暗礁
郡の大夫からの衝撃的な申し出に、陰家は大混乱になった。すでに婚約の決まった娘に横入し、さらに正妻ですらない。あまりに失礼な話だと古老は憤り、だが無下にもできないと鄧夫人ともども頭を抱える。
媒酌人の鄧偉卿にも事情を話し、ひとまず婚約を一旦、凍結した。皇室が劉家から王家に動いたとはいえ、劉氏が南陽一帯の名族であるのは動かないことで、郡大夫の横やりとはいえ、そちらもあっさり断るわけにはいかない。――陰家が権力に阿って、娘を差し出したなどと噂を立てられたらことである。
「高官とはいえ、許嫁のいる娘に懸想して、それを妾に召し上げようだなんて、大夫にも悪評は向くに違いない。考え直してくれるかもしれないし、少し時間を置こうと思う」
母の鄧夫人に言われて、陰麗華はただ、自室に閉じこもって黙々と帯の刺繍に打ち込んだ。燕のような鳥の図案を、一心不乱に刺している時だけ、不安を忘れられる。一日のほとんどの時間をそれに費やしたために、数日のうちに帯は出来上がってしまった。
とはいえ、今はこの帯を渡すあてもないのだと気づいて、陰麗華はさらに気が滅入る。出来上がったのに、愛しい人に渡す手段すら思いつかない物悲しさ。帯を見下ろして溜息ばかりついているうちに、四月の半ばになったある日、陰麗華の袖を侍女の小夏がそっと引いた。
「お嬢様……その、劉文叔様から、これを……」
小夏が差し出したのは木簡の切れ端で、『今夜、会いに行く』とだけ書かれていた。
陰麗華は目を瞠る。……会いに来るって……どこに来るつもりなの。
「どこでお会いしたの?」
「えっと……北の杜の祠に近い、あぜ道で、声をかけられました。『君、陰麗華の新しい侍女だよね?』って。……昼に、あの祠までお参りに行ったじゃないですか。あたし、あのあたりに釵を落としちゃったみたいで、夕方に捜しに行ったんですよ。その時に」
「……小夏って、文叔さまとお会いしたこと、あったかしら?」
「ええ、一度だけ。顔の濃い人だな、って思って、印象に残ってました」
劉文叔は鼻梁の高いはっきりした顔立ちに、くっきりした眉、大きな目と口だから、顔が「濃い」と言われれば濃い方だろう。陰麗華は素敵だと思うのだが、小夏の趣味には合わないのか。……ともかく、小夏に木簡を託したのは、文叔で間違いないらしい。
婚約が凍結され、さらに郡大夫からの求婚を受けている状態の陰麗華は、劉文叔と忍び逢うようなことも許されない。そんな中、わざわざ新野まで文叔が逢いにきたのはなぜか。
――やっぱり結婚は無しにしてくれ、とか断りに来られるのかしら。
陰麗華が不安で俯いて、紺地に白糸と黒糸、そして銀糸を少しだけ使った精緻な刺繍と木簡を見比べて、考え込んでいると、小夏が小声で尋ねた。
「その……何て書いてあるんです?実は、お嬢様の部屋の場所を聞かれて、つい、うっかり話してしまったのですが」
「ええっ?……まさか部屋に来るおつもり?」
ちょうど、母と弟たちは、祖母の実家である、湖陽の樊家まで出かけている。用件は聞かなかったけれど、陰麗華のことを相談に出かけたのだろう。場合によっては郡大夫を敵に回す可能性もあるので、根回しに行ったに違いない。
今夜であれば、母に見とがめられずに逢うことも可能だろう。
……さすがに、男性を房に入れるのはまずいと、陰麗華は困惑するが、わざわざ訪ねてくれた文叔を追い返すなんて、陰麗華にはできそうにない。
早々に夕食を済ませ、日も落ちて辺りが暗くなったころ、陰麗華は自室に燭を灯して身を固くして待った。その夜は月も出ていて、様子を見に行っていた小夏が文叔を導いて戻ってきた。軽快な小夏らしい足音の外に、ゆっくりとしめやかな足音がして、戸口から差し込む月光を浴びた、小夏の影ともう一つ、大きな黒い影が部屋に入ってくる。燭台の側にいる陰麗華の姿は、向こうからははっきり見えるだろうが、陰麗華の目には暗闇に影が二つ蠢くようにしか、見えない。小夏が小声で言う。
