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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第五章 焉くにか諼草を得て
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琉璃の耳璫

 劉聖公の正妻、趙夫人は南陽郡は棘陽きょくようの出で、容姿も家柄も、特に誇るべきところのない、平凡な田舎の主婦であった。だが彼女の人生は、夫が皇帝に即位したことで、大きく変わった。

 

 結婚当初から夫の女癖は悪く、数ヶ月家に寄りつかないこともザラだった。南郡の新市あたりに、馴染みの情人イロがいるのも知っていた。だが、皇帝になったのをいいことに、次から次へと女に手をつけ、宮殿内に囲い始めた夫には、本当に愛想も尽きかけた。名家の出ではないものの、舂陵劉氏の一夫人として、一夫一婦を当たり前とする社会の中で暮らしてきたのである。自分の与り知らぬ場所で女漁りをするならいざ知らず、目の前で何人もの女との情事を見せつけられるのは、屈辱以外の何物でもない。

 

 さらに厄介なのが、夫が新市からから連れてきた韓某という情人である。付き合いが長いこともあって、本当の正妻は自分だと言わんばかりに、趙夫人に張りあってくるのも鬱陶しい。夫が新しい女に手を付けるたびに、嫉妬して女の部屋に押しかけては暴れまわり、宦官や宮女が、何とかしてくれと和歓殿に駆け込んでくる。結局、正妻としての面倒くさい仕事は、すべて趙夫人に押し付けられている。だから、その日も韓夫人が掖庭えきていで暴れていると侍女が駆け込んできても、いつものことかと、思っただけであった。

 

 だが、韓夫人の狂乱ぶりは普段の比ではなく、相手の女を殺さんばかりに荒れ狂い、さながら悪鬼の如きであった。韓夫人は派手な褶衣うちかけが着崩れるのも構わず、凝った形に結い上げた高髷を乱して、濃い化粧の眉を吊り上げ、凄まじい形相で、部屋の隅に縮こまって怯える女に向かい、大声で詰っている。


 「この泥棒猫! その琉璃の耳璫みみだまは聖公が前に選んでいたものじゃない! いつの間にあいつとデキて、孕んだっていうのさ! 殺してやる!」

 「だから違うって言っているでしょ! 皇帝の子じゃないってば! もういい加減にして!」


 気丈にも怯える女を背に庇って、まだ若い侍女が言い返している。二つに分けた髪をうなじでまとめただけの地味な髪型に、生成地に赤い襟の曲裾深衣。その背後に庇われて震えている女は、薄桃色に花柄の深衣を着て、どうやら主人らしいと趙夫人は見当をつけ、些か行儀が悪いと思ったが、廊下の向こうに大声で叱りつけた。


 「何事です! みっともない! いかなる理由があっても、勝手な暴力は許しませんよ! 孫礼!」


 趙夫人が背後の宦官に呼び掛けると、洛陽宮の掖庭令である孫礼ははっと畏る。趙夫人は彼に、怯えて縮こまっている女を保護するように命じ、それから韓夫人に向き直り、ゆっくりと歩みよりながら言った。


 「その姿、夫が見たらなんて言うでしょうね。……まったく、これだからお育ちの悪い方は」

 「なんですってぇ?」

 「新市の色街の流儀かもしれないけれど、あなたも皇帝の()()を名乗るなら、もう少し周りの目を気にして頂戴。笑われれているのに気づかないの?」

 

 嫌味たっぷりに言ってやれば、韓夫人は激昂して言い返そうとしたが、それより前に趙夫人が指差して一つ一つ、指摘してやる。


 「あーあ、髪も乱れて、みっともないこと! 着崩れ具合も恥ずかしいわねぇ。……それとも、それが新市の市での新しい流行の着方なのかしら? 恥ずかしくて真似する気にもならないわね。ついでに言うけど、間違って香炉の灰でもかぶってしまったの? ずいぶんと香りが強くて……そこの廊下まで漂ってくるわ。もはや公害ね」

