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敗残

 劉氏の叛乱は、その始まりから大きくつまづいた。


 もともと、郡治の宛では立秋の都試――予備役である材官・騎士(*1)を招集し、その技量を試験する――の日に挙兵し、郡大夫および属正(漢の都尉にあたる。郡の軍事を統括する)を殺害し、一気に州兵を支配下におく計画だったが、事前に事が漏れた。郡はそもそも、劉文叔らが事を起こすのを見越し、情報網を張り巡らせていた。宛の市で劉文叔が大量の武器を購入したことが決め手になり、郡の捕吏が李家に雪崩込んだのだ。李次元、李季文は脱出したが、李氏一族六十四人が捕らえられ、女子供も含め、宛の市で焼き殺された。――郡大夫の甄阜しんふは陰険なだけでなく、残虐な男だった。


 李次元の父・李守は王莽の宗卿師として仕え、常安にいた。李次元は叛乱に先立ち弟を常安に派遣し、父を脱出させようとした。だが、不幸にも弟が旅の途中で死亡し、父親に知らせは届かぬまま、挙兵の報に李守は捕らえられ、常安にいた李氏の一族も相当数が殺害された。

 

 新野で挙兵した鄧偉卿に対しても、官の報復は苛烈であった。


 鄧偉卿の邸宅は破壊され、邸跡は汚池おちと呼ばれる穢れた土地とされた。かつて王莽に反旗を翻した、東郡太守翟義の家と同じ処置が取られたのだ。鄧家の縁者十数人が捕らえられ、郡の獄に連れ去られる様子を、陰麗華も門の隙間から見た。女たちの悲鳴と、子供たちの泣き騒ぐ声。捕らえられた鄧氏の親族が、天を仰いで壮絶な呪詛の言葉を吐いた。


 「あの、劉家のおんなのせいだ! 偉卿は女一人のために、わざわざ煮えたぎる湯の中に手を突っ込んだのだ! 奴等も呪われればいい!」


 偉卿とその家族は、劉伯升らと合流するべく新野を出ていたため、まだ官憲の捕縛にはかかっていない。だが妻の劉君元は三人の幼い娘を抱え、一番下はまだ、二歳にもならないのだ。


 (――なぜ、こんなことに――)


 陰麗華が胸を押えていると、新野の県宰が見慣れない武装姿で陰家を訪れ、婚礼の延期を告げた。


 「――あるいは、婚礼をやめさせようという、劉家の破れかぶれかもしれぬが、そうだとしたら罪深いことだ」


 陰麗華がぎくりとして、県宰を見た。


 「だが劉文叔はともかく、鄧偉卿までが加担するとは、正直意外だった。わしは――友人だと思っていたのだがね」


 県宰はそう言って肩を竦めると陰家を辞した。いつぞや、増秩らを探しにきた属吏二人組のうち、樊仲華はんちゅうかが忘れ物をしたフリをして戻ってきて、陰麗華の耳元で囁いた。


 「来君叔が郡に捕えられた。……あいつ、母親が劉氏の出なんだ。あんたらも気をつけた方がいい」


 はっとして男を見たが、彼は何事もなかったように、「ああ、こんなところにあった、じゃあ、失礼」と、何かを拾う振りをして、片手をあげると足早に邸から去っていった。





 

 陰麗華と小夏は陰家の邸の奥、管仲を祀っている家廟に向かう。手には供え物のあまざけと玄酒(祭祀に使う水のこと)、そして篭に入れた飯と漬物、干し肉。

 小夏と二人、廟の扉を締め、内側からつっかえ棒をして開かないようにする。陰麗華は素早く祭壇の裏側に回り、祀られている管仲の像をずらして、その下の鍵を開ける。


 ガチャン


 重い音がして、管仲像が乗っている石の台のレリーフがすこんと抜け、人ひとりが屈んで通れるほどの入口が現れた。――半地下になった隠し部屋があるのだ。


 「!!……こんな仕掛けが!」

 「しい! 静かに。……早く入って」


 陰麗華は祭壇の上の灯明を持って、先に立って階段を降りる。内部には一人の若い男と、十二歳程度の少年がいて、外部から開いた扉を不安げに見つめ、陰麗華と知ってホッと安堵の息をつく。


 「遅くなってすみません。県の吏がうろついていて……食事です。お腹すきましたよね?」


 陰麗華が水や食物を差し出すと、二人は礼もそこそこにがっつくように食べ始めた。少年は隣家の跡継ぎの鄧汎で、若い男は鄧氏坡の向こうの鄧家の者で、春に長安から戻ってきたばかりの鄧仲華。ひょろりと細く色の白い、見るからに書生然とした風貌で、藍染めの襜褕せんゆに布のくつを履いている。