「わたしは隣の室で見張りをしていますから。……くれぐれも、変なことはしないでくださいよ! わたしまで奥様に叱られてしまいますからね!」
「さっきも言ったように、誓って話をするだけだよ。約束する。恩に着るよ」
黒い影の声は確かに文叔で、陰麗華はほっとする。黒い影の気配が陰麗華の側にするりと寄ってきて、隣に座った。その衣服が、夜露でわずかに湿っていた。
「文叔さま? 本当に、文叔さま?」
「ああ、僕だよ、麗華。ごめん、こんな時間に。どうしても会いたくて……」
小夏が扉を閉めたのを確認し、文叔が陰麗華の方に身体を寄せ、早口の小声で言った。
「……曄のこと聞いた。大変だったね」
陰麗華がハッと、息を飲む。
「……どこからお聞きになったのです?」
曄と匡が皇帝のご落胤だったのは、秘密にされているはずだ。
「年明けに長安にいたんだ。皇后の崩御やらで滞在が延びてしまって、帰り道は武関で足止めされた。……何やら身分のある人が通るって言うからさ。誰かと気になって見ていたら、一行の中に、匡がいた」
「武関で……!」
意外な話に陰麗華が目を見開いた。関中と関東を区切る、東の函谷関、南の武関。旅人はここで身分証を提示し、荷物の検査を受ける。有事には防衛拠点にもなる関は、倉庫や官衙を含む、巨大施設である。もちろん、旅人の宿泊も可能だ。
「匡の方でも僕に気づいて、周りの目を盗んで、捜しに来てくれてね。少しだけ話ができた。……それで、事情を知った。……曄には会えなかったが、今のところ元気だと、匡は言っていた。何とかやっていると、君に伝えて欲しいと言われた」
曄が元気にしていると聞いて、陰麗華はほっと、肩を落とす。
「そのために、わざわざ?」
「うん……まあそれは、理由付けというか……会いたかったからね」
そう言うと、文叔は陰麗華のおろしたままの黒髪にそっと触れる。撫でた指が触れて、頬にひんやりした感触が落ちる。
「郡の大夫が妙なことを言い出したそうだね?」
咎めるようなその口調に、陰麗華は唇を噛んだ。
「年甲斐もなく、こんな若い娘を小妻にしようだなんて。たかが一郡の大夫風情で、何言ってんだか」
文叔が苦々し気に吐き捨てる。
「でも……もう、どうしていいのか……」
思わず両手で顔を覆った陰麗華の、細い肩を文叔が抱き寄せた。
「鄧偉卿の方から呼び出されて、婚約を白紙に戻すと言われて、僕は頭が真っ白になったよ。何か君に嫌われることしたかと。それで事情を聞いて。……ひどい脅しをかけられたみたいだね? でも麗華、僕はそんな脅しなんかには屈しない。僕は、あんなオッサンに君を渡すつもりはないんだ。とにかく、そのことを伝えたくて……」
劉文叔にはっきり謂われて、陰麗華は涙で濡れた顔を上げた。ほのかな灯に浮かび上がる文叔の整った顔が正面にあって、黒い瞳がまっすぐに陰麗華を捉えている。
「あの日の……白水の畔の約束を覚えてる?」
陰麗華が頷く。夕焼け空を飛び交っていた、番の鳥も――。
劉文叔の冷たい指が陰麗華の頬を滑り、彼の顔が近づいて、額にやわらかな何かが触れた。口づけられたのだと、陰麗華は気づいて、ボンっと顔から火を噴きそうなほど真っ赤になった。
「麗華……可愛い。本当は、このまま攫っていきたい」
「文叔様……」
陰麗華が恥ずかしさに俯ける顔の、耳元で文叔が囁く。
「……唇……吸ってもいい?」
「ええ?」
箱入りで、男女のことに疎い陰麗華は、意味が解らず首を傾げる。
「大丈夫、それ以上はしないから……」
それ以上?……何をする気なの?
