進退窮まる
真定の城で、文叔は耿伯山の仲介で、元の真定王劉揚と対面することになった。前回、真定を通った時はすれ違いになり、対面できなかった。真定王はもともと、洛陽政権とは距離を取ろうとしてたフシがある。真定王ら河北の諸侯王にとって、南陽舂陵侯家の、さらに分家の劉文叔など、歯牙にもかけないちっぽけな存在なのだ。だから、邯鄲で王郎が、成帝の落胤劉子輿を名乗って蜂起すれば、皇帝本家のブランドに弱い河北はアッという間に王郎に呼応し、文叔は賞金首となって追われる身に転落した。
現在、劉文叔は信都、鉅鹿を拠点に、数万人を従えるまで盛り返した。その上、劉子輿の正体が劉氏ですらない、王郎というケチな卜者だと知れ渡りはじめている。真定王にも迷いが生じ、劉文叔と王郎と――つまり洛陽の皇帝と邯鄲と――天秤にかけているというわけだ。
ここで真定王と同盟できれば、河北のかつての諸侯王家のネットワークを丸ごと取り込める。逆に同盟に失敗して、真定王が王郎と結んでしまえば、文叔は河北豪族のほとんどを敵に回すことになる。
真定王の居館はさすがの豪華さだった。景帝時代の呉楚七国の乱以後、諸侯王の権力は大幅に削られたものの、諸侯王は政治権力を持たないミニ皇帝として、絶大な富と権威を誇ってきた。同じ皇室の裔と言っても、傍系の列侯家の、さらに分家である文叔の家とは段違い、まさに天上人間の開きがある。
――姪っ子を嫁にくれるというのは、真定王からすれば、田舎者には望外の恩典、くらいのつもりなんだろうな。
文叔はこの後の交渉を思い、溜息を噛み殺す。今日は武装はせず、普通の袍に劉氏冠を被っている。――これらの衣装も全て、信都太守の任伯卿や耿伯山が駆け回って準備したもの。いつもは鎧の下に着ている絮衣も、あまりに汚れているので洗濯中である。ずっと身に着けている刺繍の帯だけが、陰麗華の形見。
会見の場に現れた真定王はでっぷり太っていて、かつては美貌だったのかもしれないが、今では醜く頬の肉も垂れ下がっている。やや面長で吊り目がちの顔つき。河北人らしいと言えば、河北人らしい。
文叔は膝をつかず、ただ胸の前で拱手の礼を取る。背後には皇帝・劉聖公から与えられた大司馬の節を持つ朱仲先が控える。へりくだり過ぎるわけにもいかず、とはいえ、プライドの高い諸侯王のこと、十分な礼を示さねばならない。
「洛陽の皇帝陛下より、破虜将軍行大司馬事を拝命しております、劉秀、字は文叔と申す。真定王殿下におかれては、拝謁の栄に浴し、恐悦に存ずる」
「うむ、そちが劉文叔か! よい、近う! 劉将軍に席を!」
甲高い声で真定王が命ずれば、すっとんできた小柄な男が文叔に席を薦める。――洛陽宮にもいた宦官だ。文叔は実のところ、宦官の持つ独特の雰囲気が苦手だった。
「失礼する」
腰を下ろした文叔を、真定王が値踏みするようにじっと見る。長い顎髭をしごき、満足そうに頷く。
「なるほど! これはまた素晴らしい美丈夫であるな」
「……いや、それほどでも」
美貌に産まれついたせいで女にはモテたから、そのことに感謝はしてきたが、例の、荘伯石の一件以来、男に対して警戒するクセがついた。ジロジロと見られると落ち着かない。
「例の――邯鄲の真天子とやらは、ニセモノだとの噂もあるが、劉将軍はどう思うか」
「……成帝陛下が世を捨て給うてから三十年になり申す。本物の皇子であれば、もっと早くに世に顕れていたのでは。十年以上前にも、長安に成帝の皇子・劉子輿を名乗る男が現れて、偽物と知れて処刑されたと聞いております。まあ、今回もおそらくは――」
「まあ、そうかもしれんの」
真定王が頷く。
「まこと、成帝の皇子ならばともかく、一説では王郎と申す卜者でありますとか。劉氏ですらない偽者に、天子を僭称させるべきではありません」
文叔が言えば、真定王もうんうんと言う。
「寡人もそのように思うておった。ただ、瞬く間に邯鄲を落とし、河北の大勢が靡いた。あるいはそこに天の意志があるかとも思うてな」
「いかなる者でも突如、時の利を得ることはございます。それが長く続くかどうかは、天の意志次第」
