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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十三章 水の一方に在り
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金釵

 建武三年(西暦二十七年)秋。

 許宮人が産んだ皇三子と、魏宮人が産んだ皇女は、母の希望を調整の上、許宮人の皇子は(えい)、魏宮人の皇女は義王(ぎおう)と命名された。

 許宮人の方は母子ともに健康であるが、魏宮人は唐宮人に突き落とされた影響か、産後の肥立(ひだ)ちが悪く、臥牀(がしょう)を離れられない状態であるという。


 なお事件を起こした唐氏は、司隷校尉(しれいこうい)による審議の上、自身は死罪となったが、家族への連座は適用されなかった。――漢代、裁判・処刑は基本的に秋から冬にかけてしか行われない。万物が生まれ育つ春に処刑を行うことは、自然のサイクルに反するとされた。獄に大量の未決囚が溢れようとも、暦の上で春に入るとすべて凍結されてしまう。大赦も頻繁に発令されるため、死罪が確定してもかなりの割合で処刑を免れる。唐氏もこれからの数か月を乗り切れば、命を拾う可能性が十分にあった。


 陰麗華は却非殿(きゃくひでん)のいつもの部屋で、以前と変わらぬ日々を送っていた。――少なくとも見かけ上は。

 文叔との関係はあの日を境に劇的に変わり、陰麗華は文叔を拒むことはもう、できなかった。


 陰麗華は掖庭(こうきゅう)の貴人であり、文叔の子を産まねばならない。陰麗華もその現実を受け入れる以外になかった。


 


 長秋宮(ちょうしゅうきゅう)からは、頻繁に大長秋(だいちょうしゅう)の孫礼が派遣される。掖庭令(えきていれい)の陸宣が呼び出しを受け、皇后・郭聖通から陰貴人への、長い書簡を(ことづ)けられることもある。読もうとするのを文叔が横から取り上げ、皇后に対し、余計な書簡を送ってくるな、取り次ぎもしないと、きつく沙汰があった。


『嫉妬や怨嗟(えんさ)の心からの書簡ではありません。ただ、後宮で第二の地位にある方を、陛下が過保護に囲い込み、他の妃嬪には全く目も向けないのでは、後宮に示しがつかず、秩序を保つことができません』

 

 郭聖通の反論を、文叔はしかしはっきりと拒否したという。


『後宮の秩序は、朕が寵愛する者を守るためのもの。後宮の秩序を守るために、陰貴人を危険にさらすのであれば、そもそも後宮こそ不要である』


 皇帝・劉文叔の取り付く島もない態度に、郭聖通はとうとう趙夫人に縋り、とにかく皇子ら子供たちとの交流だけでも続けて欲しいと、文叔に申し入れた。


「……長秋宮様のやり口に陛下が腹を立てるお気持ちも、もちろん、あたくしもわかりますけどね。ただね、あたくしといたしましてもね、罪もない皇子殿下たちがお寂しい思いをするのは、後々のことを考えててもよろしくはないと思うんざますよ。……麗華ちゃん、もとい、陰貴人様もそんなのは望んでいらっしゃらない。もっと大局を、長ーい目でご覧になるべきです」


 却非殿後殿の謁見の間で趙夫人にこんこんと(さと)されて、文叔は渋い顔をする。同じ舂陵(しょうりょう)劉氏の一族、劉聖公の妻であった趙夫人は、文叔から見れば諸母と呼ばれて、(ないがし)ろにはできない存在だ。――後宮や一族の問題は、皇帝権力では抑え込めない。


 文叔はため息をつき、言った。


「では、趙の姉さんはどうしろと(おっしゃ)るのです。……私は、しばらくは郭聖通も、他の妃嬪も召すつもりはない。皇帝の宣言を、あっさり撤回するべきでないし、今は陰貴人の立場を固めるのを優先したい」

 

 ようやく、再び手に入れた陰麗華。単純に、恋女房に夢中という面もあるが、今、別の女のところに通ったら、陰麗華を再び傷つけてしまう。

  

