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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第五章 焉くにか諼草を得て
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脱出

 洛陽の自邸で、陰次伯は自室に左武を呼び出す。


 「お前、黄河を渡ったことはあるか?」

 「そういうデカイ河があるっちゅう話は、さまから聞いたことがあるけんども、とてもとても――」


 左武が顔の前で手を振る。無理もない。南郡の新市出身の農民にとって、洛陽まで出てきたことが、まず奇跡みたいなものだ。


 「……だが、どうしても劉文叔のもとに書簡てがみを届けてもらわないと……」

 「大きな河っちゅうことは、泳いで渡るなんてのは――」

 「確実に死ぬからやめろ」


 陰次伯も見たことはないが、およそ有史以来、澄んだことがないという濁流。陰次伯は少し考えて、二通の書簡を託した。


 一通は育陽を守っている、鄧少君に宛てたもの。もう一通は劉文叔あてのものだが、それとは別に、新野の鄧仲華に口頭での伝言を託す。


 「〈陰麗華が後宮に入れられた。そのことを、文叔に伝えたい。だが、僕には差し当って、秘密の書簡を河北に送る手段がない。仲華の、知恵を借りたい〉。……きっと、長い旅になる。気を付けて行けよ?」


 陰次伯が左武に言えば、左武もこくんと頷く。


 「わかってるだ。あるじを持つってのは、こういうことだなや。……んだば、女房カカア子供ガキのことだけ、おねげぇするだ」

 「ああ、もちろんだ」


 夜は閭門もまちの門も閉じるが、左武はそれを乗り越える手段をすでに持っていた。十分な路銀と身を守る剣を手に、左武は夜の闇の中へと消えていった。






 陰次伯の手紙を受け取った鄧少君の荒れ様は凄まじかった。すぐにも洛陽に突進しようとするのを、あらかじめ言い含められていた左武が留める。


 「今、旦那が出てったところで、お嬢様をお救いすることはできね。それより、いつでも洛陽に出てこられるよう、準備をおねげぇするだ」

 「そんな暢気な! こうしている間に陰麗華がっ!」


 苦悩に頭を掻き毟り、机をがんがん拳で打ち付けて暴れる鄧少君を、だが左武は冷めた調子で窘める。


 「焦ってもどうにもなんねぇだよ。とにかく、お嬢様は若様が必ず後宮から救い出すべ。でもすぐに追っ手に掴まったら、それこそシャレになんねぇべ。旦那の仕事はお嬢様を安全に、南陽までお連れすることだべ」

 「本当にうまく、救い出すアテがあるんだろうな?」

 「オラは無学だで、そったら難しいことはわがんねぇだども、何しろ若様は長安の太学さ出てるけん、思いもよらねぇすんごい手を考えつくにちげぇねぇだ」

 「……それ、期待していいいのかよ……」


 左武はこの後、新野に回らなければならないからと、以後の連絡は鄧少君の配下の者を使うように頼んで、育陽の少君のいえを辞した。






 左武が陰次伯の元に戻ったのは、更始元年の暮れも押し迫ってからだった。左武は新野の鄧仲華に陰次伯の伝言を伝えると、仲華は自ら家僮の捷と左武だけを伴い、すぐに黄河のわたしばへと向かった。わたしばで馬車を処分し、船で黄河を渡って後は徒歩で劉文叔らの足取りを追い、鄴のまちで文叔に追いついた。文叔は左武から陰次伯の書簡を受け取り、一読して顔色を変え、すぐに洛陽に戻ろうとしたという。


 だが、鄧仲華がそれを止めた。


 『ダメだよ。戻ったら奴らの思うつぼだ。僕はそれを止めるために、自分でやってきたんだ』


 左武の報告を受けた陰次伯は愕然とする。――劉文叔は陰麗華のためなら、全てを棄てても洛陽に戻ってくると、次伯は信じていたからだ。


 「どうして! 文叔は陰麗華を見殺しにするのか?!」


 思わず叫んだ次伯に、左武も気まずそうに言う。


 「仲華の旦那が言うには、今、文叔の旦那が戻れば、間違いなく殺されるけん、麗華お嬢様を本当に助けたかったら、もっと力をつけてから戻るしかないっちゃ。下手をすっと陰家も道連れに、聖公への叛逆を言い立てられちまうって……んだば、劉文叔の旦那は戻るのを諦めたずら」