「さもあろう」
真定王は少しばかり文叔に向かって身を乗り出す。体臭を誤魔化すためなのか、キツく香を炊きしめていて、元の体臭と香が入り混じって、不快な匂いが漂ってくる。文叔は一瞬、眉を顰めそうになって何とか堪える。
「そちも耿伯山から聞き及んでおろう。寡人の姪の、郭氏について」
「……はあ」
「あれは憐れな娘での、世子の許嫁と思うておったが、二人に先立たれ、その後、広陽王の王子にも死なれてしもうた。じゃが美しく、寡人の自慢の姪じゃ。……それ、その邯鄲の男がの。自分の后に欲しいなどと言うてまいってな。本物の成帝陛下の落胤であれば迷うこともなかったが――」
「はあ――お会いした限りでは聡明な方でした。偽のご落胤のところになど、彼女が嫁ぐのを望むでしょうか」
「そちは、直接会っておるのか、かの聖通に」
真定王が驚いたように文叔を見た。
「え、ええ。下曲陽の邸で、少々、行きがかりが……」
「ほう、あの聖通がのう」
意外そうな真定王に、横にいた耿伯山が言う。
「はい、聖通はすっかり、劉将軍と意気投合しておりまして。嫁ぐならばこのような方がよいとまで」
「なんと、あの聖通がそのように申したと!」
身を乗り出した真定王に、文叔はぎょっとして慌てて謙遜した。
「いえそんな、ちょっとしたお世辞でございましょう。あのような美しい方が、某など……」
「いやいや、そなた、なかなかの美丈夫でもあるし――」
真定王は文叔を上から下までジロジロ見ると、うんうんと頷く。
「そちは、劉氏ではあるが南陽の、しがない列侯家のさらに分家筋とか。寡人の姪には些か釣り合わぬ気もするが、聖通自身がそこまで申すならば、特別に許してつかわす。そうすれば、そちは寡人の甥にも等しい。真定の兵を動かす理由にもなろう」
「いえ、そんな。某になど、勿体ないお化けがでます」
真定王が王郎との縁組をやめるのはありがたいが、文叔にはすでに妻がいるのだ。本気で結婚となると非常にまずい。――だが、ここまで乗り気になった、この異様にプライドの高そうな男が、姪との縁談を断られて、どう出るのか予測ができなかった。
「それは誠に、某には望外のお話。されど、そのような婚姻など結ばずとも、某と殿下との間の友誼に嘘偽りなど産まれようもございません。某は誠心誠意、殿下と河北のために身命を尽くす所存でおります」
横に控えていた耿伯山も、援護する。
「伯父上、劉将軍は物堅い御仁。婚姻などに拠らずとも信頼を寄せるに足るお方です」
お、これは断ってくれるのか、と文叔が一瞬、期待したのもつかの間。
「某も聖通の夫には、劉将軍こそ相応しいと思うております」
「伯山殿!」
全力でプッシュされて文叔が慌てる。話が急展開過ぎる――。
真定王劉揚も、機嫌よく顎髭をしごく。
「そうかそうか、聖通がいまだ、相応しき伴侶を得ることができず、寡人も心を痛めておった。今、この時に劉将軍が河北を訪れるのも天の意志であるな。ここは今すぐにでも聖通との婚礼を――」
「お待ちください、私は!」
いきなり婚礼を挙げられそうになり、文叔が慌てて止める。
「真定王家との縁は誠に、某には過ぎた縁でござる。ただ、ここで殿下の姪御と縁を結べば、某は女の力に縋って河北を得たと言われることになりましょう。某はそれを、潔しとはいたしません。大丈夫たるもの、女の係累ではなく、自身の力でこの天下に立つべきであると!」
「ほう! ではそなた、何とする?」
「……そうですね、以前、王郎が挙兵したため、某は薊の城より、追われるように逃げるしかなかった。中山、盧奴……その地を支配下に入れ、以前の恥を雪ぎたく思っております。その折りには是非――」
「我が真定の兵も貸すことにしよう、期待しておるぞ」
「有難き幸せ」
背中にダラダラ汗をかきながら、真定の兵と、北方平定へのお墨付きを得る。――とりあえず、郭聖通との結婚は先送りにしたし。文叔はなんとかやり過ごしたと思っていた。しかし――。
「あんた、いったい何考えてんだよ!」
宿舎に戻り、朱仲先と三人だけになると、鄧仲華がいきなり凄んできた。白皙の美貌が怒りで青ざめている。
