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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
漆、枯魚 河を過ぎりて泣く
114/130

枯魚 河を過りて泣く

枯魚過河泣、何時悔復及。

作書與魴鱮、相教慎出入

      ――佚名・漢楽府


ホウ:平ぺったくて大きな淡水魚

 ショ:タナゴ。小さい淡水魚

 南陽からの便りに、初めて絮衣(わたいれ)がなかった。


 その意味するところは明確だった。

 文叔の河北での結婚を知っても、陰麗華は南陽で文叔のために絮衣を縫っていた。刺し子(キルティング)の針目は丁寧に揃って、一目一目、心を込めた精緻な仕事。それこそが言葉にしない陰麗華の「愛」なのだと、文叔は実感していた。


 だが、今度の書簡(てがみ)には絮衣はなかった。もう、陰麗華は文叔のために絮衣を縫うをやめたのだ。


 裏切ったあげく、言い訳と詫びの便りすら寄越さない夫を、ついに思い切った。――文叔は見限られたのだ。


 当然だと思う。どう考えても、自分のやりようはひどすぎる。こんな不実な夫のことなどすっぱり忘れて、もっと誠実な男とやり直した方がいい。例えば、鄧少君のような。


 文叔は、心を落ち着けようと、目を閉じ、深呼吸を繰り返す。

 いいんだ、これで。彼女が幸せになるためには、必要なことなのだ。


 文叔は陰家からの書簡を開封した。


――書簡に行き違いがあるのか、君からの離縁状がまだ、届かない。戦争中のことで、君も手が回らないのかもしれないし、あるいは、我が家との縁は最初からなかったことにするつもりかとも思い至り、こちらからの便りは以後、差し控えることにします。


 詫びも言い訳も、離縁状すら寄越さない文叔の不義理に、陰次伯もさすがに呆れているようだ。

 それでも、文叔の方から陰麗華に別れを切り出すことだけは、できそうもなかった。

 

 陰次伯からの書簡を放りだし、文叔は牀にごろりと横になり、天井を見上げる。


 本当に、彼女を失ってしまった。

 二十歳で彼女に出会い、二十六で彼女と婚約して、彼女を奪われたくなくて二十八で叛乱を起こし、二十九で彼女と結婚した。そうして三十一の今、彼女を失う。

 彼女には何一つ落ち度はない。自分のような男に惚れられてとんだ迷惑を被り、申し訳ないという気持ちしかない。――それでも、彼女は僕を愛してくれていた。


 凶星の下に生まれたと母に疎まれ、家族の愛を得られなかった自分を。

 あの白水の畔の家で、彼女と暮らし、歳を重ねていくのを夢見ていたのに。それ以上のことは望まなかったのに、僕は今、故郷を離れた北の果てで、数万の軍を率い、いったい何のために戦っているのか。

 

