白水のほとり
兼葭蒼蒼、白露為霜
所謂伊人、在水一方
溯洄從之、道阻且長
溯游從之、宛在水中央
――詩経・秦風・兼葭
兼葭蒼蒼たり、白露霜と為る
所謂る伊の人は、水の一方に在り
溯洄して之に従わんとすれば、道は阻にして且つ長し
溯游して之に従わんとすれば、宛として水の中央に在り
青々と茂れる葦に霜のような白い露
愛しいあの人は、あの水の彼方に
流れを遡って会いに行こうとしても、道は険しく遠い
流れを下って会いに行こうとすれば、面影は水の中に
*************
白水の畔。葦が風にそよぎ、ざわざわと音を立てる。
陰麗華の言葉に、文叔の表情は時が止まったように凍りついた。
「……麗華、それは、どういう意味?」
声を絞り出して陰麗華に問う文叔を、陰麗華は迷いのない黒い瞳で、まっすぐに見上げた。
「もし男の子でしたら――いいえ、男女を問わず生まれる前から、長秋宮様やその周囲は、この子の存在を疎ましく思われるでしょう。わたしは、この子を危険にさらしたくない」
少しためらってから、文叔が言う。
「僕はいずれ――君を、皇后にしたい。それには――君が男の子を産んで、その子を後継ぎにできれば――」
「そのようなお考えでいらっしゃるなら、わたしは子を産みません」
「麗華!?」
文叔がギョッと息を飲み、陰麗華を正面から見る。
「争いの種になるとわかっている子をむざむざこの世に迎えるくらいなら、今、自由が利くうちに母子もろとも――」
「わああああ、やめてくれ!」
つい、と白水に向かって一歩踏み出す陰麗華を、文叔が慌てて止める。
「麗華、僕を脅すのはやめてくれ」
「ならば約束してください。わたしは最後までただの一貴人で、この子も後継ぎにはしないと」
「……麗華……」
文叔は、息を詰めて陰麗華を見つめた。
「僕は、君を愛している。君をいずれ、名実ともに『妻』にしたい」
「それはもう、無理です。……一度『妾』にした女を、もう一度『妻』にするなんて、できないことです」
はっきり言い切った陰麗華に、文叔は絶句する。
「……君は、『妻』でないのは嫌だと言っていた……だから僕は――」
「今の『妻』をまた、『妾』に落とすのですか?……一度ならず、二度までも」
「麗華、僕は――」
ざざーッと川岸を吹き抜ける風が、川辺の葦をなぎ倒し、柳の長い枝が揺れる。
陰麗華の結った黒髪のおくれ毛が煽られ、金釵の垂れた飾りがチリチリと微かな音を立てた。
「あの戦乱の中、河水の北と南に引き裂かれていたわたしたちならば、天に誓った『妻』を捨て、新たな『妻』を娶ることも許されたでしょう。明日を知れない日々を生き抜くために、仕方はなかったのだと。――でも、あなたはもう、天子となった。落ち度のない『妻』を捨てることは、孔子の道に反します」
「僕が愛しているのは君だけだ!」
必死に言い募る文叔に、しかし陰麗華は静かに首を振る。
「天子となられたからには、天に恥じない正しき道をお履みになるべきです。昔の妻への感傷など、すっぱりお捨てなさいませ」
ふわりと冷たい風が吹き抜け、葦がざわざわと靡く。陽光は急速に力を失い、青空を雲が早い動きで流れ、夕暮れが近づきつつあった。
「……麗華、僕は――」
文叔は午後の光に煌めく白水の水面に視線をやり、言った。
「ここで、二人で約束したこと、憶えている?」
関関たる雎鳩は、河の洲に在り
窈窕たる淑女は、君子の好逑
いつかの詩の一節を口ずさむ文叔に、陰麗華が頷く。
「ええ、忘れたことはありません……あなたとの約束もすべて――」
言いながら左手の薬指に光る指輪に右手でそっと触れる陰麗華を見て、文叔が目を伏せる。
