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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第五章 焉くにか諼草を得て
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後宮

 洛陽はかつて成周と呼ばれ、周武王の弟、周公が開いた都である。

 

 もともと、前漢高祖の最初期、ほんの数か月だけ都が置かれていたこともあり、前漢代、皇帝が東方に行幸する際には、離宮として利用された。故に宮殿も煌びやかであり、宦官や宮女も置かれたままであった。土中――天下の中心――であるこの地こそ、儒教国家の天子の都に相応しいと、王莽はたびたび洛陽遷都を企画して、だが諸事情によって果たせないまま、その政権は潰えた。だが洛陽宮の整備は着々と進んでいて、また劉聖公の洛陽遷都に先立って、劉文叔らは洛陽南宮を整備し、和歓殿を皇后の居宮として修復していた。故に、後宮にある諸殿の中でも最大の規模を誇り、公的スペースである前殿と、私的な生活空間である後殿を備え、前殿では毎月の朔望(一日と十五日)に妃嬪、宮女を集めた「朝請」が行われた。


 数か月前まで南陽の田舎の主婦だった趙夫人にとっては、鬱陶しくて気の重い行事でしかないが、これを主催することで劉聖公の正妻が誰であるかを繰り返し主張しなければ、後宮の秩序が維持できない。


 (全く、なんでこんなことになっちゃったのかしらね)


 三十の半ばを過ぎた自分には派手過ぎるように思われる、金糸銀糸の刺繍の入った豪華な褶衣うちかけを羽織り、邪魔くさい高髷を結って金釵きんかんざしを揺らしながら、和歓殿の前殿の堂に南面して、趙夫人は内心の溜息をかみ殺す。ずらりと並んだ女たち。一番若いのはやっとこうがいを終えたばかりの年頃か。いずれも朝請のために着飾り、他の女たちを牽制しながら、壇上の趙夫人を見上げている。自ら望んでか、親兄弟に言い含められてか知らないが、劉聖公なんてケチな男の寵愛を競うなんて、バカバカしいと思わないのだろうか。だいたい、正妻と妾が一同に会する恒例行事自体、誰が考えたか知らないが、本当にバカみたい。――だが、趙夫人はそんな気持ちを表には出さず、女たちを見下ろし、何気なく数を数える。


 十五人。

 

 前回の「朝請」から半月で三人も増えている。……この上、陰麗華のようにわけもわからず寝所に引っ張り込まれた女が他にもいるかもしれない。


 趙夫人より一段下がって、韓夫人と、何夫人が両側に立っている。まだ皇后を冊立せず、さらに後宮の品階も定めていない聖公の後宮だが、趙夫人が正妻格である。彼女が即位以前からの、唯一、郡県にも官(届け出)して親族にも認められた「妻」であるからだ。

  

 「皆さま、ご苦労です。大きな揉め事も起こさず、それぞれ分を守って、陛下にお仕え申し上げるように。――何か、要望があれば……」

 「ハイ!」


 手を挙げたのは、先月に後宮に入ったばかりの、まだ十六、七の小娘だった。


 「何? 発言を許します」

 「ありがとうございます。……わたしのお部屋、日当たりが悪いんです。もっといいお部屋に変えていただくことはできませんか?」

 「それは――急に言われても何とも。掖庭えきてい令の孫礼と相談もしないと……」

 「それならわたくしこそ、もっと広い部屋に変えてもらわないと!……掖庭宮の一室なんて狭すぎます。独立した宮殿をください!」

 「じゃああたしだって! あたし、赤ちゃんできたかもしれないし、もっと広くないと!」

 「何ですってぇ?!」


 劉聖公も即位前はチンピラであるから、集められた女たちも()()()()である。見目はまあまあだが、躾けも行き届かない田舎娘ばかり。それぞれ勝手なことを言い始めて、収拾がつかない。妊娠したかもの不規則発言に、即座に韓夫人が噛みつく。


 「うそおっしゃい! あんた、先月一回しかお召しがなかったくせに!」

 「いいえ、二回ありましたー」

 「あらやだ、お気の毒、あたくしなんて四回も呼ばれてしまったのに」


 お互いに嫌味を言い始める女たちに、趙夫人は思わずこめかみを押える。


 「いい加減になさい!」

 

 まるで、奉公に上がったばかりの、躾の悪い下戸こさくにんの娘たちのよう――。趙夫人がうんざりしながら言う。


 「まず、部屋に関しては、次の朝請までに掖庭令と相談しておくから、部屋を移る希望のある者は、次回までに掖庭令に申し出ておきなさい。それから、妊娠は重大なことですから、確証もなく口にしないで、まずは暴室の宦官の診察を受け、確定してから掖庭令に報告しなさい。不確かなことで周囲を惑わしたら、罰則を課しますよ?」

