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山狼 *司隷部略図あり

挿絵(By みてみん)

 どれだけの時が経ったのか。

 匡は見覚えのない、汚いボロ小屋の天井を見上げていた。隅には蜘蛛の巣が張り、格子窓から差し込む光に、埃が舞っているのを、しばらくぼうっと眺めてからはっとして身を起こす。途端に、右足と脇腹に激痛が走って、思わず悲鳴を上げた。


 「痛っ……!!」


 しばらく目を瞑って痛みをやり過ごしてから、そうっと目を開ける。さっきと同じ、汚いボロ小屋。手探りで身体の下を探れば、土を固めた地面の上に、直接に筵を敷いて寝かされているらしい。身体の上にかけられているのは、何かの動物の毛皮だ。


 「……俺は……確か、崖から落ちて……助かったのか?」


 痛む右脇腹には布が巻いてあった。左手で脇腹を押え、右手をついてそっと身を起こそうとすると、ふいに声が飛んだ。


 「無茶すんなよ、兄さん。しばらく身動きしないで寝てな」


 匡が声のする方に首だけを向けると、戸口に光を背にして誰かが立っていた。顔は翳になって見えないが、だが、あの声は――。


 「……女?」

 「悪かったな、女で。……で、どうしてアンタ、あたしの名前を知ってるんだい?」

 「名前?」

 

 室内に入ってきた女が匡を上から覗き込む。ようやく、顔形がはっきり見えた。長い黒髪をうなじで無造作に一つにまとめ、頭には藍染めの布を巻いている。声は紛れもなく女のもので、だが背丈は女にしては高く、顔は不細工ではないが潔いほど化粧っ気がない。話し方も仕草も、まるきり男であった。


 全体を見ても、膝上までの短褐に帯がわりに荒縄を腰に巻き、男のようなズボン、スネには脚絆まで巻いている。そして袖なしの、毛皮でできた上着。腰には山刀を手挟んで、山中の猟師か山賊か、といったなりであった。


 「俺は……アンタの名前なんて知らない……」

 「でも、あたしの名前をずっと呼んでるって、手下どもが連れてきたんだけどな。……曄って」

 「曄は……俺の、妹の名前だ……」

 

 女は切れ長の目を大きく見開いたかと思うと、アハハハハっと弾けるように笑い出した。


 「なんだ、おっかしい! いやね、あたしもアンタなんて見覚えないのにさ、手下どもが、あたしの情人イロなんじゃないかって、勝手に邪推してさ……やだよ、もう……」

 「あんた……曄ってのか」

 

 匡が尋ねると、女は笑うのをぴたりとやめ、まっすぐ匡を見て言った。


 「アンタ、どこの若君かしらねぇけど、人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが江湖(渡世人)の掟だ」

 

 匡ははっとして、慌てて言った。


 「すまない、俺は、匡だ。もし、命を助けてくれたのなら、礼を言う」

 「救けたのはあたしじゃなくて、手下の小鯉って奴だ。……アンタ、姓は何てんだい。馬鹿な天子様が二文字名前を禁止してから、同じ名前ばっかで分かりにくくてしょうがねぇ。あたしは、鄧曄。もっとも、山狼のカシラって方が、このあたりじゃあ、通りがいい」

 「山狼……俺の姓は……」


 匡は一瞬、戸惑った。常安では王莽の子という触れ込みだったから、もちろん王姓を名乗っていた。匡は自分の父親が王莽でないのを知ってるが、本当の父親の姓は知らない。新野では姓を名乗ることはめったになく、必要があれば母の姓を名乗った。


 「俺は……于匡うきょう、だ」

 「于匡……なるほど。で、アンタの妹が于曄、と。ホント、同じ名前が多くて紛らわしいねぇ」 


 鄧曄と名乗った女は、どっかりと匡の横たわる隣に胡坐あぐらをかき、懐から竹の皮に包んだ握り飯を取り出す。


 「ほら、食いな。腹減ってるだろ?何しろ二日もおねんねしてたからね」

 「ふ、二日?……もう、二日も経ってるのか……すまない。遠慮なくいただく」


 匡は握り飯を受け取ると、がっつかないように、意識的によく噛んで食べ始める。その様子を、鄧曄がじっと見ていた。


 「アンタ、どうして関所破りなんてしようとしたんだい? あたしたち江湖の者とは違う、堅気カタギの匂いがするよ?」

 「……身分を隠して関所を通りたかったから……」

 「隠さないといけない、御大層なご身分ってことかい?……それにしては……」


 鄧曄が目を眇め、上から下まで値踏みするように見る。


 「なんだろうね。こう見えても、あたしは人の身分育ちを見抜くのは得意な方なんだが、アンタはさっぱりだ。上つかたにはとても見えないが、さりとて、素寒貧すかんぴんってのとも違う。アンタ、何者だい?」

