十月之交
㷸㷸震電、不寧不令。
百川沸騰、山冢崒崩。
高岸為谷、深谷為陵。
哀今之人、胡憯莫懲。
黽勉從事、不敢告勞。
無罪無辜、讒口囂囂。
下民之孽、匪降自天。
噂沓背憎、職競由人。
――『詩経』小雅・十月之交
㷸㷸たる震電、寧がず令からず。
百川は沸騰し、山冢は崒崩す。
高岸は谷と為り、深谷は陵と為る。
哀しきかな今の人、胡ぞ憯て懲り莫る。
黽勉として事に従い、敢えて勞を告げず。
罪無く辜無くして、讒口は囂囂たり。
下民の孽は、天より降るに匪ず。
噂沓と背憎と、職に競いて人に由る。
凄まじい雷鳴と稲光が、不安と不吉さを煽る。
すべての河川は沸騰し、山は崩れ落ちる。
高い岸辺が崩れ落ちて谷底となり、深い谷が隆起して丘陵となる。
天変地異が起きても、愚かにも人は己を省みることがない。
ただひたすらに職務に打ち込み、苦労に愚痴一つ零さずとも、
罪なき者を罪に落とす讒言が止むことはない。
下々の民の災いは、天が下すのではない。
表では褒め称えながら裏で悪し様に罵るように、人の醜い争いが不幸の種となる。
*********
愛してる、誰にも渡さない――。
うわごとのように幾度も幾度も呟いて、劉文叔は陰麗華を力ずくで抱いた。
一度、規を踏み越えてしまえば、もう、戻ることはできない。
夜明け前にそっと出て行った男を見送り、陰麗華は放心したように座り込む。
自分は純潔を失った。嫁入りを間近に控えた身で。
これが、誰かに知られたら――。
文叔は必ず迎えに来ると言った。でも、たとえ彼が命懸けで陰麗華を攫いに来たとしても、その手を取ることなどできない。陰麗華が家を捨てれば、陰家がどんな報復を受けるか。
震える手で陰麗華は深衣の衣紋を整え、帯を締める。
乱れた髪から文叔のくれた金釵が滑り落ち、床に落ちてカシャンと儚い音を立てた。
昨日までの自分は、何も知らないのと同じだった。
恋は、瑞々しく甘い果実のようなものだと思っていた。
愛は、包み込むように温かく、優しいぬくもりのようなものだと思っていた。
でも今、恋は苦く苦しい毒薬のように陰麗華の胸の内を焼き、愛は冷たく鋭い刃となって陰麗華の身体を引き裂いた。
愛してる?――そう、愛してる。
わたしのことを愛していると、何度もあの人は言った。
でも、わたしがさらに苦しむと、わかっていて何故――。
母にも、小夏にさえ言えない秘密を持ったことで、陰麗華は精神的にも追い詰められる。誰にも相談できない悩みで、眠れない夜が続く。
ある日、陰麗華は迷いを振り切るように白絹を裁ち、薄く真綿を敷いて一枚の絮衣を縫い始める。嫁入り衣装は家婢に押し付け、明らかに自身のものではない、大きな絮衣に取り憑かれたように針を運ぶ陰麗華を、小夏は半ば呆れたように見ている。――婚礼まであと二月ほど。完成するかどうかも怪しいけれど、陰麗華は睡眠を削ってそれに没頭した。それを縫っているときだけ、陰麗華はこの悪夢のような苦悩から逃れられるような気がした。
そんな陰麗華に、どこかに用足しに出ていた小夏が、隠し持ってきた木簡を手渡す。夏の暑さの中で小夏が懐に入れていたせいで、少し文字が滲んでいたが、見間違えるはずもない劉文叔の手蹟であった。
「……! どうして!」
「だって……どうしても渡して欲しいって頼まれてしまって……」
小夏は甄大夫との結婚に反対だし、陰麗華の本当の気持ちも知っているから、どうしても劉文叔に甘くなる。
陰麗華が諦めて木簡を見る。――小夏が字が読めないのが、せめてもの救いだった。
《庚申の日の午後、いつものところで待つ》
「……これは、今日、お会いしたの?」
「ええ、邸の周囲の掃除をしているときに話しかけられて。――これから宛に行くのだそうです」
庚申の日は四日後。つまり、宛からの帰途に新野を通る、その時に、ということだ。
陰麗華が逡巡する。……会うべきじゃない。ただでも危険なのに、逢引きしていることが知られたら……。
それでも、結局のところ、陰麗華は劉文叔に逢わずにはいられなくて、約束の日、杜の中の土地神の祠に向かう。
西の空に黒々とした暗雲が立ち込めて、今にも一雨きそうな天気だった。
