燕燕
燕燕于飛、頡之頏之。
之子于歸、遠于將之。
瞻望弗及、佇立以泣。
――『詩経』邶風・燕燕
燕燕は于き飛ぶに、之を頡し之を頏す
之の子の于き帰るを、遠く于きて之を将る
瞻望するも及ばず、佇立して以て泣きぬ
旅立つ燕は、躊躇うように飛び立ち、また飛び下がる
遠く帰るあの人を、はるばると見送りにきた
小さく遠ざかっていく姿が見えなくなるまで、ただその場に立ち尽くして泣いていた
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その日、母の鄧氏と陰麗華、そして増秩と二人の子は、女主人の房で夜遅くまで話し合った。
「……やはり、行かなければならないかと、存じます」
増秩は諦観の滲む声で言い、目を伏せた。四十はとうに越し、五十の坂も見えているだろうに、まだほんのりとした色香のあるその容貌は、若い時分にはさぞ、美しかったであろうと陰麗華は思う。
「でも、かあさん――!」
匡が激情を抑えきれない声で反論した。
「あいつは、俺の父さんを殺した憎い奴だって――」
その言葉に陰麗華はアッと思う。
「その――来殿とおっしゃる方のお話では、増秩には男の子が一人いて、さらに妊娠中だった、と。上の男の子も、皇帝陛下の御子であるかのような言い方でしたが……」
増秩が陰麗華を見て、哀し気に頷く。
「わたしは東郷の出で、夫とは結婚したばかりでした。ただ新都侯家に対する奉仕として、侯家の奥にお仕えして……お邸に上がった時点では身籠っていることに気づかず、その後にふとしたことでお館様のお手がついて……」
邸奉公と言っても増秩は水汲みや掃除といった下働きで、主人の目に触れることはないはずだった。だがほんの偶然から主人の目に留まり、夫がいるという懇願も聞き入れられることはなかった。間もなく妊娠に気づき、日数から数えても夫の子だと思ったが、それを言い出すことができなかった。
「わたしが、何度もお館様の思し召しを拒んだために、夫は些細な科を言い立てられて、殺されてしまったのです。――もし、夫の種だと知られたら、おそらくこの子も命はないだろうと……」
匡と曄は似たところがあるが、それは母・増秩からの遺伝であるのは明らかだった。土間に膝をつき、唇を噛んで激情を堪えている匡を目の前にして、増秩は淡々と語る。
「お館様は人格者との触れ込みでしたが、お邸内は随分、ギスギスしていました。奥様も嫉妬心を剥き出しにされることも多くて、わたしも何度も鞭打たれました。わたし以外にもお館様の閨のご用を受け持つ女は何人もいて、孕むたびに取り換えられるような感じで……息子を無事に産んだ後で、たまたま、他の人が孕んでしまって、もう一度お召があって……」
そうして、今度は正真正銘、王莽の子を身籠った。――それが曄であって、本来ならば皇女と呼ばれる身分であった。
陰麗華が茫然として、曄を見る。
「……曄は美人だと思っていたけど、そんな身の上だったの……」
だが、曄もまた、薄っすらと事情は聞かされていたのだろう、沈痛な面持ちで首を振る。
「どんな事情があれども、二十年も放っておかれて、他の子どもが死んだからって、今さら迎えに来られても……それに、皇女様の暮らしなんて、到底、無理ですよ」
曄の言葉に、陰麗華の母・鄧夫人も頬を手で押さえて言う。
「そうねえ。それに、高貴な姫君は、大抵は政略結婚の道具にされるだけだものね。今の皇后陛下が産んだ唯一の姫君も、幼いうちに先の皇帝陛下の許に嫁に出されて、十四かそこらで未亡人になられ、ひっそり暮らしておられるそうよ? 綺麗な衣装と豪華な食事はもらえるかもしれなけど、あまり幸せになれそうな気はしないわね」
身近に皇帝の娘がいた――乙女心をくすぐる事実に、一瞬、頭に血が上っていた陰麗華も、それを聞いて冷静になる。曄は陰麗華の侍女としての教育は受けているが、高貴な令嬢としては育っていない。皇帝に引き取られたところで、賤しい女の腹から生まれたと蔑まれ、礼儀作法もなってないと苛められるかもしれない。
「……わたしは、このままお嬢様や奥様にお仕えしたい。なんとかなりませんか」
曄の悲痛な訴えに、とうとう、増秩が泣き出した。
「ごめんなさい……わたしが……二十年も忘れられているから、このままひっそり暮らしていけるとずっと……」
「かあさん……」
