分水嶺
しばらく息もできずに凍りついていた陰次伯が、絞り出すような声で尋ねた。
「……もしかして……妊娠したってことか?」
「……たぶん?……」
陰次伯はしばし呆然としたまま、穴が開くほど陰麗華を見つめ、それから大きく深呼吸した。
「……誰の子だ」
「……その……文、叔……さ――」
「あんのクズ野郎があああっ」
ガン!と次伯が力任せに陶器の椀を案に叩きつけ、椀が割れる。
「いったい、いつの間に!どうやって!羽でも生えて飛んで来たのか? 悪い虫って譬え話じゃないのか?」
劉文叔ならば、昆陽が包囲されて、だいたい二月――。
「昆陽が囲まれる直前か!あいつ、わざわざ新野まで――」
陰次伯が天を仰いだ。
「まさかこんな形で麗華を巻き込むとは――」
次伯の様子に、陰麗華は馬車の中での、鄧仲華との話を思い出す。もしや、文叔は昆陽が包囲されるとわかっていて、陰麗華に最後の別れを言いに来たのか。そしてその時に――。
「……お兄さま、もしかして、昆陽が囲まれたのは、わざとなの?」
陰麗華の問いに、陰次伯が顔を歪める。
「それは一部のものしか知らないはずだ。わざと捨て駒にされたと知ったら、昆陽の士気に関わるから。誰に聞いた」
「仲華さんが……あんなちっぽけな城を、百万の大軍で包囲する理由がわからないって。だから、包囲するようにうまく誘導されたんじゃないかって。そのおかげで、宛の包囲軍は助かってるって」
仲華の推測が図星だったのか、次伯が渋い顔をした。
「でも、文叔さまもわかっていて、わざと捨て駒になっているの?」
「……文叔の提案なんだ。このままだと、宛が落ちる前に百万の軍に取り囲まれ、城内と城外で挟み撃ちになって、一網打尽にされる。昆陽を包囲させて時間を稼ぐから、その間に宛を落とせって――」
「そんな……」
「宛も、あと一息なんだ。おそらく宛は今日、明日にも落ちる。宛さえ確保すれば、宛を拠点に抵抗を続けられる」
「でも、昆陽は――」
百倍の軍勢に囲まれて、昆陽はそれでも二か月耐えた。だが、包囲は激烈で、昆陽も限界だろうと言われている。
「じゃあ、文叔さまは……」
陰麗華は絶望的な気持ちで、両手で口を押える。
「おにいさま、わたし、昆陽に行きたい! 文叔さまに伝えないと――」
「馬鹿を言え! 百万だぞ、百万!そもそも、何重にも囲まれ過ぎて、城壁にも近づけない」
「でも!」
陰麗華が半狂乱になって金切り声をあげた。次伯が陰麗華を宥めるように言う。
「それから、猛獣と、巨無覇(*1)って言う名前の、巨人がいるらしい」
「猛獣? 巨人?……軍隊って猛獣とか巨人とか連れて行くものなの?」
「普通は連れていかないと思う……」
「落ち着いてください、お嬢様。猛獣やら巨人やらがいるのは、見世物小屋と相場が決まっています。軍隊に百戯がくっついてるんですよ」
横で聞いていた小夏がさらに余計なことを言う。
「百戯? なんで軍隊にそんなものが……」
「鄧仲華さんも言ってたように、軍隊の人数なんて倍ぐらいにフカすものなんでしょう。百戯も軍隊ってことにして、数を増やしているんですよ! きっとそうですよ。でも、巨人はともかく、猛獣なんて餌代ばっかりかかって、役に立つとは思えないですよ」
「小夏、軍隊と百戯は関係ない! 勝手に見てきたように言うな!」
陰次伯は適当なことばかり言う小夏を窘め、はあ、とため息をついてから、陰麗華を見た。
「……今はそんなことより……妊娠は確かなのか?」
「その……わたしはよく……わかりません……」
身を縮めるようにして、陰麗華は言う。吐き気と貧血があって、月のものが止まっている。でも腹も膨らんでいないし、実感は全くない。
「でも、身に覚えはあるんだな……」
陰次伯が頭を抱えた。
「全くなんだってこんな時に……」
