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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第四章 汎れゆく彼の柏舟は
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母は天なり

汎彼柏舟、在彼中河

髧彼両髦、実維我儀

之死矢靡它

母也天只、不諒人只


  ――『詩経』よう風・柏舟 

 ながれゆくの柏舟は、彼の中河に在り

 たんたる彼の両ぼうこそ、まことれ我がおっと

 死にいたるまでちかいて他は

 母は天なり 人をおもいやりたまわず


    流れ流れてあの柏の舟は、河の中をただようのみ

    まだ部屋住みの髪型をしていたあのお方こそ、私のただ一人の夫

    誓って、この命の絶えるまで、あの方以外に嫁ぐことはありません

    母上は子にとって、天のごとき存在

   どうして私の心を思いやってくださらないのか




 ******** 

 

 更始元年(西暦二十三年)五月。王莽の紀年で言えば、地皇四年の六月。

 劉文叔らの守る昆陽のまちを、皇帝が派遣した百万の大軍勢が包囲した。


 司空王邑と司徒王尋の率いる未曾有の大軍は、洛陽の城を出ると南へと下り、まっすぐ宛城の救援に向かったはずだった。ところが、途中の小さな城に足を止め、その城を包囲したのである。堅固だが取り立てて何かあるようにも思えない、昆陽の城を――。


 南陽郡と潁川郡の境にあるその城の名を、陰麗華はかろうじて耳にしたことがある程度だった。

 なぜ、その城を百万の大軍で取り囲むことにしたのか、陰麗華にも誰にもわからない。そしてその城を守っているのが劉文叔でなければ、陰麗華はむしろ大軍の到着の遅れを喜んだかもしれなかった。


 今、その小城は見渡す限りの〈新〉の大軍に幾重にも包囲され、大海に浮かぶ孤島のようであるという。

 城内の人員は約八千人ほど、うち三分の一から半数は非戦闘員と考えられる。包囲する官軍が周辺を埋め尽くし、脱出は不可能。降伏しても、叛乱の首謀者である、劉文叔の命はない。


 鄧仲華の語った「事実」に、陰麗華は気を失い、その場で崩れ落ちた。





 

 「大丈夫でした? 突然、お倒れになるなんて。――最近、食欲もありませんね」

 「暑いせいかしら。食べ物を見ると吐きそうになって……。いけないわね、こんなことじゃ。無理にでも食べないと――」


 仲華に部屋まで運んでもらい、小夏に梅漿ウメジュースをもらって飲んでいると、誰かに話を聞いたのか、母が乱暴な足取りで陰麗華の部屋にやってきた。


 「お母さま?……」


 母が、陰麗華の部屋に足を運ぶことなど、滅多にないので、陰麗華は首を傾げる。


 「倒れたそうね」

 「……暑さ負けと、たぶん、貧血です。ご心配をおかけしました」

 

 母は暑いのに陰麗華の部屋の扉を閉め、臥牀の側までやってくると、陰麗華の顔を覗き込む。


 「ねぇ、お前……月のものは来ているの?」

 「は?」


 突然の問いかけに、陰麗華が虚を衝かれて呆然と母の顔を見上げる。信じられないくらい、その顔には表情がなかった。


 「食欲がなくて、食べ物を見ると吐き気がする。……眠くて、だるい……もしかしてと思ってね。……四月にね、周辺であの男を見た者がいるのよ。……お前がよく詣でている、土地神様の祠から出てきたと」

 「お……かあ、さま?」

 「ねえ、正直にお言い。お前まさか、あの文叔と言う男と、もう寝たんじゃなかろうね?」

 「……ね、寝る?」

 「わたくしは言ったはずよ? 結婚までは純潔を守るようにって。まさかもう、全てをあの男に許してしまったの?」 


 今まで見たこともない母親の冷たい視線に、陰麗華は身体が強張り、背中にどっと冷や汗をかいて、言葉を紡ぐこともできない。ガタガタと身体が震えはじめ、自然に息が上がり始める。


 「……麗華、お前……なんて恥知らずな! まさか、野合の末にあの男の子を身籠るなんて! ああ、汚らわしい! あの男は前から胡散臭いと思っていた。わたくしは黄泉の旦那様に、なんて言い訳したらいいんだろう。この由緒ある陰家から、こんな阿婆擦れ女を出してしまうなんてね!」

