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蜉蝣之羽

蜉蝣之羽 衣裳楚楚

心之憂矣 於我帰処


蜉蝣之翼 采采衣服

心之憂矣 於我帰息


蜉蝣掘閲 麻衣如雪

心之憂矣 於我帰説

 ――『詩経』国風・曹風・蜉蝣

蜉蝣(ふゆう)の羽 衣裳楚楚たり

心の憂うる 我に於いて帰り()


蜉蝣の翼 采采たる衣服

心の憂うる 我に於いて帰り(いこ)


蜉蝣の掘閲(くつえつ) 麻の衣は雪の如し

心の憂うる 我に於いて帰り(やど)

   

  



   カゲロウの羽のように、鮮やかな衣装であなたを待つ

   心は不安でいっぱい。わたしのところに帰ってきて側にいて

 

   カゲロウの翼のように、華麗な衣装であなたを待つ

   心は不安でいっぱい。わたしのところに帰って休んでいって


   カゲロウの抜け殻のように、雪のように真っ白な麻の衣装であなたを待つ

   心は不安でいっぱい。わたしのところに帰って、泊まっていって


 



**********


 目を覚ました時、陰麗華は広い臥牀(がしょう)にただ一人、横たわっていた。

 重たい身体を起こせば、肩にかけられていた絹の(かけぶとん)が滑り落ち、自分が何も身に着けていないと気づく。


 蜉蝣(かげろう)の羽のように薄い紗幕が、窓からの風にそよぐ。

 陰麗華が紗幕越しに周囲を見回せば、すでに陽は高く、天井近くの(まど)から、夏の日が燦々と降り注いでいた。


 ああ、そうだ――。


 陰麗華はようやく、昨日の出来事を思い出し、目を閉じた。


 わたしはとうとう、掖庭(こうきゅう)の一貴人に落ちた。

 この豪華な寝台の上で、ただ皇帝の寵をよすがに、彼の訪れだけを願って生きる、蜉蝣のような儚い存在に。


 もう、文叔の〈昔の妻〉ですらいられない――。



 


 その日一日、侍女の小夏(しょうか)(よう)も、そして宦官(かんがん)陸宣(りくせん)鄭麓(ていろく)も、まるで腫物に触るかのように、陰麗華に接した。


 香りのよい薬草を浮かべたお湯が朝から準備されていて、米のとぎ汁で髪を洗い、高価な香油で梳く。白絹の襦衣(じゅい)の上には、蜉蝣の羽のような、透ける薄い紗の上着。


 昨夜、糸が切れて飛び散った真珠の垂珠(すいしゅ)を、小夏と下婢(はしため)とで必死に拾い集め、細い絹糸で元通りに繋ごうと、さっきから部屋の隅で数を数えている。


 それがまた、なんともフワフワと頼りない。  


 足元で蹲る(イヌ)(リュウ)の短い毛並みを撫でて、陰麗華はいっそ蜉蝣のように消えてしまいたいと思っていた。





「……食欲がないようですから、今朝は梅粥にいたしました」


 陸宣がそう言って、湯気の立つ土鍋と漆塗りの椀を乗せた(おぜん)を運んできて、陰麗華の前に置いた。


「……ありがとう、でも、食べられそうもないわ」

「少しでも召し上がってください、梅は胃腸にもようございます」


 赤く漬けた梅の実をほぐしたものが、ドロドロに煮溶けた黍の粥に混ぜられている。ちなみに、漢代においてはお粥は飲み物の範疇(カテゴリー)である。

 熱いのを木の(さじ)ですくってふうふうと吹きながら、ゆっくりと口に運ぶ陰麗華を見守り、食事が終わったところで、侍女の曄が化粧道具と鏡を入れた漆塗の(はこ)を持って声をかける。


御髪(おぐし)を整えましょう」


 小夏が鏡を持ち、曄が鼈甲(べっこう)の櫛で丁寧に髪を梳く。高髷に結おうとするのを、主の陰麗華が止めた。


「今日は体調がよくなくて……楽な髪型がいいの。いつもの……昔のような髪型にして」

「でも……」


 曄が隣でお膳を片付けていた陸宣と顔を見合わせる。昔のような髪型とは、髪を二つに分け、ねじってうなじのあたりで一つにまとめるだけの、つまりは侍女たちと同じ髪型だ。仮にも皇帝の貴人なのだから、それに相応しい豪華な髪型にするべきと、趙夫人にも口酸っぱく言われいる。