陰麗華が大きく目を開いて瞬きを繰り返すうちに、もう一度劉文叔の顔が至近に降りてきて、今度は唇が唇で塞がれた。
「んんん!……ん――!」
口を塞がれて息ができず、どうしていいかわからない。でも暴れて突き飛ばすこともできず、凍り付いたように固まる陰麗華の唇を啄むように軽く口づけて、劉文叔は唇を解放した。
「はっ……はあっ……はあっ……」
真っ赤な顔で必死に息を吸い込む陰麗華を、文叔は可笑しそうに見て、もう一度、今度は不意打ちで唇を奪う。
「んんん!」
唇の隙間から熱く柔らかいものが侵入して、それが舌だと気づき陰麗華はぎょっとするが、文叔はすぐに唇を離し、困ったように微笑んだ。
「君は本当に何も知らないんだね。可愛い。……ああ、やっぱり早く僕のものにしたい」
「えっ……あの……?」
それから優しく抱きしめられ、肩口に顔を埋めるようにした文叔が、耳元で囁く。
「また、会いにきてもいい?」
「は……はい……でも……」
本当は困る。母にバレたら、ひどく叱られるに違いない。でも――。
抱きしめられる腕の中はあまりに温かく気持ちがよくて、陰麗華は無意識に彼の背中に両手を回し、麻の襜褕を握りしめる。
ふと気づいて、陰麗華が劉文叔の身体を少しだけ押しやり、言った。
「あの……お渡しするものが、あるんです」
「僕に?」
陰麗華は懐に入れておいた帯を差し出す。
「これ……金釵のお礼に。お渡しできないかと思っていたから、よかった」
陰麗華の手ごと帯を握り締めるようにして、文叔が驚いたように息を詰める。
「これ……もしかして、君が?」
「は……はい。まだあまり……上手じゃないですけど……」
「いや、暗くてよく見えないないけど、きっと素晴らしいよ。どうしよう、額に巻いてみんなに自慢しようか」
「それは……」
どんな状況にあっても諧謔を飛ばさないと気が済まない人なのだな、と陰麗華は内心呆れるけれど、素直に喜んでくれたらしいことにホッとする。
「麗華、ありがとう……一生の宝物にするよ」
文叔が陰麗華を抱きしめ、腕に力が籠る。その折れそうな力に陰麗華が息を飲んだ時、もう一度文叔の唇が陰麗華の唇を塞いだ。ずっとこうしていたい――そう思った時、扉が無情にもホトホトと叩かれた。
「お嬢様、そろそろ……灯りをつけたままだと、女中頭さんに怪しまれます」
その声に文叔は潮時だと判断したのか陰麗華を離し、名残惜し気に立ち上った。
「じゃあ……また来るよ」
それだけ言うと、文叔は再び来た時と同じようにするりと夜の闇に消えていった。
小夏は十五歳。陰麗華より年下だが、使用人の仲間同士の会話から、男女のことは陰麗華より耳年増であった。
「え、じゃあ、《接吻》までいったんですね! すごいじゃないですか! お嬢様!」
「ちょっとやめて、誰かに聞かれたら……」
「大丈夫ですよ、今夜は奥様もお留守なんだから!……いいなあ……文叔様、顔が濃いけど、ちょっとカッコイイなって、あたしも思ってたんですよ! 顔は濃いですけどね。十歳年上ってことは、ケイケンもそれなりにありそうですよね」
「ケイケン?」
陰麗華が意味がわからず聞き返す。
「同じ部屋の女中の阿廉さんが言ってましたよ。やっぱ男はケイケンだって。若くてケイケンの足りない男はヘタクソで、痛いばかりでちっとも気持ちよくないんですって!」
「え?……痛い? 気持ちいい?」
とりあえず文叔にされたのは、何をどう間違っても痛くされそうにないことばかりだったが……。下手くそな男は唇を噛んできたりするのだろうか?