抱き合って泣き出した二人を見て、鄧夫人は渋い表情をしている。
「でも、県官のご意向としては、子を引き取るつもりなのでしょう。それを突っぱねれば、おそらくこの陰家がお咎めを受けるわ」
それでなくとも、知らなかったとはいえ、皇帝の娘をこき使っていたとして、理不尽な言いがかりをつけられるかもしれない。
「それにもう一つ――」
鄧夫人が匡を真っすぐに見た。
「……むしろ、男である匡の方が、探している本命だと思うわ。陛下は跡継ぎが欲しいのだから」
「でも俺は、皇帝の子じゃありません」
「それをあちらは知らないのでしょう。男の子が生まれたはずだと、陛下は考えている。……匡の父親が皇帝ではないと、他に知っている人は?」
増秩は首を振る。
「懐能さんが先に身籠って、それでわたしをお召になりました。ですから、懐能さんの生んだ男児の方が、匡よりも数か月ですが年上です。跡継ぎにはならないと思いますが」
鄧夫人は腕を組んで考え込む。事情を正直に話し、匡は皇帝の子でないと告げた場合の、宮廷の反応が読めなかった。もしかしたら、秘密保持のために殺されてしまうかもしれない。――理不尽極まるが、子供の存在を知りながら二十年放っておいた男だ。自分の種でないと知れば、非情に徹するに違いない。
当主として富豪の陰氏を切り回している関係で、鄧夫人の耳にはさまざまな噂話が入ってくる。皇帝のめちゃくちゃな政策の弊害と、それに振り回されて処罰を受けた話。六筦制度という専売制はさらに厳しさを加え、煩雑な規則に対応しきれず、違反して処罰される者が後を絶たない。山東で起きた農民反乱は収まる兆しもなく各地に飛び火し始め、ついに皇帝は、盗賊に対しては春夏も関わらず斬ってもよいとの命令を発した。
春夏は生命が生まれ、育まれる季節。秋冬は命が刈り取られ、死ぬ季節。――刑罰は秋から冬にのみ執行され、暦の上で春がくれば執行は許されない。これが原則であったはずだ。
その天地のサイクルに則った古来からのしきたりを、皇帝は棄て去ると言明した。
――悠悠たる蒼天、此れ何人なるや。
鄧夫人はしばし、睫毛を伏せて感慨にふける。
上つ方の気まぐれに、常に振り回され、虐げられるのは下々の者たち。どれほど富み栄えようとも、鄧氏も陰氏も、ひとたび皇帝に逆らえば、絶大な権力の前に踏みつぶされ、侵奪される塵芥のような存在だ。
「……守ってあげたいけれど、我が家の手には余るわ」
鄧夫人の言葉に、陰麗華がびくりと顔を上げる。まっすぐに増秩と曄を見つめる母の瞳は、冷徹なまでに澄んで、迷いはなかった。
「まず何よりも、わたくしはこの陰家の家族と財産を守らなければならない。あなたたちを庇うことで、家族や家を危険にさらすことはできないのよ」
「おかあさま……」
増秩が娘の身体から手を離し、「はい」と頷いた。
「今まで、ありがとうございました。ご恩は一生忘れません」
「匡は、どうするの?」
鄧夫人の問いかけに、しばらく考えていた匡が顔を上げた。
「俺も、一緒に行きます。――向こうが勘違いしているだけで、こちらに非はないんです。男の俺がいれば、かあさんや妹も少しは守れるかもしれない」
「真実を隠し続けていく、覚悟はあるの?」
「――あります」
その答えに、鄧夫人は頷くと、陰麗華に向けても言った。
「いいこと、ここで聞いた話は、墓の中まで持っていくのよ。たとえ誰でも、いずれお前の夫となる者にも、けっして打ち明けてはいけない。いいわね?」
「……わかりました。おかあさま」
陰麗華は秘密の重さに慄いて、黒い襟の縁取りをぎゅっと両手で握りしめた。
陰家からの連絡に、新野県とは数度やり取りがあり、年明けに県宰(王莽は県の長官も宰へと変更した)が自ら陰家まで足を運び、増秩と二人の子に面会し、顔の特徴や事情の聴き取りが行われた。報告をまとめ、秘密裡に宮中に上げるという。
「何らかのご沙汰があるまで、このことはくれぐれも内密に。この方たちの処遇も、出来るかぎり、今まで通りにするように」
「使用人として使って、後でお咎めを受けるようなことは?」
鄧夫人の問いかけに、県宰は一瞬、温厚な眉を顰めたが、すぐにもとの穏やかな表情に戻る。
「見たところ、衣類も栄養状態も悪くない。問題なく遇されていたと、某から報告を上げておく。陛下の血を引く者が、このような市井にいたと、知られる方がまずい」