 「そんな……」


 次伯が両手を握りしめる。


 「これが、文叔の旦那から預かってきた書簡てがみだなや」


 邯鄲かんたんの街で手渡された返信には、「必ず戻るから、元気な子を産んでくれ」などと、あたりさわりのないことしか書かれていなかった。客観的に見れば、鄧仲華の言うことはもっともだし、劉文叔の決断も正しいのかもしれない。でも、当事者の陰次伯や陰麗華にしてみれば、この書簡てがみはむしろ絶望そのものだった。次伯はギリギリと奥歯を噛みしめ、怒りを堪える。


 ――こんな話を、どうして陰麗華に伝えることができよう。






 左武が洛陽に帰りついたちょうど同じ頃、邯鄲かんたんまちで漢の成帝の落胤、劉子輿りゅうしよを名乗る男が蜂起し、一気に河北で勢力を伸ばした。洛陽から更始帝の行大司馬事として派遣されている劉文叔は、邯鄲政権によってその首に賞金を懸けられ、獲物のように狩られる立場になった。


 河北の状況は流動的であった。長安の王莽を屠ったとはいえ、所詮、更始帝――劉聖公――の政権は、南陽豪族の叛乱軍の成れの果てに過ぎない。劉氏とはいえ傍系も傍系の劉聖公に、漢の正統を明け渡すことは、河北の諸劉氏の自尊心が許さなかったのだ。より由緒正しい劉氏の皇帝を旗頭に戴き、より正統なる政権を樹立する。劉氏輿の挙兵はその要求に合致し、狂熱のように河北一帯を支配下に収めていった。


 もし、邯鄲で兵を挙げた劉子輿りゅうしよが、本当に成帝の落胤であるとすれば、まさしく漢の聖阼を受け継ぐべき、正統政権ということになる。漢の成帝が跡継ぎを残さずに崩御してより、三十余年。成帝の皇后・趙飛燕と寵姫・趙昭儀姉妹が、後宮内で生まれた皇子たちを殺害していた事実は、すでに白日の下に曝されていた。密かに後宮外で育てられた成帝の実子というのは、全くあり得ない話でもない。劉子輿が真実、正統なる漢朝の継承者であるとすれば、洛陽の更始帝は――?


 もっとも、黄河の南側である河南は、劉子輿の蜂起にもさほど動揺しなかった。真実、劉子輿が成帝の皇子であったとしても、真っ先に旗揚げして劉氏の復興を成し遂げ、長安を落として王莽を誅したその功績は、南陽は舂陵しょうりょう侯家に連なる劉氏に帰せられるべきだ。王莽が死んでようやく、ノコノコと名乗りを挙げた「正統なご落胤」に、今更、帝位を譲る義理はない――。洛陽政権には洛陽政権の正統性があるからだ。


 だが、河北で劉子輿挙兵の狂熱をまともに喰らった劉文叔は、正月から二月の時期、厳寒の河北を彷徨い逃げ回る羽目に陥ったのだ。


 陰麗華が河北の情勢を知ったのは、他ならぬ皇帝――劉聖公からだった。和歓殿で趙夫人とともに縫物をしているところに、本当に珍しく劉聖公がふらりと現れたのだ。滅多にない夫の訪れに、趙夫人は胡乱気に眉を顰め、陰麗華を咄嗟に下がらせようとしたが、劉聖公はそれを許さなかった。縫いかけの絮衣を抱きしめるようにして、恐怖で身を縮こませる陰麗華に向かい、劉聖公は思わせぶりに笑った。――少しだけ劉文叔にも似た、甘い、蕩けるような笑み。


 「河北は、大変なことになったぜ」

 

 劉聖公の言葉に、陰麗華が目を瞠る。


 「成帝のご落胤が邯鄲で即位して、河北のほとんどの豪族が帰順しちまった。本物かどうか怪しいってのに、河北のやつら、〈正統の皇子〉、という触れ込みにコロリと騙されちまって」


 ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべてながら言う劉聖公を趙夫人が窘める。


 「では、あなたが送った劉文叔将軍は、危険なのではなくて?」

 「北のけい(現在の北京)まで行った時に、追捕ついぶがかかったらしい。現在はどこにいるかわからん」


 陰麗華が息を飲むと、劉聖公が陰麗華を見て笑った。


 「安心しろ、文叔に何かあっても、お前を放り出したりはせん。俺がちゃーんともらってやるから」

 「あなた!」


 趙夫人が睨みつければ、劉聖公がケタケタと笑う。


 「そう、妬くな。俺は糟糠の妻を蔑ろにしたりはせん」

 「そういうことではありません!」


 だが陰麗華は文叔の危機に絶望的な気持ちになり、耐えられなくなってその場で倒れてしまう。

 ――その日を境に、陰麗華の体調は悪化の一途を辿った。もともと細かった食欲はさらに細り、ほとんど食事も受け付けなくなる。臨月近くになっても胎児の成長も芳しくなく、動きも鈍い。


 「申し上げにくいのですが……よろしくありません」


 洛陽南宮内の暴室(*1)の若い宦官、陸宣が趙夫人に言った。幼い頃に官に没入されて宮刑に処せられた彼は、女性特有の病や出産に詳しかった。


 「このままだと早産になるかもしれません」

 「危険なの?」

 

 趙夫人が柳眉を聳やかせば、陸宣も沈痛に頷く。


 「順調な生まれ月はおそらくは二月の末ですが、そこまでもつとは思えません。赤子の生育状況がよくないので、早く生まれてしまうと赤子はもちろん、母体も危険です」

 「……なんとかならないの?」

 「心理的な要因で、十分な栄養を摂ることができていません。体力も落ちていますし……万一の覚悟はしていただかねばならないかと……」

 「なんてこと……」


 趙夫人が思わず天を仰ぐ。彼女も四児の母であるから、出産の苦しみと危険は身をもって知っている。


 「とにかく、できる限りのことはしてあげて。万一、彼女の命が失われるようなことがあれば、聖公は劉文叔にも、そして新野の陰家にも恨まれることになるわ」


 ――わざと彼女の腹の子を殺したなどと、噂を立てられるかもしれない。劉聖公の正妻として、それは避けなければならなかった。





 一方、陰麗華の救出に動いていた陰次伯も、焦っていた。

 もし、洛陽宮から連れ出すのであれば、陰麗華が身二つになる前の方がいい。


 期限は二月の半ば。それより遅れれば、出産間際の陰麗華を動かすのは危険すぎる。

 陰次伯は、李次元とも相談の上、鄧少君を育陽から密かに洛陽へと呼び寄せた。すぐに育陽から飛んできた鄧少君が勢い込んで尋ねる。


 「で! どうやって助け出すんだよ!」

 「……えーと、まず、何とか陰麗華を後宮の外に出して、それから南陽に……」

 「いやだから、どうやって後宮から出すんだよ!」


 陰次伯は、鄧少君に襟首を掴まれてぶんぶん頭を振られて、舌を噛みそうになりながら言った。


 「それは……えーと……まだ考えてない……」

 「マジか!」


 鄧少君がばっと両手を離したせいで、陰次伯はどさり、と磚敷きの床の上に落とされてしまう。いてて……と尻をさすりながら立ち上がった陰次伯に、李次元が言う。


 「趙夫人の協力は得られそうにないのですか?」

 「さりげなく聞いてみたけれど、趙夫人は後宮から出すことに反対で……。陰麗華の体調があまりよくないんだ。早産の危険があるって……」


 李次元が端麗な眉を顰めた。


 「まずいですね。生まれてしまったら、とてもではないですが、逃避行は無理ですよ」

 「何とかいい手段を考え付かねえのかよ!」

 「そんなこと言われても……」


 もはや危険を承知で後宮に忍び込み、陰麗華を攫う以外にないのかと考えていた、更始二年正月、劉聖公は長安からの宦官たちの招請に従い、西のかた長安に遷都を決定した。

 

