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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十五章 汝轉って予を棄つ
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谷風

習習谷風、維風與雨。將恐將懼、維予與女。將安將樂、女轉棄予。

――『詩経』小雅「谷風」


 建武九年(西暦三十三年)正月、隗囂征伐の途上で征虜将軍・祭弟孫が陣中に死去した。前年秋、東に帰る文叔は弟孫の陣営に立ち寄って士卒を慰労したが、その時、すでに弟孫は病んでいた。それが最後の対面になった。


 美麗な見かけにもかかわらず、意志の疎通が危ぶまれるほどに無口で、そして純粋かつ廉直な男であった。文叔とともに河北に渡った時は、まだ二十代の前半で、今、ようやく三十を越えたばかり。年下の腹心の早すぎる死は、文叔にとっても大きな衝撃であった。

 

 ――なぜ、よりによって弟孫が、あの若さで―― 


 西から戻ってきた遺体が河南県に至れば、詔して百官にその柩を出迎えさせ、さらには皇帝自ら素服をまとい、弟孫の喪車を見送る。文叔の嗚咽の声が馬車の外にも漏れ聞こえ、それが周囲の涙をまた誘った。文叔の胸には、故人に対する後悔が次から次へと去来していた。


 ずっと戦場に出て、家にも帰ることも稀だった。

 子のないまま死んでしまったのも、そのせいに違いない。

 あの時、病を得ていた弟孫を、無理にも雒陽に連れ帰っていれば――

 何もかも、僕の判断が間違っていたせいだ。


 隗囂の裏切り、長引く討伐、先の見えない統一への道筋。その道半ばにあって、すでに何人もの戦友とも言うべき近臣の死を見送ってきた。


 挙兵からすでに十年。

 果てしなく続くかに見える戦乱は、文叔の命をも確実に削っているだ。


 ――何年かかろうとも、必ずこの天下に平和を取り戻してみせる。それが、自ら兵を挙げ、郷里の平安を破壊した文叔の、誓いであった。この戦乱を、次の世代に負わせることだけはしない。だが、文叔に残された時間は有限なのだ。


 日暮れて道遠し。


 祭弟孫の葬儀の帰り道、北芒山の山陰に沈む落陽と、夕焼けに染まる空を見上げ、文叔は来し方行く末を思う。

 そしてここから数年にわたり、文叔は数多くの近臣の死を見送ることになる。




習習たる谷風、()だ風と雨とのみ。

将に恐れ将に懼れんとす、維だ(われ)(なんじ)とのみ。

将に安んじ将に楽しまんとす、女 転って予を棄つ。


 ぴゅーぴゅーと吹き付ける冷たい風。風雨のただなかにあったあの日。

 艱難辛苦の日々を共に乗り越えたのは、俺とお前と二人だけ。

 これから幸せな日々がようやく訪れると思ったら、

 お前はかえって俺を棄てて逝ってしまった。




 同じ正月、隴西の雄、隗囂が死去した。

 呉子顔、耿伯昭ら率いる征西軍は一進一退を繰り返していたが、折からの糧食に不足で、呉漢らがいったん兵を引いた隙に、安定・北地・天水・隴西らの支配権は隗囂に移った。

 ――といっても、それは漢軍が飢えを理由に放棄した城である。隗囂軍もまた、当然の如く飢えた。


 以前から病んでいた隗囂は飢えに耐えかねて城外に出て、備蓄食料の(ほしいい)(きゅう)(炒った大豆と穀物)を食べ、憤死した。





 



 運命の転変は、誰に対しても容赦がない。

 祭弟孫の死の衝撃から文叔が立ち直れていない二月、陰麗華は三人目の男児を出産する。


 今度は、難産であった。

 陸宣の必死に看護でなんとか命を永らえたと聞き、文叔もホッと安堵の息をついた。


 万一、ここで陰麗華を失ったら、文叔の心は完全に折れてしまう。


 子も大切だが、何より陰麗華こそが文叔の命なのだ――布に包まれた、産まれたばかりの皇子を抱きとって、しみじみをと思う。

 