「今日だけはお願い……高髷は肩が凝るし、額が引き攣るのよ……」

「はあ……そうですか」


 曄が渋々、髪を丁寧に中央で分け、頭の隅に角が出るように、正面から見ると四角くなるように、それぞれねじる。うなじの後ろでくるりとまとめて、金の象嵌(ぞうがん)の入った鼈甲の(こうがい)で留める。垂珠は省き、白玉の耳璫(みみだま)だけにする。


 飾りのない控えめな髪型にしても、陰麗華の儚げな美貌はさらに際立ち、曄は背後から鏡を覗いて、その美しさに思わずため息をつく。


 幼いころから愛らしく、そして優しい(あるじ)だった。長い睫毛に縁どられた黒目がちの大きな瞳。白玉か真珠かと見紛うような、白く滑らかな肌。品よく通った鼻筋に、可憐な唇。


 戦乱の陰で、心に大きな傷を負った陰麗華。劉文叔は側室の身分に堕としてもなお、かつての妻を手放さず、繊細な主は後宮の檻の中でどんどん追い詰められていく。侍女として主の幸せを願うのなら、むしろ後宮を出る道を模索すべきなのか? いったいこの先、自分は陰麗華をどう、守るべきなのか。


 曄が悩む主を支える方策を見出せないまま、陰麗華は長秋宮で、唐宮人と皇后・郭氏から名指しで攻撃されてしまった。皇帝の後宮で寵愛を独占することの危うさを、今さらながら突きつけられる。


(……結局、わたしは何もできなかった)


 曄は完全に思い違いをしていた。王莽の娘として長安の未央宮(びおうきゅう)にいた経験から、後宮を舐めていたかもしれない。


 どこかで、後宮だろうと皇帝だろうと、人の暮らしに変わりはないと思っていた。

 人間の本質は変わらない。人は所詮、人でしかないと。たまたま奴婢に生まれるか、豪農の家に生まれるか、皇帝の家に生まれるか。綺麗な衣装を着ても、襤褸(ボロ)を着ても、一皮むけば中身は同じ。


 自身、王莽の娘として生を享けながら、二十歳過ぎまで婢として陰家に仕えて生きた。父は皇帝だったのに、自分は金で取引される奴婢だったのだ。――運よく陰家が温情のある雇い主で、それほどひどい扱いは受けなかっただけで。


 突然、皇帝の娘だとして長安に連れていかれ、豪華な衣装と食事を与えられ、後宮で飼われて政略の駒にされる。

 匈奴単于(きょうどぜんう)に無理矢理嫁がされた、あの異母姉はどうなったか。

 幼くして漢の皇后となった異母姉・黄皇室主(こうこうしつしゅ)に至っては、十四歳で寡婦となり、最期は燃え盛る炎の中に身を投げたではないか。


 豪華な衣装も金の簪も、贅を尽くした宮殿も、何の救けにもならない。

 結局、皇帝だろうが皇子だろうが公主だろうが、他の人間と変わるところなどないと。


 何しろ、皇帝と言われて曄がまず思い浮かべるのは、長安の未央宮(びおうきゅう)で、老いさらばえた顔に白粉(おしろい)を塗り、まやかしの権威にしがみついていた、あの醜く愚かしい王莽の姿だったからだ。


 不幸な異母姉が祈り続けた、漢歴代の皇帝の神主(いはい)。高祖皇帝以来の権威も権力も、あの愚かな男によって奪われ、炎の海に溶けていった。


 所詮、すべては(ちり)に返る。

 そんな風に軽く考え、皇帝になった劉文叔を前にしても、表向きは「陛下」「主上」と崇め奉るものの、中身は劉家の三少爺(三番目の若様)のままのつもりだった。

 劉文叔が愛しているのは陰麗華だけなのだから、身分が貴人だろうが関係ない、そんな風に。


 しかし、実際に陰麗華に仕えてみれば、正妻として後宮を束ねる皇后・郭聖通の圧迫を受け、薄氷を履むが如く緊張を強いられる日々。危うく北宮に追いやられるところを、劉文叔の皇帝権力と寵愛だけで、ようやく踏みとどまったに過ぎない。


