暴走
大飢饉は、まず関東で猛威を振るった。不作であるのに匈奴征伐に向けて、天下の穀物を西北辺境に移送し、関東の穀物が品薄になったのである。そして、追い打ちをかける経済政策の混乱。――民は飢え、食を求めて流民となり、時には暴徒と化した。だがそのはじめは、ひたすら日々の食を追い求めるだけの、無秩序な飢えた元元でしかなかった。
だが、やがて州郡の発する兵と乱戦になり、命を落とす地方官も出てくる。膨れ上がり、狂暴化する流民に対し、国家が差し向ける軍隊も巨大化する。たがいに連携もなく、粘菌のように食を求めて蠢くばかりであった彼らが、いつしか指導者を得て、明確に国家転覆へ意思を持ち始める。
その決定的な変化が起きたのが、地皇二年(西暦二十二年)冬から三年にかけてのこと。南方の緑林軍が荊州牧の徴発した二万の兵を破り、また山東から起こった赤眉の乱は、樊崇の指導のもとで、皇帝が派遣した太師景丹の軍を破る。新たに皇帝は太師王匡、更始将軍廉丹ら、精鋭十万以上を差し向けるが、賊の勢いを止めることはできない。山東の赤眉と、荊州の緑林と。大飢饉と兵乱に追われた流民は、数十万の群れとなって関中になだれ込む。
東から西へ、関中へと向かうのは、流民だけではなかった。
東の空に、真っ黒な黒雲が沸き起こる。不吉な羽音とともに、天を覆いつくすばかりの蝗の大群が、西へ、関中へと飛来する。収穫間際の穀物を一瞬にして食い尽くし、人々を絶望に突き落とす黒い雲が――。
関東の飢えが、関中へと忍び寄っていく。
皇帝の、首元を締め上げるかのように、刻刻と――。
地皇三年(西暦二十三年)の二月、舂陵の劉伯升が人を殺し、弟の劉文叔もその共犯者として蔡陽県で名捕されてしまった。逮捕されれば尋問とは要するに拷問のことであるから、やってもいない罪をなすりつけられることは火を見るより明らかだった。県吏の追及を逃れるため、文叔もまた、姿をくらませた。
陰麗華は不安を振り切るように、毎日、あの杜の祠に詣でた。土地神でもあり、もともと陰家の寄付で作られた祠であるから、今年こそは豊作であるようにと願をかけると母には言い、実際には文叔の無事をひたすら祈っていた。
花と醪を携え、小夏には外で待つように言って、陰麗華は古びた木戸を開けて祠の中に入る。相変わらず埃っぽい中の、祭壇に花と醪を供えて両膝をつき、手を組んで祈り始める。目を閉じてどれほど経ったか、ふいに抱きしめられて悲鳴をあげそうになり、大きな手で口を塞がれた。
「しい!僕だよ。……麗華、僕だって」
「……文叔さま?」
まじまじと見ると目の前には死ぬほど逢いたかった文叔の顔――。
顔が近づき、唇が重ねられる。大きな手でうなじを抱えられて、貪られるような長い長い口づけの後、ようやく解放され、陰麗華は淡い吐息を漏らした。
「ごめん……びっくりさせて。ここに来れば君に会えるかもと思って……」
「どうして……?」
「兄貴のせいで僕まで官に追われることになって、姉さんの家に隠れているんだ。見つかるとヤバイから、外にも出られなかったが、どうしても我慢できなかった」
陰麗華は心底ほっとして、そのまま力が抜けて崩れ落ちそうになり、ぎゅっと文叔の肩に縋る。陰麗華の華奢な身体を、文叔ががっちりと抱き留めた。
「愛してる……麗華」
文叔がしばらく抱きしめたままの陰麗華の黒髪を撫でる。
「金釵……つけてくれているんだ」
「ここに来る時はいつも……あなたが、無事であるように……」
「ごめん、迷惑ばかりかけて……」
ずっと隣家に潜んでいたのに、会うこともままならなかったなんて、陰麗華は引き裂かれた今の状態が哀しくて、つい泣いてしまう。文叔が涙に気づき、それを指で拭う。
