黄皇室主
地皇三年(西暦二十三年)正月、匡と曄の母、増秩が、北宮でひっそりと息を引き取った。
増秩の死後、その息子・功建公の王匡は悲哀のあまり正気を失い、ついに北宮の池に身を投げた。池の端に匡の履が脱ぎ捨てられていたが、池は存外に深くて浚うこともできない。同母妹の睦脩任王曄の証言が決め手となり、匡は自殺で片付けられた。――身分卑しい母を持つ皇帝の庶子を疎ましく思う者も多く、親孝行が高じての自死に、安堵する空気すらあった。
いつまでも庶子たちを北宮で養うのもよろしくない、などと言う者も現れ、功脩公の王興は、長安城内に邸を与えられて北宮を去った。――実質的には軟禁である。女である曄はどこかに嫁がされるのかと不安に慄いていたが、どういう理由か、未央宮の承明殿に住まう、黄皇室主の下で暮らすようにとの、命令があった。
意味がわからなくて目を見開く曄に、迎えにきた老女が言う。
「黄皇室主さまにおかれましては、功建公どのの死に衝撃を受けられましてね。あなたのことが気がかりであると。折から、室主さまの侍女が病を得てお暇を取りましてね。周囲が寂しくなったこともあって、睦脩任様を身近にと、思いつかれましたようで」
失礼な言い方かもしれないが、と断った上で、老女は、室主の側で半ば侍女のような暮らしになるはずだ、と言った。
「……侍女をするのは構いませんが、わたしでお役に立つでしょうか」
曄の問いかけに、老女が頷く。
「姉妹とは言え、室主さまとあなた様では、大きなへだたりがございます。母親の身分もそうですが、これまで生きた時間と申しますか。……室主さまはああいうお育ちですから、身の廻りのことも自分ではほとんどおできにならない。誰かがお側につかなければならないのなら、半分でも血のつながったあなた様がいいと、室主様のご希望にございます」
黄皇室主がぜひにと言うのであるし、どうせ曄に断る権利などないのだ。
その日のうちに、曄は未央宮内の承明殿に移り、生活は一変した。……といっても、曄自身にも少ないが侍女は付けられて、皇女の体面は保たれているが、要するに室主の侍女として暮らすことになった。
毎朝、黄皇室主は規則正しい時刻に起き、一角に設けられた漢の歴代皇帝の神位に礼拝する。うち、わずか十四歳で早世した、夫・平帝の神位にはとりわけ長く――。
それを済ませてからやっと朝食を摂るが、内容は質素なものであった。黍か粟の粥と、野菜の浸し物、肉か豆の醤、川魚の干物を焼いたものなど。冬の寒い時期は、野菜の羹の中に、餅を入れた煮餅という食物を好んだ。麥を引いて粉にし、水で練ったタネを全般に「餅」と称するが、現在のすいとんに近いものと推測される。――ここから細く長い麵に進化するには、短く見積もってもあと二百年ほどは必要であろう。拉麺への道程は、遥かに遠い。
殻の硬い麥を挽いて粉にし、水を加えて捏ねて食するのは、武帝時代に張騫が西域からもたらした新しい文化で、また麥を粉にするのは結構な重労働であるから、まだ全土に普及するには至っていない。常安の市では焼いた餅を商う屋台もあり、民間育ちの宣帝が好んで食べたと言うが、むしろ宮廷は、新しい食物の移入には慎重であった。麥(コムギとオオムギの区別さえなされていないことがほとんど)は当時、もっとも貧相な穀物で、貧しい食事の代名詞であったから、粉にしたとはいえ、宮廷料理に取り入れられていることが、実のところ曄には率直に驚きであった。
一見、穏やか見える承明殿の暮らしの中で、曄は黄皇室主がなぜ、曄を身近に置くことにしたのか、間もなく知ることになる。
十日に一度ほどだが、室主の父、皇帝が彼女の元にご機嫌伺いに現れる。常安に来て最初に爵位を授与された時以来、二度目の親子対面であったが、案の定、皇帝の方は曄に気づかなかった。ただ、見慣れない侍女だと認識したのか、近づいてきて曄の顔を覗き込み、馴れ馴れしく肩に触れてきた。