 「……その、どうして救けてくれたのだ」

 「あたしの名前をうわごとで呼んでるからさ? ……まさか、妹の名前とは思わなかったよ」

 「でも、俺は関所破りの、罪人だ。もし俺を匿ったことがバレたら……あるいは、おかみに突き出すつもりで?」

 

 鄧曄がふたたびアハハハハっと笑う。


 「あたしは《山狼》のカシラ……つまり、この辺りを仕切る鏢局ひょうきょくカシラ兼、時々は山賊だよ? 山賊がおかみに『こいつ、関所破りです』って連れてくわけないだろ。自分が捕まっちまうじゃねーか」

 「山賊……」


 今度は匡が、鄧曄を上から下までジロジロと見た。鏢局ひょうきょくとは、運送業と用心棒を兼ねた組織で、貴重な物品の輸送と、その安全確保を請け負う業者である。(*1)そういう組織にありがちだが、容易に山賊に変貌する。おかみとは別の論理で生きる、要は江湖ヤクザの人である。


 「俺は……その……故郷に帰りたかったんだ。無理矢理、常安に連れて行かれて……」

 「無理矢理?」

 「俺の母親は、とある貴族の邸で働いていて、主人の手がついて俺と妹を生んだ。ずっとほったらかしだったのに、突然、父親が迎えに来て――」


 鄧曄の目が大きく見開かれる。


 「結局、母親は常安の水が合わなくて、死んだ。今の政権は落ち目だし、俺は父親って男が大嫌いだから、逃げたんだ」

 「妹は置き去りかい?」

 

 匡が目を伏せる。


 「さすがに、妹まで連れて逃げたら、バレる。……何とか故郷に帰って、それから救い出す方法を考えようと思って……」

 「で、どこに帰るつもりなんだい」

 「南陽の……新野に以前仕えていた家があるが、そこには戻れない。迷惑をかけるわけにいかないから。でも、力になってくれそうな人はいるから、その人を頼るつもりで……」

 「アンタ、主持ちだったのかい」

 

 なるほど、と鄧曄が頷く。


 「どうりで、ちぐはぐだったわけだ。……なるほどね」

 「その……救けてくれてありがとう。だが俺は、何も返せるものがない」

 「そりゃあ、見ればわかる」

 「どうやって、この御恩を返したらいいのか……」


 鄧曄がぐい、と顔を寄せてきて、真正面から匡の顔を見た。


 「アンタ……あの崖から滑り落ちて死ななかった。あそこはね、一番の難所だ。今まで、あそこから落ちて助かった奴を、あたしは一人しか知らない。――あたしの、死んだ祖父じいさんだよ。だから、あたしはアンタを助けることにした」


 鄧曄はにっと唇の端をあげた笑うと、豪快に笑った。


 「とにかく、怪我を治しな。なに、あたしたちも慈善事業じゃあないから、タダとは言わないよ。まずは怪我を治してから、とっくりと返してもらうさ」


 そう言うと、鄧曄は立ち上がって、ボロ小屋を出て行った。後には、匡が一人だけ、残された。






 匡の怪我が治るまで、二か月かかった。

 《山狼》は秦嶺山脈の急峻なやまなみを根城とし、金を払えば積荷と旅人の安全を守る鏢局である一方で、契約外の旅人やおかみの輸送品はあっさり頂戴する神出鬼没な山賊と化す。大人しく積み荷を差し出せば命を取らないが、逆らえば皆殺しも辞さない。この広い山塊を根城とする山賊たちの中では最強であり、《山狼》が守る隊商と知った、他の山賊は手出しはしない。