 もちろん、百官も後宮も、すべてひっくるめての引っ越しとなるので、洛陽宮はその準備で大わらわになった。


 「まさか、陰麗華も長安に連れていくつもりなのか?」


 鄧少君が不安に駆られて聞けば、李次元がこともなげに頷く。


 「当然でしょう。劉聖公は文叔が河北で死ねば、これ幸いに陰麗華を娶るつもりでいますよ。言っちゃなんですが、そのまま皇后に据える気かもしれない」

 「なんだとぉ!」

 「でも、考えようによっては、これは好機です。後宮の混乱に乗じて、陰麗華を外に出せる」


 李次元は聖公に従って長安に向かうが、陰次伯は行大将軍事として、洛陽に残留することになった。それでも、妹の陰麗華の出発に従うことは認められた。


 「洛陽を出て長安に向かう女たちの車はおびただしい数になるでしょう。その中に紛れて宮門を出、何か、理由をつけて遅れると誤魔化して身を隠すのです。聖公が不在に気づくのを、長安到着後まで誤魔化せれば……」


 李次元の提案が最も安全であるように思われたので、陰次伯も鄧少君もその案を了承する。当日、劉聖公や後宮の夫人たちの車は、南宮の北側玄武門を出て西へ向かい、広陽門から洛陽の城を出る予定であった。



挿絵(By みてみん)




 「門の混雑を避けるため、一部の車は雍門や上西門へと回されるはずです。陰家の車は上西門を割り当てますから、そこで陰麗華を降ろして車を乗り換え、いったん北に向かえば追手をまけると思います」

 

 李次元が地面に地図を描いて説明すれば、鄧少君も了解した。


 「じゃあ、俺は目立たない車を準備して、上西門のあたりで待つ。邙山の南を回れば、遠回りになるけれど、やつらを誤魔化せるだろ」

 「私は劉聖公の側にいて、陰麗華に気が向かないように気をつけていますよ。……たぶん、韓夫人あたりがしなだれかかって、そんな隙は無いと思いますが」


 李次元も請け合い、三人は細かい打ち合わせをして、長安へ出発する日を待った。だが当日、予想外のことがいくつも起きて、三人はそれぞれの判断で動かざるを得なくなるのだが――。






 更始二年(西暦二十四年)二月。皇帝・劉聖公は漢の中黄門ら宦官の招請に応じ、長安から送られた天子の輿、天子の衣服を身に着け、重々しく長安へと出立した。長安を陥落させた将軍・李松が奉引する馬車が南宮の玄武門を出た時。四頭立ての馬車の、馬が突如暴れ始め、左に曲がろうとする李松の手を振りほどき、暴走して直進し、正面に聳える北宮の朱雀門の鉄の門扉に激突した。李松はとっさに身を引いて怪我はなかったが、四頭のうちの三馬は頸の骨を折ってほぼ即死、一頭も重傷を負って使いものにならなくなる。朱雀門を守っていた衛士数人が引きずられ、巻き込まれて一人が死亡、馭者は重傷で、劉聖公には幸い怪我はなかったが、血の臭いの充満する、なんとも不吉な出立となった。


 慌てて馬と馬車を交換し、南宮の西側の白虎門からと出発が変更になり、しばらく南宮の混乱は続く。高官として聖公の近くに控えていた李次元は、馬車の手配、南宮内の移動ルートの変更・調整等に忙殺された。


 一方の陰次伯は玄武門付近の混乱を、陰麗華の待機する和歓殿に伝えに行って仰天した。


 ――もともと体調のよくなかった陰麗華は、この引っ越し騒ぎに耐えきれず、昨夜のうちに早産を引き起こしたのだ。

 

 「赤ちゃんはダメでした……お嬢様は、とにかく陸宣さんが今、一生懸命見てくれていて……何とか、命は助けられそうだって……」


 真っ赤な目をした小夏に告げられて、陰次伯は言葉もない。

 聖公の正妻である趙夫人は、出立直前まで陰麗華の側について励ましてくれていたそうだが、立場上、夫の次の馬車に乗らなければならず、振り返り振り返り、和歓殿を出て行ったという。趙夫人の子供たちや侍女たちもすでに出立し、和歓殿は人もまばらであった。


 「……こ、こんな時に?」


 陰次伯が拳を口元にあて、何とか思考を巡らせて考える。

 陰麗華を後宮から出す好機チャンスではある。だが、そんな状態の陰麗華を動かしても大丈夫なのか?