すでに齢六十の半ばを過ぎ、古希の声も聞こえそうなこの男は、だがいまだに女に対して旺盛な欲を抱いているのか、長く連れ添った皇后王氏の死後、全土から新たな皇后を募ろうなどと考えていて、ニヤニヤと醜悪な老いた顔を曄に近づけ、猫撫で声で言う。
「そなた、新しい侍女であるな。……朕が目をかけてやってもよいぞ?」
曄の細い手首を握ってくる掌が妙に熱くて、曄は背筋に悪寒が走った。
「陛下、その娘はなりません」
即座に鋭い声が飛び、皇帝はビクっとしたように曄から手を離す。声の主は彼の娘、黄皇室主であったが、およそ普段の穏やかな声音とは違う、厳しく冷たい声であった。
「室主よ……わが娘よ。朕は慾で申しておるわけではない。ただその……広くおなごを取り立ててやらねばと思うて……」
「それは睦脩任でございます」
「睦脩任?」
自分で封建した娘すらもすでに忘れているのか、皇帝は老いを誤魔化すために白く塗った顔を傾げる。白粉の下からうっすらと醜い染みが浮かんで、かえって醜悪であった。
「睦脩任と、睦逮任。睦逮任の方は匈奴の後安公に嫁がせたではありませんか。お忘れですか?」
「あ……ああ……」
皇帝はしばしポカンとした表情で虚空を見つめてから、ようやく合点がいったらしく、曄を振り向いて言った。
「そなた、あの時の。……では、母もこちらに来ておるのかな? 久しぶりに朕の元に召しだしても――」
「母は二か月前に亡くなりました」
感情のない声で曄が告げれば、皇帝は衝撃を受けたような表情でフラフラと足元をよろめかせる。
「なんと――」
すぐそばに控えていた大柄の宦官がそれを支えると、上座にしつらえられた牀に皇帝を導き、座らせる。
「なんということだ。誰も彼もが朕を棄てて去って行く――」
常安に呼び寄せるだけで、目通り一つ許さなかったくせに何を言っているのだと、曄が眉を顰めるのを見て、室主が言った。
「北宮で病を得ておりましたとか。母亡きあと、息子の功建公も後を追ったそうでございますよ」
「なんと――かように孝行な息子を、朕はさらに一人失ったとは……」
匡の自死については当然、報告も上がっているはずなのに、全く理解していなかったらしい。人は年を取ると子供に返るというが、あるいはこの人もそうであるのか? こんな理解力で果たして、国政を切り盛りできるのか?
不安に思う曄を余所に、黄皇室主がさらに父親を言葉で切りつけた。
「今さらでございましょう。……最初は次兄、それから長兄……四兄も何やらきな臭い噂がございます。母上は陛下が息子たちを殺したことを嘆き、泣きすぎて失明し、そのまま亡くなられた。この上新しい皇后などを娶り、さらなる被害者を増やすおつもりですか」
「何を言われる!……朕は、朕はすべて、この天つ下の平安を祈ればこそ!」
「ならば新たな皇后など、お考え直しくださいませ。新たに皇后に立てるとすれば、二十歳前のお若い方を選ぶことになりましょう。娘の妾より、十以上も年下の義母など、あまりにも天の道に反しております」
さらにまだ皇后を娶るつもりでいるらしい、目の前の老人の醜さに、曄は吐き気さえ催すが、皇帝はただ首を振る。
「皇帝には皇后が必要であるぞ。天に地がある如く、日に月がある如く。欠くれば世の調和が乱れ、戦乱の世になろう。……よい、朕は用事を思い出した。これで失礼する」
フラフラと立ち上がり、どこか焦点の合わない瞳を虚空に据えたまま、皇帝は承明殿を出て行った。その老いた背中が視界から消えるのを待って、黄皇室主が溜息をつく。
「本当に……醜いこと」
室主は曄を手招きすると、自身の座る牀の、空いた場所に座るように言った。