「奥様方にはよくしていただきました。どうか、お咎めのないようにお願いいたします」
頭を下げる増秩に、県宰は頷いて帰っていった。帰り際、ついてきた属吏の来君叔が、隅っこにいた陰麗華に声をかけた。
「助かったよ、嬢ちゃん。見つけられなかったら、俺たちがお咎めを受けるところだった。文叔は、いい娘に惚れたな」
「……最近、お会いできていないのですが」
「ああ、あいつの家、ちょっと大変なことになってな。……突然、ものすごい額の滞納租税を本家がふっかけられて、あり得ないって大騒ぎになってる」
陰麗華が目を瞠る。
「舂陵侯家がですか?」
「そう。舂陵の劉氏だけでなく、もとの復陽侯家の劉氏にも、同様の滞納租税の請求が行われて、どうも新しい前隊大夫の嫌がらせじゃねーかって言われてる」
「嫌がらせ……」
「劉氏を苛めて、点数稼ぎをするんだよ。もともと、元の侯家の租税額なんて、いくらでも難癖をつけることはできる。払ったら租税が増えて大夫の手柄、払えなくて劉氏の一人二人処罰しても、やっぱり大夫の手柄ってね」
「ひどい……」
不安そうな陰麗華を見て、来君叔が慌てて手を振った。
「まあでも、殺されるほどの過失ってわけじゃねーし。要は本家のことだし、あいつは大丈夫だよ」
それだけ言うと、「じゃ」と片手をあげ、踵を返して去っていった。
落ち着かないまま正月は過ぎ、二月に入ってすぐ、皇后が崩御した。相い前後するように、かつての皇太子、統義陽王臨の死が伝えられ、その妻で国師公劉子駿の娘も自殺したという。数日後、さらに追い討ちのように、新遷王の安が薨去した。
――何か、尋常ならざることが宮廷で起きているのだと、陰麗華と曄は、互いに言葉もなく見つめ合った。
もし、臨の死が皇帝によるものならば、皇帝は四人の息子のうち、三人を我が手にかけたことになる。あらたに息子として迎えられる予定の匡もまた――。
不安な日は唐突に終わりを迎える。
二月の半ばの雪の散らつく寒い日、前触れもなく、田舎に不似合いな、豪華な馬車が陰家の門前に停まった。その後ろには、一郡を治める前隊大夫の車。
陰家の堂内で我がもの顔で寛ぐ大夫の甄大人は、陰険で狡猾そうな四十半ばの男であった。頭には進賢冠と呼ばれる官吏の冠を被り、豪華な織りの綿入れの袍に、さらに豪華な褶衣を重ねている。袖は大きくゆったりして、ややでっぷりしたお腹を翡翠の飾り帯で留めている。
「皇帝陛下の詔に基づき、陛下の御子とその母御を常安にお迎えにまいった」
対応に出た鄧夫人を甄大夫は意外に思ったらしいが、長男は天子の御許である常安の太学に遊学中と説明すれば、なるほど、と納得して黒いあごひげを扱いた。
大夫が待つ中を、ほとんど何の用意もできないままで、郡の属吏たちが曄と匡、そして増秩を堂に引き出す。みすぼらしくはないが、三人の質素な装いを見て大人が眉を顰める。
「皇帝の御子であるのに、あまりに――」
「皇帝の御子が着すべき衣類を、このような田舎の寡婦が準備できましょうか」
鄧夫人の答えに、甄大夫はなるほど、と長い髭を扱きながら頷く。
「衣類については郡で用意しよう」
大夫が言うには、匡は皇子として功建公、曄は睦脩任の封爵が与えられるという。任というのは、漢でいう公主にあたるものだ。
そのまま慌ただしく車に乗せられるところで、増秩が涙を流しながら鄧夫人と別れを惜しむ。
「ありがとうございました。……御恩は忘れません」
「わたくしこそ、これまでありがとう。……元気でね」
馬車に乗りかかったギリギリのところで、奥から走ってきた陰麗華が、曄を呼び止めた。
「待って、これ……道中はきっと寒いわ」
陰麗華が曄の手に、無理やり何かを押し付ける。それはこの数か月かけて、陰麗華が手ずから仕上げた絮衣だった。
「もう、こんな衣類は着なくなるかもしれないけれど、せめて旅の間だけでも……」
「お嬢様……」
切れ長の目に涙をいっぱいに溜めて、曄が陰麗華に抱き着いた。
「さようなら。いままでありがとう。……元気で。幸せになって」
「お嬢様こそ……」
しばし二人で抱き合って、目を匡に移すと、匡が陰麗華を見て力強く頷いた。
「匡も、元気で……」
「ええ。ありがとうございます」