「あんた、あの頭のオカシイ女と結婚する気なの? 陰麗華と離縁して!」
「まさか! 麗華と離縁なんて、絶対、絶対しない!」
「じゃあ、どうする気なのさ!」
ものすごい剣幕で詰め寄られ、文叔はタジタジになりながら、年下の友人の怒りを宥める。
「いや、だからあれは偽装で……とにかく、郭聖通と結婚する気があるフリをしておこうかなって――」
「あんたってさ、時々、正真正銘の馬鹿だよね」
はあーっと深い溜息をついて、鄧仲華が呆れる。
「耿伯山はあんたと郭聖通やら言う女を結婚させたいのさ。言質を取ったら、それで押してくるに決まってるじゃないか」
「でも! そのまま放っておいたら、郭聖通と王郎の縁談が成立しちまう。そうなったら真定の兵十万があっちについてしまうんだぞ?」
「だからって! 不誠実だ! 陰麗華が今、どんな目に遭っているか……全部、要するにあんたのせいだってのに!」
色素の薄い茶色い瞳でギリギリ睨みつけられ、文叔もぐっと言葉に詰まる。
「……わかっている。でも……」
「文叔、俺は、今回の結婚はしょうがないと思うぞ?」
ずっと黙って見ていた朱仲先が口を挟んだ。
「郭氏やらいう女と結婚すれば、河北の豪族連中を味方につけられるんだ。背に腹は代えられんだろう?」
文叔も、そして鄧仲華も息を飲む。
「なっ……! あんた、自分が女房を棄てたからって――」
鄧仲華が激昂し、文叔がそれを抑える。
「仲華! あの時はしょうがなかったんだよ、仲先もギリギリで――」
「そうだ。お前は俺が女房を離縁したのはしょうがないと認めている。……お前だって、同じ立場だろう」
文叔も、鄧仲華も絶句する。
「俺は、女房と友人であるお前たち、劉氏兄弟とを天秤にかけ、女房を棄てた。お前は?」
朱仲先がまっすぐに文叔を見る。
「お前が意地を張り、郭氏との結婚をあくまで拒めば、真定王との同盟は潰え、河北の豪族連中にそっぽを向かれる。どうする? それでも、陰麗華を選ぶのか?」
「あんた卑怯者だ! 陰麗華は劉聖公の許にいるんだぞ?! それを――」
「落ち着け、仲華。陰麗華はお前の女房じゃない」
朱仲先にピシャリと言われて、鄧仲華が茫然と二人を見る。両手はきつく握り締められ、微かに震えていた。
「ぼ、僕は別に――」
「幼馴染か何だか知らんが、戦略的に考えて、真定王との同盟は必要だろう。俺にでもわかる。私情に溺れて冷静に分析できないような軍師、むしろ邪魔だ」
鄧仲華は唇を噛みしめると、プイと部屋を出て行った。
「仲華――」
「放っておけ。――鄧家と陰家は代々、婚姻を結んでいる。陰麗華の母親は鄧家の出だろう」
「だから、仲華と陰麗華は幼馴染で――」
「年齢も近いし、仲華の嫁候補が陰麗華だった可能性もある。あいつにとっては複雑な相手なんだよ」
言われるまで気づかなくて、文叔は息を飲んだ。
「だが、今はそんなことを考慮している場合じゃない。今、お前が取らねばならぬ道は何か、冷静に考えろ」
「仲先は、陰麗華を棄てて郭氏と結婚しろと言うのか?」
絞り出すように尋ねた文叔に向け、朱仲先は肩を竦めて見せた。
「お前の結婚で、真定の兵十万が手に入るなら、俺としては売り飛ばしたいところだな」
「勝手なことを!」
「そう、勝手だ。俺だって死にたくはない。もうあんな、薊から信都に逃げるみたいなのは、二度とご免だな」
あの地獄のような道行。仲間たちにこれ以上の苦労はさせたくなかった。
「わかっているよ、でも――」
「陰麗華だって、それなりに上手くやっているかもしれない」
そう言われて、文叔がハッと顔を上げる。
「俺の女房も、なんのかんの、新しい男を捕まえて、太守の奥方に収まっていた。陰麗華は皇帝の寵姫にでも収まっているかも――」
最後まで言わせずに、文叔が朱仲先の襟首を締めあげた。
「それ以上口にしたら、仲先でも容赦しない」
「うぐっ……わ、わかったから――」
怒りに滾ったギラギラした瞳で睨みつけられ、朱仲先が謝る。
「すまん、俺も配慮が足りなかった。……お前は、陰麗華病だったな」
襟首を解放して、文叔が溜息をつく。