 文叔は疲れて眠っている愛しい妻を見下ろし、腕の中の赤子と見比べる。

 子がないからと皇后の座を辞退した陰麗華。あの、最初の子さえ無事であったなら、そんな遠慮もなく、最愛の陰麗華を皇后に立てることができた。当時の状況ではそれさえも難しかったかもしれないが。


 文叔は、陰麗華こそ文叔の最初の妻であったと、いまだに公表できないでいる。

 公には陰麗華は文叔が即位の後に迎えた側室なのだ。――そうでないと、文叔は河北で重婚を犯したことになってしまうから。 

 

 あの頃の文叔は皇帝と言っても、各地に並び立つ有象無象の自称天子の一人に過ぎなかった。

 河北豪族の協力を取り付けるためにも、郭聖通の立后を受け入れざるを得なかった。


 文叔はむずかり始めた赤子を乳母の手に返し、よく眠っている陰麗華の額にそっと口づけて、「また夜にくる」と言って房室を後にする。


 千秋万歳殿の廂に並んで控えていた、黄門侍郎の陰君陵と郭長卿が立ち上がり、袖を払って文叔に敬礼する。もう一人、小柄な人物も立ち上がり、深く腰を曲げて拱手の礼を取る。


「無事なご出産、まことにおめでとうございます。長秋宮様におかれましても、まことにおめでたきことと、祝いの品を――」


 大長秋の孫礼のセリフを手を挙げて制止て、文叔が言う。


「早耳だな。……千秋殿は今、眠っている。騒がすな」

「……は」


 孫礼が上目遣いに文叔を見上げる。


「此度の御子はさて、どちら――」

「男だ」


 言い捨てて文叔は二人の侍郎たちを引き連れ、殿舎の階を降り、待機していた輿に乗る。後宮を出て却非殿に戻ると、大司空の李次元が待っていた。


「ご無事なご出産、何よりでございます」

「ああ……今回は少し難産であったようだ。無事でよかった」


 文叔がいつもの牀に独座すると、コの字型に配置された斜め前の席に李次元も座り、少しだけ文叔に近づいて声を落とす。


「結局、例の天文の話は、収まる兆しを見せません」

「――誰が流しているのだ、素人にはわからぬ話なのをいいことに、勝手なことを」

「天文の知識があって、陰貴人に敵対する勢力。……私に心当たりがないことはないのですが、確証はありません」


 心当たり、と言われて文叔が促すように李次元を見る。


「――陛下も最近は控えておられますが、一時期は毎夜のように、夜遅くまで狩りに走り回っておられた」

「昔のことだ。最近は滅多に行ってない」


 文叔が嫌そうな顔をすると、李次元も頷く。


「その時、門限破りを厳しく取り締まった(もんばん)がいたのを覚えておられますか?」

「ああ、憶えている。見どころがあるから、あいつはたしか、太子の属官に取り立て――」


 文叔が李次元をじっと見つめ、無意識に髭を撫でる。


「……まさか?」

「あの男、ただの頑固ものではなく、五経とさらに天文歴数に通じております」

「だからって、陰麗華を貶めていったい何になる」

(しつ)君章はかつて王莽時代、天文の動きを理由に、漢室に帝位を返すべき、と上書して獄に入れられたことがございます。たまたま、翌年大赦があって命を拾いましたが……」

「そんなこと訴えたら逮捕されて当然だ。馬鹿じゃないのか」


 呆れた文叔に、李次元も肩をすくめる。


「……まあその手の、硬骨漢というよりは、ただの命知らずと申しますか。自分の信念を周囲に押し付ける性質のようで……」


 だからこそ、皇帝と気づきながらも、門を開けなかった。


「おそらく、陰貴人を貶めるというよりは、単に太子を戒めようとしただけだったのかもしれません」

「太子を……戒める?」


 八歳になった皇太子彊は、数年前から本格的に五経の教師がつけられている。郅君章が担当する韓詩(*1)は、天人相関的な傾向が強い。天体と現実との関連の一例として、郭聖通と陰麗華の状況を挙げただけかもしれない。