 「うるっさい、クソババア!」

 「なんておっしゃったの? 下品すぎて意味が理解できないわ?……言っておくけど、あなただって言うほど若くないって、あたくし知っていましてよ」

 「意味わかってるくせに、嫌味くさい! ……フン! あんたの余裕もいつまでかしら? この泥棒猫が子供を生んでも、その作り笑いを保ってられるかしらね?」

 「子供?」


 趙夫人が孫礼らにたすけ起こされている、薄桃色の深衣の女を見れば、その腹はほんのわずかながら、不自然に膨らんでいるのが目についた。趙夫人が一瞬、目を見開く。だが、次の瞬間に、趙夫人はだいたいの事情を呑み込んだ。


 夫は女遊びは激しかったが、不用意に孕ませるようなことはしなかった。子は、趙夫人の子が四人のみ。目の前の女の腹の大きさからして、六か月くらいにはなっているだろう。その頃から寵愛を受けていれば、さすがに趙夫人も顔を知っているはずだが、この女の顔には見覚えがない。それにこの雰囲気――。


 女の髪型や服装は、趙夫人と同じ階層か、やや上の出身であると示していた。地味な髪型は人妻のものだ。つまり――。


 導き出される答えに、趙夫人は真っ青になった。その表情の変化を、韓夫人は明らかに誤解して、ニヤニヤしている。


 「ほーら、アンタだって平静ではいられないでしょ? それみたこと――」

 「おだまりなさい!」


 ピシャリと口を封じて、趙夫人は女に問いかける。

 

 「あなたはもしかして――」

 

 だが女は力のない視線をちらりと趙夫人に向けただけで、すぐに視線を逸らし、ボロボロと涙を零すばかり。俯いた拍子に流れ落ちた黒髪の隙間から覗く白い耳に、青い耳璫みみだまがチラリと見えた。女を支えていた侍女が、キッと周囲を睨みつけて言い放つ。


 「行大司馬事の、劉文叔将軍のご内室です! こんな無礼な扱い! うちのお嬢様をこんなところに放り込んで!」

 「つまりその子は――」

 「劉文叔さまの子に決まっているでしょう?! さっきから皇帝の子じゃないって言ってるのに、そこのオバサンが聞く耳持たずに暴れて――」

 「誰がオバサンですってぇ!」

 「ああもう、やかましい! おだまりったら!」


 再び揉め始めた二人の前で、薄桃色の深衣を着た妊婦が、立っていられなくなってズルズルと床に頽れていくのを見て、趙夫人は慌てて周囲の宦官や宮女たちに命じ、彼女を自分の宮である、和歓殿の一室に運び入れたのだった。

  

 






 「つまり、李季文将軍に騙されたってこと?」

  

 陰麗華の侍女だと名乗った小夏から事情を聴いて、趙夫人は首を傾げる。

 基本的に、趙夫人は表の、政治向きのことには口を挟まないし、状況も理解していない。だが、皇帝の妻としてではなく、舂陵侯家の分家・劉聖公の妻として、一族内の人間関係は把握していた。同じ舂陵侯家の一分家である、劉文叔の妻が新野の富豪・陰氏の出で、六月に婚礼を挙げたばかりだというのも、憶えている。劉文叔の兄、劉伯升がその直前に夫・劉聖公によって粛清されたことも。――劉伯升の家には弔問を、劉文叔の家には祝いの酒を、それぞれ贈ったからだ。


 しかし、李季文将軍、という人物は言われてもよくわからない。眉を寄せていると、背後から宦官の孫礼が耳元で囁いた。


 「五威中郎将で……宛の李次元将軍の従弟になります」

 「ああ、宛の李家の」


 孫礼の説明によると、南郡から北上してきた緑林軍と近しい皇帝――劉聖公――と違い、劉伯升・文叔兄弟と、宛の李次元、李季文らは南陽の豪族を糾合して叛乱に至っている。同じ一族でも、緑林軍を勢力基盤とする劉聖公と伯升兄弟では、いろいろと行き違いがあった。李季文はずっと劉文叔と行動を共にしていたが、最近は皇帝に接近しているという。昆陽の勝利で大きな功績を挙げた劉文叔が疎ましくて、皇帝は河北に追い払ったというのが、もっぱらの噂だった。