「僕は、たしかに君を裏切った。僕のせいでいらない苦労もして――僕が、君のことを好きにならなければ、いや、僕が君をすっぱり諦めていれば、君はもっとマシな男に嫁いで、もっと安楽な日々を送っていた。でも、僕の『好逑』は永遠に君一人だ。僕は君を取り戻すためだけに、河北の日々を生き抜いた。今でも――」
陰麗華は文叔の言葉に微笑む。
「ええ――そのことを、恨んではいません。でもわたしは――」
十歳だった陰麗華と、二十歳の劉文叔は、白水のほとりで生涯を誓った。ここから二里の家で、平々凡々な暮らしを続けていくはずだった。
親に孝養を尽くし、日々の稼穡にいそしみ、郷里に溶け込み、一夫一婦を貫く。共に老い、同じ墓に葬られるその日まで。――孔子の道を奉じ、勤勉に、清廉に。
今、十年以上の時を経、三十を超えた文叔は、黒い龍紋の縫い取りのある直裾袍をまとい、綺麗に撫でつけて結った髪には、尾長鳥の尾のように長く伸びた劉氏冠を被っている。本来なら、皇帝は特別な冕冠を被るはずだが、雒陽政権には正式な意匠を知る者がいないし、文叔は堅苦しい姿を嫌う。だから、通常は高祖劉邦が愛用した冠を用いている。――かつて、南陽のしがない一士大夫だった文叔は、気軽な小冠か、時には庶民のように、巾幘で髷を覆うだけだった。
陰麗華もまた、白地に刺繍の入った曲裾深衣に裳を着け、薄紫色の上着をまとい、髪は高髷に結って豪華な金釵をいくつも飾っている。耳朶には明月璫と白珠の垂珠を連ねて。
どちらのいでたちも、田舎の草むらの散策には、相応しくない。
白水の水辺で、頭上に広がる蒼天を見上げ、陰麗華は目を閉じた。
自然は同じなのに、人は同じではいられない。
田舎の平凡な夫婦として白水の畔の家で生きていくはずだった、陰麗華と劉文叔。でも、天はそんな未来を与えてはくれなかった。それは文叔に、もっと大きな使命があったから――
文叔が遠く対岸を眺めながら言った。
「五年前、君を郡大夫から奪い返すには、官憲に逆らって、兵を挙げるしかなかった」
ざわざわと葦の葉が揺れて、水面が波立ち、翳り始めた太陽の光を反射する。柳の葉が翻り、陰麗華の黒髪のおくれ毛を巻き上げた。
「挙兵の前夜に、一人でここに来た。……正直に言えば、僕は迷っていた。挙兵すれば、一族も故郷の人も巻き込み、失敗すれば殺される。――夢に描いた君との平凡な未来を守るために、天下と国家を敵に回すなんて、許されるのか。そんな迷いを晴らすために、ここにきて……夜明け前の真っ暗闇の中、対岸に赤い光が見えて、僕は誰かが松明でも掲げているのかと、声をかけたのだけど――」
文叔がそれから天を指差す。
「それが大きな赤い光に変わって、まっすぐに天に昇って、消えた。――誰にも言っていない、不思議な出来事だ」
陰麗華は文叔の指さす対岸を無言で見つめる。
「……即位を決意する前に、同じ夢を見た」
「夢?」
思わず顔を上げて文叔を見れば、文叔はまだ、対岸を見つめ続けている。
「夢の中で、君は白水の畔にいて、僕は君に声をかけた。そうしたら、あの時の赤い光が、赤い龍に変じて僕の方にやってきて……僕は必死にその龍に乗って、僕から逃げようとする君を捕まえ、無理矢理、龍の背に乗せて、二人で崑崙山の果てまで行く。……そんな夢だ」
文叔の言葉に、陰麗華はびっくりして文叔の顔を凝視した。
「……赤い、龍……でございますか?」
文叔はふっと表情を緩め、陰麗華を見た。
「そう……たぶん、あの龍は『時』だ」
「……時……」
「僕たちの背後から鮮やかな夜明けの太陽が昇り……そうして崑崙の向こうには、荒れ果てた黄昏が広がっていた。果てしなく死体の山が続いて。僕と君とで作り上げる国は、いずれ滅ぶ。――それがいつかはわかならないけれど、天命はいずれ、僕や僕の子孫の元を去る」