「ごめんなさい……」
俯いて身を縮める妹を見て、陰次伯は溜息をつく。
もともと陰麗華と劉文叔は婚約してはいた。でも、郡大夫だった甄阜の横やりで婚約は白紙になり、陰麗華はもう少しで甄阜の妾にされるところだった。そして正月に甄阜が死んでもうすぐ半年。
「文叔との再婚約は口約束に等しいわけだよな。――厄介だな」
口約束とはいえ、一応は婚約していたから、多少順序は違ってしまったが、あちらも無下にはしないだろうとは思う。だが何より、劉文叔本人が昆陽の包囲の中にいて、生きて戻ってくるかどうか、非常に危うい。
しばらく考え込んでいた陰次伯は、もう一つ溜息をつくと、意を決したように顔を上げた。
「……わかった。とりあえず、本当に妊娠しているか、確定するのがまず第一だ。近日中に医者か、産婆を呼ぶ。そのうえで、まず伯升殿に確認して、文叔との婚約を確定させる。……子供のことは、ぎりぎりまで伏せておこう。向こうが、どう出るかわからない」
文叔の帰還がいつになるか――あるいは生きて戻ってくるか――わからない以上、うかつに妊娠のことを人に漏らさない方がいい。文叔が死んで、そんな子供は知らないと言われてしまったら、万事休すである。ただでさえ、結婚前の妊娠は不名誉だと言うのに、さらに子供の父親が確定できない、なんてことになったらシャレにならない。
兄は不安そうに俯く妹の頭をポンポンと叩くと、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ、麗華。母さんも少し気が動転したんだろう。すぐに許してくれる。あちらがどう出るかはわからないが、僕にとっても大事な甥っ子か姪っ子だ。僕が、ちゃんと面倒を見るよ」
陰麗華は俯いて、無意識にまだ平らな腹を撫でた。
この翌日、宛が陥落した。
更始元年の六月己卯朔。陰麗華は宛の当成里に劉家を訪ねる。宛が落ちてまだ数日、劉家も引っ越したばかりであわただしい様子であったが、挙兵から半年以上、軍旅の暮らしに使用人たちも慣れたのか、家の中はそれなりに片付いていた。中門まで出迎えた劉伯姫の懐かしい姿に、陰麗華が思わずホッとする。
「麗華! よくきてくれたわ! もう、大丈夫よ!」
「伯姫……無事でよかった……」
駆け寄ってきた伯姫にぎゅうぎゅうに抱き着かれ、陰麗華は苦しくて息を詰まらす。
「伯姫……くるし……」
「あ、ああ、ごめんなさい! つい、嬉しくて……」
見れば伯姫は涙ぐんでいた。
「なんか、元姉さんが死んで、ずっと辛くて……。会えてよかったわ。でも、どうしてこっちに出てきたの」
「その……次伯兄さんが心配だったし……あとは、その……文叔様に逢いたくて……」
陰次伯には、妊娠について黙っているよう、強く言われている。鄧仲華は何も気にしないと言っていたが、婚礼前に妊娠してしまうなんて、名家の娘としてはかなり恥ずかしいことである。
「そうなの、でももうしばらくは帰ってこられそうもないわね……」
「ええ。兄さんが、伯升様と相談して、結婚の日取りを決めるって言い張るので……」
「そう、早い方がいいわ。またぞろ、あの郡大夫みたいなのに、目をつけられたら大変だし。麗華は美人だから、心配だわ」
伯姫は道々使用人たちに指図しながら、陰麗華の手を取って奥に導く。
劉家はそれほど大きくない、中流の家を接収したらしく、使用人でごった返していた。
「もっと大きな家もあったんだけど、ほら、劉聖公に皇帝を譲ったでしょう? 彼より大きい家に住むと、いろいろ煩そうだからね……」
伯姫が肩を竦める。
「どうせ自称の皇帝なのに、いちいち煩いのよ。司徒だ、なんだと、ままごとみたいな官職をつけて。馬鹿みたい」
偉そうな肩書ばかり名乗って、なんだか滑稽だと伯姫が笑う。