 「それで、陰麗華殿はなぜ南宮に?」


 趙夫人の問いに、小夏が激昂する。


 「だから、騙されたんですって! あたしたちは南陽の、新野に帰る予定でした。お嬢様は妊娠中で、とても、河北の厳しい冬に耐えられないからって。新野まで、お兄様の陰次伯様の兵じゃあ、心許ないってんで、友人の李季文将軍に頼んで送ってもらうからって。なのに――」


 趙夫人は眉を顰める。陰麗華が美女だという噂は、趙夫人の耳にも入っていた。女好きの夫の、食指が動かないはずはない。邪魔な劉文叔を黄河の北に追い払い、この隙に手に入れようとしたのか。


 「このこと、陰次伯殿は?」

 「門のところでお嬢様と引き離されてから、あたしはずっと、陰次伯様に会わせろって騒いでいるんですけど、いっこうにラチが開きません。何とか、陰次伯様にお嬢様のことをお知らせできませんか?」

 

 小夏が真剣なまなざしで言えば、趙夫人は側の孫礼に目配せする。孫礼は心得て部屋を出ていく。


 「それで――後宮に入ったのが……」

 「一昨日です! あたしはずっと、あの部屋に閉じ込められていて、夜遅くにお嬢様が宦官たちに担がれてやってきて……もう、本当にお気の毒なお嬢様! あれ以来、ずっと泣きどおしで! もう死にたい、文叔様にあわす顔がないって、そればっかり! それに、無理矢理に開けられた耳璫みみだまの孔が痛むのに、外したら赤ちゃんを殺すって脅されたみたいで! 熱もあるし、お食事も喉を通らず、お腹の赤ちゃんのために無理に食べて、全部吐いての繰り返しなんです! もう、いったいどうしていいのか……」


 とうとう小夏まで泣き出して、趙夫人は途方に暮れる。どうやら夫は人妻を無理に寝所に引き込んだあげく、彼女の意志に反して関係を強要したらしい。そのうえ、耳に孔を穿って琉璃の耳璫みみだまを無理につけさせ、外したら赤子を殺すと脅した。……妊娠中の女に、なんてことをするのか。女への同情と、夫への不快感ばかりが沸き起こって、趙夫人は深く深く溜息をついた。


 手当たり次第、女に手をつけるのはもう、しょうがないと諦めていたけれど!

 人妻、それも同じ一族の男の妻を、しかも無理矢理だなんて、最低!


 最後に残った、子供の父親であることへの情すらも消えそうな勢いだったが、この時代、女の方から離縁を要求するには相当の勇気がいる。ましてや、実質上は叛乱軍のボスでしかないが、一応、「皇帝」だ。おいそれと離縁できるとは思えない。


 趙夫人は失望を押し隠し、さらに質問を重ねる。


 「……で、さきほどの韓夫人は?」

 「ああ、あの人は、突然、部屋にやってきたと思ったら、お嬢様のお腹が大きいのを見て、暴れ始めたんですよ。それに、耳飾りに見覚えもあったらしくて、皇帝がつけさせたんだって気づいたみたいで。何度も、皇帝の子じゃないって言ってるのに!」


 趙夫人はこれにはちょっとばかり不思議に思い、首を傾げる。


 「どうしてかしら。……これまで、新しい女のもとにガンをつけに行くのは恒例行事だったけど、あんな暴れ方はしなかったのにねぇ」

 「子供がいるのが許せないみたいでしたよ? なんだって、長いつきあいのあたしじゃなくて、こんなぽっと出の女に!……て騒いでたし。ぽっと出も何も、初対面ですってば!」


 小夏の答えに、趙夫人はふと、韓夫人も本当は子供が欲しいのだろうか、と思う。だがあの女はもともと、新市の色街で色を売っていた遊び女だ。さすがの劉聖公も、あの女に子を産ませるつもりはないだろうと、趙夫人は考えていた。