陰麗華は何も言えず、ただ、唾を飲み込む。
「天命を受けるというのは、そういうことなんだろう。ただひと時、天と地の間に立って、世界の理を司る」
文叔が、まっすぐに陰麗華を見つめ、静かな声で言った。
「ただ君を得たいという我儘のために、故郷を巻き込み、肉親を死に追いやった。……その償いのためにも、僕は天の奴僕となり、この天下のために生涯を捧げる覚悟はできている。――君さえ、側にいてくれるなら」
陰麗華は文叔の真剣な黒い瞳に射すくめられ、そうして、少しだけ目を閉じ、息を吸った。
「わたしは、平凡な田舎の女です。……あなたと共に天命を担うには相応しくない」
文叔はもう一度対岸に目をやり、言った。
「〈時龍〉は君を乗せてくれた。――僕と君はともに龍を操り、天下を治める。それが、天の意志だ」
陰麗華は困惑する。
現実に、文叔の正妻は陰麗華でない。だが、赤龍を御した、という文叔の嘉夢を否定すべきでない。――文叔の天命を否定すれば、何もかもがすべて、崩れてしまうから。
「……あなたが望まれるならば、わたしは生涯、あなたのお側にお仕えしましょう」
「僕は君にお仕えして欲しいわけじゃない。……僕にとって君は、ただ一人の『妻』だ。僕は生き残るために、聖通を娶って――君を取り戻すために皇帝になった。君を得られないなら、何のために皇帝になったのか、わからない。何もかもがすべて、君のためなんだ」
夕暮れが近づき、蒼さを失いつつある空に、文叔の告白が響く。
その言葉は、嬉しい。でも――
「あなたはもう、皇帝なの。わたしは、あなたに道を違えてほしくない。わたし一人のために、天子に相応しくない過ちを犯して欲しくない。あなたが天命を受けたというのなら、誰よりも瑕のない、最高の天子でいてください。わたしのために兵を挙げ、わたしのために皇帝になったと言うのなら、わたしではなく、この天下のために命を捧げてください。……それが、わたしの望みです」
「麗華……」
「約束してください。わたしはただの、後宮の一貴人。皇后も、皇太子も、変更はしない。わたしを特別扱いせず、わたしがこの先何人、男の子を産もうと、皇太子の地位は盤石であると、長秋宮様やその周囲の方を安心させてください。……それが、あなたの治世とこの天下を守る」
陰麗華は長い睫毛を伏せる。
「――そして結局は、わたしと、この子をも守ります」
「でも、麗華、僕は――」
文叔はしばらく視線をそらし、ためらってから言った。
「君を愛してる。これ以上、君を傷つけたくない。君を妾のままに置いて、他の女を妻と遇するなんて、僕自身も耐えられない」
「それは、あまりに身勝手です。あなたが河北で力をつけ、皇帝になれたのも、すべては長秋宮様との結婚のおかげでしょう。用が済んだら捨てるなんて、あんまりだわ。……あなたはもはや一士大夫ではなく、皇帝なのです。後宮は、天子の陰徳を体現する重要な場所。皇后を蔑ろにして、その秩序を乱せば、結局は国が乱れます」
「麗華!」
文叔が陰麗華の両肩を大きな両手で掴み、正面から覗き込むようにして尋ねる。黒い大きな瞳は見開かれて、真剣そのもの。陰麗華はまっすぐに、その目を見返した。瞳には、迷いのない自身の姿が映っている。
「君は、僕に聖通のもとにも通えと言うの?」
「後宮で一人だけを寵愛すれば、他の女性たちの恨みが積もり積もって、あなたの治世に影を落とす。わたしは後の世に、傾国の女と罵られたくはないのです。……陛下だって、わかっていらっしゃる」
「陛下って呼ぶのはやめ――」
「あなたが自分で陛下になったのです。今さら、ただの士大夫ごっこをするのはやめて」
ぴしゃりと言われて、文叔がぐっと言葉に詰まる。