「文叔兄さんの官職、なんだと思う?太常よ? 皇帝の祭祀の係ですって! 笑っちゃう」
カラカラと伯姫が笑い、陰麗華も眉尻を下げる。皇帝の祭祀とやらを執り行う文叔の姿など、想像もできない。それに今は――。
導きいれられた堂には、鄧汎が待っていた。
「鄧汎、元気だった?」
「うん……麗華も。あの時はありがとう」
鄧汎は挙兵からの二か月を陰家の隠し部屋で過ごした後、鄧仲華に送られて父、偉卿と再会を果たしていた。だが、現在、偉卿もまた文叔とともに昆陽の守りについているはずで、鄧汎は母方の劉家に預けられているのである。
陰麗華は意を決して、劉伯姫に尋ねる。
「その……文叔さまから、お便りはあって?」
しかし伯姫は首を振った。
「ないわ。伯升兄さんとは時々、やり取りはしているみたいだけど。――ああ、今、文叔兄さんは昆陽にはいないわよ」
「ええ?」
陰麗華が目を見開く。
「北の定陵や偃に援軍を求めに、少数で城の包囲を脱したらしいの。鄧偉卿義兄さんも、鄧少君も一緒に」
「百万の包囲を、脱出?」
「そう、話を聞いたときはなんて無謀な、って思ったけど、李次元さんが言うには、あちらは大軍すぎて身動きが取れない、その隙をついたんだろうって」
「……いっそ、そこから逃げてしまえばいいのに……」
つい本音を零せば、伯姫も笑った。
「城内で耐えている人々を裏切ることはできないって、雑巾を絞るみたいに、定陵周辺から兵を募っているらしいわ。それでも数千が限界でしょうね」
「数千……」
百万に数千で挑もうだなんて、無茶にもほどがある。
「大丈夫だよ、父さんは、負けない。絶対に、生きて戻ってくる。もちろん、少君も、文叔おじさんも」
鄧汎が気丈に言って、陰麗華もそれに微笑みを返す。
不安は、尽きない。いや、不安などという甘いものではない。留守を守る家族を蝕むものは、絶望に近い。それでも、離れている者たちは、ただ信じて待つことしかできない。
ふと、目の前が急激に暗くなり、陰麗華がはっとする。目をあげればさっきまでの晴天が嘘のように、重々しい真っ黒な雲が垂れこめていた。一雨来ると思う間もなく、中庭を挟んだ屋根の向こうに稲光が走った。雷鳴とほぼ同時に、大粒の雨が瓦屋根を叩き始める。
「雨――」
「この時期はしょうがないわね……」
伯姫も空を仰いだ瞬間、ビシビシッと青白い雷光が黒雲を切り裂き、ドドーンと地を揺るがすような雷鳴が轟く。凄まじい雷と雨音、遠くから使用人たちの混乱する声が聞こえてくる。
「天気よかったから、洗濯物でも干していたかもしれないわね。大変だわ」
そんな会話もガラガラ、ズシーンとひっきりなしに続く雷鳴と雨音で、中断されてしまう。こういった突発的な豪雨には珍しいことに、瓦屋根の上が水飛沫で白くけぶるほどの大雨がかなりの長時間続き、陰麗華は少し不安になる。
「これだけ降ると、河が溢れるんじゃないかしら」
「坡地の決壊くらいはあっても不思議じゃないわね」
どのくらい時が経ったのか。土砂降りの中を、大司徒府から使いが来て、陰次伯も今夜は大司徒府に泊まるから、陰麗華も劉家に泊めてもらえと伝言があった。
「途中の渠も溢れて……今日は外に出ない方がようございます」
劉家の家宰も言い、伯姫も勧めるので、陰麗華もその日は泊めてもらうことにした。早めに夕食を戴いて、昔のように二人で一つの臥牀に横たわっていた時。表が騒がしくなり、二人は暗闇の中で顔を見合わせ、起き上る。
「こんな時間に何?」
二人耳を澄ませていると、遠くで「昆陽が……」「大軍が……」「壊滅……」などと不穏な言葉が聞こえてくる。陰麗華の息が、不安で荒くなる。
「まさか昆陽が……」
「麗華、落ち着いて。昆陽が落ちても、文叔兄さんはそこにはいないわ」
「でも……」