 そんな凄腕の集団を束ねるのが、まだ若い女だというのが匡は意外で、また命を助けられた恩を返すために、匡は身動きができるようになると、彼らの事務を手伝うようになった。まだ半人前だったけれど、匡は新野の大富豪、陰家の帳簿管理を学び、膨大な数の下戸こさくにんの租税や地代徴収、共同作業の割り振りなどに関わっていたからだ。鏢局としての収益や、山賊としての分捕り品を公平に分配し、保鏢ようじんぼうとしての仕事の割り振りに不公平感をなくす。万一、怪我をした場合には家族に補償金が支払われるように制度を整えた結果、分け前をめぐる争いがめっきり減った。さらに匡自身は報酬を要求しなかったので、絶大な信用を得ることに成功した。


 その上、匡は画期的な方法を編み出した。現在で言うところの為替かわせに当たるものだ。

 《山狼》はその組織の必要から、本拠地の武関だけでなく、函谷関のある新安、そして街道の出入り口にあたる藍田と析県、湖県にも拠点アジトを持っている。例えば析県から武関を通って藍田県に抜けて、銭五百銭を移送しなければならない場合、これまでは重い銭を持ち、えっちらおっちら山道を行かなければならなかった。だが、匡が考案した方法では、析県で五百銭を預け、割符を作ってもらい、旅人は手ぶらで山を抜ける。藍田に着いたところで、割符を見せれば五百銭を受け取ることができる、という仕組みだ。わずかな手数料で、もし符を盗まれてしまった場合でも、もとの析県に戻れば再発行が可能であるし、藍田では本人確認ができない符では金を渡すことはないから、一種の保険にもなる。もちろん、長年、《山狼》として積み上げられてきた信用あってのことだが、この仕組みを使えば大げさな保鏢ようじんぼうを雇う必要がなく、これまで鏢局に頼らなかった新たな顧客の獲得にも繋がった。


 「……この仕事は、いつからやってる?」

 

 割符にするための竹を削りながら匡が尋ねれば、鄧曄が首を傾げた。


 「もとはあたしの祖父じいさんが作った、もっとしょぼい、保鏢ようじんぼう集団だよ? あたしの父親の時代にはけっこうデカくなってね。もっぱら堅気カタギの商人を相手にしていたけど、親父は些細なことでおかみに捕まってね。……密輸品を運んだってことで、手が後ろに回っちまったんだけど、父さんに罪はないんだよ。父さんが請け負った商人の、手続きが不備で、父さんはとばっちりだったんだ。……でも関都尉は許してくれなくてね。ちょうど、やたらめったら大赦が連発されている時期で、大赦が出る前にって、異例の速さで処刑されちまった。それで、父さんの手下どもが怒ってさ。山賊を兼任するようになったのは、それからさ」

 「……じゃあ、この大所帯を抱えるようになったのは……」

 「あたしが後を継いだ時はもっとショボかったんだよ。あたしは大所帯にするつもりなんて、サラサラないけど、どんどん、集まってきちまう。食い詰めて縋ってくる奴らを、追い返せないだろう?」


 鄧曄の直属の幹部たちは、祖父や父親以来の地元の馬喰ばくろうたちだが、ここ数年、食い詰めた近隣住民や関東からの流民が流れついて、保鏢ようじんぼう志願の数が増え続けているのだ。

 鄧曄はうなじで一つにひっつめた髪をバサリと振って、面倒くさそうに肩を竦める。


 「実際、分け前が不公平だ、なんて諍いは絶えなくてねぇ。……まあ、不満があるなら出ていけって言えば、黙る程度のものだったけどね。でもそろそろ、ヤバい空気だったから、あたしも頭を悩ませていたんだ。――ねぇ、アンタさ、しばらくあたしの下にいるつもりはないかい?」

 「……俺も山賊になれって?」

 「だって、話を聞く限り、アンタ、故郷に帰ったって食いぶちもなけりゃ、妹を助けるアテもないじゃいないか。それなら、あたしの下で働いて、小金でも貯めた方がマシだろうに。あたしもね、もっと……なんて言うんだい?、もっとこう、スッキリとさ、下っ端どもを纏めたいと思ってたところでさ」

 「……効率的に山賊業を経営するということか?」

 「そうそう、それそれ。……てうちの本業は山賊じゃあないよ。あたしの見る所、今の王氏の天下も長くはない。この後、自分たちがどうなるのか、誰の下につくのか、間違えちゃいけない。今はその、見極め時って奴だね」