 昔の自分に教えてやりたい。愛しているなら、離れてはいけなかったのだと。




 枯魚 河を(よぎ)りて泣く

 (いづ)れの時にか悔ゆるも復た及ばん

 書を作りて魴鱮(ほうしょ)に与え

 相い教えて出入を慎めよと


     干し魚が生まれた河を船で渡って泣いた

     もう後悔してもどうにもならない

     手紙を書いて大小の魚たちにも教えてやろう

     立ち居振る舞いを慎んで、人間に捕まらないようにしろよ






 陰麗華からの絮衣がなかった。

 たったこれだけのことで、文叔の心を支えていた何かがぽっきりと折れてしまった。

 砂塵と汗に塗れて戦場を駆け回る、その気力が湧いてこない。

 どこか虚ろな表情に、朱仲先が気づく。


「文叔、いったい何があった」

「……絮衣がなかった……」

「は?」


 馬上で、文叔が項垂れる。


「南陽からの便りに、いつもの絮衣がなかった……」

「……何言ってんだ、お前……」

「陰麗華が、僕を見限った……もう、何のために生きているのかわからない……」

「文叔? お前、何をわけのわからないこと――」


 太鼓が鳴り響く。先陣が賊を発見し、戦闘に入ったのだ。


「文叔、お前、腑抜けてないでしっかりしてくれよ!」


 朱仲先に言われ、文叔がしぶしぶ頷く。馬の腹に蹴りを入れ、スピードを上げる。


「ハッ……!」


 場所は元氏県からはかなり北、中山国の易県のあたり、かつて戦国時代に燕国の下都が置かれていた近く。北に向かえば左手には急峻な山地が迫り、地形は起伏に富んでいる。河北の山にも遅い春が訪れ、新緑が鮮やかであった。入り組んだ地形と深い緑が、懐かしい南陽の山を思い出させる。


 文叔の心は戦場を離れ、いつしか故郷の南陽に飛んでいた。


 舂陵(しょうりょう)の家から馬に乗り、一人、新野に向かい、会いに行った。

 畦道を駆け抜け、縦横に張り巡らされた(すいろ)を飛び越え、鬱蒼とした森を通り抜ける。新野の城壁を越えれば、陰家の広壮な邸宅が見えてくる。漆喰の白壁を廻り、(もり)の中の小さな(ほこら)で待ち合わせて――。


 彼女が――いつも待っていて――。

 文叔は流れる緑を横目に見ながら、馬を走らせる。


 賊は脆く、味方の攻勢は続く。勝ちに乗じて残党を追い、易水の支流である順水を越え、さらに北へと深入りする。


「文叔、待て、深追いし過ぎるな! 隊列が分断される!」


 背後で朱仲先が何か叫んでいたが、心が南陽に飛んでいた文叔は、聞いていなかった。





 目のまえに、賊軍が現れる。

 「賊」、と言っても、それは要はこちら目線での話で、彼らからすれば、河北土着の武装勢力である。王莽政権が潰え、まともな行政も治安維持も行われなくなって、飢饉と戦乱に追われた流民がうろつき、略奪に及ぶ。自衛のために豪族が下戸(こさくにん)を組織したり、時には食を求めて自ら略奪に手を染める。


 つまりは、南陽で官憲の圧迫に耐え兼ね、自ら武器を取って立ち上がった、文叔ら南陽の劉氏と同じ。向かってくる騎馬の男は、やや古いが手入れされた鎧を身にまとい、大振りの剣を構える。当地ではそこそこの家の出身なのだろう。


「蕭王だ! 殺すな! 生け捕りにしろ! 大手柄だぞ!」


 誰かが、文叔の身分に気づいたらしい。文叔は内心、鼻で嗤う。――「蕭王」だなんて、何の因果か。もともとは、南陽の三流豪族の三男坊だ。


 文叔も馬の鞍につけていた長柄の(げき)を手に取る。 


 右手に戟を構え、左手で手綱を握り、両足でがっちりと馬を挟み込む。


「蕭王! 勝負!」

「望むところだ!」


 挑まれて、文叔が手綱を操り、前方から来る騎馬の男と交錯する。 

 幽州は騎馬民族・匈奴(きょうど)と境を接しているため、騎馬隊の備えが他よりも分厚く、練度も高い。実戦に慣れていないが、馬術が上手いと感じる。騎馬で位置を変え、目まぐるしく動きながら、打ち合い、薙ぎ払い、追いかけ――。


 数合打ち合わせ、何とか男の横っ面を戟で払えば、男の馬がよろめいて足を滑らせ、そのまま周囲よりやや高くなった丘の上から転がり落ちていく。そこで初めて、自分が険しい崖の近くに追い詰められていることに気づく。


 文叔は舌打ちする。――何をやってんだ、僕は。


 が、すぐに次の騎士が雄叫びをあげて向かってきて、文叔は戟で辛うじてその剣を受ける。大上段から振り下ろされた剣の衝撃を、文叔は顔をしかめて耐えて、渾身の力で剣を跳ね上げる。


 相手の無防備になった胴を戟で薙ぎ払えば、男は避けようとして馬上でバランスを崩し、文叔の戟の柄に縋って落馬を免れようとしたが、そのまま馬ごと転がり落ちる。だがそのおかげで、文叔まで引っ張られて大きくよろめいた。


 グラッと馬が傾ぎ、右の後ろ脚が崖の端を崩し、バラバラと土が崩れる。


「やばい!」


 と、次の騎士が駆け込んできて、文叔の目のまえに白刃が振り下ろされる。


「覚悟!」


 髪の毛一本の差でその刃を避けるが、馬はさらに脚を取られ、踏ん張りが効かずに後ろ脚がずるっと滑って、ガクンと体が下がる。


 落ちる――!


