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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
間章七 落葉 重扃に依る
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取引

羅袂兮無聲、玉墀兮塵生。

虚房冷而寂寞、落葉依於重扃。

望彼美之女兮、安得感余心之未寧。

羅袂(らべい) 聲無く、玉墀(ぎょくち) 塵生ず。

虚房冷やかにして寂寞たり、落葉 重扃(ちょうけい)に依る。

彼の美なる女を望むも、(いずく)んぞ感ずるを得ん 余の心の未だ(やす)からざるを。


 薄衣の衣擦れの音もなく、玉を敷き詰めた階には塵が積もっている。

 主のいない部屋はひんやりとして寂しく、落ち葉は宮殿の奥深くの門に重なり合う。

 どんな美しい女を求めても、あの人以外では私の心は安らぎを感じることはできないのだ。


***********


 建武三年(西暦二十七年)十一月乙未(いつび)、皇帝劉文叔は故郷舂陵(しょうりょう)より雒陽(らくよう)に帰還し、出迎えた留守居役の太傅(たいふ)卓茂(たくも)と後宮の宦官の長、大長秋(だいちょうしゅう)孫礼(そんれい)に、貴人陰氏の懐妊を告げた。

 

「まずは、おめでとうございます」


 卓茂が拱手して祝意を述べるのを、文叔は軽く手で制して言った。


「懐妊のことは婦人にとっては大厄(たいやく)だ。まして、陰貴人は一度、不幸な目に遭っている。余計な心労はかけたくない。生まれるまでは通常通りに過ごさせたい。――大長秋」


 文叔は宦官らしく堂内に入らず、廂で畏まる孫礼を呼び入れる。低い姿勢のままするすると入り、壇の下で両膝をつき叩頭する孫礼に対し、皇帝は素っ気なく言った。


「かねての約束通り、後宮への出入りを再開する。ついては、長秋宮に命じて宮人の日取りの調整を。……ただし、どちらもまだ子を産んで日が浅い。早い時刻に子との対面だけ済ませ、御寝(ぎょしん)に召すには及ばず。新たな嬪御を召す必要もない」

「は……しかし……」

「長秋宮には朕自ら出向く。――今宵は慌ただしい故に、明日」


 孫礼が目を剥き、一瞬、息を飲んだ。そしてすぐに額を床に擦り付け、深く深く叩頭した。


「は!聖上の恩典に深く感謝を致しまする!」


 飛ぶような勢いで後宮へ戻っていく孫礼の背中を見送り、文叔は複雑な想いで眉を寄せた。それから首を振って、気を取り直したように卓茂に声をかける。


「――卓老公、留守の間に、何か問題は?」


 皇帝としての責務が、文叔には圧し掛かる。生涯、逃げることの許されない、重い重いさだめが――




 

 翌早朝、冠の顎紐を整える陰麗華に、文叔が言った。


「今宵は長秋宮に行く。……夕餉(ゆうげ)はあちらで食べることになるだろう。君の懐妊についてはすでに伝えてある。鄧曄将軍がいるから滅多なことはないと思うが――」


 陰麗華が手を止め、じっと文叔を見上げた。


「……わかっております」


 だが、文叔は凛々しい眉を寄せる。


「わかっていないよ。……君はいつも、肝心なことはわかってくれない」

「陛下――」

「愛してるのは君だけだ」


 ほんの触れるだけの口づけを頬に落として、文叔はその場を離れ、するりと向きを変え、堂を出て行く。

 黄門侍郎(こうもんじろう)の陰君陵が木戸の外に片膝をついて控え、文叔が通り過ぎると姉を見た。


 ワン、ワンと(いぬ)(リュウ)が吠えるのを、陸宣が宥める声を聴きながら文叔は長い廊を歩いていく。曲がり角でちらりと元来た方を見れば、陰麗華はまだ戸口に立ちつくして文叔を見送っていた。




 今夜が、この後の後宮の在り方を決める。

 それはわかっている。陰麗華も納得している。――文叔だけが、納得できていない。


 愛している女は一人だけなのに、天子の責任として後宮を営まなければならない。くだらない、バカバカしい。金と時間と体力の無駄だ。


 皇帝として、漢帝国を支える子供が必要なこともわかる。

 でも、士大夫には一夫一婦を守ることを説く孔子の道が、その一方で天子には後宮があるべきとする矛盾を、かつて一士大夫であった文叔は受け入れがたく思っていた。


 白い髪や髭を黒く染めてまで、百二十人もの巨大後宮を営んだ王莽も、当然の権利のように、手当たり次第に女に手を付けていた、劉聖公も。――それが男の夢だから?


