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鳥籠 *長安城の図、未央宮の図あり

挿絵(By みてみん)


 匡と曄の兄妹が常安に着いたのは、地皇二年(西暦二十二年)の二月も末のこと。

 この月、皇帝は皇后王氏と二人の息子、さらに孫を失い、一月の間に四つもの葬儀を出し、常安の街全体が服喪のただ中にあった。


 皇帝は皇后王氏との間に生まれた嫡男四人の、全員を失った。うち、実に三人は自らの手にかけたことになる。ただ一人、病で世を去った三男の新遷王安の遺言という形で、皇帝は新都侯として就国していた時代に産ませた、四人の庶子を引き取り、王興を功脩公に、王匡を功建公に、娘の王曄を睦脩任ぼくしゅうじんに、王捷を睦逮任ぼくたいんじんに封じた。


 王莽が新都国を発ったのは、哀帝の元寿元年(西暦紀元前二年)のことである。二十年以上、卑しい母のもとに捨て置かれた子供たちが、突然、皇子皇女の暮らしに慣れるわけがない。二十代の後半に差し掛かるまで、下戸こさくにんとして土地に張りつくように生きてきた王興は、目に一丁字すらない文盲であり、娘の王捷に至っては、母とともに宛の市で色をひさいで糊口をしのいできたのである。新野の大富豪、陰家の家僮であった王匡と王曄の兄妹は、まだしも上流の暮らしに触れてきただけましであったが、それでも宮中の煌びやかさには辟易していた。


 初めて目にする()()は、すでに老いていた。若いころはそれなりに見栄えがしたであろう容貌も衰え、抜け落ちた髪を隠すためのずきんを被り、その上にやたら豪華な通天冠と呼ばれる冠を被って、縫い取りも鮮やかな天子の装束が、老いさらばえた身には重たげであった。四人の庶子を見て、わざとらしく涙をぬぐい、鼻をすすっては、「この後はこれまでの苦労もすべて償って余りあるほどの、幸福を約束せん」などとしおらしいことを言っていたが、やたら芝居じみたその言葉といい、大仰な動作といい、匡は嘘くさいと思っただけであった。そしてその予想にたがわず、皇帝は彼らを未央宮びおうきゅうから北に道を隔てた、北宮の一角に閉じ込めると、そのまま忘れ去ったかのように、放置した。


 もともと、自分が皇帝の種でないと知っている匡は、ただボロが出ないように万事控えめに、常安入りして以来、体調を崩した母・増秩の看病をしながら、妹の曄と二人、息を詰めるようにひっそりと暮らした。


 あまりに無学な庶子のために、教育係の儒生が付けられたことに対しては、匡は感謝していた。下戸こさくにん上がりの王興は、結局一文字も覚えることなく勉学を放棄したが、匡は得難い機会を無駄にすることなく、必死に文字を学んだ。


 いつまでも飼われ続けるつもりなどなかった。

 いつの日か、この囚われの身のような待遇を脱し、再び自身の足でこの天の下に立つ。

 そして父を殺し、母の人生を奪い去った王莽という男に、何等かの報いをくれてやる。――匡は密かに、復讐を胸に刻んでいた。






 地皇二年(西暦二十二年)の冬、皇帝は突如、睦逮任ぼくたいじんの王捷を、来朝している匈奴の須卜単于すぼくぜんうの子にして後安侯・大且渠奢だいしょきょしゃに嫁がせると決めた。奢の母親は和親のために匈奴に嫁入りした王昭君の娘・伊墨居次いぼくきょじ(居次は匈奴で言うところの公主の意味)で、皇帝は大且渠奢を匈奴単于として立てるために、兵を出し、匈奴に干渉しようと考えていた。


 恐慌に陥ったのが捷である。


 「どうしてあたいがあんな、砂漠に嫁に行かないといけないのさ、アンタが行けばいいでしょ!」


 捷に詰られても、曄には如何いかんともしようがない。

 物を投げつけて暴れる捷を必死に宥め、手ずから蜂蜜入りの湯を作って飲ませてやり、ひたすら話を聞いてやるくらいしか、曄にはできなかった。


 (――皇帝の娘なんて、どうせどこか、都合のいい男に嫁にやられるだけ)

 