 ヒヒーン……!

 咄嗟に手綱を手放し、文叔は左手で目のまえの草を掴む。馬が悲しげな嘶きを残してズルズルと崖と滑って落ちていく。崖にぶら下がった文叔の頭上に、白刃が振り下ろされる。


「死ねぇえええ!」


 文叔は左手で体重を支えたまま、右手で掴んでいた戟を振り上げる。反撃を予想していなかった敵は喉を貫かれ、血泡を吹きながら文叔のすぐ横を掠めるように落ちていく。死んだ男が蹴り上げた砂と血飛沫が、文叔の顔にかかる。

 

 頭上に広がる河北の青空と、木々の緑。

 殺伐とした戦場なのに、初夏の風はあくまで爽やかで――。


 僕は、こんなところで何をやっている。

 麗華。何があっても、僕は君のもとに帰ると誓って、そのために多くの血を流してきたのに。

 こんな遠い場所で君に逢えないまま、君を裏切ったまま死ぬのか――。


 麗華、僕は――。


 次の兵が近づくの見て、また左手の握力が限界に近づいたと思ったとき、下から呼ぶ声がした。


「こっちです! 蕭王閣下――!」


 ハッと首を回せば、崖の下で耿伯昭が手を振り、必死に何か叫んでいる。


「斜めに飛び降りれば、足場が!」


 文叔は誘導の意図を理解し、崖に足をかけて力を溜めると、斜め下の岩場を目指して壁を蹴った。


 

 


 

 多少の擦り傷を作りながらも崖を降りると、耿伯昭が馬を寄せてきて叫んだ。


「何をやってるんですか! 勝手に一人で崖に向かっていくなんて!」

「いや、すまない、考え事をしていて――」

「バカですか! 戦なんですよ! 真面目にやってください!」


 文叔は頭をかく。耿伯昭の配下の突騎の一人がやってきて、下馬して馬を差し出した。文叔は礼を言って彼の肩をポンと叩くと名前を聞き、ひらりと馬に飛び乗る。


「もう少しで生け捕りにされ、笑い者になるところだった」

「まったくですよ!」


 耿伯昭がプリプリ起こりながら返して、馬を提供した騎士に言う。


「あそこに閣下の馬がいるが、使えそうか?」

「足を少し怪我していますが、大丈夫でしょう。曳いていきますよ。味方と合流できれば、替え馬があるはずです」

「ならそこまで、気合を入れて敵中を抜けるぞ!」


 文叔に馬を提供した騎士は別の騎士の馬に二人乗りし、耿伯昭が配下の突騎に指示を出して味方の陣を目指す。が、すぐに前方から敵が来た。耿伯昭がチッと舌打ちした。


「こんなところに誘いこまれるなんて、あなたらしくもない!」

「……私はそんなに強いわけではないから――」

「昆陽の英雄が何を言いますか! 俺が矢で敵を遠ざけますから、その隙に駆け抜けますよ!」

  

 耿伯昭が馬腹を蹴って前に出、騎馬のまま弓に矢をつがえ、射る。(あぶみ)が発明されていないこの時代、馬に乗ったまま弓矢を射る騎射の技術は、匈奴(きょうど)や北の烏丸(うがん)などの、遊牧騎馬民族に継承された特殊技能であったが、匈奴との雑住地域である上谷(じょうこく)郡の太守の息子である耿伯昭は、わざわざ匈奴の捕虜の男に師事して、その技術を会得していた。


