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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
陸、腸中 車輪転ず
110/130

陥落




 謝子張(しゃしちょう)は南陽の人というが、劉文叔と交流はなかった。

 邯鄲(かんたん)の城壁を囲む陣中で二人は初めて対面したが、文叔は内心の不満を押し隠し、表向き、穏やかな顔を崩さなかった。


 邯鄲で偽のご落胤、劉子輿(りゅうしよ)が兵を挙げて半年。この正月から二月まで、文叔は文字通り死ぬ目に遭ったのに、洛陽の皇帝・劉聖公からは何の救援もなかった。邯鄲の勢力が河北を席捲(せっけん)するそのただ中に、支援らしい支援もなく、捨て置かれてきたに等しい。


 劉文叔がようやく死線を(くぐ)り抜け、あとは邯鄲を落とすのみとなったこの段階で、いまさら援軍を差し向ける。苦労の末の最後の果実だけ、横から(かす)め取るつもりらしい。


 南陽・潁川から文叔に付き従い、極寒の雪原を右往左往した者たちはもちろん、邯鄲の偽天子に河北を渡すまじと、自ら武器を取った河北の豪族連中も、劉聖公のあまりに遅い援軍に対しては、言いたいことがあるようだった。文叔は配下たちにくすぶる不満を感じ取りながら、しかしあくまでにこやかに、謝子張に対して下手に出た。


「わざわざの援軍、感謝の言葉もない」


 謝意を表する文叔に対し、謝子張は鷹揚(おうよう)に首を振って見せたが、その小さな目は笑っていなかった。謝子張は尚書僕射(しょうしょぼくや)、皇帝直属の書記官の副官、の肩書で軍を率いてきた。本分は文官で、河北全体を掌握して以後の、行政を主眼に派遣されたのだ。要するに戦争は得意ではない。

 

 ――どこまでも、使えねぇやつばっかり寄越しやがって。嫌がらせかよ。


 文叔だって実のところ唾でも吐き捨てたい気分だが、にこにこと笑って謝子張らを(ねぎら)う。そして謝子張の連れてきた細君にも丁寧に挨拶した。この細君が謝子張よりも明らかに一回り以上、下手をすれば娘ほども若く見えた。派手な衣装を着て、化粧も濃い。細君はツンと澄ました表情であったが、美男子の文叔が女受けする作り笑顔を向けてやれば、満更でもないのか、少々顔を赤らめた。


 若い女房のそんな様子に、謝子張がかすかに眉を顰める。


「奥方には陣旅はお辛いでしょう。一刻も早く邯鄲を落とし、ゆっくりできる宿舎を提供したいが、なかなか敵方もしつこくて……」

「ええまあ。ここはとにかく埃っぽくて。……戦ですからワガママを申し上げてはいけないとはわかっておりますけれど」

「本当に申し訳ない。邯鄲の南の(ぎょう)の街なら、すでに我々の支配下に入っているので、そちらに臨時の住まいを設けるよう、手配しましょう」


 文叔が耿伯山(こうはくざん)を呼び、耳元で何事か命じれば、耿伯山は大きくうなずいて、うりざね顔を謝子張とその夫人に向けて言った。


「そのように取り計らいます。数日お待ちください」

「これは長安の名家の出でね。贅沢に慣れていて、旅は不満なのだよ」


 謝子張が若い細君に目を細める。聞けば、女は長安の名家()氏の出で、長安に進駐してきた更始帝政権に媚び、差し出された娘の一人だという。めぼしいところは劉聖公が後宮に入れ、残りを近臣に下賜したのだと。謝子張は糟糠の妻を(えん)の包囲戦で亡くして、娘ほども若い女に鼻の下を伸ばして妻にしたものの、若く気位の高い妻を持て余している風に見えた。せめて豪華な衣装を送りご機嫌を取っているが、長旅にヘソを曲げてしまったと。――女の様子から、長安の皇帝・劉聖公らが贅沢三昧している雰囲気も垣間見て、文叔はさらに不愉快な気分になった。





 文叔の心情的にはまことに不本意ながら、真定王の姪・郭聖通と結婚したことで、文叔は真定の十万の兵と河北豪族の支持を獲得し、河北の形勢は完全に逆転した。邯鄲側からは寝返りが続き、把握しきれないほどだ。ただ、敵の本拠地、邯鄲の守備は固い。成帝の遺児を自称する劉子輿は、正体は王郎という卜者(うらないし)だと囁かれているが、頑なに認めていない。戦意もなお高く、しばしば城門を出て交戦に及ぶ。実戦の実力も文叔軍の方が上だが、城内に逃げ込まれてしまい、膠着状態は続いた。