 県吏が隣家に押し寄せる前に、仲華が鄧汎を連れて陰家にやってきて、匿ってくれと頼んだ。それで僅かな水と干し肉だけ持たせて、この隠し部屋に匿ったものの、直後に県吏が陰家をも監視し始めたので、追加の食料を運び込むことができなかった。曲りなりにも大人の鄧仲華はともかく、まだ幼い鄧汎がどうしているか、麗華はとても心配だった。


 「不安だったでしょう、ごめんなさい」


 陰麗華が詫びると、瓜の漬物を齧りながら鄧仲華が首を振る。


 「軽挙妄動して捕まるよりずっといい。それより、外の状況をわかっているだけ、教えていくれないか」


 陰麗華が頷き、かいつまんで説明した。


 「鄧氏陂を挟んで西の鄧家は、子供に至るまで収監されました。鄧偉卿おじさまと家族、少君は、挙兵とともに舂陵しょうりょうに向かったそうだけど、その後のことはわかりません。今のところ、東の鄧家までは郡の追及は及んでいないようです。でも、仲華さんのことは探していました」

 「僕が文叔と仲がいいからだろう」

 

 陰麗華が頷く。


 「来君叔殿も一時、郡に収監されたそうですが、そちらは宛に移送中に襲ってきた一団によって奪い返されたそうです。今はどこにいるかわかりません」


 新野県の吏であった来君叔は母親が舂陵の劉氏であるため、県によって捕縛され、郡へ移送されることになっていたが、来氏は武帝の時に南越や朝鮮の征伐に関わった将軍の家柄だけあり、抱える賓客も豪傑が多く、あっという間に末の少爺わかさまを奪い返してしまった。


 「あとは宛の李氏と朱氏ですが……やはり何人かは収監されてしまったようで……」

 「……叛乱を起こした以上、しょうがないね。朱仲先も関わっているんだろうし」


 鄧仲華が溜息をつく。


 「……鄧汎を連れて行かなかったってことは、やっぱり、叛乱は成功しないと、おじさまは考えているのかしら」


 陰麗華が黙々と飯を食べている鄧汎を見て、不安に駆られて呟く。鄧汎が憮然とした表情で言った。


 「父さんが言うには、嫁が劉氏だから、叛乱に関与しても関与しなくても、確実にしょっ引かれる。同じことなら、叛乱に与した方がマシだって。でも、僕はまだ子供だから、上手くやり過ごして命だけでも長らえろって。……僕、もう十二だよ! 戦えるのに。僕よりうんと小さい妹は連れて行ったのに、僕だけ……」


 堪えきれずに涙をぬぐう鄧汎に、鄧仲華が言う。


 「あれだけ小さい子は、むしろ連れて行くしかないよ。秘密部屋に隠れるなんて無理だろう」

 

 それはその通りで、十二歳の鄧汎なら辛抱できる地下室暮らしも、幼児三人を抱えた劉君元には無理だ。

 

 「でも……いつまでも隠れているわけにはいかないわ。文叔さまたちは、勝算があって事を起こしたの?」


 陰麗華が不安そうに尋ねる。まさか婚礼を止めるための、破れかぶれの決断ではないと、誰かに言って欲しい。端然と座ってどぶろくを啜っていた鄧仲華が言った。


 「……劉伯升は自信家で、自分を漢の高祖陛下になぞらえている。文叔は慎重な性格だから、一度は諫めてると思うけれど、彼はもともと兄に逆らえないし、押し切られたんじゃないかな。勝算は――伯升は南郡から緑林の残存勢力を呼び込むつもりだろうと思う」 

 「緑林……」


 陰麗華が眉をひそめていると、鄧仲華が説明を加える。


 「たぶん、今は郡も混乱しているから、ちょっとでも劉氏と関わる者は警戒して、僕にも捕縛命令が出たけれど、僕は春に長安から戻ったばかりで、文叔とは最近会ってない。だから、ある程度落ち着けば、僕はここから出られると思う。問題は……」


 仲華は鄧汎を見る。


 「鄧偉卿ははっきりと叛乱に与してしまった。鄧汎は捕まったら殺されてしまう」

 「そんな……じゃあ、劉君元たちは?」


 いったいいつになれば、劉文叔は陰麗華を迎えに来られるのか。劉君元と娘たちは家に戻れるのか。


 ――そんな日は、この国じたいがひっくり返るまで来はしないのだと、陰麗華はまだ、理解できていなかった。

 