 脚だけで馬を操りながら、矢を射、それは過たずに突進してくる敵の喉首を射抜く。一射、二射――駆け抜けながら射続ける耿伯昭の技量に、文叔は感服する。


「すごいな、そんな特技があったとは! 見直したぞ、伯昭!」

「まだまだですよ! 匈奴人はこれで、空を飛ぶ鳥を射落としますからね!」


 そんなこと言いながら、数騎で敵の包囲を抜け、何とか友軍に合流した。


「文叔! 生きてたのか!」


 陣中から朱仲先が鎧をガチャガチャ言わせながら突進してきて、馬から降りたばかりの文叔にぶつかり、首を締めあげんばかりに掴んでぶんぶんと振った。


「うわっ、よせっ、く、くるし……」

「このバカ野郎が、心配させやがって! 死んだのを見たという奴までいて、もうダメかと……」

「何それ! 敵の間者じゃないのか、悪質な!」

「お前がちゃんとしてれば、そんなことにならなかったんだ! 軍閥の親玉だっていう自覚をもっと持て!」

 

 文叔の死亡説が流れたこともあり、文叔軍は大いに動揺して大敗を喫し、数千の死者を出した。――王郎の挙兵直後に(けい)を脱出したときを除けば、文叔が指揮を執った戦場としては、初めての敗戦となる。


 本当はもっと大崩れになるところを、呉子顔(ごしがん)が、


「南陽には蕭王の兄の子がいるんだから、死んだからって大丈夫だ」


という、わけのわからない理論で浮足立った見方を大喝し、兵の離散を食い止めたらしい。


(兄さんの子を連れてきたところで、この軍隊を率いるのは無理だと思うが――)


 だいたい、兄・伯升の子だって、まだ十歳かそこらだ。それでも、呉子顔の機転のおかげでたすかったと言えなくもないので、文叔自身は納得はいかないながらも、後で褒賞しなければと考えた。逃げてきた兵を集めて、安次(現:廊坊市)で陣を立て直すことにする。


 陣営を整え、怪我人の救護所を文叔自ら慰問して回っていると、がやがやと騒ぎがおきた。


「どいてくれ! 重症なんだ! 医者を早く!」

「賈君文将軍だ!」


 文叔が驚き、担ぎこまれた男を見れば、確かに賈君文であった。


「君文! なんてことだ! 君ほどの強い男が……!」

「閣下……生きてたんすね! 死んだって聞いて俺……ぐっ……」


 額は割れて血が顔から滴り、腕は不自然に曲がり、脇腹は血が滲んでいる。


「喋るな、今を医者を……!」


 駆けつけてきた医者とその助手が、賈君文の血塗れの鎧を脱がせるように周囲に命じ、自分で兜を外して額の血を拭う。


「かなり傷は深い! 水を! それと白布を!」


 見るからに重症の賈君文が、しきりに文叔に話しかけようとするので、文叔は横に膝をつき、その手を握り締めて励ます。


「大丈夫だ! 私は無事だ! この通り! 心配をかけた!」 

「よかったっすよ! すまねぇ、塩を守ったこの俺様が、情けねぇ……ぐああああ!」


 ちょうど大きく割けた刀傷を白布で押さえられ、賈君文が痛みに叫ぶ。

 その傷の深さを見て、文叔はこれは助からないのでは、と思う。


「君文! しっかりしてくれ! 私が君文将軍に別動隊の指揮を命じたのは、私が敵を軽んじたせいで、私の失敗だ! こんなことで偉大な名将を失うわけにはいかない!」

「そうっすよ、俺は塩を守った男っすから、この程度の傷……」

「塩はこの際、関係ないから喋るな!」

「でもよぉ……塩を守った俺様も、邯鄲の女房が心配で――」

「わかった! 妊娠中の奥方については心配するな!」

「まさか俺が死んだあと、手を出すつもりじゃあ――」

「ちがーう! 奥さんは妊娠中なんだろう! 僕の妻もちょうど妊娠中だ! 君の所が女だったら、僕の息子の嫁にもらおう、男だったら、僕の娘を嫁がせよう、絶対に君の妻子が困らないように約束する! だから心おきなく――」