 「はーい」


 と不承不承、口を閉じ、上目遣いに不満そうに趙夫人を見上げる女たちを見て、趙夫人は溜息を堪える。夫にはせめてもう少し、まともな女を厳選して手をつけてくれと言いたい。


 皇帝として天下に君臨する気があるならば、自身の身内からして選んでいく必要があるが、果たして夫・劉聖公はそのことに気づいているのか。趙夫人だって、所詮は三流豪族の女房だから、天下を治める天子の後宮など、とうてい抑えきれる気がしない。


 (まあでも、中の人々がもう少しお上品になってくれればなんとか――)


 だがその思いを裏切るように、韓夫人が金切り声で趙夫人に聞いた。


 「あの、スカした妊婦はどうなったのよ!」

 「妊婦?」

 「やだ、妊娠した人、ほんとにいるの?」

 「ウソウソ誰? 抜け駆けずるいー」

 「お黙りなさい!」


 趙夫人がもう一度女たちをしかりつけ、韓夫人を睨みつける。


 「彼女は皇帝の夫人ではなくて、とある将軍のご内室です」

 「ウソよ、聖公の寝所から連れ出されてきたって、あたしの侍女が報告してきたわ! だったら、夫ある身で聖公を誘惑したってこと?」

 「韓夫人!」


 趙夫人が韓夫人をもう一度叱る。


 「余計なことを口走らないで。女のことで陛下のご威光が損なわれるようなことがあったら、あなたのせいですよ! もう、新市の色街の女じゃなくて、皇帝陛下の夫人の一人になったのだから、もうすこし身を慎んで頂戴」

 「イーっだ、えっらそうに! 名ばかりの正妻のクセして!」

 「名ばかりだろうが何だろうが、正妻は正妻です。どれだけあなたが威張ろうが、そのままではタダの、昔なじみの情人イロでしかないわ。ちょっとは弁えて頂戴な」


 韓夫人の厭味にも容赦なく反論して、趙夫人は心の底で、何度目かわからない溜息をついた。


 (少なくとも――この女に対抗できるのはあたくしくらいよね。年の功って気もするけど。……家柄と容姿が素晴らしくても、あの陰麗華というお嬢様には、聖公の皇后は務まらないわよ。あの人もいい加減にわが身を振り返ればいいのに)

 

 つくづく、後宮なんてくだらない。


 一人の男に何人もの女が群がるバカバカしい制度。こんなものを考え付いたいにしえの聖人もロクなもんじゃないと、趙夫人は居並ぶ女たちを醒めた目で眺めたのだった。







 陰麗華は和歓殿の奥の、趙夫人から与えられた部屋で、泣きながら絮衣わたいれを縫っていた。


 いまだに劉聖公とのあの一件は悪夢にも見て、陰麗華は何度もうなされて目が覚めてしまう。食欲もなく、痩せていく一方だ。

 これではいけない。腹の子のためにも食べなければと思うけれど、身体が受け付けなくて無理に食べても吐いてしまう。


 死にたい――。


 劉聖公に触れられた身体がいとわしくて、もう、何もかも捨てて儚くなってしまいたい。


 《あなた以外の、誰にも触れさせたりしない、一生、あなただけ……》


 あの日、土地神の廟での誓いを破った事実が、陰麗華の心を引き裂く。

 

 《誰か他の男が君に触れると想像するだけで、気が狂いそうになる》


 あの日の、ギラギラした文叔の瞳が忘れられない。子供を守るためとはいえ、誓いを破って劉聖公に肌を許した陰麗華を、きっと文叔は許さないに違いない。


 どうしよう――。

 怖い――。


 幼いころから、異常なほどの執着で陰麗華を縛りつけようとした文叔が、裏切った陰麗華をどう思うのか。許さなくて、陰麗華を恨み、あるいは蔑むだろうか。

 ふとした拍子に玉の耳飾りが揺れ、微かな音を立てる。


 あの時、劉聖公は突如、長く尖った針を持ち出して、陰麗華の耳朶に璫を嵌める孔を穿ったのだ。


 脳天まで突き抜けるような痛みと、屈辱。耳を抑えた白い麻布を、鮮血が見る間に染めていく。


 『これは、お前が俺のものになったという、しるしだ。いいか、勝手に外すなよ? 勝手に外したら、赤子の命はどうなってもしらんぞ?』


 両耳に穿たれた孔が、陰麗華が貞潔を失った証拠だ。――生涯消えることのない、罪の証。


 ――文叔様に会わせる顔がない。


 ああでも、だったらどうするべきだったのか。

 死にもの狂いで抵抗して、いっそ舌を噛み切って死ぬべきだったのか。


 もし、腹に子がいなければ、陰麗華は迷わず命を絶っただろう。だってこの身は全て、文叔に捧げると決めて、生涯、彼以外に抱かれることなんて絶対にあり得ないと思っていた。それくらいなら、死んだほうがマシだと。