「陰貴人が孕むまでは、後宮に足を向けず、他の妃嬪も召さない。そう、約束なさった」

「ああ」


 文叔が頷く。趙夫人がこともなげに言った。


「ならば、その約束をもう一度確約なさいませ」

「……構わないのか?」

「その代わり、陰貴人の妊娠が明らかになったら、再び妃嬪をお召しになると、宣言なさいませ」


 文叔は思わず眉を寄せる。


「だが――」


 一度死産を経験している陰麗華が、果たして再び孕めるのかは、未知数であった。

 言い淀む文叔に、趙夫人が重ねて言う。


「まず、期限をお区切りなさいませ。まずは陰貴人の妊娠が確定するまで。ですが、これは陰貴人には重荷に感じるかもしれませんわね、あのような性格な方でございますから」


 自分が妊娠しない限り他の女に通わないとの宣言は、もし妊娠できなかったら……という、陰麗華の不安を煽る。また、無駄に後宮内での嫉妬を煽る可能性もある。


「ですから、まずは年内に期限を区切り、もし、陰貴人に孕む兆候がなければ、その折にはまた話し合うと言っておけば、少なくともその間は文句を言う者もおりますまい。人は、期限が区切られれば、そこまでならば我慢もできるのです。さらに、本年の八月の算人では采女(さいじょ)の入宮は見送る。――これでさしあたって、陛下のご希望には添えるのではございませんか」


 昨年の八月、文叔の留守中に皇后が勝手に采女を入宮させて、文叔の不興を買っている。――文叔としては後宮の充実よりも何よりも、まずは洛陽の人口を増加させたいのだ。選りすぐりの未婚の美女を後宮に入れるなんて、まったく望んでいなかった。


 文叔は眉を寄せていたが、肩を竦めて了承した。


 期限を区切ることは不満だが、皇后以下、後宮の諸妃を無視し続ければ、後宮は陰麗華への恨みを拗らせるに違いない。差し当たってこれ以上後宮に女を増やさず、ひとまず陰麗華が孕むまで、外野の干渉を防ぐ。ギリギリの妥協点であった。


「あいわかった」

「それからお子様方のことでございますが――」


 趙夫人に言われ、結局、文叔は掖庭宮において、子供たちとだけ、顔を合わせることにした。





「……つまり、母親とは会わずに……ということ?」


 文叔の秋物の長襦(ちょうじゅ)を縫いながら、陰麗華が尋ねる。


「ええ、長秋宮様のところの二皇子殿下と、七月に生まれた雪香――許宮人の皇子殿下、それから、魏宮人の皇女様、それぞれ乳母と宦官がついて、ご対面をなさるそうです」


 掖庭令である陸宣も今日はそちらに行っていて、今、陰麗華の(いま)には小夏と于曄の三人だけ、小夏がどこかで仕入れてきた噂話を聞きながら、陰麗華は眉を顰めた。


「……二人の宮人は御子を産んだのに、そんな扱いでは……」


 もし、自分がそんな目に遭ったら耐えられまいと陰麗華は思う。


「雪香のところは母子ともに健康だそうですけど、魏宮人はずっと体調がよくなくて。それでなくても、陛下の前に出られる風じゃないようです」

「そんなにお悪いの!」


 陰麗華が思わず、縫いものの手を止める。


「あたしのかあさんもお産で死にましたし、お産は女の大厄ですよ。臨月に池に突き落とされるなんて、気持ちの方もついていかないんじゃないですか?」


 小夏が言い、自身、死産の経験のある陰麗華は目を閉じ、片手で胸を押さえる。


「……お見舞いに伺ったりは……」


 陰麗華が呟けば、横から于曄が言った。


「それは、陛下や趙夫人とご相談の上になりますね。陰貴人様が今、後宮に出入りすればきっと、長秋宮に顔を出すのを断れなくなります」

「……そうね」

  