 この感動的な約束の後、賈君文は脅威的な回復力を見せ、アッと言う間に復帰して文叔を驚かせた。


 


 順水での大敗の後、文叔は(けい)の南にある安次で散兵を整え、漁陽郡にうろつく賊軍を討伐した。

 陰麗華の絮衣がなかった衝撃からはまだ、完全に立ち直ってはいない。だが順水で多くの兵を失ったことで、文叔は自身の失策を悔いていた。

 

 文叔は陰麗華を裏切り、陰麗華は文叔を見限った。

 でもそれは致し方のないことだ。すべては文叔が悪い。でも――。


 文叔はまだ、古い絮衣を手放すことができず、書簡も送れない。


 安次にいた文叔のもとに、郭聖通が無事に男児を出産したとの知らせが入った。

 名前を問われ、文叔は木簡に「(きょう)」と一文字だけ書きつけて渡した。


 自分は弱い。せめて、子は強く生きて欲しい。




 


 同じころ、黄河の北岸、河南の孟津に派遣した馮公孫は、黄河を挟んだ対岸、洛陽を守る李季文らと対峙していた。


 赤眉が関中に侵入し、更始帝と交戦状態に入る。堕落しきった更始軍には、勢いのある赤眉を撃退する力はない。更始帝・劉聖公の落日は近いと思われた。

 洛陽を任せられた大司徒・朱長舒と、舞陰王の李季文は、しかし更始帝の救援には動かなかった。むしろその間に潁川から南陽を固め、劉文叔が北方の幽州攻略に注力している隙に、黄河の北岸をも手に入れてしまおうと考えた。

 

 黄河の渡し場である、孟津を守るのが馮公孫、そして河内(かだい)郡一帯を任されたのが、寇子翼と聞き、李季文は馮公孫を寝返らせようと、書簡を送ってきた。


 馮公孫は劉文叔配下の一偏将軍であり、孟津将軍への任命は抜擢であった。要するに、無名の新人に近い。それに潁川の大姓の出身で、河南側にシンパシーもあると李季文は睨んだ。一方の寇子翼は上谷郡の功曹で、北方の豪族の出身。二人の間を離間させれば、黄河の北岸、河内郡から東郡あたりの、豊かな穀倉地帯が手に入るとにらんだのだ。


 当時、敵方との秘密の書簡のやり取りは、けして珍しくはない。誰でもやる。内通して、こちらに有利に動いてくれれば、後々の褒賞と封爵を約束しよう――そんなやり取りは日常茶飯事。わざと色よい返事を送って敵の内情を探ったり、場合によっては偽造した書簡をわざと落とし、敵の間に疑心暗鬼を起こしたり。


 実際、文叔軍とて一枚岩ではない。先に邯鄲を落とした時も、文叔は押収した王郎の書簡類を全て焼き捨てさせている。文叔軍内にも、邯鄲と通交していた者が確実にいて、だがそれを承知の上で、文叔は不問に付したのだ。


 馮公孫の方も一方的に工作されているわけではない。馮公孫は馮公孫で、李季文と朱長舒を離間させられないかと考えていた。巨大都市・洛陽は一人で治めるには大きすぎるが、さりとて頭が二つある竜は往々にして互いに食い合うものなのだ。


 かつて、劉文叔が洛陽にいた時分、李季文と文叔が親しかったのを、馮公孫は知っている。――ただし、その後、李季文が裏切って陰麗華を更始帝に売り飛ばしたことは知らない。それで、李季文を文叔側に寝返らせれば、洛陽の攻略は簡単になると考えた。


「聞きますところ、李季文将軍は蕭王閣下とともに兵を挙げられたご友人とか。今、長安政権は乱れ、赤眉は郊外まで迫っています。この状況をたとえ劉聖公が持ち直したところで、果たしてあなたに未来はあるでしょうか」