 でも――ここに、あの人の子がいるのに、どうして命を絶てるだろうか。


 絮衣を縫う手を止め、腹をそっと撫でる。

 この子だけは守らなければ、この子だけは――。


 ぼうっと虚空を見つめている陰麗華の背後で、小夏が突如悲鳴を上げた。


 「あなたたち、何よ! ここは趙夫人の許しのない者は――」

 

 陰麗華がはっとして振り返れば、揃いのお仕着せを着た宦官が三人、ずかずかと入って来た。


 「皇帝陛下のお召しでございます」

 「そんな!――趙夫人は……」


 趙夫人はちょうど、朔望日の朝請のために正殿の方に出ていた。皇帝の意向を受けた宦官を追い返せる者など、この宮にもいない。表情を消した宦官たちが、逆らうことなど許さないと、無言で威圧する。


 残っていた数人の宦官や侍女の中には、正殿にいる趙夫人に知らせようとした者もいたが、三人の宦官たちに制止されてしまう。


 「皇帝陛下は確かに、趙夫人には遠慮がある。だが、その他の者にはどうかな?」

 

 小夏だけは最後まで抵抗したが、陰麗華が首を振った。――もし、小夏に何かあったら、陰麗華はそれこそ生きていくことができなくなる。

 悔しそうに唇を噛んで、涙を堪えている小夏を振り返りながら、陰麗華は攫われるように和歓殿から連れ出され、以前と同じ、赤いへやに押し込まれた。前回と異なるのは、すでに劉聖公が陰麗華を待ちわびていたことだ。


 「――ようやく、来たか。まったく、かかあのやつも口うるせぇなあ……まあ、朝請の後で相当、暴れるだろうがな。それでも、古女房ってのは、なかなか切れない、特別な間柄って奴ではあるなあ……」


 すでにガタガタと震えている陰麗華の細い腕を掴んで、劉聖公はぐいっと女を胸元に抱き込む。


 「お、おゆ、お許しください……お願い、お願いします……」

 

 涙声で懇願する陰麗華の、ゆるく膨れた腹を、劉聖公の節くれだった手が深衣の上からスルリと撫でる。


 「子供の、ためなら何でもするって、そういう約束じゃあ、なかったかな?」

 「で、でも……それは、もう……」

 「俺は一回だけ、なんて言ってないぞ?……なあ、陰麗華?」


 背後から陰麗華を抱き込んで、その細い肩口に顔を寄せて、劉聖公が耳元で囁く。黒髪に隠された、劉聖公が自ら穿ち、填めた琉璃の耳璫みみだまに唇で触れ、舌で嬲る。


 「それとも……とっとと邪魔者は腹から追い出して、俺の種を仕込んでやろうか。お前が、俺の元から逃げ出すこともできないように」

 「そんな! 約束が違います! 子供は……子供だけは救けて!」


 陰麗華が悲鳴のような声を上げると、劉聖公はケタケタと下卑た笑い声をあげた。


 「じゃあ、大人しく俺の言うことを聞くんだな。……かかあが騒ぎ立てないうちに、とっとと済まそうじゃあないか」


 背後から伸びた劉聖公の手が、陰麗華の腰帯を勢いよく解いた。






 その日の朝請は確認するべきことが次から次へと出て、さらにいちいち韓夫人がつっかかり、いつもは大人しい何夫人まで厭味の応酬を始めて、終わった時には予定の時刻を大幅に過ぎていた。趙夫人がぐったり疲れて居住スペースの後殿に戻ってくると、陰麗華に割り当てた部屋に暴室の宦官が出入りして、バタバタ走りまわっている。


 「何があったの?」

 

 泣き騒ぐ小夏から事情を聴いて、趙夫人はさらに脱力する。……あの、クソバカクズの宿六が!


 コトが済めば素直に陰麗華を趙夫人の元に帰してくるあたり、劉聖公も趙夫人にだけは頭が上がらず、正妻の顔を立てているつもりらしいのだが、そもそも手を付けるなと言っているのに!