「長秋宮様はわたしに子がいないのを攻撃材料にしましたが、実を言えば、わたしに子供がいなかったから、後宮の均衡は保たれていたのです。わたしに子供ができた時、何が起こるのか。――今頃、それに気づいて、不安に思っていらっしゃるでしょう」
意外に辛辣な陰麗華の評価に、文叔は眉を上げる。……そう、皇后・郭聖通は物分かりのいい理想の皇后ぶって、文叔にやたらと女を薦めては来るが、実は嫉妬心もそれなりにある。物の数でもない女たちの子供ならともかく、文叔の寵愛を独占する陰麗華に子ができれば、郭聖通は脅威に感じるに違いない。
陰麗華は続けて言う。
「……昔、新野にいたころ、子野猪を見つけたら、近くにいる母野猪に注意するよう、言われました。野生の生き物は、子供を守るためならば、どんな危険も顧みないと。――不安にかられた長秋宮様は、失礼ながら野生の母猪と同じです」
「ならば、長秋宮を遠ざけて――」
「それがお出来にならないから、今、こうなっているのでしょう?」
「……」
普段大人しい陰麗華に言い込められると、文叔は全く反論できない。
「この子を守るには、長秋宮様の不安を取り除く以外にない。わたしがこの後何人、男の子を産もうと、皇太子は変わらず、皇后もそのまま。陛下がそれを宣言し、長秋宮様を安心させるしかない。それがおできになるのは、陛下ただお一人だけです」
「……それで、聖通が納得すると?」
陰麗華は目を伏せる。
「完全に不安を払拭することはできないでしょう。でも、そうしなければ、懐妊が明らかになった時点で、あちらが実力行使に出るかもしれません。――いえ、表向き、長秋宮様は何も指示しないでも、その意を勝手に忖度した不埒者が出る。何かあっても、長秋宮様は知らないと言い張っておしまい。トカゲの尻尾切りで終わるでしょうね。それを防ぐには、長秋宮様自身が、わたしたちに手を出すべきでない、と強く周囲を戒めるしかない」
「……どういうこと?」
文叔に問われ、陰麗華が正面から見た。
「現状のまま、何もなければ皇太子も皇后も地位は安泰。でも、わたしや子供に何かがあれば、真っ先に疑われるのは長秋宮様であり、容赦はしない。――そういう、脅しをかけられるのは、陛下以外にいません」
「皇后と皇太子の地位を確約する代わりに、不祥事が起きた責任は犯人が誰でも長秋宮に問う、ということだな」
「聡明な方ですから、息子の将来を守るには何もしないのが一番だと、理解なさるでしょう。脅しの有効性を高めるには、それに見合う優遇も必要です」
「……笞と、飴――聖通を納得させる、『飴』を用意しろと」
日差しはすでに陰り、白水のさざ波がオレンジ色に煌めく中で、文叔は観念したように目を閉じた。
「……君の、望む通りにしよう。僕は君と生まれてくる子供を守るためなら、何でもするつもりでいる。……でも、君はそれで辛くはないの」
文叔の黒い瞳が、日差しに煌めく。――もしかしたら、潤んでいるのかもしれない。陰麗華は夕日に照らされて、微笑んだ。
「子を守るためならば、どのような苦しみも耐えられます」
しばらく白水に沈む夕日を二人、無言で見つめていたが、文叔が突然、陰麗華の手を取る。
「麗華。……今夜一晩だけでも、君とただの夫婦として過ごしたい。――僕はあの白水の畔の家に君を妻として迎える日をずっと、待ち望んでいた。ずっと――」
「……文叔さま……」
少し掠れた声で言われて、そしてそのまま抱きしめられた。文叔のぬくもり。――文叔はただの人で、普通の男だった。わかっている。……でも、昔とは違う。
昔と変わらぬ白水の畔で、ただ、人だけが同じではいられない。
「僕にとって、生涯、愛するのは君だけだ。――それだけは、忘れないで」