「……僕が戦っているのは、陰麗華の許に帰るためだ。陰麗華と別れて他の女と結婚したら、本末転倒じゃないか」
「お前にお前の目的があるように、他の人間には他の思惑がある。もう、お前はただの、南陽の一士大夫じゃない。お前の生き死にが、河北の命運と天下の去就を左右するんだ。そのことをいい加減、理解しろ。もう、陰麗華のためだけに生きるなんてこと、許されないぞ」
その言葉に文叔は立ち尽くす。
――もう、陰麗華のためだけに生きるなんて、許されない。
だとしたら蒼天よ、僕はいったい、河北でどうすればいいのか――。
文叔は真定から北に向かい、中山、盧奴を制圧する。そうして元氏にも足を伸ばし、真定周辺はほぼ手中に収める。このまま北上し、北の上谷郡、漁陽郡の兵を合わせるか、あるいは足元の鉅鹿を固めるか。だが――。
半ば予想していたことではあったが、主のいなくなった信都で、王郎の手の者が反旗を翻し、信都に残る邳偉君や、李仲都の家族を人質に取り、彼らの寝返りを誘った。
――耿伯山が故郷の家を焼き、一族全員、連れてきたのはこのせいか。
文叔は溜息をつく。邳偉君は父親からの書簡を握り締め、文叔の前に膝をついた。
「書簡には何と?」
「は。『降伏すれば封侯し、降らざれば族滅する』と」
「封侯ねぇ……」
文叔は首を傾げる。王郎は信都に「王」を置いたというが、どこまでの権限を認められているのか、情報が足りない。
「父上の命がかかっている。貴卿が去ることは止めないよ」
親孝行が至上命題みたいな社会である。親を人質に取られれば、身動きを封じられるも等しい。だが、邳偉君は涙を拭って首を振った。
「いいえ、もう、断り申した。『君に事える者は家を顧みるを得ず』と申します。私め、彤の親族が、今に至るまで信都にて安寧に過ごしてきたのは、すべて劉将軍の恩にございます。劉将軍が天下のために戦っておられる中、彤が私事を優先することなど、あってはなりません」
「え……でもお父さんは……」
文叔がギョッとして邳偉君を見るが、ただ、「私はこのまま、明公にお仕えいたす所存です!」と涙ながらに言うばかりだ。
と、そこへ、同様に信都で家族を人質に取られている李仲都が、若い男の死体を引きずってやってきた。
「な、なに、どうしたの!」
「死、死んでる!」
横にいた鄧仲華が真っ青な顔で覗き込む。
「信都が落ちましたのは、信都の馬寵なる者が寝返り、王郎の賊を城内に引き入れた故にございます。この男は馬寵の弟で、私の校尉を務めておりました。奴らの一族の寝返りが許せず、今、この手にかけて殺したところです!」
「えええ!」
文叔が腰を抜かさんばかりに驚き、鄧仲華が「ヒッ」と悲鳴を上げて、文叔の斗篷にすがりつく。
「ち、仲都殿の家族が、信都で人質になっているんですよね?」
「ええ。愚妻と家族が捕らえられたと、書簡にございました」
「そんな状態で、相手側の弟を殺したら、大変なことになるんじゃ! 信都の家族が殺されてしまうよ!」
鄧仲華が蒼白な表情で言えば、李仲都は悲痛な表情で言い切った。
「もし、寝返った奴の親族を許せば、君に二心あることになりましょう」
「いや、僕はそこまでの忠誠は要求してないってば!」
文叔は叫んでから、大きく息を吸って、李仲都に噛んで含めるように言う。
「家族は大事だよ。僕たちは大丈夫だからさ。奥さんと家族を助けに行ってあげなさいよ」
「いいえ!我々信都の者は、明公の大恩によって命を長らえているのです。どうして家族を優先できましょう」
目尻に涙を光らせて言う李仲都に、文叔はそれ以上何も言えなかった。
ただ、彼らが家族を犠牲にするのを目の当たりにして、文叔は確実に、自分が追い詰められていくのを感じた。
「とにかく、鉅鹿を落とそう」
地図を睨みながら鄧仲華が言い、耿伯山も賛成した。
「兵が一気に増えたので、北に向かうのは得策ではないでしょう。こちらで勢力を固め、北の上谷や漁陽の兵を呼び出せばよいのです」
「今度は僕もちゃんと戦に出たい」
鄧仲華が言い、文叔が眉を寄せた。
「でも――」