 当然、趙夫人は烈火の如く怒り狂い、足音を蹴立てて皇帝が居住する南宮の嘉徳殿へと乗り込む。皇帝付きの宦官らは一応は趙夫人の進路を塞ごうとするのだが、趙夫人はそんなのは弾き飛ばすほどの剣幕で、どんどん、皇帝の私的スペースへと踏み込んでいく。


 生まれながらの皇帝とその皇后であれば、こんなことは許されなかったであろう。しかし劉聖公は半年前までは南陽のド田舎の、チンケな三流豪族であり、趙夫人はその女房であった。夫の部屋に妻が入って何が悪いとばかりに、趙夫人はズカズカと踏みこみ、悪趣味な真っ赤な垂れ幕の寝台で、気怠く昼寝を決め込んでいた劉聖公に怒鳴り散らした。


 「もう、今度という今度は愛想も尽きたわ! アンタの女房なんてこっちから願い下げよ! あの下品な新市の女にでも、押し付け差し上げるわよ! あたくしは南陽に帰らせてもらいますからね!」

 「いやまあその……くなよ、いい年して」

 「誰がいんてんのよ! 愛想が尽きたって言ってんのがわかんないの!」


 劉聖公は面倒くさそうに欠伸をしてから、怒り狂う正妻に言った。


 「今まで、どんな女と寝ようが、お前は文句を言わなかったじゃないか」

 「今までは酒場の商売女か、はしためばかりだったじゃないの! 人妻を、それも同じ一族の男の女房を寝台に引きずり込んで、あたくし、他の劉氏の伯母様方になんて言い訳すればいいのよ! 今までだって散々、あたくしがアンタの首根っこをちゃんと捕まえないからだ、って厭味言われてきたってのに!」


 要するに劉聖公と劉文叔は同じ舂陵しょうりょう劉氏の同世代、大家族的な観点でいえば兄弟も同じなのである。その女房を無理矢理奪うなんてのは、みっともなくて一族に顔向けできない――趙夫人の怒りのポイントを理解して、劉聖公は目を丸くした。


 「そんな理由だったのかよ……」

 

 キーキーとなおも喚く趙夫人を宥めるように、劉聖公が言った。


 「わかったよ、劉文叔が生きているうちは、もう、手を出さねぇ。約束する。その代り、劉文叔が死んだら、女房の一人にしてもいいだろう?」

 「死んだら、って縁起でもない!」


 劉文叔が生きている間は、同じ舂陵劉氏の妻として、趙夫人が陰麗華を保護する。だが、劉文叔が死んだら、劉聖公が陰麗華を小妻として娶る――。

 

 趙夫人はブツブツ言ったけれど、とにかくそれで手を打つより他になさそうであった。

 趙夫人はその条件でようやく、陰麗華の「安全」を確保した。

   




 趙夫人からは早々に、頼りにならない兄、と認定された陰次伯だが、彼なりに異母妹の救出に動いていた。

 陰麗華がその意志に反して、皇帝・劉聖公に凌辱されたのは間違いなかった。

 腸が煮えくりかえる気分であったが、それを表に出すことはできない。だが、このまま、陰麗華を皇帝の寵姫として後宮に置いておくことも、管仲以来の名家・陰家としては許容できないことであった。


 鉅万の富を誇りながら、あえて官に仕えることなく、文字通り素封家として南陽に在り続けた陰家の矜持が、妹を力ずくで奪われたままでおくなんて、許さない。


 それにしても――。

 なんだってどいつもこいつも、陰麗華に懸想して、強引に手に入れようとするのだ。


 ――全部、劉文叔のせいだ! 


 根拠はないが、断言できる。前隊ぜんすい大夫の甄阜しんふも、そして劉聖公も、そのきっかけはいずれも劉文叔なのだ。劉文叔の許嫁であり、現在は妻であるから、権力者は陰麗華に興味を持ち、力ずくで手に入れようとするのだ。陰麗華の美貌に多少の心は動いているだろうが、それよりも何よりも、第一の目的は劉文叔に対する嫌がらせなのである。


 ――全く、どいつもこいつも、いい加減にしろ!


 怒りで自身がどす黒く変色するのではないかと思ったが、何より、あっさりと妹を奪われて汚された自分自身の情けなさに死にたくなる。


 陰次伯は頭を振って、冷静になれと、自分に言い聞かせる。

 とにかく、何が何でも陰麗華を後宮から救い出し、故郷の南陽に帰るのだ。


 彼が頼った劉伯升は死に、幼いころから知っている鄧偉卿は常山太守として、やはり黄河の北に赴任してしまった。鄧少君は南陽に帰り、劉文叔もいない。気づけば孤立無援ではないか!