 



 地皇三年(西暦二十三年)十一月。

 南方の張の分野に、不吉な孛星ほうきぼしが現れた。


 最悪の知らせが、新野の陰家にもたらされる。

 宛に近い小長安聚付近で、劉伯升と文叔らの叛乱軍はしん大夫らの軍に大敗し、叛乱軍は壊滅し、劉氏の一族数十名が殺害された。その中には鄧偉卿の妻にして鄧汎の母である、劉君元と三人の娘たちも含まれていた。








 小長安の戦いで壊滅的な被害を被った「漢軍」は、しかし敗残の兵を集めて何とか棘陽きょくようまちを確保したという。

 宛にいったん戻る途中に新野に立ち寄ったしん大夫が、不愉快そうに陰家の堂で吐き捨てた。


 「まったく、鼠のように霧散したかと思うたら、またぞろ集結して鬱陶しい事だ。本来なら今頃、そなたを腕に抱いてぬくぬくしておったろうに」


 恨みがましい視線で舐め回すように見られて、陰麗華は背筋にゾクリと悪寒が走った。


 「まあよい、所詮、きゃつらの命運も風前の灯。年が改まる前には片づけてくれようぞ。来年早々にも、そなたの輿入れも可能であろう」


 陰麗華は左手に嵌めた銀の指環が見つからないよう、長めにした袖で隠すようにぐっと両手を握りしめる。


 「しかし、憐れな男よの、その劉文叔とやらも。慎重な男との評判であったが、恋しい女が他へ嫁ぐのは耐えられなかったか……」


 いかにもおかしいというように喉を震わせて笑う甄大夫に、陰麗華はカッと頭に血が上るけれど、隣の母に腰のあたりを抓られて、怒りを飲み込む。息を吸って気持ちを落ち着け、そっと甄大夫を見れば、陰険そうな薄い唇がにやーっと弧を描き、陰麗華は悲鳴をあげそうになるのをギリギリで堪えた。


 「ほんにそなたはいのう……今宵、このまま連れ去りたいくらいだが、郡大夫の要職にある身としてはそれもままならぬ。だが待たせはせぬ。そなたと朝を迎える日を楽しみにしておるぞ」


 陰麗華は両手をついて頭を下げる。

 ――絶対に、こんな男のものにはならない。劉文叔が死んだら、この男に触れられる前に死のう。


 「お忙しい中、わざわざのお運び、ありがとうございます」

 

 震える声で何とかそれだけを言って、陰麗華は頭を下げたまま、郡大夫を見送った。長い袖から一瞬だけのぞいた銀の指環を、陰麗華はそっと右手で隠した。






 十二月の頭、長安に遊学中だった兄の陰次伯が、学業を中途で振り捨てて南陽に戻ってきた。次伯は隣家の惨状を見て怒りに震え、一族郎党を率いて〈漢軍〉に加わるべきだと言い出し、それを止める継母の鄧夫人と、壮絶な口論となった。


 「馬鹿をお言いでない! 漢軍なんて今、どこにあると言うの! お前は鄧偉卿の二の舞になるつもり? 劉君元とその娘たちがいったいどんな死に方をしたか……」

 「母さんは知らないでしょうが、王莽はもう、落ち目ですよ。長安まで蝗の大群が押し寄せて、来年は大飢饉間違いなしだ! 天下中がもう、あっちもこっちも王莽に歯向かってる! やっぱり天下は劉氏のものなんだ! 劉氏の天命を盗んだ王氏が、長く保てるはずがなかったんだ!……だいたい、麗華を郡大夫の小妻めかけに差し出すだなんて! 僕はそんなのは絶対に認めませんよ! 陰家の当主は僕です! 何なら今からでも郡大夫のスケベ野郎に破談を叩きつけて……」

 「そんなことをしたら陰家が潰されるわ! うちにはまだ、小さな子が三人もいるのよ!」


 その言葉に、陰次伯が目の前のおぜんを蹴り飛ばした。


 「やっぱりそうだ! 母さんは弟たちのために、麗華を犠牲にするつもりだったんだ!」

 「仕方ないじゃないの、他に方法が――」

 「お兄さま、もうやめて!」


 たまらず陰麗華が間に入り、いきり立って肩で息をしている兄を宥める。


 「本当にもう、しょうがなかったのよ。お母さまだって好きで決めたわけじゃないし、わたしも覚悟はできていたから――」

 