「……だからって……」

「それを耳にした、長秋宮に同情的な誰かが最初に広めた――」 


 李次元が文叔を見つめる。


「長秋宮が今、最も恐れることは何だと思います?」


 文叔が伸ばしている髭を撫でる。


「……太子の交代、だろう」

「御意」


 頭を下げる李次元に、文叔は首を振る。


「だが、まだ子麗は幼い。……彊だってまだ(とお)にもならぬのだぞ? 資質だって未知数だ」

「だからこそ、母親の身分がものを言うわけです。『母は子を以て(とうと)し、子は母を以て貴し』と」


 じっと見つめてくる李次元に、文叔はまっすぐ視線を合わせる。


「……それ故に、麗華を? だが、聖通には釘を刺してある。もし、麗華や子供たちに危害が及んだら、その時は……と」

「直接危害を及ぼすことができないが故の、絡め手の策としては、なかなかでございますな。正妻である皇后を差し置き、皇帝の寵愛を一身に集める側室。民衆の同情を皇后に集め、天もそれに怒っていると仄めかす。天は皇后の交代など許さないと。……孔子の道は、天子には後宮を許します。しかし、二嫡無きは天子より庶人に至る、不易の法にございます」


 文叔が無意識に奥歯を噛みしめる。


「……最初に娶ったのは陰麗華だ。彼女の存在を知りながら、聖通を押し付けたくせにッ……!」

「その罪の意識があるが故に、ことさらに糊塗せんとするのかもしれません」


 李次元の言葉に、文叔が凛々しい眉をギュッと寄せた。


「……耿伯山か」


 昨年の隴西への親征に従った耿伯山は、その後、東郡の反乱の討伐に向かい、反乱鎮定後の現在は、太中大夫として引き続き東郡に鎮していた。

 李次元が頷く。


「最初は、伯山の知恵であった可能性が高いです。彼ならば、噂を制御し、現状を維持するよう、着実に世論を誘導できた。ですが――」

「伯山が離れた故にこうなったと?」


 文叔は目を丸くする。


「智者は加減というものを知りますが、愚者は知りません。今や雒陽の(わらべ)ですら、陰氏の悪口を言っております。……伯山が離れ、抑えが効かなくなったせいです」

「……伯山を呼び戻すか?」

「こんなことのためにですか? それよりも、彼には東郡を固めていただいた方が、天下のためには有益です」


 文叔は目まぐるしく頭を動かす。――たしかに、後宮のことは小杯(コップ)の中の嵐に過ぎない。それよりも今は、潁川や東郡といった、雒陽の膝元の反乱を完全に制圧する方が天下にとっては重要だ。


「……差し当たってどうする」

「どうしようもない、というのが本音ですね。実害があるわけでもない。陰次伯と陰君陵の二人が特別、君側(くんそく)で悪事を為しているわけでもないと、実態を知る者はわかっている。宮中のことを知らぬ民衆が、南陽の大富豪である陰氏の印象と、後宮での陰貴人の寵愛を結び付け、勝手な想像を膨らませているだけですから」


 民衆は物見高い。

 遠く離れた宮中、後宮の帳の奥で繰り広げられる正妻と側室の寵愛争いを、さまざまな想像を廻らしつつ、娯楽として楽しんでいるに過ぎない。


 かつては石女(うまずめ)の噂さえ囁かれた陰貴人だが、三人目の皇子を出産した。郭皇后もまた、ほとんど交互に出産を繰り返しているが、民衆は見たいものしか見ない人々でもある。郭皇后は一人、孤閨をかこっていると思い込み、その思い込みでさらに陰貴人への批判が高まっていく。


「民衆にとっては、所詮、遠くの火事。彼らは陰貴人には手が出せません。太子が成長し、御位を継ぐ頃には、噂も下火になると思いますけどね。むしろ、こんな噂にまで陛下が口を出されれば、さらに陰貴人への依怙贔屓(えこひいき)だと、陰口を煽る恐れがあります。藪蛇ですよ」


 李次元の言葉はまったくその通りで、文叔は暗澹たる気分ではあったが、この問題にこれ以上の手を出すことを諦めたのだった。 


 しかし。

 文叔や李次元の予想もしない、大きな悲劇が雒陽の陰家を襲うことになる。 







  

 陰家は南陽の大豪族で大富豪でありながら、官界に進出するでもなく郷里で稼穡に勤しむ、いわゆる「素封家(そほうか)」であった。もともと中央とは縁のなかった陰家だが、たまたま娘が皇帝に貴人になったため、息子二人を宮中に出仕させて、家族ともども雒陽に引っ越す羽目になったのだ。


