叫んだに違いないのに。
何もかも悪いのはあの、劉文叔のクソ野郎なのに。陰麗華が見舞われたすべての不幸は、あの男のせいなのに。あいつに目をつけられ、あいつと婚約したせいで、前隊大夫には妾にされそうになり、婚礼前に妊娠して母親に勘当されて。そのうえ、劉聖公なんてケチな野郎にまで――。
陰次伯も李次元も、劉聖公の後宮に囚われた陰麗華に何が起きたのか、はっきりとは口にしない。その口にしないことが、最悪の事実を暗示する。
脳筋の鄧少君だって、叔父の鄧偉卿とともに叛乱軍の中にあって、劉聖公の人となりを間近に見たから、あいつがとんでもない下衆野郎だって知っている。いつだって、新市兵や平林兵にくっついてきた、遊び女たちを周囲に侍らせ、安っぽい女ものの香の匂いを漂わせていた。女と見れば見境いなく自身の軍営に連れ込み、人妻も、そして妊婦だってお構いなしで、もの堅い朱仲先なんかは、露骨に眉を顰めていた。劉氏の長老の一人も、苦言を呈したオッサンがいたはずだ。それくらい、ヤツはめちゃくちゃで、あんな奴を皇帝にすんのかよと、鄧少君は叔父の鄧偉卿に詰め寄ったくらいだ。
あの節操無しが、噂に名高い美女である陰麗華の姿を見て、我慢できるはずはない。皇帝になったんだから、女を好き放題抱いて何が悪いくらいに思っていたに違いない、超超超のつくクズ男。しかも妙な知恵だけは回って、目の上のたんこぶだった劉伯升もアッサリ始末してしまった。邪魔な劉文叔を河北に追いやって、得意の絶頂にあるあの下衆野郎が、陰麗華に食指を伸ばさないわけない。
何しろ陰麗華と言えば、劉文叔が恋い焦がれ、前隊大夫の甄阜が権力をかさに奪おうとした、南陽一の美女。さらに実家は南陽でも最大の大富豪陰家だ。富と美女が二つながら手に入るとわかっていて、あの劉聖公が手を拱くはずがなかった。
嫉妬と悔しさで、鄧少君の腸は捩じれて引きちぎられそうだ。
箱入りの令嬢育ちの陰麗華が、劉聖公の魔の手をすり抜けられるなんて、到底思えない。大人しく従順で、素直でか弱い陰麗華。幼い頃から泣き虫で、弟たちのために我慢しなければと、常に控えめで、自分のことは、いつも後回しだった陰麗華。赤子や、家族を盾に脅されて、唯々諾々と身体を差し出したに違いない。逆らうなんて、考えもしなかっただろう。
――あんな、耳に孔まで穿たれて。痛かっただろうに。悔しかっただろうに。それなのに。
そうまでして守ろうとした赤子は、この世に産声を上げることさえなかったなんて。
鄧少君はぐっと、奥歯を噛みしめ、爪が掌を突き破って、血が滲んでも不思議はないくらい、拳を固く握りしめた。
許せねぇ――。
何が許せねぇって、一番傷ついているのは陰麗華本人なのに、自分で自分を責めているところだ。
麗華は何も悪くないのに――。
邙山を越えて黄河の畔に及んで、鄧少君は考える。
――今夜は、この辺りで宿を取るか。少し行けば小平津の渡し場があって、宿泊できる施設もたくさんある。少君の率いる兵は現在、三十騎ばかり。これくらいなら、分散すれば十分に泊まれる。
回り道にはなったが、まさか黄河回りで向かうとは考えないだろうから、かえって奴らを混乱させる効果があったと思いたい。何より、陰麗華が望んだことなのだから――。
ちょうど、夕暮れの光で黄河は赤く染まって、息を飲むほど美しかった。
鄧少君が黄河の畔に馬を立て、黄昏の光景に見惚れていると、毛皮の縁飾りのついた臙脂色の斗篷を羽織り、竹の函を大事そうに抱えた陰麗華が、小夏と陰次伯に支えられるように、ゆっくりとやってくるところだった。
「寒くないか? 無理するなよ?」
鄧少君の言葉に、ちょっとだけ微笑んで、だが陰麗華が大河の向こうに目をやった。
「もう少し河に近づきたいの」
「何をするんだ。落ちたら命はないぞ?」
「川岸まで行きたいの。――これを、河に流すの」
「河に?」
鄧少君がぎょっとして陰次伯を見れば、次伯が目を伏せた。
「母さんが……この子を陰家の墓に入れてくれるとは思えない。ならば、河に流し、天に帰した方がいいと思うんだ」
陰麗華は事情がわかっているのかどうか、結わずに下ろしたままの黒髪が風になぶられ、さながら地上に迷い込んだ天女のようだった。目を離せば天に上ってしまいそうな儚さで、鄧少君は胸がズキリと痛んだ。
