漢家の寡婦
子曰、天生徳於予、桓魋其如予何。
――『論語』述而
子曰く、天徳を予に生せり。桓魋其れ予を如何せん。
孔子が言った。私は天から使命を与えられているのだ。桓魋如きが私の命を奪えるものか。
更始元年六月、王莽の紀年で言えば、地皇四年七月、昆陽を囲んでいた新軍の百万の大軍勢は壊滅し、士卒はバラバラに故郷へと逃げ帰る。敗残の兵が尾羽打ち枯らして析県へと辿りつくにおよび、楽勝ムードだった官衙は一気に緊張に包まれる。
百万の兵が、一万の兵に敗れた。
衝撃が、激震となって人々を襲う。
――もはや、天命は王氏の上にはない。再び劉氏の天下が迫りつつあるのだ、と。
鄧曄が、于匡に耳打ちする。
「今だ。兵を起こすなら、今しかない。……あたしの勘だ」
于匡がはっとして鄧曄を見た。
「だが……まだ、漢軍は南陽も支配下には入れていない。すぐには俺たちを救援には来てくれないぞ?」
「あたしたちはあたしたちでやるんだ。他人任せになんて、してらんないよ。あたしたちは、あたしたちで、武関を落とす。それでこそ、対等の将軍として話ができるんじゃないか」
鄧曄の言葉に、于匡はガツンと殴られたような気分になる。――自分は、劉氏の支配下に入ることしか考えていなかった。
「今、何人なら動かせる?」
鄧曄が黒い瞳を煌かせて尋ねれば、于匡が素早く頭の中で計算した。
「……百人ちょい、だ」
「上等だよ! 即座に全員を招集しな!明朝、払暁をもって旗揚げする!」
その断固とした表情に呑まれ、于匡は思わず頷き、すぐに幹部に招集をかけた。
王莽地皇四年七月――叛乱軍の更始元年六月。
析県から弘農郡の境界を跨いだ、南陽郡のはずれまち南郷で、《山狼》の鄧曄はついに蜂起した。いつもの男装に身を包んだ鄧曄が、百人と少しの部下たちの前に立ち、《山狼》の前で宣言する。
「あたし、鄧曄は鏢客として正義を尽くしながらも、官憲の非道に命を奪われた、父親の仇を討つ! 王莽の暴政に対して南陽の劉氏が立ち上がった! 漢が復興した以上、あたしたちは偽りの天子を棄て、真実の天子に忠誠を誓うべきと思わないかい!」
「おおー!」
「やるぜ! 親方の仇討ちだ!」
鄧曄はすらりと剣を抜くと、うなじで結んでいた黒髪をすっぱりと切り落とした。
「あたしは女を棄て、天下のために命を擲つ! お前たちはあたしに何を預ける?!」
「命を!」
「お頭、俺も命をだ!」
男たちはどんどんと脚を踏み鳴らし、みな、剣を抜いて自身の髻を切り落とした。――髪を切ること。これは、文明人であることをやめること。人であることをやめ、命を投げ出すに等しい行為だ。その情景に圧倒された于匡も、慌てて刀を抜いて自分の髻を切り落とす。
それを鄧曄の足元に捧げ、叫んだ。
「命を!命に代えて新を倒し、漢の復興に与する!」
旗揚げした鄧曄らの一団はまず、武関の備えとして駐屯していた析県の宰を攻撃した。
「劉氏の皇帝がすでに立った! 天命を知らざる者は滅びるのみ!」
突如襲い掛かってきた《山狼》に県宰は怖気づき、あっさりと降服する。鄧曄らは県宰が率いていた数千の兵を手に入れ、自ら輔漢左将軍を名乗り、腹心の于匡を右将軍として、析県、丹水県を落とし、一気に武関の攻略にかかる。
何しろ、武関一帯を根城にしていた山賊である。瞬く間に武関都尉を降服させ、右隊大夫(元の弘農太守)を殺した。
すぐ足元の武関で叛乱が起きたと知った王莽は慌てふためき、《九虎》と称する九人の将軍に、北軍の精兵数万を率いらせて東に向かわせる。彼らの妻子を人質に取り、多数の財宝を下賜した上で。
だがこれらの施策は民の恨みを買うだけで、すでに兵は戦意を失っていた。
《九虎》将軍は華山の北側、華陰県で深い渓谷に阻まれ、河南郡から大廻して武関へと向かうものの、秦嶺の深い山は、まさしく《山狼》の庭である。山に入り込んだ《九虎》の動向など、すべて筒抜けであった。