 と、侍女が趙夫人を呼びにきて、陰麗華の意識が戻ったと告げた。


 「奥様にお詫びとお礼を申し上げたいと仰っています」


 趙夫人は立ち上がって、陰麗華の休んでいる部屋に向かった。








 趙夫人のいる和歓殿は、洛陽の南宮の中でも大きい殿舎で、中庭に面した西向きの一角に部屋を用意することができた。部屋の奥に置かれた幕を備えた臥牀の中で、儚げな女が不安そうに座っていた。入っていくる趙夫人の姿を見て、女は牀を下りて拝礼しようとしたが、趙夫人が身振りでそれを押し止める。


 「まだ、顔色がよくないわ。そのままで結構よ? あたくしは劉聖公の妻の趙君間。以前、結婚のお祝いを贈って、お礼状もいただいたわね」

 「奥様――」


 陰麗華はしばらく絶句して、それからはらはらと涙を零しながら頭を下げる。琉璃の耳璫みみだまを嵌めたままの、穴を開けたばかりらしい耳朶は赤く腫れていた。


 「奥様、いったい何と申し上げたらいいのか――」


 夫と関係を持ってしまったことを、その妻に泣きながら詫びる女を見て、趙夫人は愉快ではなかったものの、責め立てるほどの愛情もすでにない自分に気づき、内心苦笑する。


 「……ええと、あなたの意志とは違うのよね?」

 「もちろんです! そんな……」


 慌てて首を振る陰麗華を見て、趙夫人は溜息をつく。


 「じゃあ、あなたを責めてもしょうがないわ。実のところ、ほとほと愛想も尽きかけているところだし、あたくしのことはいいわ。それより問題はあなたね」


 宦官が二人がかりで、細長いとうを運んできて、趙夫人はそれに腰を下ろす。


 「あの人が何を考えているかわからないけれど、ひとまず、あなたは劉文叔将軍の妻であって、それを、騙すように後宮に連れ込んだなんてことが、世間にバレたら大変なことになるわ。――もちろん、あなたもね」


 陰麗華が真っ青な顔で俯き、細い肩が小刻みに震えている。


 「このことを知った劉将軍がどう動くか予想もつかないし、あたくしとしては、女一人のことで、皇帝とその配下に波風を立てるわけにいかないのは、わかってくださるかしら」


 陰麗華がはっとして、大きな黒い瞳を見開き、じっと趙夫人を見つめた。透けるような白い肌が青ざめ、唇はわずかに開いて震えている。長い睫毛がびっしりと大きな瞳を取り巻いて、涙に潤んで揺れている。美しいだけじゃなくて、可憐で、男ならず女の趙夫人でも、抱きしめて守ってやらねばと思わせる風情がある。

 

 「しばらくは、この南宮であたくしがあなたの身柄を預かるわ。その……何を考えていたのか知らないけれど、耳に無理に孔を開けるだなんて。痛かったでしょう。赤ちゃんをどうこうなんて、絶対、あたくしが許さないから。まずは傷を治さないとね。もちろん、あの人も、あの騒々しい女も、あなたの側には寄せないし、指一本触れさせないわ」 

 「奥様……でも……」


 陰麗華は睫毛を伏せ、震える声で言った。


 「わたし、これからどうしたらいいのか……」


 心底怯えているらしい女の言葉に、趙夫人は眉を寄せる。陰家といえば南陽でも一番の大富豪。その令嬢であるこの女は、これまでさしたる苦労もなく、他人から悪意をぶつけられる経験もなかったのだろう。騙されて男に犯された挙句、耳に孔まで開けられたら、混乱のあまり、どうしていいのかわからないに違いない。


 (だいたい、耳璫みみだまを無理矢理嵌めるってのは、何なの? いったい何を考えているの?)