川岸に降りると道はなくなり、ごつごつと小石が転がって歩きにくい。鄧少君は函を持とうと手を出したが、陰麗華は拒否して、函をさも大事そうに両腕で抱え込んだ。仕方なく、鄧少君は陰麗華の細い肩に手を置くようにして、足元の危うい彼女を川岸まで導く。小夏と陰次伯も、悪路に悪戦苦闘しながらも必死についてきた。
川岸に立てば、黄河の対岸はあまりに遠く、見えない。日はすでに西の、秦嶺山脈の険しい山並みに沈み、東の空からゆっくりと青い夜が押し寄せていた。月はまだ痩せていて、上空には白い、宵の明星が輝く。
ほんのかすかに、西からの残照が残る河に、陰麗華はそっと、竹で編んだ函を浮かべた。ゆっくりと、静かに流れ下り始める函が、滔々たる大河の流れに乗って、岸辺を離れて遠ざかっていく。
その様子を、じっと無言で見つめていた陰麗華の頬を、幾筋もの涙が流れ落ちる。
鄧少君はその姿に、どんな言葉を掛けていいかわからない。
心のどこかで、文叔との子供なんて、生まれて来なければいいいと思っていた。陰麗華を汚した文叔が憎くて、陰麗華を手に入れた文叔が妬ましくて、幸せそうに腹を撫でる陰麗華を見るのが辛くて、早々に育陽に引っ込んで不貞腐れていた。――もし、自分も洛陽に行って、間近で陰麗華を守っていたら、彼女はこんな風に傷つけられることもなく、子も無事に生まれていたのかもしれないのに。
俺が――文叔に対するチンケな嫉妬心で、陰麗華の側を離れたから、文叔が李季文なんて軽薄な男に陰麗華を託す隙を作り、劉聖公の手に堕ちることになった。俺が――意地でも陰麗華の側についていたら。
いや、文叔だって。
あんなに愛しているって言うなら、どうして河北まで連れて行かなかった。河北への派兵だって断って、南陽に戻ったってよかった。
どうして、どうしてこんなことに――。
流れゆく小さな、竹で編まれた棺を見送りながら、鄧少君が取り戻せない後悔で身を焼いていたその時。
ゆらりと、陰麗華の身体が傾ぐ。
それを抱き留めたのはほとんど野性の本能だった。
河に落ちようとする陰麗華の、細く折れそうな身体を間一髪抱き留めて、鄧少君が叫ぶ。
「何してる!」
「麗華! 危ない、落ちるぞ!」
「お嬢様!」
陰次伯も小夏も気づいて、慌てて陰麗華の斗篷を引っ張る。
「行かせて……向こうに行きたいの。文叔さまのところに行きたいの……お願い……お会いして、お詫びしたいの、ごめんなさい、約束破ってごめんなさいって……」
「麗華! 麗華、無理だ、この寒空に落ちたら死ぬぞ?」
細い腕を伸ばし、黄河へと身を投げようと身を捩る陰麗華の身体を、鄧少君の大きな体が背後から羽交い締めにし、小夏や陰次伯もまた、必死で陰麗華を宥める。
「お嬢様、いけません! 船も無しにどうやって河を渡るんですか! お嬢様!」
「麗華、落ち着け! 麗華!」
「だって、行きたいの、行かせて……謝らないと、ごめんなさい、ごめんなさい……約束、守れなかった、あなただけだって……でも、赤ちゃん守りたかったの! ちゃんと産んであげたかったの! なのに……ごめんなさい、文叔さま、ごめんなさい……」
「麗華っ!」
鄧少君が逞しい腕で強引に川岸に引きずり倒せば、陰麗華は露の降りた叢に突っ伏すようにして、身を捩って泣き伏した。女の、魂を引きちぎるような慟哭が響く中、藍色の夜に包まれた大河を、小さな棺はひっそりと流れ下っていく。
天上には星々が煌めいて流れゆく大河を彩るけれど、その流れの向こう岸は見ることも叶わぬほど、遠い。
河の向こうの、遠く離れた恋人に詫びたいと泣く陰麗華と、彼女を腕に抱きながら、全く心の通わない鄧少君と。
初めて触れた細く折れそうな身体。すぐそこにいるのに、陰麗華の瞳は、けして鄧少君を見ることがない。ただ、大河の向こう岸の劉文叔に向かって、泣いて詫び続ける陰麗華を、鄧少君は唇を噛んで見下ろしていた。身を捩るたびに黒い髪が流れ、僅かな星灯りに煌く。
「麗華、泣くな……文叔はそんなことでお前を責めたりしねぇよ!」
鄧少君が陰麗華に語りかけるけれど、陰麗華はただ、首を振って泣き続けた。陰麗華の悲痛な慟哭だけが、夜の川岸にずっと、こだましていた。
誰か河は広しと謂うや
一葦にて之を杭らん
誰が黄河は広いなどと言ったのか
私のこの思いさえあれば、一本の葦を浮かべて渡り切ってしまえるのに
(それほど、私のあの人への想いは強いのに――)