狭い山間では、大軍はかえって動きが取れない。于匡は軍を二つに分けた。于匡自らが率いる一隊は、析県で獲得した、山にそれほど慣れていない歩兵たち。だが析県直属だっただけあって、武器の扱いには慣れていた。析県にちょうど、宛救援のために運び込まれた大量の弩が山積みされていた。于匡はそれを奪い、武関へと向かってくる官軍のルート上に弩部隊を配備し、盛り土の背後に隠れて奇襲を仕掛ける。慣れない山道に手間取っていた「九虎」の軍は、見えない場所から飛んでくる飛び道具に対応できず、なすすべなく斃れていく。慌てて退却を命じても、狭い山道で混乱が広がるばかりだ。そこを、鄧曄が率いる別動隊の二万人が後背から衝いた。《山狼》が中核となった機動力のある一団で、山道で自在に馬を操り、《九虎》の軍を蹂躙した。
《九虎》はあっという間に崩壊し、うち《六虎》は命からがら戦場を離脱する。《二虎》、史熊と王況の二将軍は長安の城壁までたどり着いたものの、敗戦の責任を負わされて自殺し、残りの《四虎》はそのまま逃亡した。残る《三虎》は華陰まで戻って、渭水の畔にある京師倉を維持するにとどまる。
鄧曄はついに武関を開き、《漢軍》を迎え入れた。
皇帝・劉聖公に派遣された将軍、李松は、出迎えた「輔漢左将軍」鄧曄の姿を見て、目を剥いた。最初は、ずいぶん細身の男かと思ったが、ほっそりした首筋にも喉ぼとけはなく、腰つきも丸みを帯びている。
(女?! まさか!)
秦嶺の山中を縦横無尽に駆け抜ける鄧曄将軍がまさかの女。ぎょっとして生唾を飲み込んだ李松の前に、黒いあごひげを蓄えた屈強な男たちが数人、立ちふさがる。面構えといい、醸し出す雰囲気といい、どう見ても堅気ではない。
「お頭ぁ……女と見れば目の色変える奴ら、俺は信用ならねぇ。いっそ一思いに……」
男たちの目が危険な色を宿したのを見て、李松は慌てて手を振る。
「そ、そういうつもりはない。驚いただけ。……俺は宛の李松、字は……」
「ああ、そういうのはいい。あたしらは江湖の者だ。全部、本名でやる」
小気味いい女の声が飛び、李松の自己紹介を遮る。
「あたしは鄧曄。通り名は《山狼》の頭だ。――まあ、要するに、武関あたりのケチな鏢局の元締めってやつよ」
「……なるほど! それで、この山の中を自由自在に行き来できるわけだ……!待てよ……《山狼》って言やあ、鄧のおやっさんのか!」
「……親父を知ってんのかい?」
李松はああと頷く。
「俺の家も宛で商売をやっているから、長安に積み荷を運ぶ時に、世話になったことがある。俺もガキのころ、親父について何度か往復して……ああそうか、あの鄧のおやっさんの!」
宛の富豪である李家は、自前でもかなり腕の立つ保鏢を抱えているが、大量の荷を運んだりするには心許ない。そういう場合、彼らもまた鏢局の助けを借りる。
「しかし驚いたなー。女だてらに鏢局を差配するとは……しかも旗揚げまでしちまって」
李松は藍染めの布にくるまれた、鄧曄の頭を見てつくづくと言う。
「あたしは親父の仇を討つのさ。そうして、正しい天子を戴く世に貢献する。それこそが江湖の掟」
傲然と胸を張る鄧曄を見て、李松が肩を竦める。
「まあいいさ。差し当たって、俺たちの目的は同じ。……とっとと、長安に攻め込むとするか!」
女だろうが何だろうが、関中を取り囲む山を知りつくした《山狼》の頭であれば不満はなかった。李松はあっさりと鄧曄軍と合流すると、まっすぐに湖県へと向かい、《三虎》の守る京師倉を攻め、渭水を渡り、左馮翊の界に入って諸県を落としていった。王莽は囚人を解放して武器を持たせ、豚の血を啜って新室への忠誠を誓わせたが、もはや彼らに戦意もなく、瞬くまに漢軍は渭橋を渡り、新室の諸陵墓を暴き、長安南郊の九廟、辟雍、明堂に火を放つ。――王莽が心血を注いだ儒教国家の象徴が、焔に包まれた。