「……よ、よくわからないけど、くれぐれも誰にも言わないでね? もし、お母様に知られたら、小夏も絶対、クビになるわよ?」
陰麗華が脅すように言えば、さすがの小夏も事の重要性に気づいたのか、神妙に頷く。
「わかってますとも! あたしもこのお邸をクビになったら行く場所もありません! 秘密は絶対に守ります!」
不安ではあったが、小夏の協力がなければ、文叔と密会など、不可能なのだ。
「お願いね、小夏。味方はあなただけよ」
小夏の右手を両手で包むようにして、潤んだ瞳で懇願すれば、小夏もうんうんと頷く。
「大丈夫です! 任せてくださいて!」
――もう、どっちが年上かわからない。
だが、結婚が郡大夫の横槍によって暗礁に乗り上げた中、もう頼れるのは小夏一人だった。
地皇二年(西暦二十一年)、陰麗華十七歳の歳は、不安なまま過ぎた。
前年に引き続き、その年もまた不作で、さらに関東は蝗害に見舞われた。二年続きの飢饉に、喰い詰めた流民は故郷を捨て、食を求めて豊かな関中へと流れ込む。
飢饉に追い打ちをかけるのが、経済政策の失敗である。厳しい物価統制である五均法、専売制である六筦法と、軌道に乗らない新しい貨幣政策。政権は違反に対して厳しい態度で臨み、これらの法に触れて、死刑に処さるる民が後を絶たなかった。改定が繰り返された現政権の貨幣は信頼を得られず、民間ではひそかに漢の五銖銭が通用を続ける。貨幣兌換の不均衡から貨泉を鋳つぶして高額貨幣である貨布を偽鋳する者、あるいは五銖銭を偽造する者が相変わらず横行して、粗悪な貨幣が良貨を駆逐し、ますます経済の混乱に拍車をかけていく。
密告を奨励するために、「伍」という隣組単位で連座制を導入し、法の網にかかる者が一気に増えた。貨幣の盗鋳、五銖銭の不法な貯蔵の罪に問われた者は官奴婢に没入の上、男は檻の嵌った車に乗せられ、女は歩いて、それぞれ鉄の首輪を嵌められて、各地の鍾官と呼ばれる、貨幣鋳造の官署に送り込まれた。待っているのは過酷な強制労働だけでなく、夫婦者は組み替えを強制される等の、非人間的な扱いで、堪え切れずに六、七割が死んだという。
現実味の薄い、頭でっかちな経済政策と恐怖政治。繰り返される官名、地名の変更による、吏事の混乱。地方政治の混迷を余所に、常安の皇帝は王氏の祖先祭祀のための壮麗な九廟を建設し、将来の洛陽遷都を発表する。――王莽の理想主義の帝国の、麗しい仮面が剥がれ落ち、醜い現実が徐々に暴かれていく中で、民衆がかつての漢の繁栄を思い出し、その復活に希望を見出すのは、当然の流れと謂えよう。
地皇二年冬、魏成(かつての魏郡)大尹の李焉が卜者の王況と謀って、「漢家 当に復た興るべし、李氏は輔と為る」との讖文を偽造し、叛乱を起こす。叛乱は間もなく鎮圧されたが、この時の讖文は地中深くに潜った水のように、各地に広がっていく。
劉氏復興の預言は、先の見えない悪政にあえぐ民衆の、わずかな希望の灯となる一方で、官による劉氏への警戒と圧迫を強めることになった。
陰麗華と小夏は麥を植えた畑のあぜ道を速足で歩いて、邸の裏手、杜の中の祠に向かう。土地神と、南陽郡の開発に功績のあった、昔の地方官が祀られている。
すっかり葉が落ちて寒々しくなった冬木立の脇に、一頭の葦毛の馬が繋がれ、わずかに残った草を食んでいた。陰麗華の鼓動が早くなる。小夏をその馬の近くに残し、陰麗華はほとんど小走りに、杜の奥へと駆け込んでいく。布の履が積もった落ち葉をガサガサと踏みしめ、荒げた息が白い。半ば崩れかかったうらぶれた磚造りの祠の前に立つと、木扉をそっと押した。