「それは、座が近すぎて失礼にあたります。わたしは床で……」
「いいえ、今は二人だけだから、あなたは妹として同じ座についてちょうだい。……妾ね、ずっと姉妹が欲しかったのよ」
そこまで言われてしまうと逆らえず、曄は恐る恐る牀に腰を下ろす。
「陛下の女癖はあの年になっても改まらないわ。……以前の侍女にも陛下のお手がついて……身籠ったけれど流れてしまったことで心を病んでしまった。実の娘であるあなたなら、陛下もお手をつけないと思って、来てもらったの。黙っていてごめんなさい」
「そういうわけでしたか……」
種明かしをされれば、極めて下世話な、そしてくだらない理由であった。
「あなたの兄君は残念だったわ。……でも、あのまま生きていても、おそらく飼い殺されておしまいね。もう一人の、功脩公もまともに扱うつもりはないようだし」
「……三十近くまで、田舎の下戸として過ごしてきた無学の人間が、突然、与えられた贅沢な暮らしに耐えられるわけがありません。頭がおかしくなるか、中身が腐って崩れるか、どちらかです。兄は、母が生きているうちは……と耐えていたようですが」
「妾は働いたこともないけれど、きっとそうね……。定安公も果たしてどんなことになるか」
定安公とは平帝の死後、漢帝の跡継ぎにと連れて来られた幼児で、その当時まだ二歳あった。現在は二十歳になるはずだが、もちろん、監禁状態に置かれてまともな育ちは望めない。
「窓もない部屋で、誰も話かけることを禁じて、ケダモノも同様よ。妾の姪が相手をさせられていたけれど、狂気は伝染するのか、あの子までおかしくなってしまった……」
黄皇室主は一時は定安太后として、彼の母親格の立場にあったから、何とか救えないかと父親に掛け合ったが、全て無駄であった。
「妾が彼に心を寄せるのを嫌って、妾は太后ではなく、黄皇室主、なんて珍妙な名を与えられ、漢からも断たれてしまった。……結局、何もできなかった」
悄然とうなだれる室主の手を、曄は無意識に握って、その滑らかな手の甲を撫でた。
「ご自分をお責めなさいますな。あなた様のせいではありません」
「……ありがとう……」
黄皇室主は微笑むと、ふと視線を遠くに飛ばす。
「……文母太后陛下がご存命でいらっしゃった間は、まだよかった……」
新室文母太皇太后とは、現皇帝の伯母にして、漢元帝の皇后、成帝の母であり、王氏の繁栄の源になった女性である。自身の一族によって漢室の天命が奪われるのをその目に見て、怒りと後悔に苛まれながら、八十五歳の生涯を閉じた。
「ずっと、漢の暦を奉じ、漢の色の服を守り、ただ先帝たちにひたすらに詫びておられた。……自分は、漢家の老寡婦である、と。妾もあの方と同様に漢の祖宗を祀り、この命を終えれば黄泉の下で夫や先帝陛下のお叱りを受けようと思う」
「……でも、室主さまのせいでは……」
室主は首を振った。
「亡くなった陛下にとっては押し付けられた妻でしかなかったけれど、妾は最後まで、陛下の妻でいたいと思う。その気持ちを理解してくださるのは、亡くなられた文母太后陛下ただお独りだけ」
そう言って、長い睫毛を伏せてから、室主はふと目を上げ、曄を見た。
「妾はここに閉じ込められ、外に出ることももう、ない。……あなたは、南陽を見たのでしょう。話を聞かせて。ほら、あの……あなたが仕えていたご令嬢の」
「ええ……陰麗華様のことですか? どこまでお話ししましたっけ?」
「十歳の時に、年上の男性に求婚されたところまでよ。その男性はどんな方なの?」
籠の鳥のような生活を送る室主にとって、田舎の一令嬢の日々はひどく興味を引くものであったらしい。ここにきて以来、曄はしきりに、南陽の新野で暮らす、元の主の物語をせがまれる。