挿絵(By みてみん)

耳璫イメージです



 もともと、耳朶に孔を穿って耳飾りをつけるのは、蛮夷の風習で中原になかった。大昔、周辺の蛮族を捕らえて奴隷にした時に、耳飾りをつけている女が多く、貴人に仕える女たちに耳璫みみだまが流行した。――はしためや、伎女に身分標識を兼ねて、主人が耳飾りをつけさせたのである。身体に傷をつけることを極端に嫌う中原の、それも儒教を信奉する上流社会では、耳朶に孔を穿ってまで身を飾るなんて、淑女に相応しくない、と考える風潮も根強い。趙夫人の父親は半分ヤクザみたいな男であるから、趙家はそれほど堅苦しくなくて、趙夫人の姉妹には耳璫みみだまをしている者もいる。(趙夫人は孔を穿つのが痛そうでしていないだけだ。)だが、嫁ぎ先の劉家の女たちは誰も耳璫をしていないし、あれは不良女がするものだ、と思っているフシがある。おそらく陰家もそうなのであろう。


 だとすれば、夫の劉文叔以外の男に耳璫みみだまを強制された陰麗華の屈辱は、いかばかりかと趙夫人は思い、同時に夫・劉聖公のこの女に対する屈折した征服欲のようなものを感じ取って、思わず身震いした。


 (迂闊に耳璫みみだまを外して、おかしな方向に暴走されても怖いわね……)


 陰麗華にとっては屈辱の証だろうが、耳璫はいましばらく、嵌めたままにしておいた方がよさそうだ。


 「……耳璫は今外すと孔が塞がってしまって、それはそれで厄介だと思うから、しばらく我慢して頂戴。今はまずは休んで、赤ちゃんを無事に産むことだけを考えて」


 どのみち、この女は腹の子を盾に劉聖公に脅されているのだ。子供を産んで身二つになり、それから身の振りようを考えるくらいしか、趙夫人には思いつかなかった。


 「でも……あんなことがあって、わたし……」


 ホロホロと涙を流す陰麗華の様子に、無理はないと思いながらも、趙夫人は少しばかりイライラするのも本音であった。


 (起きてしまったことはしょうがないじゃないの! いつまでもウジウジしてもどうなるものでもないって言うのに!) 

 

 どれもこれも、自分の夫がクズのせいであって、陰麗華を責めるわけにもいかないのだが、趙夫人自身も言うなれば被害者であるから、ぶつけようのない苛立ちを持て余してしまう。

 ただ趙夫人としては、二度とこのような不祥事が起きないよう、陰麗華を夫・劉聖公の魔の手から守らねばならないのだが、このいかにもか弱く従順そうな女を保護するのは、なかなかに骨が折れそうであった。


 ――美貌と、育ちの良さからにじみ出る儚い雰囲気。これまで劉聖公が手を出してきた場末の遊び女とは真逆である。それだけに、夫がこの女に執着した場合は、些か厄介なことになるだろうと、趙夫人が考えた時。


 ちょうど、廊下で人の話し声がして、宦官が入ってきて趙夫人に耳打ちする。趙夫人がすぐに入ってもらって、と言えば、宦官が走り出て行った。


 「あなたのお兄様がこちらに来たわ」

 「お兄様がっ……」


 ほどなく、宦官に伴われて、まだ若い書生然とした男が入ってきた。その姿を見て、陰麗華が堰を切ったように泣き出した。見るからに陰麗華の身内らしい、端正だが気の弱そうな男の様子に、趙夫人は溜息をつきそうになるのをギリギリで堪える。


 (――ダメだわ、このお坊ちゃんでは妹を守れないわ……)


 陰次伯は新野に帰るために妹を迎えに行ったが、すでに李季文に連れ去られた後であった。あちこち捜しまわった結果、陰麗華が南宮に囚われたと知る。


 ――いったい、何が起きたのか。

 およそ謀略と無縁に生きてきた陰次伯は、どうしていいかもわからず、オロオロしているところに、趙夫人から呼び出しがあったのだ。


 幸いに――というべきか、劉聖公の官僚組織は、名目的に漢の百官に範をとって整えられているだけで、実際は適当に官職をバラまいているにすぎない。内部の組織なんてまだまだ滅茶苦茶だった。