 皇帝と、皇后と、そして貴人。寵愛という蜜を求めて群がる、あまたの女たち。


 豪奢な宮殿、居並ぶ百官、とどろく武威、そして後宮。――すべての中心に皇帝がいて、星々を率いる北辰のように世界を動かしていく。

 未央宮がどこか寂れ、空虚だったのは、本来そこに満ちるべき天命がすでに失われていたから。


 もはや劉文叔は、南陽の片田舎で、小さな(はしため)の代りに天秤棒を担いでくれた、きさくな青年ではない。圧倒的な威を以て、南宮に君臨する絶対君主なのだと、ようやく気付いた。


 その劉文叔が陰麗華を手放さない以上、もう、他に選択肢などないのだ。


 昔通りの髪型を鏡で覗き、ホッとしたように微笑む主の姿の儚さに、曄はふと、未央宮の炎の中に消えっていった、赤い衣の袖を思う。


 ――何の面目あって、漢家に見えることができましょう。


 最後まで、「漢家の寡婦」であろうとした、あの人。幼い恋と皇后の名分に殉じた彼女と、目の前の主と。


 ――ああ、劉氏はかくも女の苦しみと恨みとを集め、天漢(あまのがわ)の如く(そら)に横たわる――


 鏡の中の陰麗華の微笑みは、そのまま空気に溶けてしまいそうに、儚かった。

  



 

 夕暮れになり、文叔が却非殿(きゃくひでん)の後殿に戻ってくると聞いて、陰麗華は衝動的に身をひるがえし、物置になっている復壁(ふくへき)に身を潜めた。版築(はんちく)の分厚い壁をくりぬいた隠し部屋で、窓もなく、光も射さず、四隅は闇に沈んでいる。周囲の物音も聞こえず、どこかひんやりしたその場所は、長櫃が積み重ねられ、棚には紐をかけられた小さな箱、絹の反物、竹簡の束などが積みあげられていた。


 暗闇に紛れるように、陰麗華は長櫃にもたれて座り込み、ため息をつく。


 今さら、文叔にどんな顔して会えばいいのか。

 そしてだんだんと、昨日の長秋宮でのやり取りも思い出されて、陰麗華はこれから先の自らの立場をも思い、唇を噛む。


『このまま、あなたが後宮で寵愛を独占し続ければ、きっとまた、第二第三の唐氏が出るわ。……次こそ、罪のない赤子の命が奪われるかもしれない。あなたが後宮の秩序を乱している限り、ずっとこれが続くのよ?』 

『陰貴人が孕まねば、後宮の秩序は乱れたままというわけだ――』


 陰麗華は再びため息をつき、両手で顔を覆う。


『そなたは朕の貴人だ。ならば、貴人の役割を果たせ』


 文叔の言葉が蘇って、昨日の嵐のような時間を思い出し、陰麗華は己を抱きしめる。


 わたしが子を孕まぬ限り、後宮の秩序は乱れたまま。――だから、文叔さまはわたしに貴人の役目を果たすように言って――。


 これで、わたしが孕まなかったらどうなるんだろう?

 孕むまで、わたしは朝請に出なくともいいとあの人は仰ったけれど、仮にも後宮第二位の立場にいるわたしが、ずっと朝請を免除されるなんて、それこそ秩序もあったものじゃない。


 それにわたしが孕むまで、他の嬪御を召すこともしないって。


 ――ああ、これこそが後宮の秩序を乱すってことなのね。


 陰麗華は頭を抱える。

 ここは文叔を説得し、他の人の元にも通ってもらうべきなのでは。いえ、でもそんなことを、わたしの口からお願いするなんて。そもそも、許宮人や魏宮人の元には、赤ちゃんが生まれたばかりではないの。そこにも通わないってこと? じゃあ、いったい何のために子供を産ませたの。


 陰麗華は髪の毛を掻きむしりたくなるのを、ギリギリでこらえる。


 すべては、文叔が皇帝だからなのだ。


 皇帝だから、正妻の郭聖通がいながら、昔の妻である陰麗華を手放さず、貴人なんて都合のいい称号で側に置いている。

 皇帝だから、後継ぎの男児以外にも、たくさんの子供が必要で、わざわざ市井から美女を集めて嬪御に取り立てたのだ。


 文叔が、皇帝だから――。


 貴人であるわたしが孕まなかったら、どうなるんだろう?