 そんな中で、劉子輿は諫議(かんぎ)大夫(たいふ)杜威(とい)(せつ)(天子の大権を表す旗指物)を持たせ、降伏の使者として派遣してきた。


「ようやくか」


 朱仲先(しゅちゅうせん)などは楽観ムードだが、文叔は使者の態度に不審を覚えた。


 四月の末、山に近い邯鄲も日中はかなりの暑さになる。天幕の外ではあるが、日差しを遮る場所に文叔は(こしかけ)を出し、使者を待った。背後には耿伯昭(こうはくしょう)と朱仲先が立ち、横の榻に鄧仲華(とうちゅうか)が、反対側に耿伯山を配置する。別の陣地にいる謝子張には使者は送ったが、邯鄲討伐の責任者はあくまで文叔なので、構わないと考えた。


 傲然と胸を張り、口ひげをしごきながらやってきた杜威は、文叔の前に立つと何も敷かれていない乾いた土を見て、ぎろりと周囲を睨みつけ、手にした白い節をことさらに振って見せた。


「……(それがし)は、漢の正統なる継承者、孝成皇帝の唯一の御子であるお方の、使者として参った。この身はわが主と同等。漢の正統なる皇子に膝をつかせる気か、無礼者!」


 文叔はやっぱりな、という気分であった。


 邯鄲側は、あくまで成帝の遺児・劉子輿として、降伏後もある程度の影響力を維持したいと考えている。そんな甘い対応が認められるはずはなかった。


「無礼はどちらか。漢皇帝の血筋を(かた)る慮外者のくせに」


 文叔が言えば、杜威は即座に反論した。


「偽物と申すか! (おそれ)多くもかの方は正真正銘、成帝陛下のご落胤であらせられるぞ! 母君は後宮の謳者(おうしゃ)で、趙飛燕(ちょうひえん)姉妹(*1)の魔の手を逃れ、宮中を命懸けで脱出し、姓名を変えて河北に落ち延び――」

「もういい、黙れ」


 尚も滔々と語り続けようとする杜威に対し、文叔は長広舌を制した。こいつは本当に何もわかっていない。文叔にとっても、そして劉聖公にとっても、正統な成帝の子など邪魔なだけである。偽物でも本物でも、この際関係ない。


「貴公は大きな勘違いをしている。ぶっちゃければ、本物のご落胤であったとしても、どうでもいい」


 そう言われて、杜威がぽかんとした表情をするところに、文叔は畳みかけた。


「たとえ今、本物の成帝陛下が生き返ったとして、天下が取れると思うか? どう考えても無理だろう? ホンモノのご落胤だったとして、王莽が死んでからのこのこ挙兵し、長安にも行かずに邯鄲あたりで粋がってる奴に何ができる。まして、偽物の劉子輿に!」