 常安に来る前に、陰家の鄧夫人が言った言葉が思い出される。

 皇帝がただ一人、皇后腹の皇女として鍾愛している黄皇室主ですら、幼い時に漢皇帝に嫁ぎ、たった十四歳で未亡人となって、それ以後ずっと孤閨を守っているのだ。


 「……あたいは南陽に帰りたい。宛の市にさ、あたいの情人イロがいたんよ。本当に好きなのはあたいのことだけって言いながら、毎晩、他の女の匂いをさせて戻ってくる、嘘つき野郎だったけどさ……あたいが実は皇帝の娘だってわかった時、こんな男、とっとと見切ってやるって、あっさり捨ててきたけどさ……ほんとうはあたいだってあの男が好きだったのに……」


 ホロリと涙を流す捷の姿に、曄の胸は痛んだ。曄は自らは恋をしたことはないが、主である陰麗華の恋を身近に見てきた。陰麗華の恋が実るのを見届け、できれば彼女に仕え続けたいと思っていた。いずれは、鄧夫人が見繕った適当な男の元に嫁ぐとしても、身の丈にあった幸せを夢に見ることができた。――今、「皇帝の娘」として宮殿に囚われた曄らは、もはや一個の人格ではなく、個性のない「記号」として、皇帝の野心のために消費される存在でしかない。個人の幸福など、夢に見るだけ無駄なのだ。

 

 暴れ、泣き疲れて眠った捷の寝室を出て、自室に戻ってきた曄に、兄の匡が言った。


 「……お前にも、そろそろ縁談が来るかもしれないな」


 曄が睫毛を伏せる。


 「そう、かもしれません。でも、どうしようもないわ……」

 「母さんの容態はどうだ?」

 

 曄が無言で首を振る。


 「お医者さまが言うには、この冬を越えられないだろうと」

 「そうか」


 匡は周囲に人がいないことを確かめて、ことさらに声を低めて言った。


 「母さんが死んだら、俺は宮殿ここを出る」


 曄が目を瞠る。


 「俺が姿を消したら、お前に危険が及ぶ」

 「でも……わたしは一緒に行くのは無理よ」

 「わかってる。……俺は、母親の死に耐えられず、狂って自殺するフリをするから、お前は俺が前からおかしかったと、証言するんだ」

 「そんな……上手くいくかしら」

 「やるんだ。……それしか方法はない。必ず、迎えにくるから。こんなところにいたら、俺たちに未来はない」  

 

 匡が真剣な目をしてじっと曄を見た。曄も覚悟を決めて頷く。

 皇帝の子として引き取られたものの、彼らの存在を疎ましく思う者は多い。皇帝が死ねば、彼らの未来もまた、そこで潰える。あるいは、利用されて使い捨てにされるか。


 母の増秩が生きている間は耐えよう――それが、二人が無言のうちに交わした約束だった。母の最期の時を、せめて穏やかに過ごさせたい。だがそれさえ終われば――。


 鳥籠を出て羽ばたこうとする兄のために、曄は見様見真似で絮衣を縫った。かつて、主の陰麗華が最後に渡してくれた手製の絮衣のように、それが兄の身と心を守る盾になればいいと。


 

  


 匈奴に嫁ぐことが決まった捷のために、異母姉の黄皇室主が彼ら兄妹を食事に招待した。およそ、黄皇室主は自ら何かを為したことがなく、彼ら異母兄弟たちとも没交渉であった。その彼女が、強いて彼らと食事を希望した以上、断ることはできなかった。


 「俺は薄っすら覚えているぞ、新都の邸内で大切にされていた、末の姫君だろう。俺はまだ、ほんのガキだったが、一度だけ、甘いお菓子をもらったことがある」


 ほんの幼い頃の想い出を語る匡に、曄が驚いて目を丸くする。垂れ幕のついた牀に横たわった増秩が、懐かしそうに言う。


 「ああ、あのお嬢様。……お可愛らしい方でしたよ。優しくてねぇ。今はもう、三十は越していらっしゃるかしら」


 そんな風に言う母に、ふと曄は不安に思い、尋ねた。

 

 「もしや、兄さんの秘密に気づくようなことは……」

 「どうだろうねぇ。あの頃、まだ七、八歳の幼子でいらした。わたしとの接点もほとんどなかったし……」

  