 「奥様! 阿婆擦れだなんてひどい……!」


 小夏が陰麗華を庇うが、母の攻撃は小夏にも及んだ。


 「だいたいあんたも、何のための小間使いだと思っているの。まさかあの男と麗華を、二人っきりにしたのかい? ……ああ、ゾッとする。陰家の娘ともあろうものが、正しい礼をむことなく、礼に背いた子供を孕むだなんて」


 母はいかにも汚いもののように陰麗華を見ると、冷たい声で言った。


 「……出ておいき。こんな田舎で、嫁入り前の娘のお腹が大きくなったら、すぐにも噂になってしまう。陰家はとんだ淫乱な家だと、後ろ指を指されてしまうよ。その腹がせり出す前にとっとと出ておいき」

 「お、おかあ、さま?」

 「もうそんな風に呼ばないでちょうだい。汚らわしい。お前のことは勘当するわ。とっとと、文叔のところへでも行っておしまい!――小夏、あんたもクビだよ。今月の給金は出してやるから、二人してさっさと出ておいきったら!」


 母はそれだけ言うと、その後は陰麗華の顔を見ることもなく部屋を出て行った。

 呆然と見送るだけだった陰麗華は、ピシャリと扉の閉まる音に、はっと我に返る。


 「……子供?……赤、ちゃん?」

 「お、お、お嬢様、本当なんですか? いつの間にそんな……」

 

 狼狽した小夏の問いには応えず、陰麗華は両手でまだ全く膨らんでいない腹を撫でて、虚空を見上げる。


 「赤ちゃん……? 文叔さまの?……わたしと、文叔さま、の……?」

 「そ、それ以外の相手と覚えがあるんですか?」

 

 小夏の言葉に陰麗華は首を振る。


 「そんなわけないわ。だって……約束したもの。文叔さまだけだって。たとえ、文叔さまに万一のことがあっても、生涯あの方だけって。他の誰にも触れさせたりしないって――」

 「そんなことより、追い出されちゃいましたよ、ど、ど、どうしますか!」

 「おい……出された……?」

 「勘当されたんですよ! 勘当ってわかります? 感動じゃないですよ? 親子の縁を切られちゃったんですよ! 大変ですよ! お嬢様しっかりしてください!」


 まだ呆然としている陰麗華の横で、小夏はしばらくブツブツ言っていたが、しかし、驚くほどの速さで切り替えて、小夏は行李に荷物を詰め始めた。


 「お給料、今月分までくれるって言ってましたね。奥様のお気が変わらないうちに、今からもらってきます! でもどうしよう。どこに向かえば……」 

  

 小夏はポンと手を打って、陰麗華の肩を両手でつかみ、まっすぐ目を見て言った。


 「大丈夫です! わたしに任せてください! お嬢様は復活したらでいいですから、持ってくものを纏めておいてくださいね。期待はしてないから、なるべく早く戻ります!」


 そう言うと小夏はバタバタと部屋を出て行った。






 結局、陰麗華が呆然としている間に、小夏はテキパキと仕度を済ませ、夕方には準備を整えて陰麗華を部屋から連れ出した。


 「どこへ行くの?」

 「とりあえず迎えに来てもらいますから、門のところで待っていてください」

 「迎え? 誰が?」


 やってきたのは鄧氏陂の向こうの邸から、屋根付きの馬車を飛ばしてきた鄧仲華と阿捷だった。仲華は倒れた状況から思うところがあったらしく、小夏の説明を遮って、何も聞かずに馬車を出したのだ。


 「小夏に聞いたよ、追い出されたらしいね。陰家じゃ馬車も出さないって、君の母さんも、ほんと頑固だよね。早く乗って」

 「乗ってって……どこに行くの?」

 「とりあえず思いつくのは、宛の包囲軍に参加してるはずの、次伯のところだけだ」

 

 鄧仲華はそう言って、小夏が用意した行李を馬車に積み込む。同行者は小夏の他に、年末に陰麗華が助けた流民の女と二人の子供達。


 「お、おらたちも一緒に連れて行ってくだせぇ。おらたち、お嬢様のお情けでお屋敷に置いていただいてて……奥様に出て行けって言われてしまいました。お給金はいりません、ただ、置いてもらえれば……」