 陰麗華も納得して、俯いた。

 魏宮人はもともと、文叔の寵愛を得ようなどという野心もなく、ただ、なんとなく陰麗華に雰囲気が似ているという理由だけで、宮人に推薦され、文叔の閨に侍った。子を孕んだことで嫉妬にさらされ、恐ろしい思いまでして、あまりに気の毒としか言いようがない。……陰麗華は少し考えて、生まれた皇女に手ずから刺繍した赤子用の腹掛けを贈ったところ、掖庭令の陸宣を経由して丁寧な返礼があった。


「御子は順調に生育されていますが、魏宮人のご体調はどうにも思わしくございません」


 陸宣が沈痛な面持ちで言った。


「魏宮人ご自身も、なんとなく覚悟をなされているようで、ただ、御子の行く末だけが気がかりだと――」

 

 陰麗華は息を飲む。医師として陰麗華を救ったほどの腕を持つ陸宣が、魏宮人の本復は難しいと判断している、それほどの容態なのだ。


「……おいたわしいこと……」


 陰麗華はしばし目を閉じて考えに沈む。――皇帝の子だろうがなんだろうが、出産は命がけだ。


「その……もし、魏宮人が、その……言いにくいのだけど、その、万一のことがあった場合、御子はどうなるの?」


 例えば陰家のような豪族の家であれば、母を失った赤子は親族の誰かが養育するだろう。文叔自身が叔父の家で育てられたように、あるいは、陰麗華の母が後妻として嫁ぎ、兄の陰次伯を育てたように、一般の家庭であれば想像がつく。


 だが、この後宮の、後ろ盾もロクにない魏宮人の子は、いったい誰が――?


 陰麗華の問いに、陸宣も首を傾げる。


「そうでございますね。……例えば、長安の未央宮などでは、皇太后などが健在でしたら、上手く差配が行われたのではございますが。宣帝陛下の許皇后が早世したときは、残された皇子……後の元帝陛下の養育を、後添いの王皇后に命じられたと聞き及んでおります」


 許皇后とその皇子を愛していた宣帝は、敢えて子を生していない王氏を皇后に立て、息子の養育を任せたという。


「……それは要するに、皇帝陛下のお気持ち次第ってこと?」

「もちろん、乳母もついておりますし、皇女としての歳費は支給がございますので、養育そのものは問題ございません。母が不在であっても、主上(おかみ)の血を引く皇女でございますから」


 だがそれでは、家族のぬくもりも一切、知らぬまま育つことになるのでは――。




 文叔との関係が復活して以来、陰麗華はずっと、もし子が産まれたらどうなるのか、そればかり考えていた。


 男女どちらであっても、文叔は喜ぶだろう。今、後宮の子供たちにはさほどの興味を示さないけれど、かつて、甥姪にあたる鄧偉卿の子供たちを、文叔はとても可愛がっていた。別に子供が嫌いなわけではない。長秋宮にいる皇子二人も、雪香が産んだ皇子も、そして魏宮人の産んだ皇女も、文叔は虐待するつもりはないのだ。

 

 正妻である皇后は郭聖通であり、長男の皇子彊はすでに皇太子に立てられている。正式な儀式を経て、天下に公布された厳然たる事実。でも――。


 もし、陰麗華が男児を産んだら、文叔は後継者を交代させようとするのでは。

 郭聖通の周辺は間違いなく、それを疑うだろう。皇太子やその周囲の者にとって、陰麗華の産む男児は脅威でしかあるまい。


 ――せめて女児なら――。


 いやそもそも孕まなかったら? 妊娠したら、文叔は約束通り、他の女の元にも通うのか? そして他の女がさらに子を産んで――。


 その終わりのないサイクルに思い至り、陰麗華は絶望に打ちのめされる。

 後宮は果てのない地獄だ。

 子を産んでも、産まなくとも。愛されても、愛されずとも。


 文叔の愛の檻によって作られた豪華絢爛たる鳥籠。羽翼をもがれた陰麗華は、そこから逃げ去ることも、もうできない――。





 毎朝、文叔の朝食を給仕し、襟と冠を整え、佩刀を渡して文叔を送り出す。そうして、夕刻にはまた文叔を迎え入れ、夕餉を給仕し、(いぬ)(リュウ)と穏やかに過ごす。――たまたま、建武三年の秋は文叔の出兵もなく、穏やかに過ぎた。