 慣れない都会暮らし。周囲がすべて自家の小作人だった南陽の田舎とは違い、高官同士の付き合いや見栄の張り合いも必要だ。鄧夫人はそれらを嫌い、よほどのことがなければ宮中にも上がらず、下の息子二人は出仕もさせず、家に引き込もって暮らしていた。

 そんな鄧夫人の耳にも、(かしま)しい都雀たちの噂話は入ってくる。


 陰氏の娘は傾国の女だ。正妻である皇后を差し置き、側室のくせに皇帝の寵愛を独占し、後宮でやりたい放題している、という世間からの批判が。


――だから、あの男はやめろと言ったのに。


 もともと、陰麗華は鄧氏に嫁がせるつもりだった。

 三つ違いの鄧仲華とは、幼いころから仲良くままごとをする仲だった。

 やや線が細いけれど、郷里では一番の秀才と言われた仲華と、従順で愛らしい娘だった麗華。似合いの二人だと思っていた。


――官と為るなら執金吾、妻を娶らば陰麗華。


 あんなくだらないことを(うそぶ)く浮ついた劉家の三男坊。あの男はダメだと、母の勘が告げていたのに。押し切られて婚約を結んだ挙句、断りもなく挙兵し、南陽を戦乱の坩堝(るつぼ)に落とした男。愚かな娘は婚礼の前にあの男に体を許し、妊娠した。そして河北に向かう男には捨てられて子も失い、あの男は河北で別の女を妻に娶った。

 

 人は、皇帝の寵愛を一身に集め、後宮で栄耀栄華を極めていると、娘を評するが、皇帝の寵愛がなんだと言うのか。娘・麗華は正妻として嫁いだはずなのに、気づけば妾に落とされて、さらには言われない批判にさらされているのだ。本来ならば、あの男の義兄弟となるはずの陰家の息子たちまで、美人の妹の縁で出世の糸口をつかんだかのような、ひどい言われようだ。

 陰家はそもそも、官途に就くことを望まない家なのに――


 後宮の寵を笠にきた振る舞いなどと、余計な批判を浴びぬよう、客なども昔からの使い合いのある数人だけの、静かな暮らし。屋敷の普請なども最低限にして、塀の崩れもそのままになっているくらいである。そこまで気を使っているのに、陰氏への非難は熾火のように消えない。


 娘への寵愛をいいことに、好き放題やっている強欲な家だと、皆が思っている。

 ――そんな家から、少しくらい金を奪ったところで天もお目こぼしくださると思う程度の――


 


 喰い詰めた男たち五人が、雒陽南宮にほど近い、陰家の邸第(おやしき)に押し込んだのは、建武九年の、冬の初め。

 ちょうど、冬支度のために、家中総出で酒の仕込みにかかっている日だった。

 壁の破れ目から侵入した男たちは、人気のない一角で、ちょうど洗濯物を干していた下働きの若い女中三人を人質に取り、金品を要求したのだ。


 屋敷の奥で帳簿の検算をしていた鄧夫人は、報せ聞き、まずは末息子の陰就を裏口から出し、官憲に救けを求めさせる。


「要求は金ですか?」


 立ち上がって廊下を早足で進みながら、対応に出た家宰に尋ねれば、家宰は言い淀んだ。


「その……」

「なんです?」

「……さすが、皇帝を誑かす傾国の美女を出した家だけある。女たちを()()させろと……」


 下品な要求に鄧夫人のこめかみに青筋が立つ。


下種(ゲス)がッ……」


 この雒陽という街の、どこか退廃的な空気も鄧夫人は嫌いだった。新野の、あののどかな家に帰りたい。鄧夫人は一瞬、懐かしい故郷の家に思いを馳せ、慌てて首を振って前を向く。


「かあさん、僕も一緒に――」


 家に残った息子の訢がそう言って母についてくるのを、鄧夫人は振り返り、眉を顰める。

 