「ええっとそうですね。劉氏の方で。……列侯家の分家筋で、背丈は普通。顔立ちははっきりした感じで……」
「きっと素敵な方なのね? いいわね、羨ましいわ。いえ、妾だって、亡くなった陛下のことは好きだったのよ? でも亡くなった時は、わたくしよりまだ背が低かったのよ」
少女のようにうっとりとした表情で、曄の話に耳を傾ける高貴な異母姉に、曄はたんたんと、かつて仕えた陰麗華の物語を語っていくのであった。
母の増秩が死に、かねての予定通り、匡は自死を偽装して北宮を抜け出した。
妹の曄がうまくやってくれたのだろう。追っ手はかかっていない。だが、万が一にも身許が割れたら大変なことになる。匡は慎重に自身の痕跡を消しながら、東へ――故郷の南陽を目指した。
敏い匡は足のつかなさそうな、金目のものをいくつか、宮殿からくすねていて、それを慎重に金に換えながら行く。干してある洗濯ものを盗んでありふれた着物に着替え、顔にも泥を塗り、食い詰めた農民に身をやつし、長安を抜け、藍田の街を過ぎるあたりまでは順調だった。
そのあたりから、さらに小汚い奴らとすれ違うようになる。彼らが東から来た流民であると気づき、匡は関東の飢饉のひどさを想う。
――お邸は、陰家は大丈夫だろうか。
匡は現在、名数を持たない逃亡者になっているから、南陽に帰りついても陰家に再び仕えることはできないだろう。すぐ目と鼻の先の、太学の宿舎に跡取りの陰次伯がいるはずだが、匡は彼とも連絡を取るつもりはなかった。
陰次伯はまっすぐで、正義感が強い。……つまり、世渡りの得意な方ではない。逃げてきた匡を見れば匿ってくれるだろうが、負担をかけたくなかった。
とにかく、南陽に帰ろう――匡はただ、やみくもに東を目指した。
生まれた土地にしがみつき、死ぬまでそこで暮らす。――これこそ、農民の本懐である。食い詰めて土地を棄て、流浪の末に異郷で朽ち果てるなんて、不幸の最たるもの。とにかく一度故郷に戻ってから、それから、妹の曄を救う算段をする。今はとにかく、故郷の水に浸かって、自分を取り戻したい。
そんな匡の目の前に、秦嶺山脈の険しい山地が横たわる。
一番の難関は――そう、現在の匡は通行証を持たないから、南陽へと至る、武関を越えることができないことだ。
匡は、南陽と関中を隔てる峻嶮な山。切り立った赤茶色の、剥き出しの崖を抉るような谷間の底には、紺碧の深淵が覗く。崖の、岩肌に貼りつくように細い桟道(木の板を渡した道)が作られているが、密行者である匡はそこを通ることさえ許されない。桟道の下の死角になった位置にひっそりとある、人の通るとも思えない細い細い、足がはみ出るような道を息を詰めて行くのだ。まともな道は歩哨が立っていて通り抜けることができない。いっそ流民を騙ることも考えたが、一年ほど前に、匡は武関を皇帝の庶子として通り過ぎている。関所の役人は人の顔を憶えるのが仕事だから、匡の顔を憶えている者もいるかもしれなかった。もしここで匡が捕まれば、匡の自死を証言した曄もただではすむまい。妹に迷惑をかけるくらいなら、崖から落ちて人知れず死んだ方がマシだ。
匡は慎重に、崖の細い道を歩くじりじりと歩く。頭上の、崖の上が見張りポイントになっているのか、武関都尉の配下の者がさっきからうろついている。彼らがちょっと下を覗いたら、万事休す――。と、足元の土が崩れ、カラカラと音を立てて石が転がり落ちていく。
「なんだ?」
一人の兵士が、崖下をのぞいて――。
「関所破りだぞ! いた、あそこだ――!」
匡は足の幅よりも狭い道をできる限り急いで通ろうとするが、何事にも限度がある。上から、兵士たちが鈎のついた紐で匡をひっかけ、捕らえようとしてくるのを避けた拍子に足を滑らせ――
兵士たちの目の前で、一人の男が遥か下方へと崖を滑り落ちていった。