 鄧曄の言葉に、匡が黒い目をすっと開いた。


 「あんたも、政権は長くないって思うのか」

 「だってどんどん流民は増えて、あたしの下で働きたいって奴も増える一方なんだよ? 誰が好き好んで、こんな山の中を転々として、商人の荷馬車を命懸けで守る稼業なんてやりたがるんだよ? おかしいじゃないか。それだけみんな、切羽詰まってるのさ。なのに、長安のお偉方ときたら、全く改める気がない。この前なんて、天下から女を募集するってさ。笑っちまったよ、あのジーサン、いつまでやる気なんだか」


 フンと鼻を鳴らして、鄧曄はいかにも軽蔑した風に言い捨てる。匡も宮女募集の話は耳にして、醜悪さに吐き気すら催したものだ。


 関東の赤眉や緑林の叛乱は広がり、飢饉は連年続いているというのに、皇帝はロクな手を打てないまま、未央宮に閉じこもり、洛陽に遷都するなどと世迷言ばかりだった。


 「俺の妹は未央宮にいる」

 

 匡の告白に、今度は鄧曄が目を見開いた。


 「宮女にされちまったのかい?」

 「……いや。要するに、俺たちの父親が皇帝だった」

 「は?」


 鄧曄の黒い瞳がまん丸だなと、匡は何とはなしに思う。普段は切れ長なのだが、見開くと意外に目が大きく、黒目がちだ。


 「俺たちの母親に手を付けた貴族ってのは、当時の新都侯。後に皇帝になったあの男は、野心のために息子を次々殺していって、全員死んでしまったから、慌てて昔、気まぐれに手を付けて産ませた子供たちを、南陽から呼び寄せたんだ。……でも俺は本当は、あの男の子じゃなくて、母の夫の子どもだった。ばれたら殺されかねないから、逃げてきたんだよ。俺は死んだことになっていて、その証言を妹がしてくれているはずだ。妹は本当に皇帝の種だけど、俺たちのような下賤な母親の子どもは、他の一族には歓迎されていない。どこかに嫁がされるにしろ、飼い殺しにされるにしろ、どうせロクなことにならないだろうし、なんとか助け出したいと思っている」

 「それは……つまり……」


 鄧曄が困惑して表情を歪める。


 「未央宮から公主様おひめさまを攫うってことかい?」 

 「食事はとりあえず出るけど、公主様なんて扱いじゃなかったな。未央宮じゃなくて、北宮にいた。何より怖いのは、このまま政権が転覆した後のことだ」


 匡が、まっすぐに鄧曄を見つめた。


 「あんたも、王氏の天下は長くないと考えている。俺も同感だ。だがその場合、どういう形で政権が潰えたにしろ、皇帝の血を引く者は皆殺しにされるだろう。……俺は、そんな風な殺され方だけは納得がいかない。好きで皇帝の子に産まれたわけでもなく、二十年以上、ほったらかしにされて、俺たちは奴婢として働いてきたんだ。それを、拾い上げてやるから感謝しろ?……ふざけるなって、叫びたかった。その上、奴らが滅びる時に道連れなんて御免だ。だから、政権が転覆する前に、妹を助け出さないといけないんだ」


 鄧曄はしばらく考えるように、じっと匡を見つめ返す。


 「アンタは、南陽に戻ってその算段をするつもりだった」

 「……少なくとも、協力を頼めそうな人の、下に抱えてもらうつもりだった。南陽の劉氏の一族だ。俺のお仕えしていた家の、お嬢様の許嫁いいなずけだった人だ」

 「南陽の、劉氏――」

 「王氏が滅んだあと、天下はきっと劉氏の下に戻る。その人がそうなるかはわからないが、劉氏の近くにいれば、いつか、あのクソ皇帝に一矢報いることもできるんじゃないかって……」

 

 鄧曄は黒い瞳で見透かすように匡を見つめ、言った。


 「……あたしは、親父の仇を討ちたいと思ってる。親父は実のところ、関都尉の野郎にハメられたんだよ。劉氏の時代だって、何もかも素晴らしかったなんて、言わない。でも、少なくとも、親父は理不尽な理由で殺されたりはしなかった。――もし、この世の中がひっくり返るのなら、あたしは見ているだけなんて、嫌だ。あたしのこの手でひっくり返し、親父の恨みを晴らす。……あんたが、長安の皇帝にゆかりがあるってんなら、あたしにとっては渡りに船。あんたが祖父さんと同じ場所で崖から落ち、助かったのも、全ては天のお導きかもしれないね」