 文叔は眉を顰める。

 文叔にとっての夢は、陰麗華だったから。だから、他の女は必要ない。


 陰麗華を手に入れる前ならば、単なる娯楽と割り切ることもできたけれど、陰麗華を傷つけてまで遊びたいとは思わない。 

 

 もし、陰麗華に出会わなければ――


 皇帝として、何のこだわりもなく、何人もの寵姫を抱いたのだろうか?

 でも――


 文叔は首を振った。

 陰麗華がいたから、文叔は死ぬ気で生き抜き、皇帝に上り詰めた。陰麗華がいなければ、文叔は今、ここにはいないだろう。あの冬の、河北の凍った大地に(たお)れるか、あるいはあの夏、昆陽の百万の大軍に飲み込まれていたか――

 

「……本当に、皇帝になんてなるもんじゃないな……」


 ぽつりと零した呟きは、そのまま却非殿の朱塗の柱の陰に消えた。





 その夜、数か月ぶりとなる皇帝のお渡りに備え、長秋宮は戦争のような騒ぎになっていた。


「夜、ということですから、今夜こそはお泊りに……」

「いえ、そこまでは聞いておりませんが――」


 郭主に詰め寄られ、大長秋の孫礼が背中に冷や汗をかく。

 建武元年の秋に陰貴人を後宮に迎え入れて以来、皇帝は皇后と閨を共にしていない。当初は第二子を妊娠中だからと、周囲もそれほどは問題視しなかったが、第二皇子の輔を出産した後も、皇帝は子供の顔を見にこそすれ、夜はさっさと却非殿の陰貴人の元に帰ってしまう。


 それが、皇后・郭聖通にとって、どれほど屈辱的なことか。


 だがプライドの高い郭聖通は自分の元に泊まってくれなんてことは、口が裂けても言えない。代わりに八月の算人(さんじん)にかこつけて采女(さいじょ)を集め、嬪御を選んで陰麗華から引き離そうとした。


 二年以上、皇帝の閨を独占しながら、孕むことのない陰貴人。皇帝の思し召しを拒んでいたという噂もある。ただ一人の女が皇帝の寵愛を独占するなんてこと、後宮では許されない。皇帝の聖徳を損なう大きな過ちは、正さなければならない――


『陰貴人が、後宮の秩序を乱している』 


 「手付かずの嬪御」と嘲笑され、精神の均衡を欠いた唐宮人の起こした凶行を利用し、郭聖通は陰貴人に圧力をかけた。自ら、北宮に退去してくれれば――


 郭聖通の目からも、陰貴人は後宮暮らしを負担に感じているようだった。

 劉文叔の最初の妻でありながら、戦乱のために二年も放置され、文叔は新たに妻を娶り、子まで儲けた。――裏切られ、捨てられた妻だと身を引こうとしていた。


 その彼女を強引に引き留め、囲い込んだ文叔の執着を目の当たりにし、嫉妬心は確かにある。愛されているのに、不幸ぶってオドオド、グズグズしている姿は苛々するし、あの性格は後宮暮らしは向いていないと思う。でも、同情心がないわけではないのだ。


 逃げたがっている女を逃がしてやるのも、正妻の務めと思ったのに――


 結果、皇帝の要らぬ怒りを買ってしまった。陰貴人が孕むまで、皇帝は後宮に立ち入らないだなんて、非常識な宣言までされてしまった。

 

 あれから数か月。陰貴人以外の誰にも目を向けず、皇帝は彼女の閨に入り浸り。皇后でありながら対面どころか、書簡すらも拒否された。幸いにも南陽への行幸があったおかげで、後宮の問題はそれほど目立ってはいないが、この状態がこれ以上続けば、前朝にも皇后の失寵の噂が囁かれることになるだろう。