 曄もいらぬ心配かと思い直す。

 

 黄皇室主の居宮は、未央宮のもっとも北、承明殿である。承明殿は宮中の秘書(図書館)である石渠閣に近く、かつては学者たちが著述活動を行っていた場所だ。皇后の居宮である椒房殿しょうぼうでんとそれに隣接した掖庭宮えきていきゅうからはやや離れ、女たちの喧騒からは隔絶されていた。




挿絵(By みてみん)




 ちなみに、皇帝とその家族の生活の場を〈省中〉(*1)と称する。〈省中〉は未央宮の正殿である〈前殿〉の後ろ側、皇帝の居住宮である宣室殿、温室殿、そして清涼殿の三殿から北側一帯を占め、さらに北に皇后の居宮・椒房殿、そして後宮の妃嬪が住まう掖庭宮と、昭陽殿などの高位の妃嬪が住まう十四宮がある。その西側には、皇帝の生活全般と帝室の私的財産を管理する少府の官府があり、その北に宮中図書館である石渠閣、天禄閣と、承明殿がある。〈省中〉への出入りは皇帝の特別な許可が必要で、〈省中〉への区切りとなる門には、出入りを許された者の名籍(名簿)があって、それ以外の者は出入りできない規則になっていた。


 曄ら兄妹が押し込められている北宮は、未央宮に対して直城門大街を挟んだ北側にある。そこから黄皇室主の住まう承明殿に入るために、直城門大街に面し、石渠閣に近い作室門を通る許可が出た。以前に一度だけ、父の皇帝と対面し、封爵を得るために未央宮の前殿に上殿したことはあるが、所謂る〈省中〉に入るのは初めてのことだ。


 宦官の先導で足を踏み入れたそこは、恐ろしいほど掃き清められていた。承明殿内に導き入れられ、何となく緊張して下を向いてばかりいる曄と異なり、兄の匡はさきほどからキョロキョロと周囲を観察し、「はばかりはどこだ」などと宦官に尋ね、ついでに周囲を一渡り探検して戻ってきた。


 「……兄さん、ウロウロしないでよ。恥ずかしいわ……」

 「いや、内部の造りがどうなっているのかと思って……」


 承明殿の南側に少府があるので、南に行けば宦官だけでなく、士人官僚もうろうろしているらしい。


 「もっと南まで行って、そこから門を出ようとしたら、止められた」

 「出ちゃだめだって?」

 「入った門から出ないと、門番の宦官が処罰されるらしい。それは困るから諦めた」


 だが匡は門番の宦官からいろいろと聞き出し、もっと南に行くと大きな池があり、また外朝の官府があるのだと教えてもらったのだという。


 「……呆れた。何をやってるの……」

 「だって、〈省中〉に入れる機会なんて、滅多にないだろう? 東側には掖庭えきていがあって、つまり天子の後宮ってわけだ。綺麗な女が廊下を行き来しているのが見えた」

 「兄さん、後宮に男が近づいて、お咎めをうけたら……」


 曄が眉を顰めるが、匡は飄々としたものだ。


 「せっかく〈中〉に入れたんだから、いろいろ見ておかないと。いつか何かの役に立つかもしれない」


 兄妹でボソボソと話していたが、同時に招待された捷も、そして興も、承明殿が醸し出すどこか物々しい雰囲気にすっかり萎縮して、借りてきた猫のように縮こまっている。


 「……お前、すげぇな。よくこんなところでウロウロできるな」


 興が感心したように呟くのに対し、匡は肩を竦める。


 「だって、小便とか行きたくなったら困るだろ。……これだけ広いんだ。かわやがめちゃくちゃ遠かったら困るだろ。だから事前に位置を確かめただけだ」

 「やば……なんか、行きたくなってきたじゃねーかよ」

 「一人で行ったら絶対迷うからな。誰かに連れていってもらえよ」


 男たちが尾籠ビロウな話をしていると、ざわざわと衣擦れがして、黄皇室主様がお出ましになった。


 「失礼のないように」


 と念を押され、曄はどこか、納得のいかない気分になる。――皇帝の娘だから偉いのだと言うならば、それは曄たちも同じこと。男系優先のこの社会、母の血筋は絶対的な身分の格差を生み出したりしない。ならば、黄皇室主と曄らの差は何か。