人に見られないように注意深く祠に近づき、そっと木戸を開けて薄暗い内部に入り込む。……まだ、文叔は来ていない。
土地神の祠には石の像が置いてあって、以前に陰麗華が供えた花が祭壇の上で枯れていた。
なんとなくその前に跪いて祈りを捧げていると、藁ぶきの屋根を叩くような音がして、瞬く間に祠はひどい土砂降りに包まれた。
祠の中は夜のように暗くなり、稲光が光り、雷鳴が轟く。陰麗華が、思わず身体を縮こませる。
――小夏にも言わずに出てきた。今頃、探し回っているかもしれない。
雷は特別苦手ではなかったが、たった一人、古びた祠の中で夕立に閉じこめられるのは恐ろしかった。こんな土砂降りでは、文叔も来られないのではないか。
そう思った時、雨の音に紛れて馬蹄の音が近づき、祠のすぐ前で停まる。誰かが、雨に濡れないように軒の下に馬を繋いでいる気配がして、やがて祠に近づき、キイと木戸を開けた。
蓑笠から雨の雫を滴らせて、男が入ってくる。乱暴に笠を外し、雨具を脱ぎ捨てた男を、稲光が青白く照らす。
雷鳴が轟く中、気づけば麗華は自ら文叔の胸に飛び込んでいた。雨の匂いのする、力強い腕で抱きしめられる。
「麗華。よかった――来てくれないかと思っていた。……僕は、君にひどいことをしたから」
ひどいこと、と言われて、麗華はあの夜のことを思いだし、思わずビクリと身を引き攣らせる。文叔がその細い身体を大きな手でゆっくりと撫でる。
「ごめん……僕は最低だ。あんなことはするつもりじゃなかった。でも――」
劉文叔は陰麗華の身体を離し、正面から顔を見つめた。稲光が走り、青白い光が文叔の顔を浮かび上がらせ、整った顔に翳が射す。大きな黒い瞳が、普段とは違う鋭さと剄さを含んで煌めいた。
「君を辛い目に遭わせたことは詫びるけれど、後悔はしない。あれで、決心がついた。僕は何があっても、どんな手段を使っても君を手に入れる」
「文叔さま――?」
その様子が尋常でない気がして、陰麗華は唾を飲み込む。ガラガラと凄まじい雷鳴が鳴り響いて、どこか近い場所に落雷した。この世のすべての音が消えて、雨音と雷鳴だけが轟き、稲光が二人を照らす。
「無理はしないで。……お願い」
辛うじて声を絞り出す陰麗華に、文叔の唇が皮肉に歪んだ。
「無理をしなければ、君を手に入れることはできない。あの男に君が奪われるのを、指を咥えてみていろと?――約束して、麗華。君は僕のものだ。絶対に迎えにいくから、諦めないで僕を待っていて」
そう、うわ言のように囁いて、文叔は陰麗華に強引に口づける。長い口づけの間にも雷鳴が轟き、雷光が綴じた瞼の向こうで踊る気配を感じる。
口づけの後で陰麗華を無言で抱きしめてから、文叔は懐から小さな銀環を出して、陰麗華の左手の薬指に嵌めた。
「よかった、ピッタリだ」
白い指に嵌った銀環を見て、文叔が満足そうに微笑む。少し遠ざかったらしい稲光に、銀の環がギラリと光った。
「これ――」
「君がもう、僕のものだという印だ。……後宮でね、天子様のお手がついた女は銀の指環を嵌めるんだって聞いた。僕は君以外の女に手をつけるつもりはないけど、君がこれをつけていてくれると思えば、安心できる」
陰麗華は思わず、自分の指で光る銀環をまじまじと見た。――お手付きの印とか、ちょっと困る。
「おかあさまに聞かれたら、なんて答えるの。それに小夏も」
「適当に誤魔化してよ。僕の姉さんにもらったとか、長安で流行ってるとか」
「流行ってるの?」
「遊女につけさせていた、趣味の悪い奴はいたな」
要するに男の自己顕示欲ではないか。陰麗華が返答に窮していると、文叔が笑った。
「指環じたいは誰でもしているだろ。……おまじないみたいなものだよ」
文叔は陰麗華をもう一度強く抱きしめると、身体の線を確かめるように撫でてから、名残惜し気に手放す。
「今日はもう、行かないと。……絶対に、僕を信じて。必ず、迎えにくるから」
「ん……待っています」
「愛してる、麗華」
文叔は最後、陰麗華の左手の指環に口づけると、するりと身をひるがえして祠を出て行った。