「泣かないで……いつか、二人で一緒にいられる日が来るから――」
「文叔さま……」
二人はただそのまま、無言で抱きしめ合っていた。
地皇三年七月、ついに緑林の一部、新市兵が北上し、南陽郡の界に入った。戦乱は対岸の火事ではなくなる。
その年もまた不作で、穀物価格の高騰が続く。鉅万の富を誇る陰家でも、打ち続く凶作に備蓄は目に見えて少なくなっている。ここ一年ほどで、母の鄧夫人は明らかに疲弊していた。一族と、使用人や奴婢や、そして下戸の生活が鄧夫人の細い肩にのしかかっている。――その苦労を増やしてしまっている陰麗華は、申し訳なくて母にかける言葉もなかった。
そんな中で、陰家の一族の男が五銖銭を不法に蓄えていたとして、官憲に逮捕された。そして取り調べ中に証言する。――新野の陰家が、五銖銭を不法に鋳造している、と。
拷問して、官の望む証言を引き出すなんて、獄吏には朝飯前のこと。官吏と取引して、ありもしないことを証言し、自身の罪を軽くする者もいる。対応を間違えれば陰家は盗鋳銭の罪で取り潰されてしまう。
対応に苦慮する陰家を、ある夜、抜き打ちで郡大夫が訪れた。
以前の進賢冠ではなく、もっと気楽な小冠ではあるが、黄金の装飾がついた洒落たもの。暑い時分のことで、気楽な麻の襜褕にやはり薄い麻の、刺繍を散らした手のこんだ褶衣をひっかけている。透けるような素材に、別布の襟の装飾が華麗であった。
慌てて堂に導き入れる家宰に向かい、大夫が言った。
「陰麗華はどうしておるか」
「お嬢様はもう、お休みになっておられます」
「話がしたい」
夜分に未婚の娘を呼び出すというのは、あまりに非常識である。家宰は返事に窮して、頭を下げる。
「奥様に伺ってみませんと」
「郡の大夫である余の命が聞けぬか?」
「未婚の娘は親の補導の元にあると聞いております。いずれにせよ、一使用人が決められることではございません」
「ならば夫人を呼べ」
言われなくとも、鄧夫人はもう、堂の入口に立っていた。女婢が数人、灯を持って堂に並べ、堂内が明るくなると同時に、獣油の香りが辺りに漂う。
鄧夫人は大夫の座る牀の前に跪き、拱手した。
「大夫大人におかれましては、想いもよらぬお運び、恐縮至極に存じます」
「今日こそはよい返事をききたいと思うてな」
「は……」
両膝をつき、両手を額の前で組み合わせ、頭を下げた姿勢のまま、鄧夫人が言う。
「陰麗華を余の元に遣わせ。糟糠の妻がおる故、正妻とはいかぬ。だが、それに劣らぬ待遇を約束しよう。――正妻の嫉妬ならば心配はいらぬ。余がきちんと守る」
「ありがたいお言葉ではございますが、劉家との話が膠着しておりまして……あちらが片付きませぬことには」
「陰麗華はどう、申しておる」
「それは……娘は勿体ないお申し出にただただ恐れるばかりで……何分、子供でございますので」
牀にどっしりと座る大夫を、脇に控える奴隷の少年が片側だけに扇ぐ部分のついた扇で、自らの汗をぬぐう暇もなくあおいでいる。陰家の女卑が酒肴の乗った案を捧げ持ち、大夫の牀の前に置いた。
「余は陰麗華より、直接に聞きたい。麗華を呼んでまいれ」
鄧夫人はこんなこともあろうと、大夫が到着した時には陰麗華の元に人をやっていた。
「若い娘のことで、支度に手間取るかもしれませんが、もうすぐこちらにまいるかと存じます」
それでも、大夫の案の上の酒注ぎが空になるくらいの時間は十分にかかって、侍女の小夏の先導で陰麗華が堂に現れた。拱手して俯いたままの姿勢でしずしずと大夫の前に進み出、両膝をついて頭を下げる。
「大夫大人に拝謁仕ります。陰氏の次女にございます」
「ほう、そなた、姉がおったか」
大夫の言葉に、母の鄧夫人が説明した。