ギギギ……と音がして、埃の舞う、真っ暗な祠の中を覗き込む。
「……文叔さま?……いらっしゃるの?」
小さな格子窗から午後遅くの光が差し込み、舞い上がる埃がキラキラと輝く。陰麗華がキョロキョロと内部を見回していると、突如大きな手が背後から伸びて、陰麗華を抱きしめた。
「きゃあ!」
「しい!……僕だよ。驚かせてごめん」
文叔の声と知って、陰麗華は安堵の溜息をつく。
「麗華、会いたかった……」
暗闇の中、耳元で熱っぽく囁かれ、ぎゅっと背中から大きな身体に包み込まれる。しばらくそうしてから、陰麗華は身体を反転させられて、今度は正面から、男の硬い身体に抱きしめられ、大きな手が陰麗華の細い背中を狂おし気に撫でまわす。布地越しに、熱い掌から体温を感じ、陰麗華も彼の背中に両手で縋りついた。
「文叔さま……」
逞しい腕の中でうっとりと目を閉じていると、顔に熱い息がかかり、唇が塞がれる。身体が軋むほどのきつい抱擁と、貪るような口づけに陰麗華は微かな恐怖を感じて首を振った。
「ふっ……んんっ、文叔さま、待って……」
陰麗華が身を捩って唇から逃れると、反らした首筋に熱い唇がねっとりと這わされる。捕食される恐怖で、陰麗華が男の衣類を掴んで、ぎゅっと引っ張った。
「やっ……やめ、やめて……」
「ごめん……麗華、ごめん……ずっと待ってて……」
陰麗華の抵抗にあって、文叔が肺腑の底から絞り出すような深い溜息をつき、腕の拘束を緩めた。
「麗華……会いたかった……」
文叔は名残惜しそうに彼女の身体を離すと、ようやく適度な距離が生まれ、お互いの顔を見ることができた。格子窗から射す光でやや明るくなった場所に場所を移し、文叔がもう一度、陰麗華を抱きしめる。
いつかの夜から何度か逢引きを重ねて、最近はこの、うらぶれた祠の中で待ち合わせることにしている。
新野と舂陵は馬で飛ばして一昼夜かかるから、そうそうは逢えない。だから、逢う時は劉文叔が必ず、陰麗華の身体が折れる程の力で抱きしめ、彼女の唇を貪った。夏場の薄い衣裳の時は、布地越しに身体をまさぐられるような気がして、恥ずかしくてたまらなかった。今は綿入れの褶衣も着込んでいるが、抱きしめてくれる体温がほっとする。
ほんの気まぐれだと思った郡大夫は予想外に陰麗華に執着して、年明け早々にも本格的な婚約をとせっついてくる。地方官の任期は三年程度で、甄大夫もあと一年ほどのはずである。本人もそれがわかっていて、陰家側の時間稼ぎ工作を認めないかのように、翌年秋の婚礼を言い出し始めた。こうなると、陰家側から断ることは難しかった。
陰家の親類にも、甄大夫の懐柔に負け、麗華を嫁がすようにと説得に回る者も出始め、陰麗華の立場はますます危うくなる。
文叔との結婚の媒酌人が鄧偉卿であること、その妻が文叔の姉であることもあって、鄧家に通うことは禁じられた。ときどき来ているであろう、劉伯姫とも会えていない。ピリピリした母と、まだ幼くやんちゃ盛りの三人の弟と過ごす日々は陰麗華には気づまりで、精神的にも追い詰められたような気分だった。
本当に一月に一度か、二度、わずかな時間、二人っきりで抱き合えるこの時だけが、陰麗華の微かな希望を繋いでいた。
まだ、愛していると言ってくれる。まだ、自分を求めてくれる。
劉文叔に狂おし気に抱きしめられ、その腕の中でうっとりと目を閉じる。――少しでも長く、この時間が続いてほしい。
だが、束の間の逢瀬の刻は、切ないほどに疾く過ぎてゆく――。