いつの間にか雷鳴ははるか遠くで名残のように響くだけで、雨も小降りになり、祠にはまた、光が差し込んでいた。
陰麗華が、あの日の劉文叔の決心の中身を知るには、それから二か月の時が必要となる。
陰麗華が劉文叔との婚約を破棄し、前隊大夫のもとに嫁ぐという知らせは、南陽社会にある一定の衝撃を与えた。
陰氏は、管仲を祖とする春秋以来の血筋を誇るも、南陽の地に根付いて代々田業をこととする、言うなれば官と一線を画した家であった。南陽郡に冠たる資産を有しながらも、それに甘んじて官に栄達を求めない文字通りの素封家である。婚姻は地域の豪家と好を通じ、儒家が推奨する理想的な家族を形成するためのもの。婚姻こそ、家と地域社会を結び、礼教と忠孝に基づいた社会を現出する根本に他ならない。
その誇り高き陰家が、官の圧迫に己の節を曲げ、あろうことか娘を郡大夫の妾として差し出す。陰家の屈辱もさることながら、許嫁を理不尽に奪われた舂陵の劉文叔の憤りやいかに――。
さらにもう一人、どうにもならない焦燥に悶える男がいた。
鄧少君もまた、陰家の決定に衝撃を受け、なんとか陰麗華を救い出せないかと、半ば筋肉でできた脳みそを絞る。
郡大夫が陰家に縁談を持ち掛けたのは、要するに舂陵劉家に対する嫌がらせだ。あるいは、トチ狂った劉文叔が花嫁を強奪でもすれば、それを理由に、劉家を一網打尽にしようと、手ぐすね引いて待っているのかもしれない。
その程度の想像は脳筋の鄧少君にもつく。郡大夫としては、劉文叔が花嫁を奪いにくれば劉家をぶっ潰して皇帝に手柄を報告できる。劉文叔が諦めれば、南陽一の美少女、陰麗華を手に入れられる。どっちに転んでもウマウマな独り勝ち状況だ。他人の婚約者を奪うのは褒められた話ではないが、力ずくで攫ったわけでなし、保護者と正当なやり取りの上で輿入れさせるのだから、何の文句があるといったところだろう。相当にえげつない脅しをかけたに違いないが、当主が早死にして未亡人が切りまわす陰家では、太刀打ちなどできまい。
――そしてこれは、南陽の他の豪族にとっても有効な脅しになりうる。陰家や劉家のように、理不尽な要求を突き付けられたくなくば――。
鄧少君は右手の親指の爪を噛む。
彼は叔父の鄧偉卿に、自分が陰麗華を妻にして郡大夫から救いたいと頼み込んだが、張り倒されただけだった。陰家が受け入れた以上、どうにもならない。脳筋でもそれくらい理解しろと叱責され、腹に蹴りまで入れられた。叔父も相当に腹を立て、なすすべもない自分たちにいら立っているのだ。
ならばどうすればいい。鄧少君の乏しい脳みそが思いついた答えは二つ。
――陰麗華を攫うか、郡大夫を殺すか。
一つ目は簡単だが、陰家も鄧家も取り潰されるに違いない。駆け落ち自体はそれほどたいした罪にはならないはずだが、面子を潰された郡大夫が全力を挙げて鄧家の瑕瑾をあげつらい、見せしめ同然に家ごと破滅させるだろう。
最大の問題は、陰麗華には鄧少君の手を取る理由がないことだ。文叔の手ならば嬉々として取るであろうあの白い手が、鄧少君の剣だこだらけの手に乗せられることはないと確信できる。
二つ目は、いかな武芸自慢の鄧少君でも少々難しい。郡大夫に直接対峙しなければ暗殺など不可能だが、そんなチャンスはまずないし、作り上げる頭脳もない。そして万が一成功したとしても、実行犯の少君は死罪になり、鄧家に大迷惑が及ぶだろう。――結局、あの忌々しい劉文叔のクソ野郎が漁夫の利を得るだけだ。
鄧少君の鬱屈はたまる一方で、木刀を振り回し、古い瓦を叩き割って、獣のような奇声をあげて暴れまわっても解消などできなかった。
いっそ、自らの危険も、鄧家への迷惑も、陰麗華の気持ちも無視して彼女を攫ってしまおうか。そんな考えに取りつかれた鄧少君は、ある夜、思い余って陰家の庭へと忍び込んだ。
鄧少君は陰家の跡取りである陰次伯と同い年の親友で、次伯が南陽にいた時分は毎日のように行き来していた。夜、泊まったことも幾度もある。――イタズラがばれて叱られて、納屋に閉じ込められた鄧少君を陰次伯が内緒で助けにきたことも、逆もある。二つの家の間の墻の、秘密の抜け道もちゃんと知っている。