 生まれではなく、育ちの差か。


 片や、もともと深宮の奥で傅かれて育った、皇帝の掌中の珠。

 片や、存在すらもなかったことにされ、片田舎で泥と埃に塗れ、人に使われて生きてきた、解放奴隷の娘。確かに宮中の礼儀も知らないし、無学無教養で無筆である。でもそれは、曄らの父である皇帝が、これまで彼らを放置したためであって、曄らのせいではない。もし彼らの無教養を責めるのであれば、なによりその人はまず、皇帝をこそ非難すべきである。


 何人もの女たちや宦官に傅かれ、護衛の武官を従えた煌びやかな衣装の女を視界の端に捉え、曄は深く頭を下げながら考える。

 

 人が平等でないのは仕方がない。だが同じ父親の血を引く異母姉と自分たちとに横たわる、この深い河の流れ来る源は、いったいどこにあるのか――。


 「おもてをあげて、楽にしてください。……今日は、わたくしのために来てくれてありがとう」

 「平身なおれ!」


 宦官の、独特の抑揚のあるかけ声が響き、曄は頭を上げ、正面に座る女を見た。ほっそりと小柄な、そして儚げな人。

 豪華な衣装をまとい、その豪華さに負けない気品は、やはり人々に傅かれて生きてきたせいだろう。背筋をピンと伸ばし、ゆったりと鷹揚な動作に一分の隙もなく、そしてその眼差しは慈愛に満ちている。

 年齢は三十を超えているはずだが、二十歳そこそこくらいに見える。日にも焼けず、風にも当たらない暮らしのおかげか、肌は抜けるように白く、容姿も十分に美しい。黒く艶やかな髪を流行の高髷に結い、髪の飾りは凝っているが品よく慎ましやかである。


 侍女たちが食事の載ったおぜんを掲げて入ってきた。曄の前にも酒菜が並ぶ。赤い漆に黒い繊細な雲気紋。北斗七星が輝く天空を、翼のある仙人が飛翔する。もちきびの飯に鯉魚のなます、鹿肉の炙り焼を薄く削いだものに、魚のつみれ汁。平たい胡餅こへい肉醤にくびしおと新鮮なニラを載せて巻いて食べるものは、曄らの初めて目にするものだ。酒は芳醇なあまざけ。少し温め、濾したものが供せられた。何より香りがいい。


 「姉として、あなた方に何もできないことを、心苦しく思っておりました。わたくしのせめてものもてなし、今日ぐらいはくつろいでいってください」


 二十年以上、捨て置かれた弟妹に対し、黄皇室主ながら思うところがあるのだろう。曄はありがたく食事をいただいた。

 

 「――時に、あなたがたは新都にいたと聞いておりますが……」


 室主に問われ、思わず目配せを交わす。


 「……お、俺は東郷におったども……じゃなくてお、おりおりましたですが……」


 興がしどろもどろに言えば、室主は杯を案に戻し、まっすぐに彼を見た。


 「まだ、あのあたりは青々とした畑地が広がっていますか?」


 室主の目が、心なしか懐かしそうに緩む。


 「わたくしは長安の生まれですが、幼い数年を新都で過ごしました。緑がたくさんあって……あの頃は乳母も健在で、よく、邸の外へ散歩に連れ出してくれたのです。……また、いつか帰る日があればと、思っていたのよ。……掖庭こうきゅうに入ったことで、その望みもなくなりましたけれど」

 

 この人が皇后になったのはまだ、十三歳の時のこと。そして十四の時に同い年の皇帝に先立たれ、以後、孤閨を守っている。――彼女が南陽を訪れる機会は二度とあるまい。


 「あなたがたは南陽でどうやって暮らしていたの」

 

 おそらく、室主としては特に意図のない質問だったのだろう。だが曄ら四人の周囲に控えていた侍女たちが、明らかに凍り付いた。


 「お、俺はいつも野良仕事を……」

 「野良仕事……ああ、自ら土を耕していたのですね。あなたは?」


 隣の匡が尋ねられ、匡は頭を下げた。


 「新野県のとある大家で厄介になっておりました」

 「厄介……とは?」

 「母や妹とともに、そちらの家令の仕事を手伝っておりました」

 「妹……ああ、二人は母が同じ兄妹なのですね」


 室主が微笑み、曄に問いかけた。


 「女が働くというのが想像つかないわ。何をしていたの?」

 「いえその……その家のご令嬢に仕える、侍女をしておりました」

 