「前妻の娘で……これには異母姉になります。年が離れておりまして、同県の鄧氏に縁付いて、現在は夫の任地について行っておりますので」
「任地とは……官吏であったか」
「はい。交阯牧(*1)でございますので」
年齢が一回り以上離れているので、姉が嫁いだのは陰麗華がまだ、物心つく前であった。陰麗華はこの土地や家族を愛しているので、官吏の妻となって夫の任地について回る、姉のような生活は嫌だと思っていた。仮に劉文叔のことがなくとも、また正妻であったとしても、甄大夫の妻になるのは本気で気が乗らなかった。
郡大夫が陰麗華を上から下までジロジロと見て、満足そうに笑う。黒髪は中央で二つに分け、捩じってうなじで一つ、金釵で纏めている。大夫に対面する恐ろしさを乗り越えるため、陰麗華は劉文叔にもらった金釵を髪に挿してきた。当然、母の鄧夫人は金釵に気づき、わずかに眉を顰める。
「今日はそなたから返事をもらいたくて来た。――余の元にまいれ」
「それは……わたくしには過分なことで、郡大夫大人の身内など、とても務まりません。どうかご容赦ください」
丁寧に頭を下げる陰麗華に、大夫が鼻で笑う。
「なに、面倒なことは正妻が全部やる。そなたは余の側におればよい。そなたの望むものならば、すべて叶えて進ぜるによって。衣装でも、宝石でも」
「勿体ないことでございます。着飾ったところで、田舎娘に過ぎません。周囲の方々にご迷惑をおかけするばかりと思うと、恐ろしくて……」
さっきから、陰麗華は大夫の顔さえまともに見ることができない。なぜ、こんなに自分に執着するのだと、不思議でしょうがないし、正直に言えば気味が悪かった。
「劉家とは、まだ話が済んでおらぬとか」
陰麗華がちらりと母を見た。母がお愛想笑いを浮かべて言う。
「ええまあその……わたくしの実家の者が媒酌でございまして、なかなかその……話をしづらいと申しますか……」
「余が話をつけてやってもよいぞ?……あやつ、そう、劉文叔と申したな。あやつは小賢しくも納言の荘伯石閣下に取り入って、逋租(未納分の租税)の請求を取り下げろと言ってまいったわ」
母子が思わず顔を見合わせると、不快なことを思い出したというかのように、大夫がイライラと膝を叩いた。
「昨年の末に元の舂陵侯家に未納の租税があると請求したら、なんと長安まで出向いて納言に直接かけあったらしい。荘伯石閣下はあの男の言うことを信じて、劉家に対する逋租の請求は不当だなどと……」
チっと舌打ちし、大夫は隣で仰いでいる少年に「もっと風を送れ!」と命じ、もう一人の婢に汗を拭かせる。
「……たく。荘閣下はな……ここだけの話だが、男色家なのだ。劉文叔とやら、その手の男に好かれる外貌をしておるそうではないか。おおかた、尻の一つでも差し出して籠絡したか」
箱入りの陰麗華は大夫の話はさっぱり理解できなかったが、文叔が侮辱されている気配は感じ、ぐっと眉を寄せた。
「忌々しい男だ……そもそも舂陵の劉氏はあれの兄の伯升といい、劉聖公といい、官憲にたてつく不逞の輩ばかりじゃ。皇帝陛下に仇なす奴らは、陛下の臣として排除すべきと思わぬか?……のう、陰麗華よ」
大夫は身を乗り出すようにして、陰麗華をじっと見た。ほのかな灯りの下で、大夫の黒い瞳がギラリと危険な光を発し、陰麗華はごくりと唾を飲み込む。
「そなたが余のもとに参るのであれば、劉文叔とやら、見逃してやってもよい。あの家は叩けば埃の出る家だ。追い落とす材料などいくらでもある。余は情け深い性質でな、そなたを奪ったうえに、さらに罪に落とすようなことは勘弁してやろうぞ。だがな……そなたがあくまであの男に操を尽くすと申すならば、そもそもあの男自体をこの世から葬るのみ」