少君はそっと陰麗華の部屋の軒下に忍びこむと、まだ灯りの漏れている格子窗に向かって石を投げた。一つ、二つ――三つ目を投げようとしたところで、中で人の動く気配がし、夏の暑さをしのぐため、風を通すよう少しだけ開いた戸口がするっと動いた。
「――文叔さま?」
小声で掛けられた声に、鄧少君は思い知らされる。文叔も、以前にこうして彼女の部屋に忍んできたことがある。それはつまり――。
胸の内に灼けるような嫉妬を感じながら、だが少君は小声で言った。
「ちがう。……俺だ。少君だ」
「少君?」
全く予想外だったのと、おそらくは想う相手でなかったことで、陰麗華の声には明らかな戸惑いがあった。あいつじゃなくて残念だったな、と詰ってやりたい気分でいっぱいだったが、かろうじてそれを堪える。
「麗華――逃げよう。あんな四十過ぎの男の妾だなんて、あんまりだ。俺が……絶対にお前を守るから――」
「少君?……何を言って……」
陰麗華は呆然としていたが、しばしの沈黙の後、年上の少君を諭すように言った。
「こんな時間に、人に見られたら困るわ。……ね、帰って」
「麗華、俺は前も言ったようにお前が好きだ。お前が不幸な結婚をするのを、見ていられない。……俺じゃあ、不満かもしれないけど……」
陰麗華が息を飲む気配がした。
「……だめよ、少君。逃げたら、きっと郡大夫に報復されるわ。わたし一人のために、家族を危険にさらさないで。わたしも、覚悟はできているから――」
「でも! なんでお前が犠牲にならなきゃなんないんだよ! これは単なる、郡大夫の劉氏への嫌がらせだろうが!……好きで望まれるなら、ともかく……」
「わたしも理不尽だとは思うけど、世の中、もっと理不尽なことは山のようにあるわ。でも、わたしが辛抱すれば不幸はわたし一人ですむけれど、わたしが逃げたら、とばっちりで不幸になる人がたくさん出るのよ? そんなことできないし、そんな罪深い人生で、幸せになれるはずがないわ」
陰麗華が溜息を零した儚い息の音がする。鄧少君は項垂れ、唇を噛む。
「麗華……俺はお前のためなら命を捨てる覚悟はあるんだ」
「ありがとう。……でもあなたの命だけで済まないってわかっているのに、あなたの手を取ることはできないわ」
陰麗華はすっと戸を閉め、今度はぴっちりと締め切って閂をかけた音がした。鄧少君はその戸口をしばらく見ていたが、諦めて立ち上がり、踵を返す。
不意に、ここに迎えに来たのが劉文叔だったら、陰麗華はヤツの手を取っただろうかと、鄧少君は思う。――いや、陰麗華は奴の手もきっと取らない。でも――。
奴なら陰麗華の言葉などきかず、とっとと陰麗華を気絶させでもして連れ出したに違いない。
陰麗華の意志を確認し、拒絶されて引き下がる自分と、おそらくは陰麗華の気持ちなど無視して、力ずくで奪っていくであろう劉文叔と――。
ならば、なぜ奴は行動を起こさないのだ。
いや、もしかしたら――。
奴のことだから、とんでもない起死回生の策でも巡らしているというのか。
脳筋の俺が思いもつかない、でも破れかぶれの策を――。
――叔父の鄧偉卿が少君を自室に呼んだのは、その翌日。
まだ残暑の厳しい時期にもかかわらず、戸を閉め切った中で聞かされた叔父の決意に、少君は息を飲んだ。
夏と秋は不穏なままに過ぎた。山東で起こった賊が、皇帝が派遣した軍を破り、ますます強盛になる。蝗の大群が、ついに長安を襲ったと、風の噂に聞こえてきた。
――世界が、崩れ始めている。
あの後、文叔の訪れはない。
陰麗華は婚礼までの数か月、自房に閉じこもり、ただひたすら絮衣に刺子をして過ごした。
十月、甄大夫との婚礼を三日後に控えたある日。
驚愕の報せが南陽を駆け巡った。
舂陵の劉伯升・劉文叔兄弟が王莽政権の不法を糾弾し、「漢」の復興を掲げて兵を挙げた。
時を同じくして、宛の李次元、李季文の一族、そして新野の鄧偉卿が劉氏に呼応して挙兵した。
天がこの天下を託したのは高祖劉邦とその子孫である。漢を奪った逆賊王莽から、天下を劉氏の手に取り戻す。
劉氏は復た興るべし。李氏は輔となる――。
李次元:李通。南陽宛の人。
李季文:李軼。李次元の従弟。