 兄は青白い書生めいた顔を引き攣らせ、ぎろりと陰麗華を睨んだ。


 「郡大夫だろうが何だろうが、うちはいっぱしの士大夫の家だ! そこの娘を小妻めかけに差し出せだなんて、馬鹿にするにも程がある! そんな無茶な言い分を飲むなんて、母さんも麗華もどうかしてる!」

 「盗鋳銭の疑いをかけられたのよ。下手をすれば一族ごと官奴婢として没収されてしまうわ!」


 再び金切り声の鄧夫人との応酬が始まり、陰麗華はとにかく間に入って二人の口論をやめさせる。


 「そんな大きな声で……お願いだからもうやめて!」

 

 母と兄の口論が絶えないので、陰麗華は兄をも鄧仲華らの隠れる、秘密部屋に押し込んだ。 


 「ここで少し頭を冷やして。お兄さまは叛乱に合流するとか気軽に言うけど、叛乱の主力がどうなったかもよくわからないのに、どうやって参加するって言うの。もうちょっとよく考えてからにして!」

 

 妹に叱りつけられて、陰次伯は唇をへの字に曲げて不満を表明する。


 「棘陽きょくようにいるんだろう? 陰家が家を挙げて劉氏に味方すれば――」


 だが威勢のいいことを言った陰次伯を、鄧仲華が冷静に止めた。


 「挙兵の最初から協力してたんならともかく、小長安であそこまで負けた側に与するとか、正気とは思えない。大夫の軍は沘水に臨んで今度こそ、伯升と文叔を殺すまで帰らない構えと聞いたぞ?」


 その言葉に陰麗華が無意識に右手で胸を押さえる。

 ――小長安の敗戦を、文叔は逃れた。劉伯姫も死んだという情報は入っていないから、生きていると信じるしかない。でも、刻一刻と追い詰められているようにしか思われず、陰麗華は胸の奥が常時キリキリと痛んで、死にたいような気分だった。

 

 「仲華は長安で、文叔と親友だったんじゃないのか? どうして駆けつけてやらない。所詮、友情なんてそんなものなのかよ」


 次伯がやけくそのように仲華をなじれば、まだ天才少年の面影を残す仲華は、涼しい顔で首を振った。


 「もちろん、親友だ。でも今、僕が駆けつけてもどうしようもないだろう。……正直、今回の挙兵は文叔じゃなくて、伯升の主導だ。文叔は兄貴に流されたんだ。僕は彼がどうしようもなくなって逃げる時、助けの手を差し伸べるために敢えて関わらなかった」

 「文叔が――逃げるなら、仲華を頼るって?」


 陰次伯の問いに、鄧仲華が頷いた。


 「僕を頼るかはわからないが、文叔は〈陰麗華病〉だ。逃げる前に絶対、新野に来るね。賭けてもいい」


 そう言って仲華が陰麗華を見た。


 「陰麗華病……?」

 

 陰麗華が首を傾げると、仲華が肩を竦める。


 「大変だったよ。酔っぱらうと陰麗華、陰麗華って言い続ける、不治の病にかかってたのさ。そこまで言われる陰麗華ってどんな美少女なんだって、僕は何度、周囲に聞かれたことか」

 「何それ、きもい!」


 ずっと黙っていた鄧汎が思わず叫ぶ。

 

 「陰麗華がまだこうがいも済ませてないってバレたら、ただの陰麗華病の上に〈幼女好み〉の悪評が加わっちゃうから、僕は黙ってたんだけどね。ところが文叔と来たら――っと、こんな話をしてる場合じゃなかった」

 

 鄧仲華が慌てて口を噤み、それから陰次伯に言う。


 「少なくとも、今、この状態で、次伯までも叛乱に加わるのを文叔は望んでないと思う。兵を率いて会いに行ったら、何しに来たって怒鳴りつけらるんじゃないかな」

 「どうして!」

 「陰家が叛乱に加わるってことは、陰麗華も巻き込まれるってことだ。小長安で大負けに負けて、自分たちの命運が風前の灯だって、文叔はきっと理解してる。でも陰麗華が安全なところにいるってのが、わずかな救いのはずだ。君がのこのこ出ていったら、その安心が崩れちゃうじゃないか」


 だがその仲華の言葉に、次伯が眉を顰める。


 「言っておくが僕は劉氏復興の叛乱に加わりたいと思っているだけだ。もし帰順するなら文叔じゃなくて、伯升だろう?」

 

 しかし、仲華はあっさりと首を振る。

 