 そんなことを考えながら、洛陽南宮の回廊を歩いていて、陰次伯は曲がり角で、出会い頭に誰かとぶつかって吹っ飛ばされる。


 「イテっ!」


 ぶつかった相手も細身だったが長身だったのと、哀しいかな次伯の鍛錬不足のせいで、尻もちをついたのは次伯だけで、向こうはふらついただけだった。


 「大丈夫ですか、失礼しました」

 

 およそ劉聖公の宮廷は緑林軍出身の荒くれものが闊歩していて、要するにならず者の天下なのだが、幸いにもぶつかった相手は穏やかな士大夫だったらしい。すぐに謝罪の言葉と助け起こす腕が伸ばされ、次伯は引っ張り上げられる。


 「いえ、僕も不注意でしたので……」

 「私は宛の李次元ですが、あなたは?」

 「宛の李……?……李季文のクソ野郎の一族?」

 

 思わず口走ってしまって、陰次伯がはっと口元を押える。相手はいきなりの暴言に驚いたらしいが、切れ長の目を見開いて次伯をじっと見た。


 「……何か、従弟が仕出かしたようですね」

 

 李次元は長身で白皙、中性的な面立ちに切れ長の瞳をした、年齢不詳の美形であった。

 

 「そうです! おたくの! 李季文のせいで、僕の妹の陰麗華が!」

 「……陰麗華、とは劉文叔将軍の奥方ですね。李季文が何を――いや、ここではまずい。少しこちらに――」


 李次元は陰次伯の腕を掴むと、グイッと強引に引っ張って、回廊の奥の空き部屋に連れ込む。


 「実は数日前から、季文の挙動が不審だとは思っていたのです。……何が起きたのです?」

 

 あたりを憚るような小声で尋ねられ、次伯がキッと李次元を見上げて睨む。


 「李季文は、劉文叔から陰麗華を保護して南陽の新野に帰すように頼まれていたはずです。……少なくとも、僕たちはそう、劉文叔に聞いていた。なのに、当日、僕が劉家に行くより早く陰麗華を連れ去り、なんと南宮の劉聖公――じゃなくて皇帝陛下のもとに連れて行ったんだ!」

 「なんですって――?」


 李次元の切れ長の瞳が、最大限に見開かれる。その様子に、陰次伯は悔しくて涙が滲んでしまう。もう二十歳を過ぎた男が人前で泣くなんてみっともなさ過ぎるけれど、大切なものを土足で踏み荒らされて、耐えられるほど陰次伯は強くない。


 「……なんてことを……あの、馬鹿がっ」


 李次元が思わず吐き捨て、痛まし気に眉を顰める。


 「劉聖公――いえ、皇帝は劉文叔兄弟に対し、妙な対抗意識と負い目がある。伯升は始末できたが、文叔は目の上のたんこぶだ。……うまく、河北に追い払ったが、それはそれで不安なのだ。いつ、文叔が兵を返して攻めてくるか、疑心暗鬼に陥っている。そのための人質だ。迂闊に彼女を洛陽から連れ出せば、叛逆の罪を被せられるぞ!……もちろん、貴卿もだ」


 叛逆、と聞いて陰次伯がひっと息を飲む。


 「でも!……じゃあどうしろって!妹は身籠っているんだ。なのに、食事も喉を通らない。このままじゃあお腹の子だって……」


 陰次伯の反論に、李次伯が顔を歪める。


 「……私も機会をうかがって、妹御を後宮から救い出せるように方策を講じる。とにかく、不用意に動いてはダメだ」

 「……アンタ、どこまで信用できる? どうしてアンタの従弟は劉文叔を裏切ったんだよ!」

 

 掴まれた腕を振りほどくようにして陰次伯が言えば、李次元も観念したように目を閉じ、それからまっすぐに陰次伯を見た。


 「……それは、季文は……季文はずっと文叔とともに戦って……昆陽の包囲も突破した仲です。わずか十三騎で、百万の包囲を抜けた。文叔は季文のことを戦友と思って、信頼していたのでしょう」


 李次元が、苦いものを飲み込むように言う。


 「でも……劉聖公が皇帝になり、権力は緑林の一党に独占されている。昆陽での功績は評価されない。……そもそも、季文は昆陽の戦いで、文叔の功績ばかりがもてはやされるのも不満に思っているのです。……それで、伯升を斬り捨て、文叔を裏切って、劉聖公に接近した――」


 納得いかない苦い思いを、陰次伯もまた飲み下すしかなかった。




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