ニヤリと陰険そうな笑みを浮かべ、大夫が陰麗華に選ばせた。陰麗華は思わず両手を胸にあて、黒い目を見開く。
「そんな……」
「さあ、どうする。わが物になるか。それとも一人の男を破滅させるか。もちろん、この陰家の盗鋳の疑いも、そなた次第ではあるな――」
陰麗華は目を閉じる。――もう答えなど、決まっているではないか。
その年の八月、陰家と甄家が正式な婚約を結び、周辺にも告知された。劉家には鄧偉卿を通じて破談を通告し、結納を返還し、違約金も支払う。偉卿もその妻・劉元君も渋い表情ではあったが、事情が事情であるため、何も言わなかった。
「本当にいいんですか、お嬢様。正式な奥様と、御婢が二人もいるそうじゃないですか」
急拵えの花嫁衣裳を縫う陰麗華に、小夏が不満そうに尋ねる。甄大夫には、陰麗華とそう年の変わらぬ子供もいる。二歳年上の正妻との仲は冷え切っているとは言うが、小妻であるのは変わりがない。
「……望まれて嫁ぐのが幸せだとも聞いたわ。しょうがないのよ……」
「でも……昨日押し掛けてきた正妻、すっごく嫌な感じでしたよね? お嬢様だって、好んで四十男の妾になるわけじゃないのに」
「小夏」
陰麗華は溜息をついて、ブツブツと文句をつける小夏を窘める。
甄大夫の正妻・陸氏は、癇の強そうな痩せた化粧の濃い女だった。突然、宛からやってきて陰麗華を値踏みするように見て、一言、「ずいぶんと田舎くさい女だこと」とケチをつけた。たしかに陰麗華は化粧っ気もなく、衣類も自家製の麻の深衣に、漆塗りの地味な笄を挿しただけ、木香薔薇の花びらを乾燥させたものを詰めた、手製の匂い袋を懐に入れただけで、香も焚いていない。一方の陸氏は堂に入ってきた瞬間から強烈な香の匂いを振りまいて、陰麗華が咽そうになるくらいだった。――都会風に洗練されればああなるのだとしたら、陰麗華は一生、このままでいい。
陰麗華が昨日の気の重い対面を想い出し、もう一度溜息をつく。
陸氏も夫に妾など取って欲しくないのだろう。陸氏の気持ちがわかるだけに、陰麗華も申し訳なく思うが、陰麗華自身の希望ではないし、何ともしようがない。
「どうして、男の人は一人の妻では満足しないのかしら――」
陰麗華が針を持つ手を止め、灯火に揺れる自分の影を見る。
あの日、白水の中洲で戯れていた二羽の鳥は、生涯、番を守るという。鳥と違って、人はただ一人を相手を愛し続けることはできないのだろうか。
「そんなの、男の人がスケベだからに決まってるじゃないですか」
小夏の言葉に、陰麗華は手元の縫いかけの深衣を見下ろす。さっきから針は進まない。……これが、文叔との婚礼のための衣装なら、もっと逸る心で縫い上げただろうに。
(文叔さまと結ばれていても、もしかしたら心変わりされてしまうかもしれないわ。だったら――)
愛し合ったはずの夫婦に間に隙間風が吹き、いつか文叔が小妻を娶って傷つく日が来るよりは、最初から好きでもない男の妾になった方がマシなのかもしれない。
無理に心を振るい立たせ、針を持って作業を再開する。横でやはり針を持つ小夏が、欠伸を噛み殺したのを見て、陰麗華が言った。
「もう遅いわ。小夏、あなたはお休みなさい」
「でも、お嬢様……」
「わたしはまだ少しだけ起きているけど、もう、じきに休むから」
そう言われ、小夏は観念したように頷くと、縫いかけの単衣と裁縫道具を纏め、部屋を出ていった。
一人になると、しんと、夜の孤独が押し寄せてくるようだ。
はあ、ともう一つ溜息を零して、針を手に取ろうした時。
ふっと灯火が大きく揺らぎ、カタリと扉が開く。湿った夜の空気が流れ込んで、陰麗華は小夏が戻ってきたのかと、目を上げた。