 本来ならば、皇后として地上における月のごとく、夫と天下を分け合う身でありながら、郭聖通はずっと空閨を守り続けているのである。


 郭聖通は磨かれた金属の鏡を覗き込み、緊張にこわばる自身の表情を見て、唇を噛む。


 とうとう、この日が来た。

 大長秋の孫礼が、陰貴人の懐妊を伝えた。


 ――かねての約束の通り、後宮への出入りを再開する。長秋宮には朕自ら出向く。


 数か月ぶりに夫に(まみ)えるのだ。

 (まゆずみ)ももっと濃い方がいいかしら。いえ、化粧の濃い女は嫌がるかも。


 振り払っても振り払っても、脳裏にちらつく()()()の影。化粧も薄いのに、透きとおるように白い肌。黒く長い睫毛。花のような美しいかんばせ。男の庇護欲を煽る風にも耐えない儚い風情。


 容姿では敵わないと諦めつつも、せめて高価な紅を差し、白粉をはたき、沈香(じんこう)を焚きこめる。


「ははうえー!」

「お待ちくださいませ、殿下!」


 パタパタと軽い足音とともに、長男の(きょう)が駆け込んでくる。

 郭聖通は黛の筆をおき、振り返る。


「ははうえ、今日はちちうえがいらっしゃるって!」

「ええ、そうよ。いい子にしないとね……」

「ずっと、りょこう、に行ってらしたって。お土産あるかな?」

「さあ……どうかしら? ちゃんとご挨拶しましょうね?」

「うん!」


 乳母が連れ去る息子の後ろ姿に、郭聖通は改めて誓う。

 子供たちの将来のためにも、取り戻さねばならない。

 ――誇りを。愛を。女としての自信を。


 自分は、皇后なのだから。


 




 回廊の青銅の灯籠に火が入れられ、庭に篝火が点されるころ。廊下を一人の青年武官が姿勢を正してやってくる。


「先触れでございます。……ただいま、陛下がこちらに向かわれております。もう、すぐにも」


 堂の入り口で膝をついた男は、黄門侍郎の陰君陵。――陰貴人の弟だ。姉によく似た優し気な顔立ちながら、体つきもがっちりとして、落ち着きに溢れている。


「……ご苦労様です。あなたも南陽から戻ったばかりですのに」

「いえ、お気遣いありがとうございます」

「……弟、長卿は――」


 郭聖通の弟、郭長卿は同じく黄門侍郎で、年齢も近い。陰君陵は頷いた。


「郭侍郎は陛下の護衛についております。おっつけ、こちらにも」 

「南陽ではあれが苦労をかけたでしょう?慣れない土地で――」


 南陽は陰貴人の故郷でもある。皇后位を奪った郭聖通の弟にとっては、敵地のようなものだ。


「……私が一緒でしたし、特には問題もなかったとは思います。雒陽からはそれほど離れておりませんので」


 答えにくい質問にも丁寧に応じて、陰君陵は立ち上がり、一礼して元来た道を戻る。敢えて陰君陵を派遣したのは、陰、郭の二侍郎を分け隔てなく扱っているという、皇帝のアピールなのか。


 それからしばらくして、布の幌をつけた提灯を捧げた宦官を先導に、皇帝が長秋宮に入ってきた。相変わらずの美貌。皇帝専用の冕冠でなく、劉氏冠を着用しているのも、以前の通り。地紋の入った黒い袍。