「南陽にね、一度戻ろうと思うんだ」


 夕餉の席で文叔が言い出し、陰麗華はハッと顔を上げる。


「……南陽に?」

「そう、ずっと帰っていない。……南陽の叛乱も討伐したけれど、やはり僕が不在にした時間が長すぎたのだろう。故郷だから裏切ったりしまいと甘く見ていたけれど、それじゃあダメなんだよね」


 文叔が洛水の魚の干物を齧りながら言う。


「……故郷だからこそ、ほったらかしで戻ってこない僕に、皆、不満を抱く。他の地方より優遇されていると感じなければ、彼らはむしろ冷遇されていると感じてしまう。南陽の機嫌を取らなければ、またぞろ叛乱を起こす奴が出るかもしれない」


 文叔の言葉に、陰麗華は嫌でも亡き鄧少君(とうしょうくん)のことを思い出し、唇を噛む。(くすぶ)る故郷の不満を集め、文叔に反旗を(ひるがえ)した幼馴染。


 幸せは、天から降ってきたりはしない――。


 目を伏せた陰麗華を、文叔はじっと見つめ、それから呟く。


「僕も帰りづらい。でも行かなければ。南陽の叛乱を制圧して、半年。僕が故郷を見捨てていないと、はっきりと示さなければならない」

「……舂陵(しょうりょう)まで、行かれますの」


 陰麗華が顔を上げて尋ねれば、文叔が頷く。


「ああ。……それから、新野(しんや)にも寄るつもりだ。偉卿(いけい)義兄(にい)さんの家に」

「新野に?」

「そう。だから、当然だけど君も一緒に。――里帰りは三年ぶり? ずっと南陽に帰りたいと言っていたよね?」


 陰麗華が目を見開く。新野の鄧偉卿(とういけい)の邸は、文叔兄弟が挙兵した直後、当時の官憲によって破壊され、汚地とされていたはずだ。


「実は以前から邸の再建を行っている。鄧氏坡(とうしは)を挟んだ二つの鄧家の邸も手を入れて、十月には完成する予定だ。だからその祝いも兼ねてる。――ついでに、君の母上にも僕はちゃんと挨拶がしたい」


 次の瞬間、陰麗華は思わず息を止めた。

 母に――。婚礼前に妊娠が知れて、勘当されたままの、自分が?


「……それは……母が、何と申しますか……」


 文叔の正妻ですらない自分を、母が認めるとは思えない。

 しかし、文叔はある種の冷徹さを見せて言った。


「認めてもらわざるを得ない。君は皇帝の貴人だ。陰家は外戚として、我が皇家の羽翼の一つを担うことになる。南陽の一寡婦(かふ)が、自身の娘が皇帝の寵姫となっているのを、あくまで認めないなんて、許されることではない。君の母上は頑固だけれど利口な人だ。君と陰氏の立場のために、為すべきことは理解しているだろう。……できれば、雒陽に住んでもらいたいと思っている。今後のこともあるからね」


 陰氏はもはやただの素封家ではなく、皇帝の姻戚で貴顕の一角を占めるのだ。――皇帝の姻族が、田舎でみすぼらしい生活を送っていては、皇帝の権威にも関わる。


 文叔が皇帝になったことで、周辺のさまざまなことが大きく動いていく。

 陰氏も南陽も、昔のままではいられないのだ。





 十月の南陽への行幸を前に、陰麗華の周囲はにわかに慌ただしくなる。陰次伯はもちろん、鄧偉卿、鄧仲華など、新野出身の官僚も行幸には同行することになる。小夏や于曄も数年ぶりの帰郷だ。