燃える南郊の建築群を見ながら、于匡は少しばかり不安になる。
「……次伯坊ちゃまは大丈夫だったかな……」
南郊には太学もある。被害に遭ってなければいいが。そんなことを考えていると、鄧曄がやってきて言った。
「……さすがに、長安の城門は守りが固いよ。安門も西安門も、奴ら、死ぬ気で守ってる」
「未央宮の南側はデカイ池があって、皇帝がいるのはもっと北の方だぞ?……いっそ、北側から回ったらどうだ? 北側の門の守りは緩いかもしれない」
長安の城壁はさすがの威容で、そう簡単に打ち崩せそうもなかった。
「北の門が落ちて城内に侵入さえすれば、南側の城門の防御なんてしている場合じゃなくなる。どっから入ったって同じことだ」
于匡の提案を鄧曄が李松に伝え、了承された。十月一日戊申、鄧曄らは長安城の東壁の三門のうち、最も北の宣平門から城内への侵入に成功する。即座に王邑、王巡らが応戦するが、鄧曄らの率いる軍は七百人余り、王莽を捕えれば侯に封ぜられるとの餌に釣られ、凄まじい力戦ぶりであった。漢軍は日が暮れると城内の官府に突進して掠奪をほしいままにした。二日己酉になると、掠奪に嫌気がさした城内の市民たちが立ち上がり、侵入した〈漢兵〉と一緒になって、彼らもまた官府の掠奪に参加した。
殺伐とした城内で、于匡は北宮に人をやって妹の所在を確かめたが、未央宮の黄皇室主のもとにいると聞いて、頭を抱えた。
「……まずいな」
于匡は唇をかむ。目標は未央宮の逆賊・王莽なのだから、他の宮殿の掠奪は後回しにして未央宮に集中しろと命じている。北宮にいれば大きな被害を受けないはずだった。
「しょうがないよ。……あたしらも気の毒なお姫様をどうこうしようってつもりはないし。少なくとも、あたしの部下は乱暴狼藉はしないよ」
女将軍の意地にかけて、食料や金品の掠奪はともかく、婦女暴行だけは厳しく禁じてある。
「そうだな……とりあえず、黄皇室主のお住まいは北の作室門の近くで――」
于匡がそう言って、作室門を指さした時――。鄧曄の背後にいた小鯉が叫んだ。
「火だ! 誰かが門に火を放ちやがった!」
守りの堅い城門に業を煮やした暴徒が、作室門に火を放ち、斧で叩き壊して強引にこじ開けようとしている。
「まずい! 俺は突入する! すまん、妹の命の方が大事だ!」
「あ、あたしも行くよ! 待ちなって!――野郎ども、ついといで!」
「俺は前に、中に入ったことがある!こっちだ!」
鄧曄が素早く部下に号令を飛ばし、鄧曄将軍率いる漢軍は、于匡の案内で未央宮内へとなだれ込んだ。
昨日のうちに長安の城門が破られたと聞いて、未央宮内は混乱に陥る。〈漢軍〉がついに長安城に入城し、未央宮に迫っている。やがてはこの未央宮にも至り、宮殿を焼き、金品を掠奪し、宮女たちに狼藉を働くかもしれない――。
椒房殿や掖庭宮の女たちは喧しく騒いで、貴重品を纏め、どこか安全な場所へと大騒ぎであった。折しも、ちょうど南陽の宛で劉聖公が皇帝に即位したその直後、皇帝・王莽は自身の盤石たることを示すために、天下一の淑女として薦められた杜陵の史氏を皇后に立て、鉅万の珍宝を結納金として下賜して、婚礼をなしたばかりであった。さらに和嬪・美御・和人の三夫人に、嬪人が九人、美人が二十七人、御人が八十一人の、合計百二十人よりなる後宮を整備し、掖庭殿は妙齢の女性たちでひしめき合っていた。――いずれも、十代後半のうら若い処女たち。それを迎えるのが、白くなった髭や髪を黒く染めて誤魔化してはいるが、すでに老境に差し掛かった皇帝であるという醜悪さに、心ある者たちはみな、嫌悪した。