 ダン!と足を強く踏み鳴らせば、杜威はハッとして文叔の顔を見つめた。


「しかし……しかし、かの方は本当の皇子で手に……証拠も……」


 もしかしたらこの男は本心から、王郎と名乗る卜者は成帝の皇子だと信じていたのかもしれない。まったく浅はかなことだ。この乱世に血筋だけで主を選ぶ奴がいるか。


「劉将軍は、正統なる漢の血筋を絶っても良いと……? せめて万戸侯として、血筋の維持を……」


 馬鹿馬鹿しくなって、文叔はあははははと大声で笑った。


「この期に及んで封爵を望むなど! 笑止千万! その身命を保てば御の字であろうに!」

「将軍の魂胆はわかった! 劉氏でありながら、本家の血筋を絶ち、乗っ取るつもりなのだ! そのような御仁との話し合いは無用!」

「同感だな、とっとと帰れ」


 怒って踵を返して去って行く杜威を見送り、文叔は即座に出撃の準備を命じた。


「一気に叩き潰せ。あんな使者を送ってくるあたり、あっちもジリ貧だ。だが、こちらも一枚岩じゃないとバレると厄介だ」


 謝子張が口を出せないくらい、邯鄲は完全に制圧する必要ある。

 その日以来、文叔軍の攻撃は苛烈を極め、それでも邯鄲は二十日間を守った。


 五月の甲辰、ついに内部に裏切りが出て、邯鄲は陥落した。王郎――偽の劉子輿は混乱の中をわずかな手勢に守られて脱出したが、追いついた王元伯に斬られた。







 河北の最大の都市、邯鄲を手に入れたことで、文叔は新たな段階に進んだ。

 即座に劉聖公の使者がやってきて、文叔に蕭王(しょうおう)の封爵を与える。蕭県は幼い頃、家族から離れて叔父・劉次伯に養われて過ごした土地だ。


 乱世であるから、封地は名ばかりだ。たいていは故郷のどこかとか、縁起のいい名前の土地を選ぶ。

 敢えて、文叔が幼少期、叔父に養われていた土地に封建してくるあたり、悪意を感じる。――文叔が、ひねくれているのかもしれないが。


 それでも名目的にとはいえ、王に封建されたことで、文叔の身分は真定王と同格になった。王になる、とは人生の最終目標でもある。


 これで我慢をして、余計な野心を抱くな。


 劉聖公の言わんとする意図は明確だった。そしてよりはっきりと、次のように命令を下してきた。


「兵を止め、長安の行在所(あんざいしょ)に伺候せよ」


 使者から受け取った漆塗りの(はこ)には、木簡を編綴した詔の他に、何か金色のものが入っていた。文叔は詔書だけを素早く確認するとそれをもと通り函に入れ、いつも通りの笑みを使者に向けた。


「詔は承ったが、時期については確約しかねる。邯鄲はまだ落ちたばかりで、残党もうろついているので」

 

 文叔は使者たちを歓待するよう、周囲の者に命じると、函を小脇に抱え、自室へと向かう。


「文叔、どうした?」

「……なんでもない。少し、一人にしてくれ」


 朱仲先を振り切り、早足で接収した邯鄲の趙王府――今後は蕭王府と呼ばれるはずだ――の、温明殿の自室に向かう。以前からいた宦官たちも追い出し、木の扉も締め切って、日の高いうちから室内に一人きりになる。


 函の中に入っている金色のものを目にしてから、心臓がバクバクいっている。ちらりと見ただけだが、あれは――。


 文叔はもどかしく函に巻きつく紐を引きちぎるように外し、蓋を取って放り投げる。皇帝からの詔には目もくれず、金色のそれを手に取って――。


 間違いなかった。

 陰麗華に、婚約のしるしに贈った、金釵(きんかんざし)。蓮の花の透かし彫りの中央に、白玉が嵌まって。


 あの朝、陰麗華の黒髪を確かに飾っていたもの――。


 文叔は、震える手で金釵を取り出し、まじまじと見る。


 なぜ、これが、劉聖公からの詔に――?

 

 考えないようにしていた()()が、文叔の心に広がっていく。ギリギリと、腸の中で車輪が回って腸を引きちぎっていく。


 理由は、ただ一つだ。

 陰麗華は、劉聖公のもとにいる。結っていた髪を解き、金釵を外す機会があった。つまりそれは――。


 目の前が怒りで赤く染まる。

 広がり、乱れ、河のようにうねる陰麗華の黒髪を幻視する。その下には白くて滑らかな肌が――。


 次の瞬間、文叔は渾身の力で金釵の脚をへし折っていた。声にならない獣のようなうなり声をあげて、金釵を床に投げつける。(タイル)敷きの床に跳ね返ったそれを、足で踏みつける。何度も何度も。

 透かし彫りの蓮の花が折れ、嵌まっていた白玉が外れて、どこかに転がっても、文叔は金釵を踏みつけ続ける。やめることなどできなかった。


(陰麗華が、裏切った? 僕を? まさか――)


 だがそれ以外に、彼女が肌身離さずつけていた金釵が、劉聖公の手に渡る理由がなかった。

 状況的に、陰麗華に拒むことなどできないかもしれない。もともと陰麗華は従順で受け身な性格だ。それに力だって――。

 

「子供! 子供がいたはずだ! もう、二月には生まれているはずで――」


 文叔はその場に膝から崩れ落ち、踏みつけられて歪んだ金釵を見下ろす。それを掴んでもう一度床に投げつけると、カランと音を立てて磚の上を転がっていった。


「麗華……いったい、何が――」


 両手で頭を抱え込み、床に突っ伏す。


「どうして――そんな、バカな――」


 やがて夕暮れの光が透かし彫りの(まど)から差し込み、陽光が陰って部屋が暗くなるまで、文叔はそのまま動かなかった。


 