「別に家族もおりませんので、手土産と言ってもねぇ……」


 小夏などは冷めたものだが、陰麗華は勘当が解けないまま、母に会うのが不安でならなかった。それに――。


 食べ物を前にするとこみ上げる、妙な気分の悪さ。口の中をさっぱりさせたくて、酸っぱいものばかりが欲しくなる。なんとなく感じるだるさ、眠気。


 陰麗華の体調を完全に把握している陸宣が、陰麗華の耳元で囁いた。


「陰貴人様、最近、月の障りがきておりません」


 予感していたことであったので、陰麗華は陸宣をじっと見た。


「それは――でも、陛下には……」

「まだ、確定ではございません。たまたま遅れているだけ、ということもあり得ますので――」

 

 陰麗華の妊娠が確定すれば、長秋宮その他の、妃嬪のお召しも再開されてしまう。


「……しばらく、待って。もう少し――はっきりしたら、わたしの口から言うから……」


 この()に及んで妊娠を隠すのは卑怯かもしれない。でも、まだ陰麗華には、覚悟ができていなかった。陸宣は穏やかに微笑んで頷く。


「はい。では、小官はそのままいつも通りに……」


 陸宣が御前を下がるのと入れ替わりに、于曄が漆塗の(おぜん)の上に布の包みを乗せて入ってきた。


「実は、行幸の用意のために、自分の荷物を整理しておりまして、見つけたものがございます」


 そう言って、陰麗華の座る前に案を置き、布の包みを開く。中から現れたのは、見事な細工の金の(かんざし)。「長楽未央」の文字と、飛仙と蓬莱山らしき意匠の繊細な透かし彫りと、細かい白玉と瑠璃が埋め込まれている。


「……これは……とても見事な……」


 陰麗華は思わずそれを手に取って、裏返したりして見てしまう。


「ありがとう、素敵なものを見せてもらって」

「お嬢様に是非、もらっていただければと」

「ええ? でも、こんな高価な――」

「わたしのような身分の者が身に着けていたら、どこから盗んだのかと、疑われてしまいます」


 そう言って于曄が笑った。


「……これは、長安で、()()()()に託されたのです。……最後、未央宮(びおうきゅう)が焼ける直前に」

   

「……血縁……」


 陰麗華が息を飲んだ。曄の血縁者とは、つまりは、王莽の――?


「わたしは未央宮では最後、異母姉の、平帝の皇后であった黄皇室主(こうこうしつしゅ)の宮におりました。どうもこれは、漢の帝室にゆかりのある品と拝察いたします。わたくしではなく、やはり()()()()()()()()()()()()()、受け継がれるべきかと存じます」


 陰麗華はしばらく、魅せられたように金釵を眺めていたが、それを案の上に戻し、言った。


「……それならば、わたしではなく、長秋宮様こそ――」


 だが曄は首を振る。


「いいえ、それはわたくしが賜わったもの。わたくしが望む相手に伝える権利がございます。これがわたくしの手にあるのも、すべて天意にございましょう」


 曄は金釵を手に取ると、陰麗華の側によって、結い上げた髪の髷の近くにそれを差した。


「ここのところ、ずっとお悩みでいらっしゃる。でも、昔に戻ることなど、もうお考えなさいますな。流れる川が戻ることのないように、時も戻ることはございません」

「……曄?」

「皇帝陛下が昔の劉文叔でないように、陰貴人様もまた、昔の陰麗華お嬢様ではない。南陽もまた、昔の南陽のままではない。迷う時期はもう、終わりになさるべきです」


 まっすぐに、陰麗華の瞳を見つめて言われ、陰麗華は大きく息を吸った。


 ――曄は、気づいている。


「わたしも、小夏も、陸宣も、皆、命をかけてお守りします。でも、御子を守れるのは、陰貴人様お一人です」

「……曄……お前……」

「ご不快と承知の上で、お怒りを覚悟で申し上げました」


 手をついて頭を下げる曄に、陰麗華は呟くように言う。


「……いいえ、ありがとう。わかっているの。……わかってはいるのよ……」


 時は動き始め、もはや猶予はないのだ。


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