「お前が来てもどうということは――」

「でも、女主人では軽く見られるよ。次伯兄さんも、君陵兄さんも宮中に出仕して留守だし、僕もせめてこのくらいはしなければ――」


 君陵のすぐ下の訢は、身体があまり丈夫ではない。ずっと家の中に隠されるように生きてきたが、二十歳を過ぎた今、そんな境遇に不満を抱いているのかもしれない。

 

「ええ……くれぐれも母さんを守ろうとか、無理なことはしないように」

「わかってる。僕は強くないから」


 家宰に案内されて、賊が立てこもる堂に入れば、いかにもな荒くれ男たちが入ってきた鄧夫人に目を止める。


「……なんだよ、ババアに用はねぇんだよ。陰貴人とはいかずとも、その妹とかはいねぇのかよ」


 ゲラゲラと下品に笑う男たちを冷たい目でギロリと()めつけて、鄧夫人が言った。


「要求は何です? 金? 今準備させているから、まずその娘たちをお放しなさい」


 落ち着いたよく通る声が堂内に響き、縛られていた三人の娘たちの一人が叫んだ。


太太(おくさま)!」


 その言葉に、男たちがしげしげと鄧夫人を見た。


「太太っ……てーことは、この婆さんが陰貴人の御母堂様ってこと? 嘘だろ?」


 男は、信じられないという視線で戸惑うように互いに顔を見合わせている。高位貴顕の夫人たちは、皆、競うように高髷を結い、鼈甲(べっこう)や真珠の髪飾りに、派手な刺繍の着物を着ているものだ。この目の前の女は老婆というにはまだ美しさが残る年齢だが、白髪の混じった髪を二つにわけ、うなじで(こうがい)でまとめただけの地味な髪型に、濃色の曲裾深衣に刺し子の蔽膝(まえかけ)をしただけの、使用人と区別のつかない質素な姿で、これが今をときめく寵姫の母親とは、到底、信じられなかった。


「嘘だ! 怖気づいて女中を身代わりに出したんだろう! 本物の太太を出せ!」

「嘘だと言われましても。わたくしが正真正銘のこの家の女主人、陰侍中と陰貴人の母親です。……とにかくその娘たちを放しなさい。……その娘たちは、当陰家が南陽の親御さんより責任を持って預かっている行儀見習いです。それを傷つけることは許しません」

太太(おくさま)!」


 凛とした鄧夫人の呼びかけに、一瞬、ぼうっとした男たちの手をが緩み、一人が拘束を抜け出して鄧夫人の方へと駆けよる。


「ああ? てめぇ、何を勝手な……!」


 激昂した男の一人がぎらつく刃物を振り上げ、娘に振り下ろそうとした。それを見た鄧夫人が反射的に娘を背中に庇い、その左胸を男の匕首(あいくち)が貫いた。


「かあさん!」

「きゃああ、太太!」


 陰家の太夫人を殺すつもりまではなかった男たちは、自分たちがやり過ぎたことにパニックになる。

 刺された母に駆け寄った訢の腹を、他の男の剣が突きさし、鮮血が飛び散る。

 

「てめえら、やれ、やっちまえ! こんな家皆殺しだ!」


 口から泡を飛ばして男たちが叫び、取り押さえようとした陰家の奴隷たちと乱闘になる。末息子の陰就が、雒陽令(らくようれい)の配下の捕り方を引き連れて駆け付けた時には、陰家の堂は血塗れの惨状となっていた。

 

*1

韓詩 詩経の流派の一つ。漢代に流行した今文(きんぶん)三家詩(魯・斉・韓)の一つだが、現在は滅びて伝わらない。現在我々が普通に見る詩経は後漢以後に流行する古文の毛詩。



祭弟孫:祭遵。

李次元:李通。この時、大司空。

陰次伯:陰識。この時、侍中。陰麗華の異母兄。

陰君陵:陰興。たぶんまだ黄門侍郎。陰麗華の同母弟。下に、訢、就の二人の弟があり。

郭長卿:郭況。皇后・郭聖通の弟(字は作者が適当につけています)

(しつ)君章:郅惲(しつうん)

(こう)伯山:耿純(こうじゅん)。郭聖通の従兄。この時は太中大夫→東郡太守。


孫礼:大長秋。大長秋は皇后の付きの宦官の長官。後宮宦官のトップ。

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