「いっつも文叔の車に乗っていると、寵童だの何だの言われてしまうもの。僕だってもう、二十歳を過ぎているんだから」
文叔は腕を組んで考える。――確かに、鄧仲華にもそろそろ、実戦経験を積んでもらいたいのだが。文叔も地図を見て思う。ひとまず、鉅鹿の北にある広阿に向かう、この行軍は鄧仲華に先陣を任せても大丈夫かもしれない。
「そうだな。私は後ろから行くから、仲華は先に立って広阿に向かってくれ。……朱叔元をつけよう」
文叔は大司馬主簿である朱叔元を呼び出す。やってきた朱叔元は文叔と同じ年頃の、目の小さいはしっこい男である。彼は沛国蕭県の人――つまり、叔父・劉次伯の任地に従っていた文叔の少年時代の、県校の同期生だった。当時はそれほど仲がいいわけではなかったが、どういう縁か、洛陽からずっと主簿としてついていて、さらに行政能力が非常に高かった。
文叔が説明すると、朱叔元がニヤリと笑って請け負った。
「鄧仲華も戦に慣れさせたいんだ。頼む」
「任せてください」
広阿に近い柏人に、王郎配下の将軍・李育が潜んでいるなんて、文叔軍は全く掴んでいなかった。
先陣の鄧仲華たちが、突如躍り出た敵と衝突する。心の準備もなく、そして戦闘は初心者の鄧仲華では対応もしようもなく、一気に陣形は崩れて混乱に陥る。殿にいた文叔は、前方からの伝令よりそれを伝えられ、真っ青になった。
――なんだってそんな、間の悪い――!
前方に敵がいるなんて情報、斥候も掴んでいない。
――謀られたのか? いや待て落ち着け、とにかく陣形を立て直して広阿に……!
先頭に立っていたのが軍を率い慣れた文叔であれば、いくらでも対応できた。油断したわけではないが、今回は大丈夫だと思ったのに。
鄧仲華の軍はあっけなく崩壊し、輜重も奪われる。
「荷物なんかどうでもいいから、とにかく命を守れ! 逃げろと伝えろ!」
指示を仰いできた伝令に伝え、文叔は散り散りに後方に逃げてきた散卒を集め、陣営を立て直す。しかし、妙な責任感でもあるのか、あるいは単に弱すぎて逃げることすらできないのか、肝心の鄧仲華は一向にやってこない。
「僕が迎えに――」
「いい加減にしろ、文叔。落ち着け、仲華だって覚悟の上だろうに!」
朱仲先に窘められ、だが文叔が動揺する。
鄧仲華をここで失うのは、いろいろと痛手だった。文叔の周囲で戦略を立てられるのが仲華しかいないこと、そして何より、文叔は彼が十三歳の時から知っている、半ば弟のような存在だからだ。――血を分けた兄弟との関係が良くなかった文叔にとっては、弟以上の存在なのに。
その時、前方からさらに伝令が駆けてきて、叫んだ。
「前方から別口の集団が! 大軍です!」
「何だって、敵がさらに――?!」
次の瞬間、文叔は馬の尻に鞭を当て、駆けだしていた。
「文叔、待て!」
「殿は頼んだ! 仲先、僕は仲華が心配だから――!」
背後からかかる朱仲先の声を無視し、前方から零れ落ちるように逃げてくる敗残の兵を避けながら、文叔が前方へと駆ける。鄧仲華がいたあたりの先頭は、乱戦状態になっていた。
「仲華! どこだ――!」
戟を構えて馬を駆り、大声で叫ぶ文叔の耳に、聞き慣れた声がする。
「文叔! 僕は無事だ!」
「仲華?!」
馬を寄せれば、鄧仲華は朱叔元に守られるようにして、何とか馬に乗っているような状態だった。
「大丈夫か、とにかくこっちに――」
と、その時、文叔の目の前に、まだ若い将軍がひらりと飛び込んできた。敵か? 文叔は反射的に戟を構えて対峙し、相手の男の顔を見てハッとした。
「お前――」
朱叔元:朱浮
沛国蕭県の人。大司馬主簿として文叔に従っていた。蕭県は文叔の叔父・劉次伯(劉良)が県令を務め、文叔が幼少時に過ごした場所。『後漢書』にはまったく、そんな記述はないのだけれど、もしかして昔からの知り合いだったのかも、と突然、思いついたので登場させてみた(こういうことしているから、無駄に長くなる……)。
二十八将にもいないのでノーマークだった。この後、彭寵との壮絶ないがみ合いを乗り越え、そこそこ出世するはず。とても性格が悪そうな人(個人の感想です)。