 侍女、という言葉に室主が黒い目を見開く。


 「まあ、そうだったの。……どんなご令嬢に仕えていたの」

 「わたしより五歳年下の、可愛らしいお嬢様でした。幼いころからお仕えしておりましたので……姉妹のように仲良くさせていただきました」

 「まあ、つまり、わたくしと、そちらの侍女の春娘しゅんじょうのような間柄だったのね」


 少し背後に控える侍女を、室主がちらりと見る。


 「そのご令嬢は今どうしているの」

 「はあ……この春にもお輿入れなさる予定でしたが……」

 「そう、ではこちらに呼ぶこともできないわね」


 室主が頷き、最後に捷に尋ねる。


 「あたい……じゃなくて、あたしは宛の市で()()をしていました」

 

 その商売という言葉には大いに含むところがあるのだが、室主はその含意には気づかず、そう、と穏やかに微笑む。


 「あなたがたには苦労をかけたのね。……兄上様たちがご存命であったならば、もっと早くに皇帝陛下に申し上げることもできたかもしれないのに。わたくしは幼くて、あなたがたの存在に全く気付かなかった」

 

 申し訳なさそうに睫毛を伏せる室主の美しい顔を見ながら、曄はふと考えた。


 もし、生まれながらにして父親に認められ、彼女の姉妹として育っていたら、今頃は都合のよい政略結婚の駒として、どこかに嫁がされていただろう。室主の夫である平帝の死後、皇太子として迎えられた孺子嬰には、室主の姪が妻として嫁いでいる。――結局、即位することなく、元・皇太子もその妻も、現在は明光宮に監禁状態にあると言う。匈奴単于の妻に差し出される捷も同様の犠牲者であり、いずれは曄も、同じ憂き目に遭うのであろう。


 目の前の黄皇室主もまた、王莽という父親によって人生を狂わされた一人である。皮肉なことに、二十年以上放置されていたおかげで、曄は南陽の空の下、自由に息をすることが許されてきた。生まれてからこの方、ずっと豪華な鳥籠に養われてきた室主よりも、はるかにマシな人生だったのではないかと、曄は目の前の高貴な異母姉を眺めた。




*1 省中

禁中という呼称の方が一般的であるが、特にこの時期は、王莽のおばの元帝王皇后(成帝の母)の父親、王禁のいみなを避けて「省中」という。皇帝の生活空間の、一般の立ち入りが制限された区域。




未央宮の地図は、発掘された情報と何谷清『三輔黄図校釈』の附図を参考にして作っていますが、特に「省中」の範囲は研究者の間でも議論のある状態なので、この図はあくまで、「だいたいこんな感じ?」程度にお考えください。前漢の皇帝の愛人たちは、未央宮でもあちこちに、さらに他の宮殿や、上林宛(帝室の広大なお狩場)、甘泉宮(かなーり遠くにある離宮)などに散らばって住んでいて、がっちりと閉鎖された「後宮」があったわけではないようです。後宮内に男性が出入りしていたと思われる記載も史料(『史記』『漢書』)にはありますし、「なろう」の読者様たちが抱いているイメージよりも、相当に「緩い」と思われます。

 その一方で、「省中」、もしくは「禁中」と呼ばれる、皇帝に距離的に近い場所に入るには、かっちりした制限がありました。門に「入れる人」の名簿が置いてあって、厳しくチェックされました。「省中(禁中)に出入りが許される場合」でも、「禁中で寝泊まり(宿営)できる」「職務として長く入ることが可能だが、寝泊まりはできない」「普段は禁中に通じる門の周辺で待機して、皇帝の詔があった時だけ中に入れる」……など、職務によって厳密に区別があり、さらに「漏泄省中語」(省中での話を外部に漏らす)は死罪になりうる重罪でした。「後宮」という区分よりも、「省中(禁中)」の区分の方が重要であったことは確かと思われます。

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