 どれくらい、そうしていたのか。

 薄暗い部屋の中に(うずくま)り、虚しく床の磚の傷を見つめていた文叔の耳に、ばたばたした足音が聞こえた。足音は扉の前で止まり、人の気配のない内部に戸惑い、ホトホトと扉を叩く。


「劉将軍……いえ、蕭王閣下、俺です、伯昭です」


 扉の外からの声に、文叔はハッと身を起こす。慌てて折れてへしゃげた金釵を拾い上げ、懐に隠すと、部屋の中央の臥牀に移動して、ゴロリと横になり、何事もない風を装う。


「……なんだ?」

「入りますよ。……うわ、真っ暗!」

「ちょっとうたた寝してた」


 文叔が言い繕うのに気づかず、耿伯昭は外から灯りを持ってきて、室内の灯台に火を入れていく。


「ちょっとお時間よろしいですか」

「……なんだ?」

「皇帝……劉聖公からの命令なんですが……」


 文叔は起き上がり、衣紋を整えて金釵が見えないようにぐぐっと押し込んだ。


「ああ……兵をやめて長安に来いって」

「まさか行くつもりですか?」

「いずれは、行くしかないんじゃないか」


 文叔がぶすっと答えれば、耿伯昭は若く精悍な眉を顰める。


「もう一つ、命令が来てきまして、幽州牧(ゆうしゅうぼく)と、上谷(じょうこく)太守、漁陽(りょうよう)太守を新たに赴任させると」

「なんだと?」


 金釵に気を取られて、そちらの命令はよく読んでいなかった。――文叔が全権を委任されて任命した地方官を、皇帝が交代させると言ってきた。文叔は思わず無言になる。

 文叔の任官権を無効化するということだ。本気で、文叔の力を削ぐつもりらしい。


 耿伯昭の父親は上谷太守である。文叔が官職を安堵したことで、現在も役職を続けているが、その命令を無効にされるとしたら……。


 劉聖公の命令は、文叔が邯鄲を落としたこの段階で、河北討伐をいったんやめ、兵を率いて長安の朝廷に顔を出すこと。名目は王郎討伐の論功行賞(ろんこうこうしょう)のためだが、長安に入ったが最後、どんな難癖をつけられて殺されるかわかったものではない。文叔が長安行きを渋るのを想定し、上谷太守などの地方官を交代させ、北方由来の兵力を削ぐのが目的だ。


 文叔は目を眇める。

 

 狡兎こうと死して走狗(そうく)()らる。――王郎を倒し、河北の覇権を手にしつつある文叔は、劉聖公にとっては目障りな存在だ。甘い餌をぶら下げて長安に呼び出し、さらには羽翼をもいで無力化する。


 陰麗華は、餌か、あるいは脅しか。


 文叔は長衣の上から懐に入れた金釵を手で確かめる。文叔が何も言わないので、耿伯昭はずずっと、文叔の座る牀の下までやってきて、小声で言った。


「劉聖公の失政は明らかです。長安では女たちを集めて淫乱の限りを尽くし、政治は近臣たちが勝手に壟断しています。天子の命令が長安城を出ることなく、地方官は勝手に領地を動いて、民は誰の言うことを聞いていいのかわからない状態です。各地で盗賊が跋扈(ばっこ)し、婦女を(かす)め取り、民は王莽時代を懐かしむありさまです。河北にも銅馬(どうば)の賊や赤眉(せきび)の残党がはびこって、劉聖公には制御できず、奴の命運も長くないと思われます」


 もはや皇帝とさえ呼ばない歯に衣着せぬ言いざまに、文叔は思わず眉を顰め、周囲に聞かれていないか神経を尖らせる。


「伯昭、言葉が過ぎる――」

「いいえ! あなたは南陽で叛乱を起こし、昆陽で百万の軍を破った! 今、王郎を倒して河北の大勢を手に入れたのです。河北は豊かで、天府の地と言えます。今こそ、劉聖公に代わり、皇帝を称すれば天下はきっと靡きます!」