 

 陸宣に聞きたかったが、回廊から覗いただけでも、陰麗華の容態が緊迫しているのは明らかだった。陰次伯は諦めて和歓殿を出、皇帝近侍の者が控えているはずの、前朝へと向かい、李次元を探した。



 


 

 「死産?……こんな時に?」


 李次元が切れ長の目を見開く。陰次伯も頷いて、小声で言った。


 「小夏の話では、陰麗華の命だけは助けられそうだと。だから、このまま当初の予定のとおり、北回りで麗華は南陽に連れ帰ります。行列に加わらないのはお産のせいだとして、誤魔化して欲しい」

 「……それは……わかりました。でも、大丈夫なのですか」


 陰次伯が難しい顔で俯く。動かしていいのかどうか、危険を冒して、陰麗華の身体が損なわれては、元も子もない。


 「この機会を逸すれば、長安に連れて行かれてしまいます。そうなったら、二度と劉聖公の後宮から妹を助け出せなくなる。鄧少君もいるし、旅の安全自体は確保できるはずです」

 「それしかないでしょうね……」


 李次元も一瞬、目を伏せ、それから陰次伯を見て言った。


 「ならば、ここでお別れになるでしょう。うまく、南陽に帰りつくことを祈っていますよ」

 「ありがとう。あなたも――」


 ちょうど、劉聖公の側近官たちの出立の時間がやってきたらしく、宦官の一人が李次元を呼びに来たのを潮に、二人は別れた。

 



 

 


 暴室の若い宦官・陸宣は、産声をあげることのなかった嬰児の小さな身体を丁寧に清め、事前に用意していた白い麻の産着を着せ、布で綺麗に巻いて竹で編んだ蓋つきの函に入れた。


 「赤ちゃん……」


 すでに事情は知らされた陰麗華は、その函を胸の上に抱いて、ただポロポロと涙を流していた。陰次伯が臥牀に近づくと、陸宣が気づいて場所を開けた。


 「お兄さま……」

 「よく頑張ったね……麗華は精一杯やったよ……」

 「やっぱり、ダメだった……わたしが、約束を破ったから……」

 「約束?」

 「文叔さま以外には触れさせないって……でも、逆らったら赤ちゃんを殺すって言われて……赤ちゃんだけは助けたかったの。でも……バチが当たったのね……」

 「違う! 麗華のせいじゃないから!」


 陰次伯が必死に言うけれど、麗華は力なく首を振り、両の目尻から涙が頬へと流れ落ちる。


 「……やっぱり、わたしも死ねばよかった……」

 「バカ、何言ってる!……一緒に、南陽に帰ろう!」

 

 陰次伯が言えば、涙を堪えて後片付けをしていた小夏も言った。


 「そうですよ! 南陽に帰りましょう、お嬢様! こんなバカバカしい後宮とはとっととおさらばしましょう!」

 「でも……」


 ずっと陰麗華の側について、だいたいの事情を察していた陸宣も、小声で言った。


 「夜明けに、北側の小さな門を開けるようにしましょう。厨房の係や荷車が出入りする門なんです。そこなら、見咎められずに外に出られます」

 「……動かしても大丈夫なの?」

 「……正直に言えば止めたいですが、そうもいかない事情はだいたい、察しております。くれぐれも、無理はさせないでください。馬車はゆっくり、あまり揺らさないように。旅の間は、とにかく清潔に気を配って。なるべく早くどこかに落ち着いて、滋養のあるものをたくさん食べさせて、心を安らかに過ごすことです」


 陸宣が与えるこまごまとした注意を、小夏がいちいちうんうんと聞いて、陸宣の師匠が処方した秘伝の薬を大事に懐に入れる。夜明け、陰麗華の乗る馬車はひっそりと、洛陽宮南宮の小さな門を出た。

 

 力なく馬車に横たわった陰麗華は、ただ、竹の小さな函をぎゅっと抱きしめていた。




*1 暴室

掖庭内の、病気の宮女を収容する施設。(罪を犯した宮女を収容することもある。)

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