もし、血気に逸った〈漢軍〉の兵が未央宮に入ってきたら、この処女たちを見過ごすはずはない。彼女たちを逃すには宮殿の門を開かねばならないが、門を開けば敵兵が雪崩れ込むのは必定だ。掖庭から最も外部に近い、天禄閣の脇にある金馬門は、北側の宮門である北宮門に近く、おそらくは〈漢軍〉や暴徒が最初に狙う門と考えられる。故に金馬門周辺は未央衛尉の軍を中心に、武装した兵士たちに物々しく取り囲まれ、蟻の這い出る隙間すらなかった。虚しく掖庭へと追い払われ、女たちは途方に暮れる。それでも、まだ外部に逃れるという「希望」を抱ける者はマシであった。
掖庭を含む未央宮に住まう宮女たちの、大部分は官婢である。多くは家族の罪によって、官に没入された者や、未央宮で生まれた彼女らの子どもたち。そのほかには男性の機能を喪失し、宮廷に寄生する宦官たち。彼らには未央宮と運命を共にする以外の、選択肢はないのだ。
やがて――北西の作室門に火が放たれたという、怒号が流れてくる。
乾燥した関中の初秋、火は瞬くまに広がって、宮殿を飲み込んでいく。斧で城門を叩き壊し、蹴立てるようにして宮殿内に侵入した〈漢軍〉の兵が叫ぶ。
「反虜王莽! 何ぞ出でて降らざらん!」
反虜王莽――。
確かに、この未央宮は漢の初代、高祖劉邦が着手した宮殿で、二代恵帝以来、歴代の漢の皇帝が住まいとしてきた場所。だが、現・皇帝の王莽は正当な手段を用いて天子の位を禅られたのではなかったか。ほんの先ほどまでは、外から打ち掛かる無法者こそが反虜であったのに、今、かえって宮内に籠る皇帝が反虜と呼ばれているとは――。
火が、黄皇室主の住まう、承明殿へと及ぶのを見て、何人かの兵士は皇帝のいる前殿へと走った。
「漢兵が――いえ、お逃げください、室主様! 火が、北側から火の手があがっています! お早く!」
普段は掃き清められ、静謐が支配する室主の宮殿に、逃げ惑う宮女や宦官の悲鳴が響く。折からの強風で焔があおられ、火の粉が飛んで宮殿は次々と火に包まれていく。
「室主さま――お早く!」
室主は奥の、漢の歴代皇帝の神主の並ぶ廟に座り込み、呆然と神主を眺めていた。駆け込んだ曄はその細い肩に上着を着せ掛け、ゆさゆさと揺すぶって立ち上がらせようとするが、室主は動かない。
「――漢、兵?……漢の、兵が来たの?」
その言葉に、曄はハっとする。――黄皇室主は王莽の娘だ。だが、何よりも彼女は、漢の皇后ではなかったか。
「漢兵ならば、妾は逃げたりしない。妾の夫は漢の皇帝陛下で、妾は漢の皇后です――」
「室主様!」
火が、近くまで迫り、さきほどから煙が立ち込め、パチパチと焔のはぜる音が聞こえてきた。
「睦脩任……いいえ、曄。そなたはお逃げなさい」
「ええ、逃げましょう!だから早く室主さまも――」
「いいえ、妾は逃げません」
「ですが!」
遠くから、王莽や王氏縁の者を探す、〈漢軍〉の怒号が聞こえる。
必死に説得するが、室主は緩く首を振り、退去しようとしない。その顔はずっと正面の、歴代皇帝の神主を見つめ続けている。
「妾は漢の皇后でありながら、逆賊・王莽の娘。漢の聖阼が父に奪われるのを、ただ眺めていることしかできなかった。――何の面目あって、漢家に再び見えることができましょう」
室主の白い頬を、涙が流れ落ちる。
「妾はずっと、この日を待っていたのです。いつか――〈漢軍〉が現れて、劉氏の天命を取り戻す日を。……やっと、やっと、陛下の無念を晴らすことができる……」
「室主さま……」
「室主さま、お早く!〈漢軍〉が近づいてきました! もう、火がそこまで!」
宮殿の表の方から、衛士が声をかける。室主を脱出させるために、曄がすぐ外に待たせておいたのだ。
「室主さま、お願いです、一緒に逃げましょう、室主さま!」
曄もまた泣きながら懇願するけれど、室主は首を振るだけだ。
「何者!この奥はならぬ!」
「そこをどけ! 逆らう者は斬る! 投降すれば命は取らぬ! 武器を棄てろ!」
「おのれ、どちらが逆賊だ!」