次の瞬間、ふわりと抱き上げられ、陰麗華が慌てて文叔の肩に両手で抱き着く。……こうすると、少しだけ陰麗華が文叔の顔を見下ろす形になる。
「……文叔さま、無茶をなさらないで」
「無意味な誓いとわかっていても、僕は何度でも君に誓いたい。生涯、君一人だと。だからもう一度、親迎をやり直すから、この後は君は地面に足をつけちゃいけないよ?」
文叔に言われ、陰麗華は胸の痛みを堪えて、微笑んだ。
「……ええ。それで、あなたのお気がすまれますのならば――」
その言葉に、文叔が思わずという風に呟いた。
「君の……気はそれでは済まないのだろうね、でも僕はどうしたらいいんだろう?」
陰麗華を抱き上げて歩く文叔の膝元で、川辺の葦がさわさわと揺れた。
夕暮れの近づく岸辺には、白い露がおり始めていた。
舂陵郷の劉文叔宅。
今は皇帝となった彼が五年ぶりに帰郷し、親族や近所の人を招いて宴会を張る。
誰かが故郷の歌を歌えば、皆が唱和し、文叔もまた口ずさむ。
ようやく訪れた平和を寿ぎ、夜更けまで続く宴の席を、陰麗華を抱き上げ文叔がそっと抜け出しても、咎める者はいなかった。
邸第の奥の文叔の室も、今は綺麗に片づけられていた。
狭くて飾りのない、地味なしつらい。中流の家の三男坊の部屋なんて、こんなものだ。
今回、文叔は敢えて、昔使っていた自分の部屋に眠ると言い張ったのだ。
――本来なら陰麗華を迎えるはずだった、小さな部屋に。
「こうして見ると、ずいぶん狭いし、いろいろガタが来ているな……」
あまり広くない臥牀に陰麗華を抱き下ろし、文叔がとなりに腰を下ろす。ギシッと木の臥牀が軋み、どこか歪んでいるのか、カタりと乾いた音がした。褥と衾、帳は新調させたけれど、全体に調度品が古い。
「……新野の、君の室の方が豪華だったな」
「こんなものでしょう。……窗の飾りは凝っていて素敵だわ」
陰麗華が言えば、文叔は高い位置の窗を見上げる。……飾り格子の隙間から、白く細い月が見えた。
「こんな風に、君とこの部屋で過ごしたかった。……人は、僕が皇帝となったことを羨むかもしれないが、それは僕の望んだ未来じゃない」
仄かな灯りが揺れる薄暗い室内で、窓から差し込む淡い月あかりに、文叔の整った横顔が浮かび上がる。それを見つめながら陰麗華が文叔の胸に頭を持たせかけた。
「……不思議ね。わたし、この部屋に入ったのは初めてなのに、とても懐かしい気がする。――昔、伯姫と泊まったのは、どこの部屋だったかしら」
文叔の妹の劉伯姫も、夫の李次元とともに今回の行幸に従っている。
「伯姫の部屋は逆側の棟だ。――たぶん、今頃は次元といるだろう」
文叔が陰麗華を抱きしめ、瞼に口づけする。結い上げた髪に飾る、金釵を一つ一つ外して――
「……文叔さま、わたし、けして不幸ではありません」
「麗華?」
髪を解きかけていた手を止めて、文叔が陰麗華の顔を覗き込む。月明りの下で二人、目と目を合わせ、陰麗華が微笑む。
「わたしは、ずっとあなただけを愛してきた。そばにいられて、それだけで幸せ。……あなたが、何者でも」
「麗華。僕もだ。……河北にいる間も、君を忘れたことはない。今度こそ、君を守る。そのためにはなんだってする」
文叔が大きな掌で、陰麗華のまだ、膨らまない腹をそっと撫でる。
「今度こそ、守ってみせるから」
長い睫毛を伏せて腹に顔を寄せた文叔の、冠の紐を陰麗華が解き、簪を抜き取る。
凝った作りの劉氏冠と、陰麗華の金釵を漆塗りの案に並べていけば、窗から差し込む月明かりを青白く反射して煌めいた。
故郷の家で、二人だけで過ごす夫婦の夜。
得られなかった未来を愛おしむように、月あかりが二人を照らしていた。