雪はだんだんと強くなり、大きな牡丹雪となって鉛色の空から次から次へと降ってくる。ときおり、強い風が門前の枯れた柳の枝を揺らす。急かされて三人は車に乗り、無常に扉が閉められる。ゆっくりと動き出す馬車の扉を、内側から誰かがしきりに叩き、嗚咽が漏れ聞こえてくる。
――泣いてはいけない。
泣いたら、皇帝の処置に反発していると、思われてしまう。
泣いたらダメ。三人にとっては、これは幸運の始まりのはずなのだから――。
雪が降りしきる中、車列が見えなくなるまで陰麗華は大門に立ち尽くして見送った。堪えきれない涙が頬を伝い、足元のつもりかけた雪に落ち、消える。
雪は、その日の夜じゅう降り積もった。
使用人の親子が皇帝の隠し子だった――。
意外なできごとではあったが、表面上、陰家は何事もなく過ぎた。陰麗華には新しく、小夏と言う小間使いがつけられ、三人の抜けた穴も埋まり始める。
だが、この出来事の影響が、予想外のところで出た。
三月の末、県宰の潘大人が陰家を訪れ、郡大夫からの結婚の申し込みを伝える。あの日、曄と別れを惜しむ陰麗華を、大夫が見初めたのだと言う。
「しかし……大夫大人には、奥方がいらっしゃいますでしょう?」
鄧夫人が訝しめば、潘大人も頷いた。
「左様。二千石の大官ともなれば、奥方一人というわけにもまいらぬ。是非、小妻にとの話だ」
鄧夫人が息を飲む。陰麗華も両手で胸を押さえ、はくはくと息を必死に吸い込もうとするが、上手く吸えず、息苦しくて倒れそうだ。
――郡の大夫が陰麗華を妻に……いや、違う、妾にしようと言ってきたのだ。
「その……娘はもう、婚約が決まっておりまして……」
その答えに、潘大人も困ったように眉を顰めた。
「それは――劉文叔のことか」
「ええ……」
陰麗華はドキドキする胸を押さえ、話の先行きに聞き耳を立てる。
「甄大人も、そのことはご存知の上で、話をしておられる」
「ご存知って、それじゃあ――」
鄧夫人が絶句すると、潘大人が噛んで含めるように言う。
「おそらく、この話が漏れれば、劉家は断ってくるのではないかな。そうでなければ、断ってやるのがあちらのためだ。今、各地の劉氏の置かれた状況はよろしくない。特にもとの舂陵侯家は逆賊の翟義と通婚していたせいで、監視はとりわけ厳しい。ここでさらに、郡大夫が望んだ娘を娶り、郡に歯向かう姿勢を見せればどうなるか。悪いことは言わぬ。名誉なお申し出として、お受けしなさい」
四十過ぎの男の妾になるべきだと県宰に諭され、陰麗華はそのまま気が遠くなって、ズルズルとその場に倒れ込んでしまった。
「麗華!」
鄧夫人が慌てて娘を支え、部屋の隅に控えていた小夏と家宰を呼ぶ。家宰に抱き上げられて下がっていく陰麗華を見送り、潘大人がさすがに気まずそうに、眉尻を下げる。
陰麗華は新野でも一番の美少女と名高い。県宰の潘大人も実物を見たのは初めてだが、噂通り抜けるような白い肌に、大きな黒い瞳、流れる黒髪は艶やかで、年頃もあって匂うように美しい。南陽でも有数の資産家の娘で、嫁入り先はよりどりみどりのはず。
数ある申込先の中から、舂陵侯家の分家とはいえ中流の劉文叔を選んだ。潘大人はちらりと見かけたことのある、劉文叔の端麗な顔を思い出す。やや面長で彫りが深く、眉がくっきりとした、そう、何というかあれは――。
龍顔――。
漢の高祖劉邦の伝えられる容貌を、劉文叔は想起させる。大人しい男との評判だが、あの顔は妙に印象に残っている。
「……娘御は、劉文叔との婚姻を待ち望んでおったのか?」
潘大人の問いに、鄧夫人が微かに頷く。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「ええ……まあその、少々胡散臭い気はしましたが、娘の方はすっかり惚れ込んでしまって、あの方以外は嫌だと。それで渋々認めたようなもので……」
「――ならば、陰家としては甄大人との話は……」
「それはさらに無茶です。奥様は悋気の強い方だと噂で聞いております。甘やかされて育ったあの子が、耐えられるとは思えません」
陰家では、まさか郡大夫が陰麗華を妾にしようとするなんて、想像すらしなかった。――そのくらい、非常識な申し出だ。潘大人も、陰家の言い分は理解できるので、苦い表情で頷く。
「だが、これはいわば、甄大人が陰家を試しておられるのだ。……夫人も、その点、よーく考えられよ」
潘大人はそれだけ言うと、その日は陰家を辞した。
甄阜:前隊大夫。
潘叔:新野県宰。