 いえ、それよりも恐ろしいのは――。


 陰麗華は無意識に、自分の腹を抱きしめて、暗い虚空を見つめた。


 もし、孕んだら。そして男の子だったら――。


 自分に対し、あれだけの執着を見せる文叔が、何を望むか。いや、たとえ文叔が望まなくとも、周囲は考えるに違いない。


 その子を、後継ぎにするつもりでは。

 ならば、危険な芽は早いうちに摘み取らねば――。


 ――わたしが、一番に守らなければならないものは、いったい何か――。

 


 

 

「……麗華、そこにいるんだろう?」


 木戸の外から声をかけられ、陰麗華はハッと息を飲む。復壁は物置だから、内部から(かんぬき)はかけられない。だから木戸はわずかに開いていた。文叔は、部屋にいない陰麗華を探して、すぐにここを探り当ててしまったのだ。


「開けるよ。……こんな暑いところにいないで。出ておいで」


 キイ……と木戸が開き、夕暮れの光が差し込む。と、その隙間から白い羽虫が一匹、ひらひらと紛れ込んでくる。光を浴びて、薄く儚い(はね)がキラリと光る。陰麗華は何となく、その蜉蝣(カゲロウ)の姿を目で追った。


「本当に、気まぐれな猫のようだね、麗華」


 無言を貫く陰麗華に語り掛け、文叔もまた、復壁に入ってきて、木戸をギリギリまで閉める。細く、筋のような隙間から夕暮れの赤い光が差し込み、文叔を照らす。蜉蝣が、ひらりと文叔の前を横切った。


「僕は夜目が利くから、もうどこにいるか見えてるよ。……おいで、麗華。皆が心配している」


 コツ、と(タイル)敷の床に、文叔の(くつ)音が響く。

 たしかに、暗がりに潜んでいるにもかかわらず、文叔はまっすぐに陰麗華の方に歩み寄り、すぐ前に立つ。


「……それとも、ここで襲って欲しい?」

「ひっ……!」


 低い声で脅され、陰麗華が思わず悲鳴をあげてしまう。と、その気配で居場所を正確に掴んだ文叔は、座り込んでやすやすと陰麗華の細い手首を捕える。


「……捕まえた」

「文…叔さま……」

「怒ってる?」


 陰麗華はただ身を竦め、首を振る。……微かに、紗の上着がシャラ、と衣擦れの音を立てた。


「そう……じゃあ、よかった。戻ろう、麗華」

「文叔さま……いえ、陛下……わたしは……」

「麗華、二人っきりの時は(あざな)で呼べと言ってる。今度陛下と呼んだら……」


 文叔は立ち上がり、陰麗華の腕を引っ張り上げると、抱きしめて耳元で囁いた。


「僕も容赦しないよ? 昨日あれだけ言ったのに、まだわからないの、麗華」


 思わず顔を背けた陰麗華の耳朶が、白玉の耳璫ごと口に含まれ、(ねぶ)られる。陰麗華は身動きもできずに、ただ蜉蝣の気配を探り、ひらひらと揺らめくように飛ぶ様子を目で追った。


「二人っきりの時は、僕はただの文叔、君の夫だ。――いいね、麗華」


 陰麗華はその言葉に、何も返すことができなかった。そうして抱きかかえられるように、明るい回廊へと連れ出され、背後でパタンと扉が閉まる。




 ――蜉蝣は、復壁の中に、閉じ込められた。



*「蜉蝣」の詩は、古注(漢代の解釈)では、小国なのに奢侈に耽る曹の昭公を謗る詩、新注(朱子の解釈)では浮ついた生活をする者を戒める詩として読まれていたようです。だから、上の解釈は一般的ではないです。

 秦風の北林でも「憂心」は夫の帰りを待つ妻の心情として出てくるので、「心之憂」は帰ってこない夫を心配する妻のものと読んでも、間違いではないんじゃないかな……と思いながら白川静訳を見たら、「ここに我 帰処せん」と、読んで、死んだ夫を悼む詩だとなっておりました。最後の麻衣を喪服と解釈するわけですね。

 まあなんだーいろんな解釈がーできるのがー詩経のー素晴らしいーところー……( ;∀;)

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