「――!!」
戸口に立っていたのは、小夏ではなかった。部屋の隅は真っ暗でよく視えなかったが、気配が違った。
悲鳴をあげようと息を吸ったその口を、暗闇から伸びてきた大きな手が塞ぐ。
「しずかに――声を出してはダメ」
懐かしい、聞きなれた声に陰麗華はほっとすると同時に、どうしてと混乱する。そのまま慣れた腕に抱きしめられ、陰麗華は逃れようと身を捩った。
「どうして逃げるの。……僕が、嫌いになった?」
「ちがっ……でも、どうして、ここに――」
「どうして?……君の、心変わりを責めるためだよ」
陰麗華がはっとして劉文叔の顔を見た。灯火に照らされた彫りの深い顔には、濃い影が映っていた。大きな手が陰麗華の両の二の腕を掴み、ぐいっと身体ごと正面に向けて、まっすぐに見つめてくる。
「麗華。……本気で、あんなオッサンの、それも妾になるつもりなのか」
「それは……だって、他にはもう……」
ふるふると首を振る陰麗華は、驚きと後ろめたさで言葉が出てこない。心変わりなんてしていない。でも――確かに、文叔から見れば、これは陰麗華の裏切りだ。
「麗華、約束しただろう。僕のところにお嫁に来ると。いくら奴が二千石の高官だからって……」
「違うわ!でも、しょうがないの!そうじゃなかったら……」
陰麗華がぽろぽろと涙を零し、いやいやと言うように首を振る。
「盗鋳銭の疑いをかけられたの。わたしがあの人のところに行けば、お咎めなしにしてくれるって……」
真正面から陰麗華を睨みつけていた劉文叔の黒い瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。
「あのっ……クソ野郎がっ!」
文叔も貨幣の盗鋳の処罰が極めて厳しいことを知っている。証拠だと言って五銖銭の鋳型でもどこかに仕込まれたら、家ごと潰され、田畑も財産も没収され、家族は官奴婢に没入される。陰麗華の細い二の腕を握り締める劉文叔の両手に力がこもり、陰麗華は痛みに悲鳴をあげた。
「い、……痛っ……」
はっとして陰麗華を離し、劉文叔が大きく息をつく。
「すまない……つい……」
文叔は陰麗華の細い両肩を両手で掴むと、真剣な目で陰麗華を見つめた。
「君は……わかっているのか、あんな男の……正妻ならまだしも、小妻なんだぞ? あの男の妻は嫉妬深いことで有名だ。……すでに御婢が、二人ばかりひどい折檻を受けて、半殺しの状態で邸を追い出されたって」
陰麗華は目を合わせられず、視線を逸らした。
「厳しそうな方だというのは……知っています」
「僕は耐えられない。君が……どうしてそんな屈辱的な身の上に堕ちなければならないの。僕は君に誓える。生涯君一人だって。何があっても僕が君を守るから、だから――」
「無理よ、そんなの! 相手は郡の一番偉い人で高官なのよ! 機嫌を損ねたら、うちなんてすぐに潰されちゃう! あなたの家だって――」
反論する陰麗華の唇を、文叔の唇が強引に塞ぐ。長い口づけの後でようやく唇を解放され、陰麗華が息苦しさに肩で息をする。その肩口に顔を寄せ、文叔が切羽詰まった声で言った。
「麗華、君は僕のものだ。君があんな男に触れられるなんて許せない。嫌だ、嫌だ、嫌だ――」
陰麗華は牀の上に押し倒される。文叔の大きな身体が視界に覆いかぶさり、圧し掛かる重みで身動きも出来ず、押し潰される恐怖で悲鳴すら上げられない。
圧倒的な力の差に、陰麗華はただ文叔のなすがままに流されるしかなかった。
*交阯牧……現在のベトナムのハノイ周辺を治める地方官。陰麗華の姉の夫は鄧譲。
荘伯石:荘尤。『漢書』『後漢書』には後漢明帝の諱・荘を避けて厳尤と表記される。納言は漢の大司農。