「伯昭! 黙れ、誰かに聞かれたら――」

「このまま劉聖公が長安で敗れ、天下が劉氏以外に奪われるのを指を(くわ)えて見ているのですか? 長安からの使者は、兵をやめるように言ったようですが、まさか従うわけではありますまいね?!」

「伯昭、それ以上言うな、お前を斬らねばならなくなる」

 

 文叔が辛うじて言えば、耿伯昭はまっすぐに文叔を見つめて言った。


「親父は上谷太守です。俺は幽州に帰れば、さらに多くの幽州の精兵を徴発することができる。あなたの命令さえあれば、天下を取る大いなる計略は――」

「やめろ!」


 文叔は右手でみぞおちのあたりにある金釵を押さえながら叫んだ。


「……今はそれ以上は言うな……!」 

「劉将軍!……いえ、蕭王閣下」


 命令通りに兵をやめ、長安に向かえば死が待っている。だが、ここで文叔が背けば陰麗華は――?


「……少し、考えさせてくれ」

「閣下。……しかし、新しい幽州牧らはすでに長安を発ってこちらに向かっているようです。時間はあまり――」

「わかっている。一両日中にも決める。……おぬしの、忠誠もわかった」


 耿伯昭が頭を下げ、そして下がり際に言った。


「そう言えば、先ほど奥方がこちらに到着なさいました」

「奥方?」

「郭氏ですよ。……邯鄲が落ちたので、耿伯山殿がこちらに迎えるよう、手配したのです」

「……聞いてないぞ?」

「新婚で放置している方が不自然でしょ。今晩には顔を出された方がいいですよ」


 よりによって一番、会いたくない相手と、今度こそまともに相対せねばならないようだった。

 




 ぐるぐると、文叔の脳裏をさまざまな考えが去来する。

 陰麗華は文叔を裏切り、劉聖公の手に落ちて、この金釵を手放した。

 子供はどうなったのか。今、どうしているのか。


 長安で、劉聖公が多くの女を集めて酒池肉林しているという、聞きたくもない噂も耳に入る。その一人に陰麗華が?――想像するだけで吐き気がこみ上げる。腸の中をぐるぐると車輪が軋み回って、文叔の内臓を引きちぎっていく。


 もし、劉聖公の命令に背き、文叔が河北で自立すれば、陰麗華はどうなる?

 だが命令に従っても、待っているのは惨めな死。昆陽で百万を破り、今、河北で王郎を破った栄光を擲ち、夏の虫さながらに火に飛び込んで命を失えば、世間は文叔を愚かと嗤うだろう。

 あるいは、すべてをさらけ出して劉聖公の前に膝をつけば、陰麗華だけは救うことができるのかも――。


 そして文叔は気づく。


 自分はすでに、陰麗華を裏切っているのじゃないか――。





 真定から到着した郭聖通の部屋はまだ、ばたばたと落ち着いていなかったが、彼女の(しんしつ)だけは整えられていた。


 文叔が顔を見せれば、郭聖通は露骨にホッとした表情を見せた。

 ――もしかしたら、今夜も文叔は来ないと、心配だったかもしれない。


「真定からわざわざ来なくてもよかったのに」

「いいえ、伯山兄さまが、夫婦は近くにいなければならないと。――この後のあなたのご決断にも関わると」

 

 その言葉に、文叔は一瞬、眉を寄せた。


 耿伯山は邯鄲陥落の後の、劉聖公の命令を予測していたのだろう。郭聖通は、文叔を縛る河北の枷そのものだ。

 文叔が陰麗華恋しさに理性を捨ててしまわないように、あの小賢しい男は先手を打ったのだ。


 郭聖通が文叔の前に跪き、帯剣を受け取ろうと両手を差し出す。文叔は暫しためらった後、おとなしく剣を外し、その両手に置いた。


「重いのですね」

「……そうでもない」


 文叔は郭聖通を見ないようにして、整えられた臥牀に腰を下ろした。

 

『僕の妻は、生涯、君一人――』


 踏みつけられ、歪んで折れた金釵は、守れなかった誓いそのもの――。

 

 


*1

趙飛燕姉妹

成帝の皇后・趙飛燕と、その妹、昭儀・趙合徳。

貧しい踊り子の出身ながら、成帝の寵愛を姉妹で独占し、姉は皇后に、妹は最高位の側室になった。しかし子を産むことはできず、成帝の死後、二人が後宮で孕んだ女とその赤子を殺していたことが発覚した。

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