ついに、衛兵と漢兵が衝突したらしく、ガキーンと金属音と悲鳴が響き渡る。その音に、室主は呟く。
「漢兵――なのですね?」
室主は素早く、腰に下げた見事な翡翠の佩玉を外し、それを曄の深衣の懐に押し込み、また髪に挿した金玉の釵を外して曄の結った黒髪に挿した。
「お前はお行き。妾は父親の簒奪を止められなかった、不甲斐ない漢家の寡婦。ここで、陛下の神主と運命を共にいたします」
「いいえ! 一緒に逃げましょう、お姉さま!」
思わず叫んだ曄に、室主は目を見開き、そして小さく微笑んで、曄の唇に白い指を当てた。
「……ありがとう、そう、呼んでくれて。でも、もう、二度とはだめよ。妾の妹と知れたらダメ……ね?」
剣撃の音がやみ、荒々しい足音とともに、数人の兵士が入ってきた。それに気づいた曄が、室主を背に庇うように立つ。
「無礼者! ここは……」
「曄?……お前、曄だろ! 俺だ!」
聞きなれた声に、曄が息を飲む。
「……兄さん? どうして……」
室主も入ってきた兵士が、かつて一度、承明殿に呼んだ異母弟だと気づく。
「そなたは……」
「室主さま……」
于匡は慌ててその場に片膝をつく。
「室主さま、俺は今、〈漢軍〉に属しています。あなた様は漢の皇后。何とかお命をお助け申し上げたいと――」
「いいえ。それはなりません」
凛とした声で室主が言い、ゆっくりとその場に立ち上がる。
「妾は漢家に見える面目のない、不甲斐ない寡婦。……どうか、曄を頼みます」
それだけ言うと、室主は素早く身を翻し、すでに焔が広がった奥殿へと走り込んでいく。
「室主さま! だめ――!」
曄が慌てて伸ばした手の、指先を室主の大きな袖の桂衣がすり抜けていく。
「于匡、ボヤボヤしてると灼け死ぬぞ! 火が、すごい勢いで回って――匡?」
駆けこんできた鄧曄は、奥に走り込もうとする若い宮女と、それを背後から捕まえ、羽交い締めにしている于匡の姿を見て、息を飲む。
「于匡? 婦女に狼藉は禁ずるとあれほど――!」
「ち、違う! これが妹だ!……いっちゃだめだ、危険すぎる!」
「でも、室主さまがっ!」
泣きながら暴れる女の目線を追えば、煙と焔の渦の中に、鮮やかな紅い衣を着た女が駆けこむ後ろ姿がちらりと見えた。
「室……主……?」
「曄、諦めろ、いくら何でも、王莽の娘の命乞いはできない。あの人はああするしか……」
「でもっ……あたしだって……!」
「それ以上言うなっ!」
宮女を抱きしめた于匡の様子に、だいたいの事情を察した鄧曄が、于匡に脱出を促し、小鯉も喚いた。
「もうこれ以上は危険っすよ! とっととずらかりやしょう!」
メリメリっと凄まじい音とともに、室主が走り去った宮殿の梁が焼け落ち、屋根が崩れ落ちた。瓦が砕け、火の粉が飛び散って、煙が充満する。
「やばい、退避! お前たち、ついておいで!」
鄧曄が叫び、于匡は妹の曄を無理やり抱えるようにして、燃え落ちる承明殿から命からがら脱出した。
その翌、十月三日、庚戍、夜明けに王莽は焔を避け、王莽は群臣に抱えられるようにして前殿から南へ降り、白虎門を出て未央宮の南側に広がる滄池の、内部に聳える漸台へと逃げ込んだ。なおも公卿大夫、黄門侍郎、従官、千人以上が従い、最期の抵抗を試みる。王莽は自身の受命を予言した符命と、北斗七星を模した威斗、と呼ばれる柄杓を握りしめ、何事かを狂ったように呟いていた。
――天徳を予に生せり。漢兵、其れ予を如何せん。
かつて、絶対絶命に陥った孔子は、その生まれ持った徳によって天の扶助を受け、命を拾った。しかし――。
王莽のもとに、天の奇蹟はついに現れなかった。
日が傾きかけた時刻、ついに漢兵は漸台に乗り込み、乱闘の上、王莽を殺害する。手柄を争う兵士たちによって、四肢はバラバラに引き裂かれ、首は宛の更始帝のもとに送られた。