 「このまま、伯升が叛乱の主導権を握れるとは、僕は思わない。……小長安で派手に負け過ぎた」

 「……内輪揉めが発生すると?」

 「南から緑林の残党が北上してきている。劉氏を推戴すいたいするんなら、別に伯升じゃなくてもいい。それこそ、もっと毛並みのいいのが他にもいる。……例の、偽の葬式の劉聖公、とか」


 伯升と文叔の兄弟は舂陵侯の一族とはいえ、傍系も傍系である。劉聖公の方がうんと本家に近い。


 「毛並みって……劉聖公って、とてもじゃないが人の上に立つ器量なんて、なさそうな男だったけどな」


 次伯が昔の記憶をたどるような表情をする。数年前、劉伯升の婚礼のおりに劉聖公を見たことがあったが、おどおどしているくせに尊大で、ギラギラしたいやらしい目をした男だった。


 「劉聖公はもともと、新市の緑林兵と関係が強い。伯升は緑林の残党を支配下に入れるつもりで呼び寄せたけれど、小長安の敗戦で伯升らの立場は随分悪くなってる。伯升は奴等に頭を下げて、兵力を貸してもらわないと立ちいかない。主導権を緑林に握られてしまったわけだ」


 さすが元・天才少年、鄧仲華は叛乱が起きてから一か月以上、この隠し部屋から一歩も出ていないにもかかわらず、文叔らの置かれた状況を解説する。


 「つまりだよ、次伯。僕が言いたいのは、君が劉氏復興への義憤にかられて兵を挙げたところで、その貴重な兵は、南郡から来た野良犬たちの支配下に置かれちゃうかもしれないってことさ。君は陰家の当主として、一族郎党の命を預かっている立場なんだから、もう少し慎重に考えて動こうよ、ってね」


 年下の鄧仲華に窘められて、陰次伯は悔しそうに顔を歪めるが、反論できずに押し黙る。

 沈黙してしまった次伯に向かい、仲華ははっきり言う。


 「今は、劉伯升らが生き残って、どう動くのか。緑林の行方がどうなるのか、それを見定めてからでないと、動きが取れない」

 「……最悪、生き残れないってことなのか?」


 次伯の言葉に、陰麗華がはっと顔を上げる。その顔色は蒼白だった。仲華が陰麗華を見て、それから次伯を見た。


 「文叔は陰麗華病だ。これまで勝算のある賭けしかしてこなかった文叔が、伯升の叛乱に乗ったのも、きっと陰麗華の婚礼やめさせるためだ。ここで死んだら陰麗華は郡大夫のものになっちまう。死霊になっても生き残ると思うけどな」

 「死霊になった時点で生き残ってないだろ」


 次伯に突っ込まれて、仲華が肩を竦める。


 「……まあとにかく。次伯はせっかく自由に動けるんだから、母親とくだらない言い争いしていないで、情報を集めたり、いろいろ準備することあるんじゃないの。頼むよ、次伯()()()()

  

 殊更に年上であることを強調され、陰次伯がぐぐっ詰まる。だが仲華にはっきり窘められたことで、次伯も頭が冷えたらしい。持ち込んだどぶろくを椀に注いで一気に飲み干すと、言った。


 「わかった。僕はしばらく、母さんの言うことを聞いたふりして、大人しく過ごす。その間に、挙兵の準備をするよ」

 「不作で、食糧の備蓄が少ない。それをいかに確保できるか。あとは武器だね。でもあまりやり過ぎるとバレるよ。……文叔たちの挙兵は、宛の市で彼らが武器を大量に購入したことから、事前に察知されていたらしいし」


 鄧仲華に注意され、次伯は頷く。


 「……何か聞かれたら、郡大夫の軍に協力を要請されていると答えるよ。僕の妹が郡大夫に嫁ぐ予定だったのは皆、知っているだろうから」

 「それがいい」


 陰麗華は落ち着いたらしい兄を見て、少しだけ安堵の吐息をもらす。――それでも、文叔の未来が真っ暗なのは変わらないのだが――。

 

 

 

来君叔:来歙らいきゅう。新野の人。文叔の従兄。

鄧仲華:鄧禹。


*1 材官・騎士

漢代の男性は二十三歳から五十六歳までを「正丁」と称し、一年間は都で衛士となり、一年間は州郡の材官・騎士となって「射御騎馳戦陣を習う」軍役の義務があった(水軍を擁する郡では樓船の扱いも習う)。八月に郡の太守・都尉以下、県の令長が揃って、材官・騎士の技量を試験するのを「都試」と称する。

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