 郭聖通と母の郭主が立ち上がり、腰をかがめて頭を下げる。


「楽にせよ」


 速足で堂の上座の、用意された牀に上り、独座してから劉文叔が周囲に言う。


「義母上もご壮健そうで何よりです」

「ええ、ええ、ずいぶんとご無沙汰でしたからね」


 郭主の嫌味を文叔は笑って受け流し、子供たちを呼びにいかせる。


「ちちうえ~!」


 乳母の手を振りほどいて駆け寄ってくる彊を鷹揚に抱き留め、膝の上に抱き上げてやる。


「おお、重くなったな!」

「ちちうえ、僕はもっとちちうえとお会いしたいです! 剣もおしえてくださるって!」

「そうだったな……剣はまだ早い気はするが……」


 文叔は息子をあやし、相好を崩す。これだけ見ていれば、申し分のない愛情深い父親。でも――

 しばらく遊んでから彊を乳母に返し、まだ乳飲み子の次男の()を少しだけ抱いてあやして。二人を部屋に戻して大人だけの夕餉を終えると、文叔は表情を改めた。


「今夜のお泊りは――」


 孫礼が恐る恐る尋ねるのに、文叔は一瞬、顔を歪める。


「――そうだな、話もある。少し二人だけになりたい」


 夕食を終えるとすぐに却非殿に帰ると言われなくて、その場の全員がホッと胸をなでおろす。郭聖通は極力、平静を装って、文叔の手を取り、言った。


「ならば、わたくしの房室に――」


 文叔もその手を振り払わず、宦官と侍女の先導で、堂の奥の室に入った。





「清涼殿の懐妊は聞いていると思うが」


 二人だけの部屋で文叔が口にした言葉に、郭聖通は無意識に両手を胸に当てた。

 胸が、痛い――。


 以前、宮人二人の懐妊を聞いた時は、何も思わなかったのに。

 皇后の責務として、皇帝の継嗣を広げることができて、むしろ誇らしく思っていた。

 夫の愛があの二人には微塵もないと確信していた郭聖通は、二人の妊娠にも何らの痛痒も感じなかった。それどころか―― 


 心のどこかで、文叔の寵愛を独占していた陰貴人に対して、溜飲を下げていた。 

 

 なのに今、陰貴人の懐妊を夫の口から聞かされて、心臓が(キリ)で突かれるような痛みを感じた。

 

 夫の表情の端々から、隠しきれない喜びが零れている。平静を装いながらも、黒い瞳の輝きも、少し緩んだ口元も、最愛の女が、ようやく孕んで、嬉しくてたまらないと物語っている。

 自分が懐妊したときには、けして見せなかった表情。その現実が胸を締め付ける。


 郭聖通は声が震えないように、腹に力を込めて言った。


「ええ、聞き及びましてございます」


 文叔は牀の上で脇息にもたれかかり、じっと黒い目で郭聖通を見た。


「取引をしようじゃないか」

「取引?」


 予想もしない言葉に、郭聖通が目を瞠る。


「――取引、とは?」

「清涼殿の子が生まれるのは、来年の夏……五月くらいと思う。男児であれば第四皇子で、皇太子の彊とは四歳差。私が誰を一番に愛しているか、そなたも、そして後宮のいる者すべてが知っているし、私も隠すつもりはない」


 はっきりと言われ、郭聖通はゴクリと唾を飲み込んだ。


「……まさか! 皇太子を替えると仰るのですか?! そんな勝手が許されるはずは……」

「私は、勝手が許される立場だと思うがね?」

「そんな――!」


 郭聖通は世界が崩壊するほどの衝撃を受け、よろよろとその場に座り込む。だが意を決してキッと文叔を見た。


「後継ぎは彊ですわ! そう、約束してくださった! それを今さら、群臣だって黙ってはいません! わたくしは正妻である皇后で、あの子は長男ですもの!」

「『母は子を以て(とおと)し。子は、母を以て貴し』」


 文叔が、漢王朝の古い決まりを持ち出す。


「皇后の子が後継ぎとなり、また、後継ぎの母が皇后となり、母の身分は問わない」

「……わたくしは!」


 郭聖通は自らの掌を見下ろし、文叔に訴えた。


「陛下。わたくしと結婚したことで、あなたは伯父の真定王の十万の兵を得て、河北の支持を得たのですわ。それを今さら――」

「そうだな。その恩は忘れていない。だから、そなたを皇后にも立て、彊を皇太子にした。群臣も納得している」

「なら!」


 文叔は郭聖通から視線を外さないまま、静かに続ける。


「私の、気持ちだけが納得していない。――陰貴人は子のないことを理由に皇后位を譲った。最初の、妻であったのにも関わらず」


 陰貴人が郭聖通よりも先に文叔と結婚していたことは、(おおやけ)にはされていない。


「だから、取引をしよう。陰貴人の子が男であっても、後継ぎは彊で、必然的に皇后はそなたのままだと。その代わり――」


 文叔の続く言葉に、郭聖通は息を飲んだ。


「もし、陰貴人やその子に万一のことがあれば、そなたを皇后の座から引きずり下ろし、彊も廃太子する」

 


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