 馮公孫の書簡に、李季文は、


「私、軼はかつて、蕭王である文叔と漢復興の謀議を行い、ともに死ぬまで戦うという誓いをした仲だ。今、洛陽を守る私と孟津を守る(きみ)が力を合わせれば、大きな成果をあげられるだろう。このは謀略を蕭王に伝え、私のことをよしなに言ってくれないか」


と返してきた。この後、李季文は直接、馮公孫を攻撃せず、馮公孫は天井(てんせい)関を攻略して二つの城を落とすことに成功する。李季文と文叔との、陰麗華を挟んだ事情を知らない馮公孫は、李季文は信用できると考え、李季文を河北側に取り込み、その内通によって洛陽を落とす策を立て、李季文からの書簡を(けい)の文叔に送った。


 ちょうど、李季文の従兄弟である李次元が、長安の更始帝政権を見限り、長安を脱出して河北に入り、薊の文叔のもとに辿りついていた。


 李次元は、陰麗華の洛陽脱出に協力した事実を明らかにし、当時の状況を語った。――李季文が、彼女を劉聖公に売り渡したことも――。


「陰次伯の話では、彼女の身柄は聖公の正妻・趙夫人が匿っていたようだが、心労のあまり食事が摂れなくなっていたそうだ。胎児の発育もよくなくて、ちょうど劉聖公が長安に移る日にお産が始まり、子供は助けられなかった。たまたま、暴室の宦官の腕が良くて、彼女の命だけは助かったと聞いた」


 淡々と語る李次元に、文叔は怒りで我を忘れそうになる。李次元は文叔の妹、劉伯姫の夫だ。なぜ、李季文の暴挙を止められなかったのか!


「文叔、落ち着け。次元に言ってもどうにもならない。そもそも、季文みたいなやつに大事な女房を託すお前が間違って――」

「わかってる!」

 

 文叔がダンッと拳を黒檀の卓に叩きつける。


「でも僕と季文は一緒に昆陽の包囲を突破したんだ! それを裏切るだなんて予測できるかよ!」


 馮公孫からの書簡が届いたのは、ちょうどそんなときだった。


「季文と協力して洛陽を落とすだと? 公孫は何を寝ぼけたことを!」


 文叔が同封された李季文からの書簡の、竹簡を折らんばかりに握り締めるのを、朱仲先が止める。


「やめろ、文叔、落ち着けって!」


 ギリギリでへし折るのをやめて荒い息をつく文叔に、李次元が言った。


「洛陽の内紛を狙う作戦はありだとは思うが――」

「この上、どの面下げて僕に内通するつもりなんだよ、季文の野郎は!」

「それくらい、洛陽の情勢は混沌としているのだ。おそらく、遠からず劉聖公は関中の支配権を失う。そうなった後の身の振り方を模索しているのだと思う」

 

 李次元の分析に、朱仲先が頷く。

 

「文叔が陰麗華の件を知らないと思っているか、あるいは、文叔の河北での結婚を聞いて、以前の件がちゃらになったと思ってるかもしれんな。あいつは昔から調子のいいところがあるから」


 文叔は竹簡の束をガン、と卓に叩きつける。


「ふざけるな!……あの野郎、絶対殺してやる……」

「文叔、冷静になれ。この際、李季文はどうでもいい。洛陽を手に入れる方が大事だ」


 朱仲先にたしなめられ、しばらく考えていた文叔は、やにわ李季文の書簡を改めて読み、顔をあげて言った。


「これを公開しろ」

「は?」


 朱仲先がギョロ目を見開くが、李次元はその意味を瞬時に悟った。


「文叔……だがそうなると……!」

「季文がこちらと内通を願っていると、洛陽の奴らに教えてやれ。あのクソ野郎、僕の手を汚すまでもない。裏切りの報いは裏切りで返す。朱長舒が始末してくれるだろう」


 文叔の思惑の通り、李季文の裏切りを知った朱長舒は怒り狂い、李季文を殺した。


 

 

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