 陰麗華は、母の怒りが彼女たちにまで及んだことに驚愕した。だが、まだ呆然とした状態から完全に抜け出ていない陰麗華は、いったい何が、そこまで母を怒らせたのか理解できない。母の言いつけに背いたのは確かだ。でも、母だって父を愛して陰麗華や弟たちを妊ったのではないか。陰麗華が文叔を愛して彼の子を妊ったのと、何が違うのか。――礼、か。婚姻の六礼を履まなかったからか。でもこの戦乱の世の中で、礼を実践するなんて、そもそも不可能じゃないのか。礼とは、愛を形にしたものだ。非常時に礼を完遂できなかったことを理由に、愛まで否定されなければならないのか。


 そして陰麗華に対する母の愛とは、所詮、陰家の面子や評判の前には、脆くも崩れ去る程度のものだったのか。――家族に愛され、全て与えられて育って来たと信じていた自らの足元が、大きく揺らいでいた。


 「おらの亭主は宛の、若様の陣に出入りしていますだ。だから、おらたちも若様の下で働く方が、理にかなっているだ」

 「ああ、もう理屈はいいから、早く乗って。すぐに馬車を出す」


 流民の女――張寧と名乗った――が子供二人を抱えて馬車に乗り込み、小夏も馬車に滑り込むと、鄧仲華は馭者台の横に飛び乗った。すぐに、阿捷が馬に鞭を当て、馬車が動きだす。と――。


 馬車の背後から、弟の君陵が走って追いかけてきた。


 「姉さん! ごめん、母さんが酷いことを言って……。必ず、母さんも思いなおすし、俺たちも説得するから」

 「君陵……ごめんなさい、お母さまをよろしく――」

 「急いで! 早くしないと閭門りょもんが閉まってしまう」


 夕暮れの道を、馬車が走り始めた。馬車が見えなくなるまで、門の前で手を振っている弟の姿が、陰麗華の足元が崩れ落ちるのを、辛うじて支えてくれているように、見えた。



 


 新野から宛まで、育水(現在の白河)の流れを遡るように、川べりの道を北上する。仲華の知り合いの農家の納屋で一晩過ごし、翌早朝からは休憩もほとんどとらず、馬車を走らせ続けているが、宛に近づくごとに、荒廃した畑地が増えていく。前方に、宛と新野の中間にある育陽の城が見えてきた。


 「宛を包囲している軍の、中枢は育陽にいるはずだ。次伯もそこにいてくれればいいんだけど……」

  

 育陽にいないとなると、捜索が恐ろしく面倒なことになる。


 「昆陽が包囲されて官軍を足止めしているおかげで、このあたりは助かったな。百万がフカシでも、軽く〈漢軍〉の十倍はいるだろう。背後からさらに包囲されたら、万事休すだった」


 馬車を御しながら鄧仲華が言う。

 

 「でも、もっと兵力の少ない昆陽が……」

 「昆陽は最大に見積もっても一万もいない。たぶん、五、六千人、ってところかな」


 百万対、五千。計算するのも嫌になるほどの兵力差だ。陰麗華は思わず両手で胸を押える。


 「なんとか、脱出は……」

 「前も言ったけど、絶海の孤島みたいになってるらしいよ? それに、脱出しても文叔に逃げる場所なんてない。昆陽が落ちれば、その勢いを駆って、官軍の奴らが宛になだれ込むだけだ」


 仲華がまっすぐに前を見つめたまま言った。

 彼が、何を考えているかはわからない。――この状況に至っても、仲華はまったく動くことなく、鄧氏陂の東の自室で、相変わらず晴耕雨読の日々を送っている。


 「文叔さまが昆陽から逃げてきたら、匿う?」


 陰麗華の問いに、仲華がちらっとだけ、陰麗華の方を見た。


 「――だぶんね。でも、彼は叛乱首謀者の一人だ。匿っただけで、一族ごと処罰される。……僕はその覚悟はまだないから、一緒に逃げる方を選ぶかな」

 「逃げる場所ない、って自分で言ったのに」

 「東の海のかなたの、蓬莱にでも逃げるかな。……でも文叔と二人で逃げてもなあ……」


 仲華が肩を竦める。


 「文叔は僕とじゃなくて、麗華と逃げたかったとか、文句言いそうだし、僕も文叔みたいなムサ苦しい男と、手に手を取って逃避行はご免だな」

 「文叔さまが逃げるなら、わたしも逃げるわ」

 