 曄の話に、匡はびっくりして目を剥いた。だが、鄧曄の申し出は匡にとっても悪くはない。故郷の南陽には帰りたいが、帰っても暮らしを立てるアテはないし、下手をすれば逃亡者としておかみに追われる立場になりかねない。このまま、鄧曄の稼業の手伝いをすれば、少なくとも日々の食には困らずに済むだろう。少し考えて、匡は頷いた。


 「わかった。このまま、あんたの下で働かせてもらう。将来の挙兵を見越して動くことになるが……」

 「ああ、わかってる。別に、あたしは将来、大金持ちになろうとか、天子になろうとかは全く思わないけど、世の中が変わるんなら、あたしもその渦の中心に立ちたいってだけの話だ。……そして世の中が定まるようなら、上手く渦を抜け、安楽な老後のための、多少の財産を頂戴して引退する。それがあたしの理想だね」

 「……そういうのが、一番、難しいと思うんだが……」


 世の中の変革に立ち会い、安穏な老後を迎えた人物は少ない。ずいぶん、勝手なことを言っているな、というのが、鄧曄の「理想」に対する、匡の感想であった。




 



 地皇三年(西暦二十二年)夏、東方から天を覆うばかりの蝗の大群が、長安に飛来した。関東から流入する流民は十万を超え、しかし長安にも食は乏しく、十中の七ハが死亡した。長安まで辿り着けぬ者は、武関周辺の山中で力尽き、その屍を野に晒した。――この世の地獄が、すぐそこまで来ている。于匡は決起の時を計っていた。


 十月、南陽で劉伯升や宛の李次元らが兵を挙げたとの知らせが、秦嶺の山中にも聞こえてきた。

 正直に言えば、先を越されたという気分であった。だが、一つの目標はできる。


 旗揚げの後、南陽の劉氏の叛乱に合流することを目指せばいい。いずれ、彼らが長安に侵攻するとき、武関を開いて彼らを関中に引き入れる、先導役になればいい。

  

 南陽で大規模な叛乱が起きたことで、宛と長安を繋ぐ武関の警戒が強まる。武関都尉による哨戒も厳しくなってきた。物資が滞れば、長安の飢餓もさらに甚だしくなる。

 山中の他の山賊の跳梁跋扈もますます激しくなる。もちろん、彼ら自身も糊口をしのぐために隊商を襲うこともあるが、目に見えて上がりは減った。奪った物品を売りさばく、市場も縮小の一途をたどっている。


 「いったん、武関の東側に拠点を移そう。せき県には長安からの物資が集積されるから、鏢局ひょうきょくの仕事は山のようにあるはずだ。事態が動くときは長安ではなく、東から動くはずだ。南陽の情勢をにらみながら、時を待とう」


 于匡の意見に、鄧曄も同意した。《山狼》は、南陽に近いせき県で、旗揚げの時を待った。





 地皇四年(西暦二十三年)正月、南陽の劉伯升ら率いる叛乱軍が、前隊大夫甄阜、前隊属正梁丘賜らの軍を大破したとの知らせが入る。叛乱軍は宛を囲み、戦況は膠着した。長安から宛を通って東に抜ける、帝国の大動脈が一つ、使えなくなるということだ。長安から武関を通って南陽に向かうはずの物資が、析県で無駄に積み上げられていく。


 「おカシラ、数日前に宛へ送った積み荷が帰って来ちまったよ。宛が落ちるまで、おまんまの食い上げかね?」


 析県では、鄧曄は鏢局ひょうきょくの女主人らしく、地味な藍染めに黒い縁取りの曲裾深衣に布履を履き、黒髪を背中でひとまとめにして、案外と女らしい装いだ。于匡は女主人の忠実な番頭というなりで、細い木簡を編綴へんてつした帳簿を繰りながら、情報の整理を行う。