ガタガタ震える陰麗華を伯姫が抱きしめていると、小夏と鄧汎がバタバタと走り込んできた。
「お嬢様! 昆陽から早馬が!……大勝利!大勝利ですよ! 文叔さまが援軍を率いて昆陽の救援に駆け付け、百万の官軍は大崩れ! 折からの大雨で昆陽城の北を流れる滍水が溢れて大洪水! 敵兵は水に流されて数万人溺死! 死体で滍水が塞がって流れなくなっちゃったって!」
「はあああ? 大勝利って? ほんと? だって百万対一万未満ぐらいの戦力差だったはずよ? いったいどんな魔法よ!」
伯姫が素っ頓狂な声を出す。陰麗華は小夏の言葉が信じられず、その場で硬直している。
「本当ですってば! 戦況をずっと見てた左武さんがわざわざ知らせに来てくれたんですよ。敵の親玉は滍水の死体の上を履んで渡って逃げて行ったって!百万の軍隊が消えてなくなっちゃったんですって! 漢軍、ばんざーい、ばんざーい!」
「ばんざーい! 父さんが勝った! 父さんが勝った! 新の奴らは皆殺しだ! ばんざーい!」
浮かれてはしゃぐ小夏と鄧汎の声を聞きながら、陰麗華はその場でフラフラと倒れて伯姫にもたれ掛る。
「ちょっと麗華、しっかりして!」
「だって……信じられない……よかっ……よかった……」
次から次へと流れてくる熱い涙が頬を伝い、陰麗華は伯姫の腕の中で号泣した。
――昆陽の戦い。
昆陽を包囲する王邑、王尋ら率いる公称百万(うち、甲士は四十一万と伝えられる)の大軍に対し、劉文叔が北の偃、定陵からかき集めた軍勢はおそらく五千弱。さらに包囲された昆陽城内の兵が多く見積もって六千程度と考えられる。つまり劉文叔は合わせて一万程度の軍で、およそ百倍の敵を撃破したことになる。当日の天候の急変も味方したとはいえ、歴史上、これだけの戦力差を跳ね返しての勝利は類例がない。
王莽の発した史上未曾有の大軍勢は、たった一万前後の兵によって壊滅し、生き残った士卒は各々、統制もなくそれぞれの故郷へと逃げ去った。ただ王邑が長安から率いてきた数千人が洛陽に帰りついたのみであったという。昆陽城の周囲数里にわたって官兵の屍が連なり、ゲリラ豪雨で溢れた滍水での溺死者は万に及んだ。僅かな者が、その屍の橋を踏んで、命を存えた。新王朝の黄色い旌旗は地に堕ち、踏み荒らされて泥に塗れ、雨に打たれていた。――文字通り、昆陽城下に百万の軍が溶けたのである。
昆陽での敗戦こそ、王莽政権の致命傷となった。もはや天命が王氏の上にないことは、誰の目にも明らかとなる。昆陽での歴史的勝利をもたらした男の名が、長安周辺で密かに広まっていた讖文と一致することもあり、劉氏の再興は時代の必然として、全てはそれに向かって流れ出していく。各地で劉氏を戴いた反乱が発生し、目端の利く人々は新たな世界に向けての準備を初め、古いものを切り捨て始める。
――〈新〉から、再び〈漢〉へ――。劉氏の復活に名を借りた、全く新しい時代への扉がこの時開かれたのだと、後の時代の者は評価する。しかし、当時この荒波に揉まれていた者たちには、その扉の在り処は見えなかったかもしれない。
この後、王莽の築いた壮麗な儒教国家は、表面だけ煌びやかに飾られた砂上の楼閣のように、内側から崩れ落ちて、あっけない崩壊へと向かう。
破壊の先の再生を、果たして誰が担うのか――。
――劉秀 兵を発して不道を捕らえ、四夷雲のごとく集い、龍は野に闘う。四七の際、火 主と為る。
劉秀発兵、捕不道、四夷雲集、龍闘野。四七之際、火為主。『河図赤伏符』
*1 巨無覇:身長が一丈(約2.3m)、腹回りが十囲(囲=両腕で抱える長さ=一尋とすれば、八尺=184cm)ある巨人。
この時、王莽軍が連れていた猛獣がどうなったのか、史書には何も書いてないけれど、阿鼻叫喚だったのでは……