 そう言った陰麗華に、仲華がわざとらしく片手をヒラヒラさせた。


 「はいはい、ごちそうさま。どうぞ地の果てまで逃げてください。――って、たぶん、怒り狂った少君がくっついていくと思うけどな」

 「少君?」

 「そう言えば、少君も昆陽にいるらしい。……鄧偉卿にいさんも」

 「おじさまも?……じゃあ、鄧汎も?」

 

 陰麗華が目を丸くする。


 「いや、鄧汎は伯升に預けて行ったそうだ。……まるで、昆陽が包囲されるのを見越していたみたいだよね?」

 

 ちらりと仲華に目を向けられ、陰麗華ははっとする。

 

 「……それは……つまり、昆陽はわざと包囲させたってこと?」

 「あんなちっぽけな城を、百万の大軍で包囲する意味がわからないしね。……包囲するように仕向けたのかもしれない」


 陰麗華がゴクリと唾を飲み込む。


 「まさか……宛を救うために?」

 「もし、奴らが昆陽を素通りして宛を包囲していたら、今頃、叛乱軍は挟み撃ちされて壊滅していたはずだ。堅固な昆陽だからこそ、二か月った。……宛を落とすまでの時間稼ぎ、要するに捨て駒だ」

 「そんな……」


 陰麗華の脳裏に、最後に会った時の、文叔の言葉が蘇る。


 『僕に万一のことがあっても、誰のものにもならないと誓って』

 『君が、誓ってくれれば、死なない』


 陰麗華は無意識にまだ全く膨らまない腹を両腕で抱きしめる。


 ――文叔さま、死なないで。死んではダメ。……だってここに、あなたの子が――。


 「さあ、育陽の門が見えてきたよ。……一発で次伯に会えることを祈ろう」


 ピシリ、と鄧仲華が馬の背中を鞭で叩いた。


 

 



 すぐに陰次伯に会うことができたのは幸運だった。鄧仲華は陰麗華たちと荷物だけを下ろすと、とっとと馬首を巡らし、再び新野へと戻って行った。


 「少しは休んでいけばよかったのに……」


 陰麗華がつぶやけば、陰次伯が言う。

 

 「誰かに会って、幕下ばっかに仕えないか、って誘われるのが嫌なんだろう。伯升や劉聖公が何度も誘っているらしいから」

 「仲華さんを? まだ若いのに」

 「何しろ天才少年だからね」


 だが、今のところ、鄧仲華は誰にも仕えるつもりはないらしく、邸に籠り切りだ。

 

 「それより、いったいどうしたんだ。お前が戦場に来るなんて。それも、母さんに勘当された?何をやらかした」


 再会を喜ぶ左武と張寧の家族たちを微笑ましく見ていた陰麗華に、兄が尋ねる。


 「それは……その……ここではちょっと……」

 「まあいい、中に入ろう」


 陰次伯は劉伯升の一武将として働いているから、次伯のいえに行けば、家宰の廉が出てきて、陰麗華を見て目を剥いた。

 

 「お嬢様?……どうなさったのです」

 「何か、やらかしたらしいのだ。とりあえず湯を頼む」

 「畏まりました」


 家宰に盥のお湯を貰って手と足を洗い、ほっと息をつく。――なんだかいまだにぼうっとして、現実味がわかなかった。


 「で、何があった」

 

 家宰が遠慮して去ったのを見届け、陰次伯がもう一度尋ねる。陰麗華がどう言い出したものかと、小夏をちらりと見た。小夏が首を振る。――自分で言え、という意味だ。


 陰麗華が溜息をついて、蚊の鳴くような声で言った。


 「……その……子供、が、できて……」

 「子供?……子供って?」

 「まだ、その……よくわからないのですけど、気持ちが悪くて、食欲がなくて……それで、お母さまが……もしかしてって」


 上目遣いに兄の様子をうかがいながらポソポソ言う陰麗華の言葉を、はじめ次伯は理解できないのか、眉を寄せて首を傾げて聞いていて――。


 愕然とした表情で、陰麗華をじっと見つめた。

 



陰君陵:陰興。陰麗華の同腹の弟。

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