 漢の未央宮であれば、皇帝の後宮に入ることは不可能だっただろうが、劉聖公は正妻の趙氏をまだ皇后に冊立していなかったし、何しろ、ならず者ばかりの劉聖公政権である。聖公と韓夫人を中心に、毎晩のように、新市以来の仲間たちと後宮で宴会を開いているから、面倒くさい規則なんて、あってなきがごとし。陰次伯は禁中に入れる資格は持っていたので、難なく、趙夫人の住む和歓殿に上殿が許されたのだ。


 皇帝の正妻からの突然の呼び出しと、泣きじゃくる陰麗華。何があったか聞きたくもないが、知らないままでいるわけにいかない。勇気を振り絞って次伯は尋ねる。


 「麗華、何があった。……怒らないから、正直に――」


 と、陰麗華がさらに大声をあげて泣き伏して、次伯が途方に暮れる。横から、趙夫人が言った。


 「……うちの主人、いえ、皇帝陛下と呼ぶべきね。……その、無体を強いたらしくて……」

 

 陰次伯の端正な顔が凍りつく。


 「どういうつもりなのかは、わからないの。仮にも臣下の、それも一族の男の妻なのに……」


 もしかしたら、と趙夫人に思いいたるフシがなくはなかった。皇帝位に即いて半年以上たつのに、いまだに皇后を冊立しないのは、皇后としては趙夫人に不満があるからではないのか、と。趙氏は南陽でもそれほど名家ではない。もっと血筋の確かな女を迎え、皇后にしたいと思っているのか。南陽でも最大の富豪である陰家であれば、皇后として立てるのに不足はない。同時に陰家の財をも手中に収めるために、敢えて劉文叔を河北に追いやり、その隙に妻の陰麗華を奪う算段だったのか――。


 趙夫人は自分の想像で不愉快な気分になり、眉間に皺を寄せる。


 政治のことはわからないが、男は往々にして、女のあずかり知らぬ謎の論理で結婚を決める。陰家の娘がまだ、未婚の生娘ならば、趙夫人は夫の決断を不承不承受け入れて、身を引いたかもしれない。だが、陰麗華はすでに人妻で、劉文叔の子供を身籠っているのだ。それを無理に奪って何がしたいのか。それとも、陰麗華ではなく、その夫・劉文叔への嫌がらせなのか。昆陽で劇的な勝利を挙げ、名声の高い劉文叔の、何よりも大切な妻を奪うことで、彼を辱めようというのか。


 どちらが目的でも、ロクなものではない、と趙夫人は思う。

 

 「……とにかく、今は、他のことは忘れて、丈夫な子を産むことだけを考えて。あなたが苦しめば、お腹の赤ちゃんも苦しいのよ? あなたのことは、あたくしが責任をもって守るから」


 前途の多難さを意識しながら、趙夫人は陰麗華を勇気づけるように言う。


 たとえ戦乱の世であっても、人は食べ、耕し、そして子を産まねばならない。厳しい冬を越えてこそ、未来の春に行き会うことができるのだから――。

 


耳璫

耳に孔を穿って嵌める耳飾り。金属のほか、玉、ガラスなどのものが発掘されている。孔の開いたものと、開いていないものがあり、孔の開いたものは糸で玉などの飾りを垂らしたらしい(垂珠)が、実物が残っていない(糸が切れてバラバラになって、他の首飾りなどと混じってしまった?)。耳に孔を開けたくない場合は、簪から糸で耳の横に垂らすこともあり、これを珥、簪珥と言った。耳たぶに孔を開けるのは「蛮族の風習」だと漢代の人は言うけれど、詩歌にも見え、また宋代以降は耳墜(垂れるタイプのピアス)、耳環(リング状のピアス)なども一般的になるので、儒教の教えには思いっきり抵触すると思うが、気にしないでガンガン開けていたのかもしれない……。

(ただ、漢代の史料だと、「蛮族の女は尻軽なので、耳から重いものを垂らしてあちこち行かないように戒めにし、中原の女がそれを真似した」みたいなことが書いてあるので、耳に孔を開けるのは「浮ついた女がすること」みたいな意識は多少あったかも)

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