 「あのあたりに、荘伯石将軍だか何だかいう人が、大軍を率いていたんじゃなかったかい?」


 納言将軍荘尤、秩宗将軍陳茂の軍が、しばらく前に析県を通過したのを確かに確認している。


 「あ、それは宛に入城しようとしたところを追い払われちまったとかで、北の潁川郡の方に逃げっちまったそうで」

 「あらまあ、弱いこと」


 侮蔑感たっぷりに鄧曄が言い、于匡もつい、噴き出してしまう。


 三月、舂陵劉氏の劉聖公が漢を再興して皇帝に即位し、更始元年と改元すると、これに危機感を覚えた長安の皇帝は、未曾有の大軍を編成して洛陽から宛の救援に向かわせた。その知らせに于匡は砂の地図を描きながら考える。例によって、髭面の小鯉が集めてきた情報を開陳する。


 「洛陽に集めた兵力は百万って豪語してますぜ?」

 「ひゃくまん~?」


 鄧曄が黒い目を見開く。


 「そのうえ、兵法の専門家が何十人、巨無覇きょぶはって巨人に、猛獣も引き連れて、南陽に向かってるって」

 「巨人に、猛獣? 猛獣なんてどうする気だ?」

 「俺に聞かれてもわかんねぇっすよ」

 「餌代ばっかかかって、役に立ちそうもないけどねぇ。腹が減ったら、敵だけじゃなくて、味方にも襲いかかりそうじゃないかい?」

 「兵法家を何十人も連れていっても、それこそ船頭多くして船、山に登るって奴だろう。……馬鹿だと思ってたが、やっぱり皇帝は馬鹿だな」


 于匡が首をひねるけれど、余分なおまけはともかく、百万の勢は叛乱軍に軽く十倍し、宛の包囲軍が飲み込まれるのも時間の問題と思われた。百万の衆を食わせるのは大変だが、数を恃んで短期決戦に持ち込めば、おそらく叛乱軍は一たまりもない。


 ところが、彼らの懸念を余所に、なんと洛陽からの百万の大軍は途中、潁川郡と南陽郡の境にある、昆陽という小城を囲んで膠着状態に陥る。


 「昆陽?……なんでそんなちっこい城をあえて囲んだのさ。とっとと宛を攻めれば勝利は目前だったのに。官軍の将軍ってのは馬鹿なのかい?」


 鄧曄が呆れて言えば、やはり情報を運んできた髭面の小鯉シャオリーも首を傾げる。


 「俺にもわかんねぇっすよ。洛陽から南下してきた大軍を、けなげにも迎え撃った将軍がいるんすけど、これが尻尾巻いて逃げて、一目散に駆け込んだのが()()()()昆陽の城だったんでさ。勢いに乗って追いかけてきた官軍は、そのまま百万の軍で昆陽を何重もに包囲しちまったんだと!ただでさえ百万の兵に食わせなきゃならねぇのに、寄り道している暇なんざねぇと思うんすけどねぇ」

 「たまたまなわけがない! わざと昆陽を囲ませたんだ!」


 于匡の言葉に、鄧曄が怪訝な表情で尋ねる。


 「わざとってどういうこと?」


 于匡がいつものように、砂の地図を素早く描きながら説明する。


 「具体的にどんな風に挑発したのかはわからないが、宛は洛陽から見て真南だが、かなり峻嶮な山があるから、狭い谷間の道を通って、昆陽方面から迂回するしかない。この谷間のどこかまで兵で迎えに行き、少しだけ戦って昆陽に逃げこむ。百万の兵は昆陽如きの小城、すぐに落とせると勢いに乗じて包囲するが、昆陽は準備万端だった。……この城の周辺は河も流れていて守りにやすく攻めるに難い。ここで百万の軍を足止めし、その間に宛を落とす作戦だ」

 「……なるほど。それが目的なら数か月はもつね?」

 「百万の軍を食わせるのだってタダじゃあねぇ。下手すりゃ、包囲される方は食料が有り余って、包囲している方が先に餓えるかもしれん」

 

 昆陽と宛と、どちらが先に落ちるか――それによって情勢が大きく変わる。だが、さすがの于匡も、劉文叔がわずか一万前後の兵で百万の軍を壊滅させることまでは、予測できなかった。

  

*1 鏢局

運送業兼、用心棒の組織。グリーンディスティニーでミシェル・ヨーが経営していたやつ。多分、漢代にはまだないけど、運送屋はあったと思う。でも呼び方わからないので、「鏢局」を使うことにしました。

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